*写真は別の記事の挿絵にと撮ったものですが、彼の悲報に接し、彼への手向けの供花とします。人参の花、キュウリの花、トウモロコシの花などです。
24日未明、60年来の友人、ということは高校一年生の頃からの友人、N君が逝った。
昨年春、末期の肺がんで余命三ヶ月と宣告されてから一年余、よく頑張ってきたがついに力尽きた。
本人はもとより、私たちもその宣告を知っていたから、決して衝撃ではないが、やはりいざ逝かれてみると寂寞感が襲いくるのを避けるすべはない。
最期は、苦しむことなく眠るがごとく逝ったというから、それをもってささやかな慰めとしたい。
加えて、彼を最後の最後まで、友人として見送ってやることができたことも、悲劇的な出来事の中でもいくぶんの満足を覚えることとなっている。
彼ともう一人の友人H君と私とで、彼の希望する料亭の支店で、鯛の兜煮定食を共にしたのは二月の初めだった。たぶんそれが、彼にとって最後の外食だったろうと思う。というのは、それから二週間後には入院を余儀なくされ、そのまま外へ出ることはなかったからだ。
私とH君は、それ以後、四回ほど見舞いに行き、かなり長時間にわたって、出会いの頃から今に至る過程での思い出などを語り合った。
その中でよかったのは、私がプロデュースし、すこし遠隔地にいる友人も含め、彼と親しかった四人を集めての見舞いを実現し得たことだ。
彼は、「わざわざ遠いやつまで集めなくとも」と私にいったのだが、その言葉とは裏腹に、嬉しさを隠すことはできなかった。彼も、そして集まった連中も、これが最後であることを重々知っていたからだ。
別れ際に彼は、病人とも思えないはりのある声で、「ありがとう、ありがとう」と私たちの手を握りしめるのであった。
この、見舞いに行った四人と彼を含めた五人は、高校時代、私たちの高校の文系サークルの中枢を牛耳っていたつわ者どもである。
新聞部、文芸部、歴史研究会、演劇部、当時盛んだったうたごえ運動の学内支部などを横断的に私たちが仕切っていた。横断的にというのは、例えば私は、演劇部を主体にしつつ、文芸や新聞、うたごえ運動にも関わり合っていたし、ほかのメンバーもまた、マルチな関わりのなかで活動していた。
これらのメンバーを招集したのは四月の末のことであった。
H君と私は、その後、今月の中頃にもう一度見舞いに行っている。なにしろ、肺がやられているのだから体力の衰えは隠すべくもなかったが、それでも病院の売店から取り寄せた新聞を材料に時事問題などを語り合った。まさに、「雀百まで踊り忘れず」である。
それから二週間近く、そろそろまた見舞いにと思っていた矢先の悲報であった。
彼については、まだまだ語るべき多くのことをもっている。
ただし、それらは一般化しにくいものでもある。だから私は、それらを反芻しながら彼を偲ぶほかはない。
私と彼の付き合いは、まだ「戦後」が色濃く残っている頃に始まり、高度成長を経て、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本中がそっくり返り、それををピークとして凋落が始まるや、今度は、戦後の「平和と民主主義」といわれた獲得物が、オセロ・ゲームのように反転しつつある今日まで及んでいる。
そうしたなか、最後まで新聞を手放さず、それらをウオッチングしていた彼の精神を継続して生きてゆきたいと思う。
N君よ、安らかに眠るな! 荒ぶる神として私に啓示を与えよ!
これが君への弔辞であり、私の願いだ!
24日未明、60年来の友人、ということは高校一年生の頃からの友人、N君が逝った。
昨年春、末期の肺がんで余命三ヶ月と宣告されてから一年余、よく頑張ってきたがついに力尽きた。
本人はもとより、私たちもその宣告を知っていたから、決して衝撃ではないが、やはりいざ逝かれてみると寂寞感が襲いくるのを避けるすべはない。
最期は、苦しむことなく眠るがごとく逝ったというから、それをもってささやかな慰めとしたい。
加えて、彼を最後の最後まで、友人として見送ってやることができたことも、悲劇的な出来事の中でもいくぶんの満足を覚えることとなっている。
彼ともう一人の友人H君と私とで、彼の希望する料亭の支店で、鯛の兜煮定食を共にしたのは二月の初めだった。たぶんそれが、彼にとって最後の外食だったろうと思う。というのは、それから二週間後には入院を余儀なくされ、そのまま外へ出ることはなかったからだ。
私とH君は、それ以後、四回ほど見舞いに行き、かなり長時間にわたって、出会いの頃から今に至る過程での思い出などを語り合った。
その中でよかったのは、私がプロデュースし、すこし遠隔地にいる友人も含め、彼と親しかった四人を集めての見舞いを実現し得たことだ。
彼は、「わざわざ遠いやつまで集めなくとも」と私にいったのだが、その言葉とは裏腹に、嬉しさを隠すことはできなかった。彼も、そして集まった連中も、これが最後であることを重々知っていたからだ。
別れ際に彼は、病人とも思えないはりのある声で、「ありがとう、ありがとう」と私たちの手を握りしめるのであった。
この、見舞いに行った四人と彼を含めた五人は、高校時代、私たちの高校の文系サークルの中枢を牛耳っていたつわ者どもである。
新聞部、文芸部、歴史研究会、演劇部、当時盛んだったうたごえ運動の学内支部などを横断的に私たちが仕切っていた。横断的にというのは、例えば私は、演劇部を主体にしつつ、文芸や新聞、うたごえ運動にも関わり合っていたし、ほかのメンバーもまた、マルチな関わりのなかで活動していた。
これらのメンバーを招集したのは四月の末のことであった。
H君と私は、その後、今月の中頃にもう一度見舞いに行っている。なにしろ、肺がやられているのだから体力の衰えは隠すべくもなかったが、それでも病院の売店から取り寄せた新聞を材料に時事問題などを語り合った。まさに、「雀百まで踊り忘れず」である。
それから二週間近く、そろそろまた見舞いにと思っていた矢先の悲報であった。
彼については、まだまだ語るべき多くのことをもっている。
ただし、それらは一般化しにくいものでもある。だから私は、それらを反芻しながら彼を偲ぶほかはない。
私と彼の付き合いは、まだ「戦後」が色濃く残っている頃に始まり、高度成長を経て、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本中がそっくり返り、それををピークとして凋落が始まるや、今度は、戦後の「平和と民主主義」といわれた獲得物が、オセロ・ゲームのように反転しつつある今日まで及んでいる。
そうしたなか、最後まで新聞を手放さず、それらをウオッチングしていた彼の精神を継続して生きてゆきたいと思う。
N君よ、安らかに眠るな! 荒ぶる神として私に啓示を与えよ!
これが君への弔辞であり、私の願いだ!
