岐阜で唯一残った百貨店の近くに、建造中の巨大建設物がそびえていた。
岐阜駅前の高層ビル
岐阜での三〇階以上のそれは、JR岐阜駅前の二棟のみである。それに新たに加わろうとしているのがその、柳ケ瀬の高島屋南部地域再開発事業に伴うビルの建設である。「柳ケ瀬グラッセル35」と名付けられた文字通り三五階建ての高層ビルが来年には完成するという。
岐阜の中心部がその息吹を盛り返す起点になるかどうかが注目されている。
かつての(といってももう半世紀ほど前だが)柳ケ瀬地区は、週末にはひとと肩を擦り合わせなければ歩けないほどに繁華な街であった。美川憲一の「柳ケ瀬ブルース」はその頃を歌ったものである。
今は人もまばらで、シャッター通りと化した通りもある。
要因はいろいろあるが、ひとつは岐阜を支えてきた繊維二次加工(既製服の生産)が労働集約産業の典型として後進国へと移動し、もはや見る影もないことである。
観光業の中心、長良川の鵜飼も、それだけでは集客能力が弱い。しかも、自然相手ときて、雨で濁流と化した日は開催不能であり、近年、それにコロナ禍が追い打ちをかけていて、年間での開催日数は激減し、それに伴い旅館やホテルへの宿泊キャンセルが増加している。
旧来の建物を壊し更地になったこの場所に建造
交通の便の良さがマイナス要因となった面もある。隣県の大都市、名古屋への移動がJR快速でわずか18分なのだ。かくて、岐阜のセレブたちは名古屋へと買い物に行き、岐阜駅近辺のマンションは名古屋勤務の人たちの住まいとなってる。
ようするに岐阜は、今や名古屋のベッドタウンなのである。
しかし、それがダメだとは言うまい。ベッドタウンだっていいじゃないか。
それが旧来の人間にとっても、ニューカマーにとっても、住みやすい街であるならば・・・・。
完成予想図
とまあ、そんななかで、ほとんどシャッター街と化していたこの地区への高層ビル出現と、それに伴う諸施設がどんな変化をもたらすかは確かに興味がある。
来年も健康でいられたら、この目で確かめてみたい。
*プラントしては、1,2階は商業施設、3,4階は公益的施設、それより上階は居住地区となっている。商業施設にどんな店舗が入るかも気になるが、それにもまして公益的施設の内容が気になる。
■わが家の植物たち
いまを去ること半世紀前、田んぼのなかの一軒家として誕生したわが家は、庭というには気恥ずかしいが、草木が生える少しばかりの空間に恵まれている。
しかし、花を育て愛でるにはあまりにも不精なので、どっかからやってきて勝手に花をつける菊が終わってから以降、花の気配はない。
ただし、多少の紅葉があって、玄関先の樹々、といってもナンテンとサクラのみだが、それらが師走のいまも色づいている。
また今年は、ナンテンがが当たり年か、赤・白ともにたわわに実をつけた。
ナンテンは私にふさわしい樹だ。放おっておいても勝手に育ち、今年のように目を楽しませてくれるのだから・・・・。
■今年最後の図書館
返すべき本が三冊、それを返しに行った。
何も借りずに帰ってきた。はじめてのことだ。
年末年始は、同人誌の締め切りに合わせた原稿の仕上げと、今までゲットして積ん読になっているものを読むことにしようと思う。
今季最寒、細やかな雪が舞い散る岐阜から名古屋へ。
これが降り積もったら、夜の帰途、バスはちゃんと運行しているだろうか。
木曽川を渡って愛知県へ。台風時に流されてきた樹木が流れの中程にずーっと留まったままだ。
寒さのせいか、いつもみられる水鳥の姿もない。
雪は降っていないが名古屋も寒い。
スマホを頼りに行ったことのない読書会の会場へ歩を進める。
ここだという箇所にたどり着いたがそれが確認できる名称の表示はない。
駐車場に車を止め、降りてきた若い女性に、「〇〇というこの辺の場所をご存知ありませんか」と尋ねる。
「さ~、そんな建物は知りません」との返事。
さらに2,30歩ほど歩を進めると、あったっ、私が探していたのは彼女が入っていったビルの隣だった。
