4月29日午後、PCにたまった写真などを整理しながら、折から、NHK FMで放送中の「今日は一日“戦後歌謡”三昧」を聴くともなしに聴いていた。どうやらラジオ放送90周年記念番組の一環らしい。ちなみにNHKがラジオ放送を始めたのは1925年で、その13年後に私は生まれたのだから、相当古い人間だということになる。まあ、それはいわずもがなだろう。
放送を聴き始めたのは中村メイコがゲストの後半で、彼女は1947(昭和22)年から52(昭和27)年まで続いたラジオ番組、「日曜娯楽版」の10代の頃からの常連で、その頃の話がどんどん出てくるのは面白かった。
実はこの三木鶏郎が編成し、音楽も担当した番組、小学生から中学生にかけての私が、風刺を通じた社会への批判的な眼差しを養う上でとても大きなウエイトを持っていたのだった。その、寸鉄人を刺すコントは実に面白かった。
この番組から生まれたヒット曲では、森繁久弥・丹下キヨ子・三木鶏郎が歌う『僕は特急の機関士で』(1950年)や、楠トシエの『毒消しゃいらんかね』、それに中村メイコの『田舎のバス』などがある。
田舎のバスは、三木鶏郎の作詞・作曲だが、その作詞のヒントは中村メイコの名古屋での体験にあるという。それによれば、彼女が出演した劇場でエレベータに乗っていたところ、「ハイ、次は*階でございます」と標準語で案内をしていたエレベーター嬢が、知り合いが乗ってきた途端、名古屋弁になり、「やっとかめだねぇ。どこへいりゃあす」と話しだしたかと思うと、また、「お待たせいたしました。◯階でございます」とすましていうその落差が面白くて、その経験を三木鶏郎に話した結果生まれた歌だという。
https://www.youtube.com/watch?v=j135NDzas9s
なお、現実に出来上がった歌では名古屋弁ではなく、東北弁にアレンジされている。歌詞の途中に、牛の鳴き声が出てくるが、これは植木等の声だという。
その他、そうそうたるメンバーがこの番組を盛り上げていたが、日本が米軍占領下から離脱した51年の翌年、偏向番組として打ち切られ、その継続として「ユーモア劇場」という番組が始まるのだが、その折にはもう毒にも薬にもならない番組になってしまった。
ここで疑問は、占領軍支配下で検閲も厳しかった時代、なぜこの番組が可能で、日本が主権を回復した途端に打ち切られたかということだが、その理由は、中村メイコのあとにゲスト出演した永六輔(ただしこのインやビューは前のものの再放送)が明かしていた。
当時占領軍は、NHK(しかなかったのだが)の番組に携わる者たちを集め、繰り返し、繰り返し、表現の自由ということをアメリカの番組を例にとりながらレクチャーしていたというのだ。
それが、主権回復と同時に政権与党にとって都合の悪い表現が抑圧されるようになったということは、今日の籾井体制による御用放送化へと連綿として続くNHKの歴史のように思われる。
あるいは、戦前の大本営発表体質への先祖返りか。
中村メイコの次のゲストは永六輔であったが、ほぼ、作曲者でピアニストの中村八大との関係に絞られた何年か前の収録とはいえ、実に面白かった。聞き手はベテランの加賀美幸子アナウンサー。
この永六輔、中学生の頃から上述の「日曜娯楽版」の常連投稿者であり、高校生のときのは既にして準構成者扱いだったというからその才能には舌を巻く。
驚いたのは、このインタビューの途中に、「60年安保」という言葉が何度も繰り返されたということだ。当時、彼につながる人脈がこの闘争に賭けていた情熱がビンビン伝わってくる内容だった。
それによれば、永は当時、民法のある人気番組の構成作家であったのだが、連日デモに出かけるため、局側から、「番組が大事か、デモが大事かどっちなんだと」と詰問を受けたという。
それに対する永の答えが振るっている。
「そんなもの、デモが大事に決まってるでしょう」
それで彼は馘首同様にその番組を降ろされた。
しかし、当時はまだNHKにも骨のあるディレクターがいて、そんな永を招請し、できた番組があのテレビ史に残る名番組、「夢であいましょう」だった。
この番組からは、いまも歌い継がれている歌がたくさん誕生している。
