差別者と被差別者など差異をもつ者が行動をともにするうちに、その落差が解消されたり和らげられたりするという映画の嚆矢は1967年の『夜の大捜査線』ぐらいからだろうか。この折は、黒人刑事と白人署長の話であった。
もちろんそのシチュエーションやディティールは変わるが、この種の差別・被差別(人種のみではなく、階級、階層、社会的地位などの格差も含む)の関係が呉越同舟の関係にありながら、ストーリの最後には著しく変化するというパターンは、特にアメリカ映画に多いようだ。
そしてその両者が一定期間、行動をともにするということもあって、ロードムービーになる場合がほとんどだ。
今回観た『グリーンブック』も、ある意味その典型であった。ただ、これまでのものとの違いとしては、黒人・白人の差異はあるものの、このケースでは黒人のほうが成功したミュージシャンとして教養人であり、白人のほうがイタリア系移民で屈強で直情型人間であるということだ。もちろん、白人の側からの差別意識は根底にある。
ただし、このイタリア系の男性も、アメリカ社会全体の中では決してマジョリティではない。
黒人ミュージシャン(ドン・シャーリー)が、南部への演奏旅行に出かけにる際し、その運転手として雇われたイタリア系の彼(トニー・“リップ”・バレロンガ)が同行するという物語である。教養ある黒人と粗野な白人という取り合わせのなか、ひとつ車のなかで過ごすうちに交わされる会話に妙味がある。
しかも行く先は今なお差別意識が濃厚な1960年代はじめの南部、ホテル、トイレ、レストラン・・・・いたる所で黒人は「決まりと伝統」を強制され、差別、隔離を余儀なくされる。
途中、ジュリアードを優秀な成績で卒業したにもかかわらず、黒人故にクラシックへの道が閉ざされ、ポピュラーな分野での演奏者になった事実も明かされる。
ロードムービーお決まりの様々なエピソードを介しての二人の関係のありよう、相互理解への推移が見どころだ。
映画終盤、あまりにも頑なな差別に、2人がエスケープし、場末の大衆酒場へしけ込み、そこでピアニストは叩きつけるようにショパンの練習曲作品25-11を弾くところは圧巻だ。
それがきっかけになってその酒場のミュージシャンたちと顧客全員を巻き込んだノリノリのセッションが行われる場面は感動モノで、観ていた私もそれに乗せられる一方、どこかでジーンと来るものを覚えていた。
もちろん、ここに書いた以上に、遥かに多彩で面白いエピソードが満載である。ラストシーンも見逃すことはできない。
形式としてはありがちなロードムービーだと書いた。しかし、そのシチュエーションの中で何をどう見せるか、そこに監督の手腕が問われる。その意味では、これはとてもよくできていると思う。
なお、原案は実話によるものとのこと。
また、タイトルの「グリーンブック」は、人種差別の時代、黒人ドライバーが立ち寄ってもいいホテル、ガソリンスタンド、レストランなどを記載した本で、逆にいうと、それ以外のところへ立ち寄ると半殺しか場合によっては射殺されさえした。したがって、黒人が移動する際の必需品といわれた。
映画の後はコンサートだ。
ピアノ三重奏曲の夕べである。
演奏者は、ピアノ小林五月さん、ヴァイオリン徳永二男さん、チェロ毛利伯郎さん。
なお、ヴァイオリンは当初、原田幸一郎さんだったが、NY滞在中にお怪我をされたとかで、急遽、徳永二男さんに。
徳永さんといえば、長年N響のコンマスを務められた方、間に合わせの代理とは格が違う。
曲目は
・モーツァルト ピアノ三重奏曲ホ短調K.542
・シューマン 幻想小曲集Op.88
・ブラームス ピアノ三重奏曲第一番ロ短調Op.8
シューマンには「幻想小曲集」という名称の曲が三曲あるが、このOp.88のそれは、楽器編成からして明らかにピアノ三重奏曲だ。
年代順に並んだこの三曲は、それぞれの作曲家の特色がはっきりしていて楽しい。同時に、このピアノ三重奏曲という形式の中での表現の技巧や幅が次第に広がってきた、いわば進化の歴史をも表しているように思った。
誤解をされるといけないので言い足すと、この進化というのは、ピアノ三重奏曲という楽器編成を駆使しての表現上の幅の変遷ということで、決して、音楽的にいって後のものほどいいというわけではない。
ブラームスのものは最初のモーツァルトのそれに比べて、表現の幅が広がり、音色も遥かに多彩になっている。今回の演奏も、それをくっきりと明快に表現していてとても良かったと思う。
モーツァルトやシューマンのファンである私だが、今回のコンサートでは、ブラームスのそれが圧巻であった。