3時間の読書会、著者は優れた理論家だが、20代前半の若書きのせいか、晦渋な表現がめだち、咀嚼し難いところもある。
その後の飲み会兼フリートーク。
途中からの参加者もあり話は尽きないようだったが、帰りの足も心配だったので8時半ぐらいで中座させてもらう。
岐阜についたが幸い積雪はなかったようで、しばらく待って最終のひとつ前のバスに乗って帰宅。
バス待ちの間に、JR岐阜北広場の金の信長像を中心にしたライトアップを撮る。
スマホの電池残量は10%。
読書会会場への途次、つけっぱなしにして道案内にしたのが負担だったのか、それとも、バッテリーがもうへたってきたのか、もう少し様子を見よう。
昨21日、昼食を終えた後、たまたまTVのチャンネルをいじっていたら、ショパンコンクールで2位入賞を果たした反田恭平氏が目に飛び込んできた。そのチャンネルに固定して観ていたら、彼の経歴などの紹介とインタビューのほかに、「英雄ポロネーズ」と小品を2曲、合わせて3曲の演奏も聴くことができた。
TBS系の「ひるおび!」というニュースバラエティ番組で、いつも観たことがないのに、たまたまチャンネルをいじっていてでくくわし、なにか得をした気分に。
それにしても反田氏、風貌のみならず話し方なども20代とは思えない貫禄ぶり、Wikiの紹介では、ピアノ演奏家、指揮者、それに「実業家」とあるのに納得も。
なお、「英雄ポロネーズ」(ショパン ポロネーズ第6番)は、私がはじめて集中して聴いたショパンの曲。60年以上前、アンジェ・ワイダの映画、『灰とダイアモンド』のあのラストシーンとともに・・・・。
漬けて一週間余野白菜漬け。もう2回ほど食べたが塩加減もまあまあ。これ以上漬けておくと酸っぱくなってくるので大型のタッパーに移して冷蔵庫で保管することに。一個の白菜を8つに切って漬けたので、あと6回、今年中は楽しめそう。
それにしても昆布が目立つなぁ。そんなにたくさん入れたつもりはないのだが・・・・。
映画って本当に間口が広いし、私はその一端しか知らないんだとつくづく思った。
特のこの映画に関心があったわけではない。この日の夕方からメインの会があったのだが、そのためだけに県境を超え、交通費を払って名古屋へ行くのももったいないので、その会の前に久々に映画でもと思って検索した結果ヒットしたのがこの映画。
名古屋シネマテークがこの日から一週間、「フランス映画の現在」と題して行うヌーベルバーク以降からこんにちにかけてのフランス映画の推移を展望する企画の初日のだしものだ。
この日は、ジャン=フランソワ・ステヴナン監督の『防寒帽』(1978)と『男子ダブルス』(1986)二本が上映されたのだが、時間の関係で後者しか観ることができなかった。
ただし、両作品の間におこなわれたフランス映画に造詣の深い坂本安美さんのリモート・トークイベントを観ることはできた。その話が、うまく理解できたかどうかはいささか疑問だ。というのは、けっこう固有名詞が出てきて、もともとフランス映画に暗い私にはその具体的イメージがよくつかめなかったのだ。
そうした前置きはともかく、まずは作品そのものをということで、引き続き映画『男子ダブルス』を観た。タイトルからテニスなどのスポーツの試合を連想しがちだが、それは違う。原題の直訳は「二人の男性」といったところか。
なぜ二人の男性かというと、前半は二人の男性のロードムービー風の構成だからだからである。ただし、本来は二人ではなく三人になるはずであった。
というのは堅実な生活を送って四〇歳に至ったフランソワ(監督自身の出演)は、少年の頃林間学校で一緒だった仲良し三人組のうちのひとり、レオを雑誌の表紙で見つけ、彼のもとへやってくる。
二五年ぶりのフランソワの出現に勢いを得たレオは、もうひとりのかつての仲間クンチュに会いにゆこうと提案し、フランソワもそれにのる。
