映画、「未来を花束にして」を遅まきながら観た。
私達はいま、曲がりなりにも基本的人権というものを手にしている。私のような戦前生まれは、それが天賦のものではなく、敗戦という代償のもと、戦後民主主義の一環として、新憲法と前後して与えられたことを知っている。
ただし、そこには自ら勝ち取ったものではないという弱点もある。ようするに、それらの諸権利がいかにして私たち人類の財産になったのかのルーツが忘れられ、それを可能にした先人たちの労苦を思い浮かべることもない。したがって、せっかく得たそれらを、貴重なものとして保ち続ける意欲も希薄になっているのではなかろうか。
それをあらためて思い知らせるのがこの映画である。婦人参政権や母権といった今では先進諸国では当たり前といった権利が、想像を絶する過酷な闘争の中で実現してきたことをこの映画はまざまざと知らしめる。
しかもそれは、民主主義の先進国とも言われたイギリスにおいてであり、時代もわずか100年前のことなのである。
しかも驚くべきことには、それをめぐる女性たちの闘いの戦術が、いまでいうところの過激派のそれと何ら変わることなく、特定の対象の爆破、通信網などインフラの破壊工作など、まさに非合法活動の連続なのである。したがって、ベテラン闘士たちの逮捕歴は、数回以上がザラというとになる。
もちろん、はじめからそうした非合法の活動が行われたわけではない。議会の公聴会などの合法の場での主張は何度も繰り返されたのだが、ミソジニーに染まった男社会の議会や社会一般はそうした切実な声を一顧だにすることなく、無視し続けるのだった。
それどころか、それを願う女性たちへの蔑視や迫害、さらには職業(それ自身が、待遇面などでの男女格差によるものなのだが)の剥奪すら行われたのであった。
したがってこの映画を観ていると、彼女たちの非合法の活動の方がむしろ理にかなったものであり、男社会のいわれなき女性の権利抑圧こそが人道への犯罪であることが見えてくる。
実際のところ、彼女たちの闘いは、弾圧や迫害にも屈せず、自らの命すら厭わないものであり、ラストシーン近くには、まさにその衝撃の死が描かれている。
そこで画面は転換し、その事件で亡くなった女性を悼む集会やデモの当時のモノクロの記録映像となり、これまで描かれてきたものが単なるフィクションではない歴史的事実であったことが重く告げられることになる。
ここからは私的な感想であるが、自分が男性であるということから、この映画に登場する二人の男性に注意を惹かれた。
一人は、主人公、モード・ワッツの夫、サニー・ワッツである。彼は最初、割合ニュートラルな存在として描かれるが、当初まったく闘争にかかわらなかったモードが、ふとしたきっかけでそれへの関わりを強めるに従い、もっとも身近にいながらも、彼女を敵視し、抑圧する存在となる。
彼女を家から締め出し、息子ジョージを彼女から取り上げ、自分で育てられないとして、彼女に断りもなく他家へ養子に出したりしてしまう。まさにここで彼女たちが要求しているもうひとつの要求、母権の承認に対する直接的な抑圧者、加害者として立ち現れるのだ。
もう一人は、彼女たちの闘争を取り締まる側のアーサー・スティード警部のありようである。彼は当初、弾圧工作に長けた冷酷な取締官として現れる。事実、彼の硬軟(軟は懐柔工作)取り混ぜた職務の遂行は、この映画における敵役的な存在といってよい。
その彼が、映画の後半に至って微妙な変化を見せる。主人公モードが収監されている場所で、彼女がハンストで抵抗するのに対し、収監者側が拷問もどきの荒療治をするのを知り、それを軽減するような動きをしたり、抗議のための活動で非業の死を遂げる仲間と行動を共にしていて、明らかに共犯者であるモードを目前にしながら、それを見逃したりもしている。
そこには、彼の良心といったものよりも、彼女たちの熾烈な闘いに気圧されながらもある種のシンパーシーを覚えるにいたる男性社会の側の動きが象徴されているように思ったのは私だけだろうか。
かくして、彼女たちの願いがかなって、英国で女性の選挙権が得られるのは1928年のことだった。私が生まれるわずか10年前のことなのだ。
ちなみに、エンドロールでは、世界の各国で、女性の選挙権が得られた年が列記される。これをみると、その歴史は意外と新しく、またいまなお女性の選挙権がない国々も連想される。