ここのところ何かとお騒がせな朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と略記)であるが、彼らの主として軍事的なデモンストレーションは、その「軍事大国」としてのアピールともいえるが、その宛先は、隣国の韓国や日本であると同時に、アメリカへの切ないほどのコミュニケーション願望でもある。ようするに、アメリカに承認されることによって、自国の安寧を図ろうとする意図があるものと思われる。
ならば、それほどのラブコールを受ける側のアメリカ国民が、北朝鮮についてどれほどの関心があるのかを示す面白いデータがネット上に流れてきた。
それは、ニューヨーク・タイムズが全米1,750人ほどを対象としたアンケートで、その参加者に、白地図の世界地図を示し、北朝鮮の場所を特定してもらうというものだ。
その結果は以下の地図の青い点が示しているが、その拡散ぶりはアジア全域から中近東に及んでいる。それでもこの点の散布からだけではわかりにくいが、正解率は36%だという。これを多いとみるか少ないとみるか。
それと関連して、「アメリカの北朝鮮に対してとるべき態度は?」という設問や、このアンケートに答えた人びとの性別・年齢別の分析は以下に詳しいので、興味のある人はどうぞ。
https://www.nytimes.com/interactive/2017/05/14/upshot/if-americans-can-find-north-korea-on-a-map-theyre-more-likely-to-prefer-diplomacy.html
思うにこれらの結果は、必ずしもアメリカ人の無知を示すものではないと思われる。私たちだって、いきなり、グアテマラの位置やザイールの位置を示せといわれたら、36%の正解率を得られるかどうか。
ちなみに私なんぞは、グアテマラが中米地区、ザイールがアフリカの西海岸の国ということを知っているぐらいで、その場所を的中させる自信はない。
私が興味を持ったのは、世界の国々が私たちに見えてくるその見え方が、「私たちの地図」によって大きく左右され、それによってある種の世界観のようなものへの影響すらあるのではないかということである。
私たちは、地球が丸いことを知っている。しかし、現実に「世界」を思い浮かべるときには、平面化された世界地図においてであることが多いだろう。「私たちの地図」においては、ユーラシア大陸とアメリカ大陸の間に広大な太平洋が広がり、この国はユーラシアの東部、アジア大陸にしがみつくようにしてぶら下がっている。
私たちはこの位置から世界をイメージしている。
私たちが西欧というとき、それは、「私たちの地図」の左端に位置する箇所であるし、アメリカはというと、「私たちの地図」の右端に位置している。しかし、しばしばいわれる欧米諸国という言葉において、「私たちの地図」は戸惑うことになる。欧と米は「私たちの地図」では左右の端であるからだ。
ここに至って、「私たちの地図」の左右のはずれは、いわば円筒状に繋がっているのだという事実が思い起こされる。そして欧と米は大西洋を挟んだ繋がりのうちにあることを改めて思い起こす。
「私たちの地図」からはこの大西洋がほとんど隠されてしまっていたのだ。
これまで、「私たちの地図」を強調してきたが、これは、私たちのそれが、複数ある世界地図のうちのひとつでしかないことをいいたかったからである。
そうではない世界地図のひとつ、たぶん、欧米ではこちらのほうが多いのは以下のものである。
これによれば、まさに欧米が中心にあってわれわれの住まう場所は、文字通り極東なのである。
欧米中心の地図からみたら、私たちの列島も、朝鮮半島も、南太平洋に展開される国々も、何やら東のはずれのごちゃごちゃした地域に過ぎないのだ。だから、アメリカ人が北朝鮮を正確に指し示すのはさほど容易なことではないのだ。
「私たちの地図」以外のもうひとつを掲載しておこう。
初めてこれを見たときは幾分衝撃的だった。「地図は北を上とする」という前提がしっかりと叩き込まれているせいもあって、先にみた太平洋中心、大西洋中心の相互の横ずらしに比べてはるかに衝撃は大きい。なんせ、天地がひっくり返ったように思えてしまうからだ。
しかし、これもよく見れば不思議でも何でもない。「北を上」というのは、磁石の針が北を指すといった他にはこれといった必然性のない恣意的なものだし、あえていうならば、北半球での文明が近代を制したというぐらいの理由しかない。
だとするならば、南半球に住む人たちが、いつまでも北の下にぶら下がっているのに飽きたとしても何の不思議もない。
もともと、地球は丸いのだから、それを平面化して示す時、どの向きのどの地点を中心とするかによっては無数の世界地図が存在しうるわけだ。
われわれが見慣れているメルカトル図法のそれだって、もともとの円を、赤道を中心にして無理やり開き、北端と南端を拡大したもので、決して地球の実態を示しているわけではない。
だから、上の図に示した赤い円の大きさは、本来同じ面積を示すものだが、南北に行くに従って拡大されることになる。円を平面化するための便法だが、それによって平面の地図から判断する距離や面積のイメージはその実態との乖離を余儀なくされる。
何がいいたいかというと、私たちの地理的判断、あるいは歴史的判断、さらには政治的判断すら私たちの置かれた地政学上の立場、つまり、「私たちの地図」に依拠した判断から成り立っているのではないかということである。
そしてそれらは、自国中心主義、自民族中心主義、さらにはそれを先鋭化し、差別や排除、殲滅の論理にまで発展する可能性すらある。
その逆は、世界にはそれぞれの「私たちの地図」をもった人びとがいて、その差異をもったままに共存しゆこうとする開かれたイメージだろう。
世界を地球的規模で考え、「世界平和」、「世界市民」を初めて意識化してみせたのが哲学者のイマヌエル・カントだった。
彼は、上に見た偏狭な立場から脱却した理性に基づく世界市民の結合をイメージし、それをもって世界平和の礎としようとした。
現行の国連もそうした流れを受けたものではあるが、その現状には幾分の問題もある。強国が自らの権限を保持し、それを押し付ける場となったり、国際的に是正すべき問題が真面目に取り上げられなかったりする点がそれらだ。
しかし、それでも、カントの理想に近づくことができる改革を期待しながら、地球をさまざまな視点から見つめる多くの人々、つまり、それぞれ、「私たちの地図」をもつ人たちの連携の場としてその継続と成長を図るべきだろうと思う。
ならば、それほどのラブコールを受ける側のアメリカ国民が、北朝鮮についてどれほどの関心があるのかを示す面白いデータがネット上に流れてきた。
それは、ニューヨーク・タイムズが全米1,750人ほどを対象としたアンケートで、その参加者に、白地図の世界地図を示し、北朝鮮の場所を特定してもらうというものだ。