クンチュはグルノーブルの山間部で建築業を成功させ裕福な地位にあるが、なかなか会うことができない。二人は、彼の屋敷へ忍び込むような無茶をやってのけるが、これも、かつての遊び仲間であった間柄による悪ふざけのようなものであった。
このあたりから、話の筋は読みにくくなり、登場する人物たちの相互関係もわかりにくくなる。というのは、この監督のカット処理が独特で、状況を説明するような配置というより、出来事の断片を観客に投げ出すようにして映画はつながってゆくからだ。したがって、話の進行は容易に読み取ることができないままだ。
クンチュに会えないままにいるなかで、突然、黒ずくめの絶世の美女が現れる。このあたりから話はミステリアスで、いささかのサスペンスを感じさせるものとなる。
この女性、エレーヌはクンチュの妻なのだが、この夫妻の間もなんだかよくわからない。エレーヌの出現で、彼女が電話をする相手、クンチュウの声のみが聞こえるが、いくぶん冷たい感がある。
何やかやで、二人の男性はエレーヌを無理やり車に押し込み、誘拐してしまう。もちろん、金銭目当てのいわゆる営利誘拐ではないが、ではなんのための誘拐かというとそれもよくわからない。
フランソワ、レオ、エレーネの三人の車の旅が続くなか、途中で得体のしれない人間たちによって高級ホテルに軟禁されるのだが、それがどうしてなのかはわからない。
このホテルでの軟禁はさほど厳密なものではなく、やがて三人はそこを抜け出し再び車での道中が始まる。この過程のなかで、どういうわけかエレーネはレオを嫌い、フランソワとの交流が多くなる。
そんななか、ついにはレオは二人に振り払われ、寂しく列車で帰ることとなる。
フランソワとエレーネは雪のグルノーブル付近の山中を、あるいは逃避するように、またあるいはふざけ合うように、もつれて駆け回る。
一方、カメラは、山中のレールを追い、そのレールが断崖絶壁で折れ曲がり切断されているのを辿り、そこで突然停止し、映画は終わる。
いかがであろう。 私はいつも、映画を語るとき、そのストーリーを上記のように書くことはしない。なぜなら、これから観ようとする人たちのことを考えるからである。
しかし、この映画に関してはいいだろうと思う。というのは、先にちょっと述べたように、監督自体がストーリー展開に寄り添ったり、そこにある意味を開示するような撮り方、編集の仕方をしていないからだ。
だから、上に述べた私が受け取ったストーリーやあらすじそのものが「そうではない」ことはじゅうぶんありうる。だいたい、上の私の記述そのものが、連続する映像の中から、私にはよくわからない部分を全部捨象して組み立てたものに過ぎないのだ。
監督は、起承転結にこだわることなく、出来事の断片を軽重を無視したままでつないでゆく。したがって、最後に至っても収拾が付けられないままにいくつかのシーンが残されている。
もちろんこれは、監督の編集能力の不備ではなく、むしろ禁欲的に自己同一的な事態に収集されてゆくことを避けているからに違いない。
そういえば、余計な感傷や感情移入を避けるためだろう、映画音楽は一切使われていない。現実音と人の放つセリフのみだ。
映像は、鏡像などが混入する場面もあるが、クリアである。とりわけ、ラストの雪山のシーンはキーンとくる山の冷気のなか、男女が駆け、転び、もつれるシーンがとても鮮やかであった。
* * * * * *
この映画を観てから、ウニタ書店に立ち寄り、書を一冊購入し、かねてより、企画されていたのだが、コロナ禍のなか、延期されていた催しに参加した。
それは名古屋今池の一角を照らしてきた「壺」→「葦」の1960年代後半からの半世紀以上の歴史に本年3月末でピリオドを打たれたことを記念し、「壺」時代は客として、「葦」時代はその女主として頑張ってきてやがて米寿を迎えるという小葦さんへの謝恩と、店そのものの終焉を見送る会であった。