小林さんは縁あってこれまでも聴いているが、今回は先輩格のベテランとの組み合わせにもかかわらず、堂々と弾ききっていて、ソロなどのときよりかえって風格が出てきたように思った。
もちろんそのシチュエーションやディティールは変わるが、この種の差別・被差別(人種のみではなく、階級、階層、社会的地位などの格差も含む)の関係が呉越同舟の関係にありながら、ストーリの最後には著しく変化するというパターンは、特にアメリカ映画に多いようだ。
そしてその両者が一定期間、行動をともにするということもあって、ロードムービーになる場合がほとんどだ。
今回観た『グリーンブック』も、ある意味その典型であった。ただ、これまでのものとの違いとしては、黒人・白人の差異はあるものの、このケースでは黒人のほうが成功したミュージシャンとして教養人であり、白人のほうがイタリア系移民で屈強で直情型人間であるということだ。もちろん、白人の側からの差別意識は根底にある。
ただし、このイタリア系の男性も、アメリカ社会全体の中では決してマジョリティではない。
黒人ミュージシャン(ドン・シャーリー)が、南部への演奏旅行に出かけにる際し、その運転手として雇われたイタリア系の彼(トニー・“リップ”・バレロンガ)が同行するという物語である。教養ある黒人と粗野な白人という取り合わせのなか、ひとつ車のなかで過ごすうちに交わされる会話に妙味がある。
しかも行く先は今なお差別意識が濃厚な1960年代はじめの南部、ホテル、トイレ、レストラン・・・・いたる所で黒人は「決まりと伝統」を強制され、差別、隔離を余儀なくされる。
途中、ジュリアードを優秀な成績で卒業したにもかかわらず、黒人故にクラシックへの道が閉ざされ、ポピュラーな分野での演奏者になった事実も明かされる。
ロードムービーお決まりの様々なエピソードを介しての二人の関係のありよう、相互理解への推移が見どころだ。
映画終盤、あまりにも頑なな差別に、2人がエスケープし、場末の大衆酒場へしけ込み、そこでピアニストは叩きつけるようにショパンの練習曲作品25-11を弾くところは圧巻だ。
それがきっかけになってその酒場のミュージシャンたちと顧客全員を巻き込んだノリノリのセッションが行われる場面は感動モノで、観ていた私もそれに乗せられる一方、どこかでジーンと来るものを覚えていた。
もちろん、ここに書いた以上に、遥かに多彩で面白いエピソードが満載である。ラストシーンも見逃すことはできない。
形式としてはありがちなロードムービーだと書いた。しかし、そのシチュエーションの中で何をどう見せるか、そこに監督の手腕が問われる。その意味では、これはとてもよくできていると思う。
なお、原案は実話によるものとのこと。
また、タイトルの「グリーンブック」は、人種差別の時代、黒人ドライバーが立ち寄ってもいいホテル、ガソリンスタンド、レストランなどを記載した本で、逆にいうと、それ以外のところへ立ち寄ると半殺しか場合によっては射殺されさえした。したがって、黒人が移動する際の必需品といわれた。
映画の後はコンサートだ。
ピアノ三重奏曲の夕べである。
演奏者は、ピアノ小林五月さん、ヴァイオリン徳永二男さん、チェロ毛利伯郎さん。
なお、ヴァイオリンは当初、原田幸一郎さんだったが、NY滞在中にお怪我をされたとかで、急遽、徳永二男さんに。
徳永さんといえば、長年N響のコンマスを務められた方、間に合わせの代理とは格が違う。
曲目は
・モーツァルト ピアノ三重奏曲ホ短調K.542
・シューマン 幻想小曲集Op.88
・ブラームス ピアノ三重奏曲第一番ロ短調Op.8
シューマンには「幻想小曲集」という名称の曲が三曲あるが、このOp.88のそれは、楽器編成からして明らかにピアノ三重奏曲だ。
年代順に並んだこの三曲は、それぞれの作曲家の特色がはっきりしていて楽しい。同時に、このピアノ三重奏曲という形式の中での表現の技巧や幅が次第に広がってきた、いわば進化の歴史をも表しているように思った。
誤解をされるといけないので言い足すと、この進化というのは、ピアノ三重奏曲という楽器編成を駆使しての表現上の幅の変遷ということで、決して、音楽的にいって後のものほどいいというわけではない。
ブラームスのものは最初のモーツァルトのそれに比べて、表現の幅が広がり、音色も遥かに多彩になっている。今回の演奏も、それをくっきりと明快に表現していてとても良かったと思う。
モーツァルトやシューマンのファンである私だが、今回のコンサートでは、ブラームスのそれが圧巻であった。
小林さんは縁あってこれまでも聴いているが、今回は先輩格のベテランとの組み合わせにもかかわらず、堂々と弾ききっていて、ソロなどのときよりかえって風格が出てきたように思った。