その結果は以下の地図の青い点が示しているが、その拡散ぶりはアジア全域から中近東に及んでいる。それでもこの点の散布からだけではわかりにくいが、正解率は36%だという。これを多いとみるか少ないとみるか。
それと関連して、「アメリカの北朝鮮に対してとるべき態度は?」という設問や、このアンケートに答えた人びとの性別・年齢別の分析は以下に詳しいので、興味のある人はどうぞ。
https://www.nytimes.com/interactive/2017/05/14/upshot/if-americans-can-find-north-korea-on-a-map-theyre-more-likely-to-prefer-diplomacy.html
思うにこれらの結果は、必ずしもアメリカ人の無知を示すものではないと思われる。私たちだって、いきなり、グアテマラの位置やザイールの位置を示せといわれたら、36%の正解率を得られるかどうか。
ちなみに私なんぞは、グアテマラが中米地区、ザイールがアフリカの西海岸の国ということを知っているぐらいで、その場所を的中させる自信はない。
私が興味を持ったのは、世界の国々が私たちに見えてくるその見え方が、「私たちの地図」によって大きく左右され、それによってある種の世界観のようなものへの影響すらあるのではないかということである。
私たちは、地球が丸いことを知っている。しかし、現実に「世界」を思い浮かべるときには、平面化された世界地図においてであることが多いだろう。「私たちの地図」においては、ユーラシア大陸とアメリカ大陸の間に広大な太平洋が広がり、この国はユーラシアの東部、アジア大陸にしがみつくようにしてぶら下がっている。
私たちはこの位置から世界をイメージしている。
私たちが西欧というとき、それは、「私たちの地図」の左端に位置する箇所であるし、アメリカはというと、「私たちの地図」の右端に位置している。しかし、しばしばいわれる欧米諸国という言葉において、「私たちの地図」は戸惑うことになる。欧と米は「私たちの地図」では左右の端であるからだ。
ここに至って、「私たちの地図」の左右のはずれは、いわば円筒状に繋がっているのだという事実が思い起こされる。そして欧と米は大西洋を挟んだ繋がりのうちにあることを改めて思い起こす。
「私たちの地図」からはこの大西洋がほとんど隠されてしまっていたのだ。
これまで、「私たちの地図」を強調してきたが、これは、私たちのそれが、複数ある世界地図のうちのひとつでしかないことをいいたかったからである。
そうではない世界地図のひとつ、たぶん、欧米ではこちらのほうが多いのは以下のものである。
これによれば、まさに欧米が中心にあってわれわれの住まう場所は、文字通り極東なのである。
欧米中心の地図からみたら、私たちの列島も、朝鮮半島も、南太平洋に展開される国々も、何やら東のはずれのごちゃごちゃした地域に過ぎないのだ。だから、アメリカ人が北朝鮮を正確に指し示すのはさほど容易なことではないのだ。
「私たちの地図」以外のもうひとつを掲載しておこう。
初めてこれを見たときは幾分衝撃的だった。「地図は北を上とする」という前提がしっかりと叩き込まれているせいもあって、先にみた太平洋中心、大西洋中心の相互の横ずらしに比べてはるかに衝撃は大きい。なんせ、天地がひっくり返ったように思えてしまうからだ。
しかし、これもよく見れば不思議でも何でもない。「北を上」というのは、磁石の針が北を指すといった他にはこれといった必然性のない恣意的なものだし、あえていうならば、北半球での文明が近代を制したというぐらいの理由しかない。
だとするならば、南半球に住む人たちが、いつまでも北の下にぶら下がっているのに飽きたとしても何の不思議もない。
もともと、地球は丸いのだから、それを平面化して示す時、どの向きのどの地点を中心とするかによっては無数の世界地図が存在しうるわけだ。
われわれが見慣れているメルカトル図法のそれだって、もともとの円を、赤道を中心にして無理やり開き、北端と南端を拡大したもので、決して地球の実態を示しているわけではない。
だから、上の図に示した赤い円の大きさは、本来同じ面積を示すものだが、南北に行くに従って拡大されることになる。円を平面化するための便法だが、それによって平面の地図から判断する距離や面積のイメージはその実態との乖離を余儀なくされる。
何がいいたいかというと、私たちの地理的判断、あるいは歴史的判断、さらには政治的判断すら私たちの置かれた地政学上の立場、つまり、「私たちの地図」に依拠した判断から成り立っているのではないかということである。
そしてそれらは、自国中心主義、自民族中心主義、さらにはそれを先鋭化し、差別や排除、殲滅の論理にまで発展する可能性すらある。
その逆は、世界にはそれぞれの「私たちの地図」をもった人びとがいて、その差異をもったままに共存しゆこうとする開かれたイメージだろう。
世界を地球的規模で考え、「世界平和」、「世界市民」を初めて意識化してみせたのが哲学者のイマヌエル・カントだった。
彼は、上に見た偏狭な立場から脱却した理性に基づく世界市民の結合をイメージし、それをもって世界平和の礎としようとした。
現行の国連もそうした流れを受けたものではあるが、その現状には幾分の問題もある。強国が自らの権限を保持し、それを押し付ける場となったり、国際的に是正すべき問題が真面目に取り上げられなかったりする点がそれらだ。
しかし、それでも、カントの理想に近づくことができる改革を期待しながら、地球をさまざまな視点から見つめる多くの人々、つまり、それぞれ、「私たちの地図」をもつ人たちの連携の場としてその継続と成長を図るべきだろうと思う。
*写真と説明はズレています。
郵便を出しに行った。まっすぐ帰ろうかと思ったが、ここしばらくほとんど歩いていないことに思い至って、できるだけ緑が多いあたりをブラブラすることとした。
無為に歩いていると、さまざまな思いが去来する。
私は非国民だから、この国のご政道向きなど知ったことじゃないが、腐敗を深める権力を目のあたりにするのは決して心地よいものではない。
森友に続き、前からくすぶっていた加計学園の問題が明るみに出つつある。官僚の作ったメモによると、事態はもはや「忖度」の範囲を超えて、かなりストレートな圧力がかかっていたことを示している。
引き続きの「お友だち」への利益供与を見るにつけ、この間まで笑ってみていた韓国の事態が思い起こされる。こちらもまた、「お友だち」への利益供与であった。
ただ、ひとつ違う点は、韓国ではそれがちゃんと弾劾され、最高責任者が裁かれるに至っているということである。
腐敗は同じかもしれないが、その腐敗を正す民意が具体的に作動し、事態を告発するに至るかどうかでは大違いだ。