冒頭で述べたように、日本でのそれは戦前からの平塚らいてうや市川房枝らの運動があったにもかかわらず、その時点では実らず、やっと敗戦時に戦後民主主義の一環として実現したものである。
しかし、女性たちはただ消極的にそれを受容したわけではなく、女性参政権実現の最初の選挙、1946年の第22回衆議院議員総選挙では、一挙に466人中39人(8.4%)の女性議員が誕生した。
この数字が当時としてはいかに素晴らしかったかは、その後、2009年の第45回総選挙に至るまでの60年余の間、この数字を超える女性議員が実現しなかったことを見てもわかる。
なお、この国の女性議員の比率は、2015年時点において、世界186カ国中146位と低迷し、韓国や中国にも大差をつけられている。女性議員の方が多いところが数カ国ある中においてである。
こうした諸権利というのは諸機械や装置同様、メンテナンスが必要で、それを怠ると錆びつき機能しなくなり、さらにはそれ自身が失われることすらある。
何もこれは、女性の参政権のみの話ではなく、私たちの基本的人権そのものが、種々の管理、監視体制の中で、単なる建前のものに形骸化されているのではあるまいかと危惧せざるを得ない実情があるからである。
その意味では、私たちの権利が獲得されるその現場そのものを彷彿とさせるこの映画は、私たち自身の権利意識が希薄になり、やがてはそれが機能しなくなるのを防ぐためにも、大きな参照点というべきだろうと思う。
映画の話としては幾分固くなったが、冒頭から最後までこちらの視線をそらすことなく、とても良くできた映画だと思った。
ちょっとくすんだ色調も、時代を感じさせてよかったと思う。
かくも不屈に闘った20世紀初頭のイギリスの女性たちに、敬意と拍手を送りたい。
*なお、先にこれを観た私の友人が、この邦題が似つかわしくないのではといっていたが、全くそのとおりである。原題の「Suffragette」は参政権拡大論者といった意味らしいが、「未来を花束にして」では一般的抽象的で何にでもくっつけられるような題であり、この映画の実情をまったく反映していない。
とはいえ、私にもいい邦題は思い浮かばないが、原題をカタカナにして「サフラジェット」でも良かったのではと思う。
私達はいま、曲がりなりにも基本的人権というものを手にしている。私のような戦前生まれは、それが天賦のものではなく、敗戦という代償のもと、戦後民主主義の一環として、新憲法と前後して与えられたことを知っている。
ただし、そこには自ら勝ち取ったものではないという弱点もある。ようするに、それらの諸権利がいかにして私たち人類の財産になったのかのルーツが忘れられ、それを可能にした先人たちの労苦を思い浮かべることもない。したがって、せっかく得たそれらを、貴重なものとして保ち続ける意欲も希薄になっているのではなかろうか。
それをあらためて思い知らせるのがこの映画である。婦人参政権や母権といった今では先進諸国では当たり前といった権利が、想像を絶する過酷な闘争の中で実現してきたことをこの映画はまざまざと知らしめる。
しかもそれは、民主主義の先進国とも言われたイギリスにおいてであり、時代もわずか100年前のことなのである。
しかも驚くべきことには、それをめぐる女性たちの闘いの戦術が、いまでいうところの過激派のそれと何ら変わることなく、特定の対象の爆破、通信網などインフラの破壊工作など、まさに非合法活動の連続なのである。したがって、ベテラン闘士たちの逮捕歴は、数回以上がザラというとになる。
もちろん、はじめからそうした非合法の活動が行われたわけではない。議会の公聴会などの合法の場での主張は何度も繰り返されたのだが、ミソジニーに染まった男社会の議会や社会一般はそうした切実な声を一顧だにすることなく、無視し続けるのだった。
それどころか、それを願う女性たちへの蔑視や迫害、さらには職業(それ自身が、待遇面などでの男女格差によるものなのだが)の剥奪すら行われたのであった。
したがってこの映画を観ていると、彼女たちの非合法の活動の方がむしろ理にかなったものであり、男社会のいわれなき女性の権利抑圧こそが人道への犯罪であることが見えてくる。
実際のところ、彼女たちの闘いは、弾圧や迫害にも屈せず、自らの命すら厭わないものであり、ラストシーン近くには、まさにその衝撃の死が描かれている。