その両時代を知る人がもはや少ないなか、私が冒頭の挨拶をした。私が話したエピソードのなかには、もはや還らぬ人となった10人近い人々との交流が影を落としていて、自分で話していて胸を突くものがあった。
帰宅してからふとつけたTVでは、たまたまドラマをやっていたが、出演者がいかにシリアスに演じていても、その落とし所がわかってしまい、視聴者をどういう「共感」に取り込もうかということが読めてしまう底の浅いドラマであることに興醒めして、観るのをやめた。
こうした「自同性への回帰」というドラマそのものが、「現実固着」のイデオロギー措置ともいえることがわかるのも、今日観たような映画の副作用かなと、思ったりもしている。
ニュースで、豊作のせいで野菜が安くなっているといっていた。豊作貧乏みたいで農家の方々には申し訳ないが、消費者としてはありがたい。
スーパーでもたしかにそれを実感できる。法蓮草は時として200円台の後半にまで至るが、いまは100円台の前半だ。
農協の方はもっと安い。
・法蓮草 100円 ・ねぎ(10本ほど)100円 ・小松菜2束 160円(茎がしっかりしたシャキシャキ感のあるものと、細くて柔らかそうなものと2種類をゲット) ・水菜 80円 ・ブロッコリー(とても一回では食べきれないデカさ) 100円 ・白菜(中たま) 110円
合計7点で650円
一点あたり100円を切るお値打ちさ。
いちばんありがたかったのは白菜のやすさ。早速、八等分に切って干した。
もちろん、今季初の白菜漬けへのチャレンジ。
恩義がある人だった。
家業の材木商を継がせるために養子に引き取られたはずの私が、ワガママでそれを放棄したあと、妹と一緒になって見事にその任をやりおおせてくれた。
私が、なんやかや曲折がありながら、やりたい放題の人生を過ごせたのも彼のおかげである。
父母の実家も、義弟の家も、そしてわが家も近かったため、正月はむろん、何かがあると集まり、喋り、よく飲んだ。父も彼も、そして私も結構飲むタイプだったので、正月などは、ビールの大瓶が1ケース空き、さらに一升瓶が2、3本転がる始末だった。
父は、こと木材にかけては、どこからどう挽いたらどこにどんな節や木目が出るかがちゃんと分かる、その点ではどんな大学の偉い先生にも負けはしないと豪語していた。そうした目利きは、こと銘木店に関しては欠かせない能力である。
義弟はそれをよく学び、父を凌駕するほどであった。事実、晩年の彼は、しばしば木材に関する講義の講師に招かれた程であった。
よく喋り、よく飲んだ。ともに飲むといささかせわしなかった。というのは、彼は勧め上手で、私の盃が空くか空かないかに、「さ、お兄さんどうぞ」と注ぎはじめるのだ。
なんやかや振り返ってみても、彼との想い出のなかに不快な事柄はない。
そんな彼に思わぬ厄災が取り付いたのは10年ほど前だろうか。
アルツハイマー型の認知症がやってきたのだ。
最初は自身が混乱して苦しんだようだ。しかし、やがてそれが常態になり進行していゆくのだが、そうした頭脳の損傷は彼の健康を維持すべきバランスをも崩すものだった。
背も高く、私より遥かに頑強な身体をもっていたのだが、次第に衰弱に侵されていった。
栄養吸収能力も失われ、身体はやせ衰えた。そして力尽きるように、静かに息を引きとった。
その日が近いことを知った妹の家族が、入院先から自宅へと引き取り、最後の10日近くを住み慣れた家で過ごせたのはよかった。
しばらく逢えなくて、お棺に入ってからの再会であったが、やせ衰えてはいたが、どこか穏やかに落ち着いた顔つきで、ちゃんと着くべきところへ着いたといった自負のようなものを感じさせた。
「長い間ご苦労さん」は自然に口をついて出た言葉だ。家族たちがお棺に花を入れる際、私はなによりも紙コップに移されてはいたが、吟醸酒を彼の口元近くに置いた。
「さ、お兄さんどうぞ」と私に注いでくれたお返しだ。
もうすぐ、私もそちらへ逝くから、その際また飲もう。それまでは先に逝っている親父とよろしく飲んでくれ。