その意味では、韓国の方が民主主義に対してよりフレキシブルに対応しているといわざるをえない。
そんなことばかり考えていたのでは散策は楽しくはない。
途中で見たものは写真のとおりだが、最初はチガヤが群生する空き地。ここはもともと田んぼだったが、耕されなくなって2、3年で、こんな風に。なぜ、ここがチガヤの群生地になったのかはよくわからない。
なお、子どもの頃、まだ穂にならない前のものをおやつによく食べた。自然のほのやかな甘みがあって、けっこう美味しかった。
緑の中にユンボが鎮座している。まだ廃機ではない。ここで休んでいて、必要なときに繰り出す。
この持ち主、私がウオッチングしている田んぼの持ち主でもあり、土壌の交換などに時折お目にかかっている。
しばらく行くと、柑橘類の蕾がびっしりついているのに出くわす。私の記憶によればこれは夏みかん級の大型柑橘類で、ひょっとしたら、人の頭ほどにもなる鬼柚子の木だったかもしれない。
秋になったら、確かめてみよう。
決して暇ではなく、やることはいっぱいあるので、そろそろ家へと歩いていたら、向こうからピンクのヘルメットをかぶった小1ぐらいの女の子が、子供用の自転車を勢いよく漕いで通りかかった。そしてすれ違いざまに明るい声で「コンニチハ!」と。
「あ、コンニチハ。気をつけてね」と返すと、即座に、「ハイ、ありがとうございます」と実にハキハキと明瞭な応答。思わず振り返って見ると、やはりチビンコであることには変わりない。
なんだか、すがすがしくて嬉しくなってしまった。
いいシーンだったが、写真は撮らなかったので、ネットで探したら、ほぼイメージが近いイラストがあったので、それを貼り付けておこう。
こんな単純なことで、ウルッとしそうになるほど揺さぶられるのは、やはり「老人性五月病過感傷症候群」だというのが自己診断。
郵便を出しに行った。まっすぐ帰ろうかと思ったが、ここしばらくほとんど歩いていないことに思い至って、できるだけ緑が多いあたりをブラブラすることとした。
無為に歩いていると、さまざまな思いが去来する。
私は非国民だから、この国のご政道向きなど知ったことじゃないが、腐敗を深める権力を目のあたりにするのは決して心地よいものではない。
森友に続き、前からくすぶっていた加計学園の問題が明るみに出つつある。官僚の作ったメモによると、事態はもはや「忖度」の範囲を超えて、かなりストレートな圧力がかかっていたことを示している。
引き続きの「お友だち」への利益供与を見るにつけ、この間まで笑ってみていた韓国の事態が思い起こされる。こちらもまた、「お友だち」への利益供与であった。
ただ、ひとつ違う点は、韓国ではそれがちゃんと弾劾され、最高責任者が裁かれるに至っているということである。
腐敗は同じかもしれないが、その腐敗を正す民意が具体的に作動し、事態を告発するに至るかどうかでは大違いだ。
その意味では、韓国の方が民主主義に対してよりフレキシブルに対応しているといわざるをえない。
そんなことばかり考えていたのでは散策は楽しくはない。
途中で見たものは写真のとおりだが、最初はチガヤが群生する空き地。ここはもともと田んぼだったが、耕されなくなって2、3年で、こんな風に。なぜ、ここがチガヤの群生地になったのかはよくわからない。
なお、子どもの頃、まだ穂にならない前のものをおやつによく食べた。自然のほのやかな甘みがあって、けっこう美味しかった。
緑の中にユンボが鎮座している。まだ廃機ではない。ここで休んでいて、必要なときに繰り出す。
この持ち主、私がウオッチングしている田んぼの持ち主でもあり、土壌の交換などに時折お目にかかっている。
しばらく行くと、柑橘類の蕾がびっしりついているのに出くわす。私の記憶によればこれは夏みかん級の大型柑橘類で、ひょっとしたら、人の頭ほどにもなる鬼柚子の木だったかもしれない。
秋になったら、確かめてみよう。
決して暇ではなく、やることはいっぱいあるので、そろそろ家へと歩いていたら、向こうからピンクのヘルメットをかぶった小1ぐらいの女の子が、子供用の自転車を勢いよく漕いで通りかかった。そしてすれ違いざまに明るい声で「コンニチハ!」と。
「あ、コンニチハ。気をつけてね」と返すと、即座に、「ハイ、ありがとうございます」と実にハキハキと明瞭な応答。思わず振り返って見ると、やはりチビンコであることには変わりない。
なんだか、すがすがしくて嬉しくなってしまった。
いいシーンだったが、写真は撮らなかったので、ネットで探したら、ほぼイメージが近いイラストがあったので、それを貼り付けておこう。
こんな単純なことで、ウルッとしそうになるほど揺さぶられるのは、やはり「老人性五月病過感傷症候群」だというのが自己診断。
久々のコンサート、しかも2日続けて。両方とも、カルテット。
15日は名古屋を拠点にする若手の弦楽四重奏団、クァルテット・ダモーレによるもの。
14日は、岐阜で4人のギタリストたちによるもの。
前者については、このSNSでも、私より数段耳の良い方がいらっしゃって何かお書きになるかもしれないので、わたしはもっぱら後者について述べよう。
ただ、この弦楽四重奏団のアンコールが、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だったことを書き添えておこう。
当日の女性陣のコスチュームはもっとあでやかだった
ご存じの方も多いと思うが、モーツァルトはミサ曲やオペラなどで多くの合唱曲を書いているが、ケッヘル番号が独立している単独の合唱曲は、この「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だけだ。
それを弦楽四重奏で演奏するのは初めて聴いた。
もともと、静かにフェイド・アウトするような曲だから、器楽曲にはいくぶん物足りないかもしれないが、合うとすれば弦楽四重奏しかないのだろうなという点で納得できた。
さて、4人のギタリストの方だが、こちらの方は5月14日、岐阜サラマンカホールでのもの。
日本のギタリストの重鎮、荘村清志を中心に、鈴木大介、大萩康司、それに紅一点、朴葵姫(パク・キュヒ)の4人が一堂に会したもので、先の弦楽四重奏団と違って、ひとつのチームのようなものではないのだが、それでもはじめての顔合わせではないようで息はピッタリ合っていた。
演奏は四重奏、三重奏、二重奏、独奏といろいろで、曲も古いもの、比較的新しいもの、ギター本来の曲、アレンジしたもの、などなど多彩であった。
私にとっては四人のアンサンブルははじめてで、第一部の最後を飾ったローラン・ディアンス(昨年死去)の「チェニス・チュニジア」などは、ギターならではの音色の重なりで、けっこう広がりのある演奏を聞かせてくれた。
この曲はもろに北アフリカ大陸をイメージしているが、ギターという楽器が、ヨーロッパのアフリカといわれたスペインで成長し、数々の名曲を生み出したことが偲ばれるような曲でもあった。