そこで画面は転換し、その事件で亡くなった女性を悼む集会やデモの当時のモノクロの記録映像となり、これまで描かれてきたものが単なるフィクションではない歴史的事実であったことが重く告げられることになる。
ここからは私的な感想であるが、自分が男性であるということから、この映画に登場する二人の男性に注意を惹かれた。
一人は、主人公、モード・ワッツの夫、サニー・ワッツである。彼は最初、割合ニュートラルな存在として描かれるが、当初まったく闘争にかかわらなかったモードが、ふとしたきっかけでそれへの関わりを強めるに従い、もっとも身近にいながらも、彼女を敵視し、抑圧する存在となる。
彼女を家から締め出し、息子ジョージを彼女から取り上げ、自分で育てられないとして、彼女に断りもなく他家へ養子に出したりしてしまう。まさにここで彼女たちが要求しているもうひとつの要求、母権の承認に対する直接的な抑圧者、加害者として立ち現れるのだ。
もう一人は、彼女たちの闘争を取り締まる側のアーサー・スティード警部のありようである。彼は当初、弾圧工作に長けた冷酷な取締官として現れる。事実、彼の硬軟(軟は懐柔工作)取り混ぜた職務の遂行は、この映画における敵役的な存在といってよい。
その彼が、映画の後半に至って微妙な変化を見せる。主人公モードが収監されている場所で、彼女がハンストで抵抗するのに対し、収監者側が拷問もどきの荒療治をするのを知り、それを軽減するような動きをしたり、抗議のための活動で非業の死を遂げる仲間と行動を共にしていて、明らかに共犯者であるモードを目前にしながら、それを見逃したりもしている。
そこには、彼の良心といったものよりも、彼女たちの熾烈な闘いに気圧されながらもある種のシンパーシーを覚えるにいたる男性社会の側の動きが象徴されているように思ったのは私だけだろうか。
かくして、彼女たちの願いがかなって、英国で女性の選挙権が得られるのは1928年のことだった。私が生まれるわずか10年前のことなのだ。
ちなみに、エンドロールでは、世界の各国で、女性の選挙権が得られた年が列記される。これをみると、その歴史は意外と新しく、またいまなお女性の選挙権がない国々も連想される。
冒頭で述べたように、日本でのそれは戦前からの平塚らいてうや市川房枝らの運動があったにもかかわらず、その時点では実らず、やっと敗戦時に戦後民主主義の一環として実現したものである。
しかし、女性たちはただ消極的にそれを受容したわけではなく、女性参政権実現の最初の選挙、1946年の第22回衆議院議員総選挙では、一挙に466人中39人(8.4%)の女性議員が誕生した。
この数字が当時としてはいかに素晴らしかったかは、その後、2009年の第45回総選挙に至るまでの60年余の間、この数字を超える女性議員が実現しなかったことを見てもわかる。
なお、この国の女性議員の比率は、2015年時点において、世界186カ国中146位と低迷し、韓国や中国にも大差をつけられている。女性議員の方が多いところが数カ国ある中においてである。
こうした諸権利というのは諸機械や装置同様、メンテナンスが必要で、それを怠ると錆びつき機能しなくなり、さらにはそれ自身が失われることすらある。
何もこれは、女性の参政権のみの話ではなく、私たちの基本的人権そのものが、種々の管理、監視体制の中で、単なる建前のものに形骸化されているのではあるまいかと危惧せざるを得ない実情があるからである。
その意味では、私たちの権利が獲得されるその現場そのものを彷彿とさせるこの映画は、私たち自身の権利意識が希薄になり、やがてはそれが機能しなくなるのを防ぐためにも、大きな参照点というべきだろうと思う。
映画の話としては幾分固くなったが、冒頭から最後までこちらの視線をそらすことなく、とても良くできた映画だと思った。
ちょっとくすんだ色調も、時代を感じさせてよかったと思う。
かくも不屈に闘った20世紀初頭のイギリスの女性たちに、敬意と拍手を送りたい。
*なお、先にこれを観た私の友人が、この邦題が似つかわしくないのではといっていたが、全くそのとおりである。原題の「Suffragette」は参政権拡大論者といった意味らしいが、「未来を花束にして」では一般的抽象的で何にでもくっつけられるような題であり、この映画の実情をまったく反映していない。
とはいえ、私にもいい邦題は思い浮かばないが、原題をカタカナにして「サフラジェット」でも良かったのではと思う。