いずれも中村八大作曲に永が詞をつけたものだ。「永が詞を」といったが、まさに文字通りそうで、中村八大が先輩格だったため、彼がまず曲を書き、「オイ、これに詞を付けろ」という手順だったらしい。それにしてもこのコンビはすごいと改めて思った。
「上を向いて歩こう」(歌:坂本九、1961年10月と11月)
「遠くへ行きたい」(歌:ジェリー藤尾、1962年5月)
「故郷のように」(歌:西田佐知子、1962年12月)
「おさななじみ」(歌:デューク・エイセス、1963年6月)
「こんにちは赤ちゃん」(歌:梓みちよ、1963年7月)
「ウエディング・ドレス」(歌:九重佑三子、1963年11月)
60年安保の話はまだ続く。世界中にヒットした「上を向いて歩こう」は、60年安保に敗北した悔しさを念頭に置いた歌だというのだ。
そしてこれには、こんなエピソードも残っている。当初、坂本九がいかにも楽しげに軽い調子で歌ったのに対し、永が激怒し、「これはそういう歌ではない!」と注意したというのだ。
ほかにも、八大とのコンビでヒットした「黒い花びら」(歌:水原弘 第一回レコード大賞受賞曲)について、「あれは60年安保で亡くなった樺美智子へのレクイエムだ」と語っていたが、これは永の勘違いだと思う。
樺が亡くなったのは文字通り60年だが、歌の方は59年だからだ。
しかし、それぐらい60年安保への思いい入れは強かったことを示しているのだろう。
最近、TVにしろラジオにしろ、これほど60年安保という言葉が頻出するのは聞いたことがない。それを語る永もだが、きわめて自然にそれを聞き出す加賀美幸子アナウンサーに好感をもった。
私がかくも感興を覚えたのは、これらがまさに戦後の、私自身が少年期から青年期を迎える頃の話だったからということは確かである。
しかし同時に、私の脳裏には、この話を聞かせてやりたかったある先達のことが去来していた。それは昨秋なくなった同人誌の先達 I さんで、もし、彼がこれを聴いていたら、逆に私のところへ電話をしてきて、「オイ、六さん、FMをつけてみろ」と言ってきたのではないかと思うのだ。
まあ、彼は彼で、アチラ側で中村八大から直接聞いているかもしれないが。
なお、永がそのインタビューの中で、晩年を迎える心境を、「この世に参加し、やがてこの世を去ってゆく身としては・・・」といっていたが、はからずも、ハンナ・アーレントのいう「人間の生誕と世界への参入」と響き合うものをもっていると思いながら聴いていた。
放送を聴き始めたのは中村メイコがゲストの後半で、彼女は1947(昭和22)年から52(昭和27)年まで続いたラジオ番組、「日曜娯楽版」の10代の頃からの常連で、その頃の話がどんどん出てくるのは面白かった。
実はこの三木鶏郎が編成し、音楽も担当した番組、小学生から中学生にかけての私が、風刺を通じた社会への批判的な眼差しを養う上でとても大きなウエイトを持っていたのだった。その、寸鉄人を刺すコントは実に面白かった。
この番組から生まれたヒット曲では、森繁久弥・丹下キヨ子・三木鶏郎が歌う『僕は特急の機関士で』(1950年)や、楠トシエの『毒消しゃいらんかね』、それに中村メイコの『田舎のバス』などがある。
田舎のバスは、三木鶏郎の作詞・作曲だが、その作詞のヒントは中村メイコの名古屋での体験にあるという。それによれば、彼女が出演した劇場でエレベータに乗っていたところ、「ハイ、次は*階でございます」と標準語で案内をしていたエレベーター嬢が、知り合いが乗ってきた途端、名古屋弁になり、「やっとかめだねぇ。どこへいりゃあす」と話しだしたかと思うと、また、「お待たせいたしました。◯階でございます」とすましていうその落差が面白くて、その経験を三木鶏郎に話した結果生まれた歌だという。
https://www.youtube.com/watch?v=j135NDzas9s
なお、現実に出来上がった歌では名古屋弁ではなく、東北弁にアレンジされている。歌詞の途中に、牛の鳴き声が出てくるが、これは植木等の声だという。
その他、そうそうたるメンバーがこの番組を盛り上げていたが、日本が米軍占領下から離脱した51年の翌年、偏向番組として打ち切られ、その継続として「ユーモア劇場」という番組が始まるのだが、その折にはもう毒にも薬にもならない番組になってしまった。