もちろん曲にもよるが、ギターの調べはツツツ~ッと上昇したり、そこから滑らかに下降したりで、それらをよぎるようにリズムが刻まれ、独特の繊細な音楽が醸し出される。
その繊細さ故に、ギター同士、あるいは他の単独の楽器とのコラボ、あるいはロドリーゴの「アランフェス協奏曲」のようにオケとの協奏はあっても、まかり間違っても、オケや合奏団の中に埋没してはその特色が殺されてしまうのだろうと思う。
独奏では、朴葵姫のアルベニスの「スペイン組曲」からの「セビリア」が若々しく澄んだ音色を響かせていた。
また、荘村清志の「アルハンブラの思い出」(タレガ)は、何度も聞きなれたはずなのに、そのトレモロと同時にこちらの肉体と精神も小刻みに揺れるような快感で、ホール全体がキュンと締まるようであった。
ちなみに、荘村は姿勢がとても良く、禁欲的なほどに背筋の線が垂直なままに演奏する。ほかの演奏者たちが、曲想につれ、体を揺らしたり、前のめりになったりするのとは対象的である。
正直いって、ギターの演奏はCDや媒体を通じては聴いているものの、コンサートとなるとこれで二回めほどで、しかも4人のアンサンブルというのは初めてだ。だから偉そうなことはいえない。
もともと、私のギター体験の始まりはといえば、古賀政男の「湯の町エレジー」のあのセツセツとしたイントロ、ついで、映画「禁じられた遊び」のサウンドトラックといったところだから、まあお里が知れているというべきだろう。
でも、とてもいいコンサートだった。前から3列目で聴くそれは、弦の震えが私自身と共鳴するかのように感じられた。
なお、余談であるが荘村清志氏は岐阜の出身で、しかも校区は私のそれの隣。彼のほうが9歳ほど若いが、子どもの頃どこかですれ違っているかもしれない。
もっとも16歳の折に来日中のナルシソ・イエペスに見出されて、スペインへ渡り、イエペスに師事したというから、はなたれ小僧だった私とは毛並みが違うことは事実だ。
15日は名古屋を拠点にする若手の弦楽四重奏団、クァルテット・ダモーレによるもの。
14日は、岐阜で4人のギタリストたちによるもの。
前者については、このSNSでも、私より数段耳の良い方がいらっしゃって何かお書きになるかもしれないので、わたしはもっぱら後者について述べよう。
ただ、この弦楽四重奏団のアンコールが、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だったことを書き添えておこう。
当日の女性陣のコスチュームはもっとあでやかだった
ご存じの方も多いと思うが、モーツァルトはミサ曲やオペラなどで多くの合唱曲を書いているが、ケッヘル番号が独立している単独の合唱曲は、この「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だけだ。
それを弦楽四重奏で演奏するのは初めて聴いた。
もともと、静かにフェイド・アウトするような曲だから、器楽曲にはいくぶん物足りないかもしれないが、合うとすれば弦楽四重奏しかないのだろうなという点で納得できた。
さて、4人のギタリストの方だが、こちらの方は5月14日、岐阜サラマンカホールでのもの。
日本のギタリストの重鎮、荘村清志を中心に、鈴木大介、大萩康司、それに紅一点、朴葵姫(パク・キュヒ)の4人が一堂に会したもので、先の弦楽四重奏団と違って、ひとつのチームのようなものではないのだが、それでもはじめての顔合わせではないようで息はピッタリ合っていた。
演奏は四重奏、三重奏、二重奏、独奏といろいろで、曲も古いもの、比較的新しいもの、ギター本来の曲、アレンジしたもの、などなど多彩であった。
私にとっては四人のアンサンブルははじめてで、第一部の最後を飾ったローラン・ディアンス(昨年死去)の「チェニス・チュニジア」などは、ギターならではの音色の重なりで、けっこう広がりのある演奏を聞かせてくれた。
この曲はもろに北アフリカ大陸をイメージしているが、ギターという楽器が、ヨーロッパのアフリカといわれたスペインで成長し、数々の名曲を生み出したことが偲ばれるような曲でもあった。
もちろん曲にもよるが、ギターの調べはツツツ~ッと上昇したり、そこから滑らかに下降したりで、それらをよぎるようにリズムが刻まれ、独特の繊細な音楽が醸し出される。
その繊細さ故に、ギター同士、あるいは他の単独の楽器とのコラボ、あるいはロドリーゴの「アランフェス協奏曲」のようにオケとの協奏はあっても、まかり間違っても、オケや合奏団の中に埋没してはその特色が殺されてしまうのだろうと思う。
独奏では、朴葵姫のアルベニスの「スペイン組曲」からの「セビリア」が若々しく澄んだ音色を響かせていた。
また、荘村清志の「アルハンブラの思い出」(タレガ)は、何度も聞きなれたはずなのに、そのトレモロと同時にこちらの肉体と精神も小刻みに揺れるような快感で、ホール全体がキュンと締まるようであった。
ちなみに、荘村は姿勢がとても良く、禁欲的なほどに背筋の線が垂直なままに演奏する。ほかの演奏者たちが、曲想につれ、体を揺らしたり、前のめりになったりするのとは対象的である。
正直いって、ギターの演奏はCDや媒体を通じては聴いているものの、コンサートとなるとこれで二回めほどで、しかも4人のアンサンブルというのは初めてだ。だから偉そうなことはいえない。
もともと、私のギター体験の始まりはといえば、古賀政男の「湯の町エレジー」のあのセツセツとしたイントロ、ついで、映画「禁じられた遊び」のサウンドトラックといったところだから、まあお里が知れているというべきだろう。
でも、とてもいいコンサートだった。前から3列目で聴くそれは、弦の震えが私自身と共鳴するかのように感じられた。
なお、余談であるが荘村清志氏は岐阜の出身で、しかも校区は私のそれの隣。彼のほうが9歳ほど若いが、子どもの頃どこかですれ違っているかもしれない。
もっとも16歳の折に来日中のナルシソ・イエペスに見出されて、スペインへ渡り、イエペスに師事したというから、はなたれ小僧だった私とは毛並みが違うことは事実だ。
私んちはエンゲル係数はとても高い。
別に高いものを食べているわけではない。収入がないくせになんとか人並みのものをなどと思っているせいだ。
しかし、これではダメだ。
これからは、落ちているものを拾ってでも食いつながねばならない。
でさっそく実践した。
まずは山菜採りだ。といったって山の近くではないし、そのためにガソリンを焚いて車を走らせたのでは採算が合わない。
そこで身近なもので間に合わせることに。
左からお茶の新芽 柿の新芽 よもぎの先端部分
身近も身近、ここのところ治療に通っている歯科医の行き帰りに採取したものを食おうという魂胆だ。
わずか数分の道のり、あまり大したものはない。
そこで採って来たのが、柿の新芽、お茶の新芽、よもぎの柔らかそうな先端。
天ぷらにした。
よもぎはやや苦いが、食べられないほどではない。