ここに載せた写真は、過日豊橋へでかけた折の帰途、名鉄豊橋駅のホームで撮ったものです。ただし、最後の一枚は名鉄岐阜駅へ着いたときのものです。
夜のプラットホームは寂しいものです。ましてや初冬の折から、ひとりぽつねんと佇んでいるとなおさらです。
動画は名鉄豊橋駅のプラットホームからのものです。まず過ぎゆくのはJR東海道線の在来線です。その後、ひとが列をなしているのは新幹線の豊橋駅ホームです。意外と多くの客が降りてきますが、週末金曜日の午後7時過ぎ、東京方面から帰ってきた人たちでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=Ces6MKDxk-I
「夜のプラットホーム」といえば、私のような年配の者が思い出す歌があります。同名の歌謡曲(作詞:奥野椰子夫/作曲:服部良一)で、戦後(1947年)、二葉あき子が歌って大ヒットしたのですが、実はこの曲、すでに戦時中の1939年、淡谷のり子の歌でリリースされていたのでした。
しかし、その折、全体に歌調が暗く、出征兵士を見送る機会が多い折からふさわしくない、とりわけその歌詞に「きみいつ帰る」とあるが、戦場に出かける際は「帰る」は禁句で、出征兵士は「行く」のではなく「逝く」のだという覚悟が必要として、発禁処分になったのでした。
ですから戦後のそれは、戦前のもののリバイバルだったわけです。
https://www.youtube.com/watch?v=Eep_VL8kXGE
しかし、この発禁処分には面白いエピソードがあって、作曲者の服部良一はこれに屈することなく、次のような抵抗を試みたというのです。それをWikiから引いておきます。
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その2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ち侘びて」)というタイトルの洋盤が発売された。作曲と編曲はR.Hatter(レオ・ハッター、=服部良一)という名前の人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。そして、レオ・ハッターとは服部良一が自身の名をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていた、ドイツ系のハーフの男性の変名であった。
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どうやら検閲官は英語に暗く、これが発禁にしたものと同じものだとは気づかなかったようで、無事パスしたのでした。しかし、同年の末に真珠湾奇襲があり、日米開戦に至って、英語の歌は敵性言語によるとして事実上歌われませんでしたから、日の目を見た期間は短かったわけです。
なお、この服部良一、1926年に大阪フィルに入り、そこでロシア革命絡みで亡命してきたウクライナ人の音楽家エマニエル・メッテルに師事し、音楽理論、作曲、指揮などの指導を受けたといいますから、もともとはクラシック畑のひとです。その折の同期には、長年大阪フィルを率いた朝比奈隆もいました。
そうした経歴をバックに、歌謡曲の歴史において、演歌調のものが古賀政男に代表されるとすれば、ポップス調のものは服部良一に負うところが多いのです。
この「夜のプラットホーム」はタンゴですが、他に、ジャズ、ルンバ、ブギ、ブルースからシャンソン風のものまでその作曲はとても多彩でした。
なお、良一に続く子孫も音楽家揃いで、息子の克久(故人)、孫の隆之はそれぞれ作曲や指揮など広範囲に活躍しています。また、隆之の娘(=良一のひ孫)服部百音は若手バイオリニストとしてただいま人気上昇中です。
ワックスマン作曲「カルメン幻想曲」の演奏を貼り付けておきましょう。