ここで疑問は、占領軍支配下で検閲も厳しかった時代、なぜこの番組が可能で、日本が主権を回復した途端に打ち切られたかということだが、その理由は、中村メイコのあとにゲスト出演した永六輔(ただしこのインやビューは前のものの再放送)が明かしていた。
当時占領軍は、NHK(しかなかったのだが)の番組に携わる者たちを集め、繰り返し、繰り返し、表現の自由ということをアメリカの番組を例にとりながらレクチャーしていたというのだ。
それが、主権回復と同時に政権与党にとって都合の悪い表現が抑圧されるようになったということは、今日の籾井体制による御用放送化へと連綿として続くNHKの歴史のように思われる。
あるいは、戦前の大本営発表体質への先祖返りか。
中村メイコの次のゲストは永六輔であったが、ほぼ、作曲者でピアニストの中村八大との関係に絞られた何年か前の収録とはいえ、実に面白かった。聞き手はベテランの加賀美幸子アナウンサー。
この永六輔、中学生の頃から上述の「日曜娯楽版」の常連投稿者であり、高校生のときのは既にして準構成者扱いだったというからその才能には舌を巻く。
驚いたのは、このインタビューの途中に、「60年安保」という言葉が何度も繰り返されたということだ。当時、彼につながる人脈がこの闘争に賭けていた情熱がビンビン伝わってくる内容だった。
それによれば、永は当時、民法のある人気番組の構成作家であったのだが、連日デモに出かけるため、局側から、「番組が大事か、デモが大事かどっちなんだと」と詰問を受けたという。
それに対する永の答えが振るっている。
「そんなもの、デモが大事に決まってるでしょう」
それで彼は馘首同様にその番組を降ろされた。
しかし、当時はまだNHKにも骨のあるディレクターがいて、そんな永を招請し、できた番組があのテレビ史に残る名番組、「夢であいましょう」だった。
この番組からは、いまも歌い継がれている歌がたくさん誕生している。
いずれも中村八大作曲に永が詞をつけたものだ。「永が詞を」といったが、まさに文字通りそうで、中村八大が先輩格だったため、彼がまず曲を書き、「オイ、これに詞を付けろ」という手順だったらしい。それにしてもこのコンビはすごいと改めて思った。
「上を向いて歩こう」(歌:坂本九、1961年10月と11月)
「遠くへ行きたい」(歌:ジェリー藤尾、1962年5月)
「故郷のように」(歌:西田佐知子、1962年12月)
「おさななじみ」(歌:デューク・エイセス、1963年6月)
「こんにちは赤ちゃん」(歌:梓みちよ、1963年7月)
「ウエディング・ドレス」(歌:九重佑三子、1963年11月)
60年安保の話はまだ続く。世界中にヒットした「上を向いて歩こう」は、60年安保に敗北した悔しさを念頭に置いた歌だというのだ。
そしてこれには、こんなエピソードも残っている。当初、坂本九がいかにも楽しげに軽い調子で歌ったのに対し、永が激怒し、「これはそういう歌ではない!」と注意したというのだ。
ほかにも、八大とのコンビでヒットした「黒い花びら」(歌:水原弘 第一回レコード大賞受賞曲)について、「あれは60年安保で亡くなった樺美智子へのレクイエムだ」と語っていたが、これは永の勘違いだと思う。
樺が亡くなったのは文字通り60年だが、歌の方は59年だからだ。
しかし、それぐらい60年安保への思いい入れは強かったことを示しているのだろう。
最近、TVにしろラジオにしろ、これほど60年安保という言葉が頻出するのは聞いたことがない。それを語る永もだが、きわめて自然にそれを聞き出す加賀美幸子アナウンサーに好感をもった。
私がかくも感興を覚えたのは、これらがまさに戦後の、私自身が少年期から青年期を迎える頃の話だったからということは確かである。
しかし同時に、私の脳裏には、この話を聞かせてやりたかったある先達のことが去来していた。それは昨秋なくなった同人誌の先達 I さんで、もし、彼がこれを聴いていたら、逆に私のところへ電話をしてきて、「オイ、六さん、FMをつけてみろ」と言ってきたのではないかと思うのだ。
まあ、彼は彼で、アチラ側で中村八大から直接聞いているかもしれないが。
なお、永がそのインタビューの中で、晩年を迎える心境を、「この世に参加し、やがてこの世を去ってゆく身としては・・・」といっていたが、はからずも、ハンナ・アーレントのいう「人間の生誕と世界への参入」と響き合うものをもっていると思いながら聴いていた。