お茶の新芽は美味しい。
柿も美味いのだが、この時期やや大きくなりすぎた感がある。
もう少し前の黄色っぽくて柔らかいものだったらもっと美味かったろう。
胸焼けするので、新キャベツ、トマト、新玉ねぎ、カイワレのサラダ添え
それでもまあまあ満足出来た。
それら拾ってきたもののみでは頼りなく、彩りも単純なので、手前に玉ねぎと人参のかき揚げも添えた。
新玉ねぎの甘味が絶妙。
天ぷらの残りは、翌日の昼食に天ぷらそばにした。
一日おいた天ぷらはヘタってしまっているので、蕎麦屋の天そばのようには行かないが、衣に汁が滲みた味はけっこう美味い。
今後もこの辺りで拾ってきて食べることができるものを研究しなければなるまい。
割合、真剣なサバイバルゲームなのだ。
別に高いものを食べているわけではない。収入がないくせになんとか人並みのものをなどと思っているせいだ。
しかし、これではダメだ。
これからは、落ちているものを拾ってでも食いつながねばならない。
でさっそく実践した。
まずは山菜採りだ。といったって山の近くではないし、そのためにガソリンを焚いて車を走らせたのでは採算が合わない。
そこで身近なもので間に合わせることに。
左からお茶の新芽 柿の新芽 よもぎの先端部分
身近も身近、ここのところ治療に通っている歯科医の行き帰りに採取したものを食おうという魂胆だ。
わずか数分の道のり、あまり大したものはない。
そこで採って来たのが、柿の新芽、お茶の新芽、よもぎの柔らかそうな先端。
天ぷらにした。
よもぎはやや苦いが、食べられないほどではない。
お茶の新芽は美味しい。
柿も美味いのだが、この時期やや大きくなりすぎた感がある。
もう少し前の黄色っぽくて柔らかいものだったらもっと美味かったろう。
胸焼けするので、新キャベツ、トマト、新玉ねぎ、カイワレのサラダ添え
それでもまあまあ満足出来た。
それら拾ってきたもののみでは頼りなく、彩りも単純なので、手前に玉ねぎと人参のかき揚げも添えた。
新玉ねぎの甘味が絶妙。
天ぷらの残りは、翌日の昼食に天ぷらそばにした。
一日おいた天ぷらはヘタってしまっているので、蕎麦屋の天そばのようには行かないが、衣に汁が滲みた味はけっこう美味い。
今後もこの辺りで拾ってきて食べることができるものを研究しなければなるまい。
割合、真剣なサバイバルゲームなのだ。
*写真はスーパーへの道すがら撮ったもの。
二つのスーパーを必要な品目によって使い分けている。
ひとつは鮮魚類や酒類が豊富で、ブランド品ではない安いヨーグルトがまあまあうまい。
もうひとつは県内に本店があるせいか、地場の野菜などが値打ちで、コロッケなどの出来合いの惣菜も安くてうまい。亡くなった連れ合いがここのコロッケやここで作っているピザパンなどを好んで食べていた。
前者は、徒歩だと片道15分から20分で、肉体的には適度な運動かも知れないが時間がもったいない。だから、車でゆくことが多い。あるいは、やはりどこかへ車で出かけたついでに立ち寄ったりする。陽気のいいときは自転車でも出かける。
後者は徒歩で10分以内で行ける。だからここへは徒歩でゆく。
スーパーへ行くというと何か街中へ出るようだが、ここへの場合は100m以内の間、バス通りを通り、脇道へ逸れると、両側が田んぼで、それが切れるあたりに鎮守の森があり、そこからは数軒の人家を経由して広い通りに出て、それを横切ればトウチャコ(これ分かる人、火野正平が自転車であちこちへ行く番組を見てる人)である。
この道は嫌いではない。この間まで、タンポポやすみれが咲いていたが、タンポポがワタ坊主になりつつある今は、道の両側にはハルジオンが咲き乱れている。
もうひとつの見どころというか道草の場所は鎮守の森である。
適当に桜などもあるがそれが終わった今は新緑、とりわけこの境内に多いモミジのそれが美しい。
さらに夏場になれば、鳴き立てるセミの合唱を頭上に、木陰が涼しい。
だから時折は、信仰心も何もないのに立ち寄る。
いつ行ってもほとんど人影がない境内に歩を進めると、そこに棲みついたヒヨドリどもが、侵入者への鋭い威嚇と警戒の鳴き声を頭上から浴びせる。
うちの桜ん坊や枇杷の実、そして桑の実をついばみに来るのはお前たちだろうと反論しても通じる相手ではない。構わずにあたりの草木を眺め、しばし憩う。
先程も書いたが今頃はモミジの新葉が美しい。なかには先端がほの赤い花を咲かせているものがある。それらはやがてそのまま実となって、その竹とんぼのような形状を活かし、風に煽れれてきりきり舞いをしながら親木から離れた場所へと運ばれるだろう。
竹とんぼのような形状というより、人はモミジの実に習って竹とんぼを思いついたのかもしれない。
境内の石段に腰を下ろしてしばしの憩いを過ごし、立ち上がったら、上空に飛行機雲がくっきりと延びてゆくところだった。
どこへ行く飛行機だろうか。どんな人たちが乗っているのだろうか。それらの人たちは、それを見上げている私の存在を想像すらしないだろう。
誰も気付かない私の挙動など、こうして表現をしない限り、なかったことと一緒なのだ。そして、私を含む人びとの行動のほとんどは、誰もそれを認知しない断片から成り立っている。
世界そのものが誰も認知しない出来事の集積で成り立っていて、その黙々たる集積が実は歴史の実体なのではないかなどと考えながら帰途につくのだった(これについては、その関連でいろいろ考えたことがあるが、長くなるのでまた機会を見て書きたい)。
二つのスーパーを必要な品目によって使い分けている。
ひとつは鮮魚類や酒類が豊富で、ブランド品ではない安いヨーグルトがまあまあうまい。
もうひとつは県内に本店があるせいか、地場の野菜などが値打ちで、コロッケなどの出来合いの惣菜も安くてうまい。亡くなった連れ合いがここのコロッケやここで作っているピザパンなどを好んで食べていた。
前者は、徒歩だと片道15分から20分で、肉体的には適度な運動かも知れないが時間がもったいない。だから、車でゆくことが多い。あるいは、やはりどこかへ車で出かけたついでに立ち寄ったりする。陽気のいいときは自転車でも出かける。
後者は徒歩で10分以内で行ける。だからここへは徒歩でゆく。
スーパーへ行くというと何か街中へ出るようだが、ここへの場合は100m以内の間、バス通りを通り、脇道へ逸れると、両側が田んぼで、それが切れるあたりに鎮守の森があり、そこからは数軒の人家を経由して広い通りに出て、それを横切ればトウチャコ(これ分かる人、火野正平が自転車であちこちへ行く番組を見てる人)である。
この道は嫌いではない。この間まで、タンポポやすみれが咲いていたが、タンポポがワタ坊主になりつつある今は、道の両側にはハルジオンが咲き乱れている。
もうひとつの見どころというか道草の場所は鎮守の森である。
適当に桜などもあるがそれが終わった今は新緑、とりわけこの境内に多いモミジのそれが美しい。
さらに夏場になれば、鳴き立てるセミの合唱を頭上に、木陰が涼しい。
だから時折は、信仰心も何もないのに立ち寄る。
いつ行ってもほとんど人影がない境内に歩を進めると、そこに棲みついたヒヨドリどもが、侵入者への鋭い威嚇と警戒の鳴き声を頭上から浴びせる。
うちの桜ん坊や枇杷の実、そして桑の実をついばみに来るのはお前たちだろうと反論しても通じる相手ではない。構わずにあたりの草木を眺め、しばし憩う。
先程も書いたが今頃はモミジの新葉が美しい。なかには先端がほの赤い花を咲かせているものがある。それらはやがてそのまま実となって、その竹とんぼのような形状を活かし、風に煽れれてきりきり舞いをしながら親木から離れた場所へと運ばれるだろう。
竹とんぼのような形状というより、人はモミジの実に習って竹とんぼを思いついたのかもしれない。
境内の石段に腰を下ろしてしばしの憩いを過ごし、立ち上がったら、上空に飛行機雲がくっきりと延びてゆくところだった。
どこへ行く飛行機だろうか。どんな人たちが乗っているのだろうか。それらの人たちは、それを見上げている私の存在を想像すらしないだろう。
誰も気付かない私の挙動など、こうして表現をしない限り、なかったことと一緒なのだ。そして、私を含む人びとの行動のほとんどは、誰もそれを認知しない断片から成り立っている。
世界そのものが誰も認知しない出来事の集積で成り立っていて、その黙々たる集積が実は歴史の実体なのではないかなどと考えながら帰途につくのだった(これについては、その関連でいろいろ考えたことがあるが、長くなるのでまた機会を見て書きたい)。
いま日本でやっている絵画展でいちばんみたいのが国立新美術館で行われている「ミュシャ展」である。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2016/alfons-mucha/
彼の名を一躍知らしめることになった女優、サラ・べルナールのポスター、あるいはその様式になる絵画群も知っているし、うちにはかなり大きなジグソーパズルになったものもあった。どこかで直接作品を見たこともある。
以前の名古屋でのクリムト展での関連展示であったろうか。
ついでながら、このクリムト展は、どういうわけか私にはいささか欲求不満を感じさせるものであった。
今回のミュシャ展でとりわけ観たいのは、晩年の連作、「スラブ叙事詩」だ。
これらの作品群は、自由と独立を求めて闘ったスラブ民族の歴史の描写というそのテーマ性もさることながら、その群像を描写する作家の視線の置き所、描かれた人物が定型化されず、それぞれの実存を秘めた眼差しを宿しているところなどだ。
いってみれば、これらの絵画はその事件や出来事を描いているのではなく、そこに立ち会った人々のそれぞれありようそのものが描かれているということなのだろう。
でも多分行けないだろうな。
老いの身にとっては東京は遠すぎる。それに、その絵画展にのみゆくにはもったいない。誰かと親しく話す機会でもあれば決心がつくのかもしれない。
ところでこのミュシャだが、1939年、チェコに侵攻してきたナチスにより捕らえられ、反ナチ的な民族意識の高揚を図るものとして厳しい尋問に晒された。しばらくして釈放されたものの、それがもとで体調を崩し、4ヶ月後には他界している。享年78歳はまさにいまの私と同年である。
なお、1945年、チェコはナチ支配から開放されたが、その後の共産党政権はミュシャの民族性のようなものを警戒し、その存在を黙殺し続けた。
ようするに、ナチズムからも、スターリニズムからも忌避されたということである。
もちろん観たいのはそれだけによるのではないが、いわゆるイデオロギー体制が忌避するもの、いってみれば何ごとも単一に統制したい者たちにとっての余剰が何であるのかを観てみたいとも思うのだ。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2016/alfons-mucha/
彼の名を一躍知らしめることになった女優、サラ・べルナールのポスター、あるいはその様式になる絵画群も知っているし、うちにはかなり大きなジグソーパズルになったものもあった。どこかで直接作品を見たこともある。
以前の名古屋でのクリムト展での関連展示であったろうか。
ついでながら、このクリムト展は、どういうわけか私にはいささか欲求不満を感じさせるものであった。
今回のミュシャ展でとりわけ観たいのは、晩年の連作、「スラブ叙事詩」だ。
これらの作品群は、自由と独立を求めて闘ったスラブ民族の歴史の描写というそのテーマ性もさることながら、その群像を描写する作家の視線の置き所、描かれた人物が定型化されず、それぞれの実存を秘めた眼差しを宿しているところなどだ。
いってみれば、これらの絵画はその事件や出来事を描いているのではなく、そこに立ち会った人々のそれぞれありようそのものが描かれているということなのだろう。
でも多分行けないだろうな。
老いの身にとっては東京は遠すぎる。それに、その絵画展にのみゆくにはもったいない。誰かと親しく話す機会でもあれば決心がつくのかもしれない。
ところでこのミュシャだが、1939年、チェコに侵攻してきたナチスにより捕らえられ、反ナチ的な民族意識の高揚を図るものとして厳しい尋問に晒された。しばらくして釈放されたものの、それがもとで体調を崩し、4ヶ月後には他界している。享年78歳はまさにいまの私と同年である。
なお、1945年、チェコはナチ支配から開放されたが、その後の共産党政権はミュシャの民族性のようなものを警戒し、その存在を黙殺し続けた。
ようするに、ナチズムからも、スターリニズムからも忌避されたということである。
もちろん観たいのはそれだけによるのではないが、いわゆるイデオロギー体制が忌避するもの、いってみれば何ごとも単一に統制したい者たちにとっての余剰が何であるのかを観てみたいとも思うのだ。
ここ10日ほど、食料の調達以外に外出していないし、したがって人様とも会わず、またろくに喋ってもいない。あんまり喋っていないので、電話がかかってきてもうまく声が出ず、応答不能といったありさまだ。もっとも、かかってくる電話がろくでもない勧誘のものばかりだからそれで十分なのだが。
したがって、世間の出来事ともほとんど絶縁状態だ。とはいえ、一般的なニュースは媒体を通じて入っては来る。
ここんところは、朝鮮民主主義人民共和国の動静をめぐるものが圧倒的に多い。しかし、どう見ても騒ぎ過ぎだと思う。まるで一触即発のようにいいたてるがその割に騒いでいるのみで緊張感も何もない。
確かに北の体制は不透明でおっかない点もあるが、トランプがいうように金正恩もバカではないから、決定的な一線を容易に越えることはないと思う。
こないだなんかは、北の領土内でわずか50Km飛んだだけのミサイルのために、東京都内の地下鉄が止まったというニュースには大笑いした。過剰反応もいいとこだし、だいいち、地上では人がうごめいているのに、地下鉄だけ止めてどうするの。「頭隠して・・・・」ではなく、つま先だけ隠したようなものだ。
安倍がしたり顔で語ったミサイルが飛んできた場合の心構えにも笑わされた。戦時中の防空の心得よりも惨めなもので、ほんとうにミサイルが飛んできたら全く役に立たない代物だ。
あんたの仕事は、そんな与太話をするのではなく、どこからもミサイルが飛んでこないような国際関係を築き上げるよう努力することでしょう。
しかし、彼のやっていることはその逆でしかない。アメリカの原子力空母に金魚のウンコのようについて回ったかと思うと、今度はアメリカ海軍を護衛するのだという。まるで、アメリカとの連合艦隊が出来上がったかのようなはしゃぎぶりだ。
国会では、ろくすっぽ答弁もできない稲田防衛相が、この件をまるでわが手柄のようにドヤ顔で記者会見していたのが印象的だった。
ようするに、今回の騒ぎに乗じて、先の安保法案を実践し、わが国を攻撃的な軍事にでも動員できることをアピールしているということなのだ。その意味では、安倍と金正恩は、まるで呼吸を合わせて連動しているかのようにも見える。
「憲法9条をかざして世界平和のリーダーシップをとれ」というのが柄谷行人の主張だが(『憲法の無意識』岩波新書など)、憲法はともかく、ここまで実際に軍事に関わってしまっている現実のなかで、それに説得力があるのかどうかが危ぶまれる。
ついでながら時事ネタをもうひとつ。
日本のメディアは、フランスの大統領選挙などを報じる傍ら、ヨーロッパに極右政党の政権ができるかどうかを論じている。
しかし、この国ではすでに、戦前回帰で歴史修正主義の極右政権がとっくに出来上がったいることを報じようとはしない。それに気づいていないとすれば無知といわざるをえないし、気づいていても報じないとしたら、もはや報道も含めた大政翼賛会的組織網がほぼ完成しているというべきだろう。
とまあ、ご隠居の政治談義のようなものになってしまったが、実際にそうだから止む得ないだろう。
私自身は老い先短いからあとのことは知ったことではないが、これから生き延びる人たちには無視できないのではという警告のような気持ちが何処かにある。しかし、それ自身、余計なおせっかいそのものなのだろうなとも思う。
最後のカエルの写真、アマガエルとアオガエル、どっちもよく似ているがこれはどちらかわかりますか。
このように目の周辺に濃いラインがあるのはアマガエル。
わが家には両方いるが、アオガエルはもっと艷やかでメタリックな感じがする。
「青蛙お前もペンキ塗りたてか」は芥川龍之介の句。
なお、アマガエルは、夜にそれがいそうな場所で、やや高音で、「ケケケケケケ」と呼びかけるとそれに応じて鳴き返してくる。私もアマガエルとのラブコールを2、3度経験している。
ただし、人通りがある箇所ではやめておいたほうがいいと思う。不審者として通報され、「共謀罪」の疑いで逮捕される可能性もある。
その他の写真は、満開になったわが家のツツジ。最初の白いツツジの全景、上方のテラスの奥が私が棲息している箇所。
したがって、世間の出来事ともほとんど絶縁状態だ。とはいえ、一般的なニュースは媒体を通じて入っては来る。
ここんところは、朝鮮民主主義人民共和国の動静をめぐるものが圧倒的に多い。しかし、どう見ても騒ぎ過ぎだと思う。まるで一触即発のようにいいたてるがその割に騒いでいるのみで緊張感も何もない。
確かに北の体制は不透明でおっかない点もあるが、トランプがいうように金正恩もバカではないから、決定的な一線を容易に越えることはないと思う。
こないだなんかは、北の領土内でわずか50Km飛んだだけのミサイルのために、東京都内の地下鉄が止まったというニュースには大笑いした。過剰反応もいいとこだし、だいいち、地上では人がうごめいているのに、地下鉄だけ止めてどうするの。「頭隠して・・・・」ではなく、つま先だけ隠したようなものだ。
安倍がしたり顔で語ったミサイルが飛んできた場合の心構えにも笑わされた。戦時中の防空の心得よりも惨めなもので、ほんとうにミサイルが飛んできたら全く役に立たない代物だ。
あんたの仕事は、そんな与太話をするのではなく、どこからもミサイルが飛んでこないような国際関係を築き上げるよう努力することでしょう。
しかし、彼のやっていることはその逆でしかない。アメリカの原子力空母に金魚のウンコのようについて回ったかと思うと、今度はアメリカ海軍を護衛するのだという。まるで、アメリカとの連合艦隊が出来上がったかのようなはしゃぎぶりだ。
国会では、ろくすっぽ答弁もできない稲田防衛相が、この件をまるでわが手柄のようにドヤ顔で記者会見していたのが印象的だった。
ようするに、今回の騒ぎに乗じて、先の安保法案を実践し、わが国を攻撃的な軍事にでも動員できることをアピールしているということなのだ。その意味では、安倍と金正恩は、まるで呼吸を合わせて連動しているかのようにも見える。
「憲法9条をかざして世界平和のリーダーシップをとれ」というのが柄谷行人の主張だが(『憲法の無意識』岩波新書など)、憲法はともかく、ここまで実際に軍事に関わってしまっている現実のなかで、それに説得力があるのかどうかが危ぶまれる。
ついでながら時事ネタをもうひとつ。
日本のメディアは、フランスの大統領選挙などを報じる傍ら、ヨーロッパに極右政党の政権ができるかどうかを論じている。
しかし、この国ではすでに、戦前回帰で歴史修正主義の極右政権がとっくに出来上がったいることを報じようとはしない。それに気づいていないとすれば無知といわざるをえないし、気づいていても報じないとしたら、もはや報道も含めた大政翼賛会的組織網がほぼ完成しているというべきだろう。
とまあ、ご隠居の政治談義のようなものになってしまったが、実際にそうだから止む得ないだろう。
私自身は老い先短いからあとのことは知ったことではないが、これから生き延びる人たちには無視できないのではという警告のような気持ちが何処かにある。しかし、それ自身、余計なおせっかいそのものなのだろうなとも思う。
最後のカエルの写真、アマガエルとアオガエル、どっちもよく似ているがこれはどちらかわかりますか。
このように目の周辺に濃いラインがあるのはアマガエル。
わが家には両方いるが、アオガエルはもっと艷やかでメタリックな感じがする。
「青蛙お前もペンキ塗りたてか」は芥川龍之介の句。
なお、アマガエルは、夜にそれがいそうな場所で、やや高音で、「ケケケケケケ」と呼びかけるとそれに応じて鳴き返してくる。私もアマガエルとのラブコールを2、3度経験している。
ただし、人通りがある箇所ではやめておいたほうがいいと思う。不審者として通報され、「共謀罪」の疑いで逮捕される可能性もある。
その他の写真は、満開になったわが家のツツジ。最初の白いツツジの全景、上方のテラスの奥が私が棲息している箇所。