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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

この女性たちの闘い! 映画「未来を花束にして」を観る

2017-02-24 15:19:17 | 映画評論
 映画、「未来を花束にして」を遅まきながら観た。
 私達はいま、曲がりなりにも基本的人権というものを手にしている。私のような戦前生まれは、それが天賦のものではなく、敗戦という代償のもと、戦後民主主義の一環として、新憲法と前後して与えられたことを知っている。
 
 ただし、そこには自ら勝ち取ったものではないという弱点もある。ようするに、それらの諸権利がいかにして私たち人類の財産になったのかのルーツが忘れられ、それを可能にした先人たちの労苦を思い浮かべることもない。したがって、せっかく得たそれらを、貴重なものとして保ち続ける意欲も希薄になっているのではなかろうか。

          

 それをあらためて思い知らせるのがこの映画である。婦人参政権や母権といった今では先進諸国では当たり前といった権利が、想像を絶する過酷な闘争の中で実現してきたことをこの映画はまざまざと知らしめる。
 しかもそれは、民主主義の先進国とも言われたイギリスにおいてであり、時代もわずか100年前のことなのである。

          

 しかも驚くべきことには、それをめぐる女性たちの闘いの戦術が、いまでいうところの過激派のそれと何ら変わることなく、特定の対象の爆破、通信網などインフラの破壊工作など、まさに非合法活動の連続なのである。したがって、ベテラン闘士たちの逮捕歴は、数回以上がザラというとになる。
 もちろん、はじめからそうした非合法の活動が行われたわけではない。議会の公聴会などの合法の場での主張は何度も繰り返されたのだが、ミソジニーに染まった男社会の議会や社会一般はそうした切実な声を一顧だにすることなく、無視し続けるのだった。

 それどころか、それを願う女性たちへの蔑視や迫害、さらには職業(それ自身が、待遇面などでの男女格差によるものなのだが)の剥奪すら行われたのであった。
 したがってこの映画を観ていると、彼女たちの非合法の活動の方がむしろ理にかなったものであり、男社会のいわれなき女性の権利抑圧こそが人道への犯罪であることが見えてくる。

          

 実際のところ、彼女たちの闘いは、弾圧や迫害にも屈せず、自らの命すら厭わないものであり、ラストシーン近くには、まさにその衝撃の死が描かれている。
 そこで画面は転換し、その事件で亡くなった女性を悼む集会やデモの当時のモノクロの記録映像となり、これまで描かれてきたものが単なるフィクションではない歴史的事実であったことが重く告げられることになる。

 ここからは私的な感想であるが、自分が男性であるということから、この映画に登場する二人の男性に注意を惹かれた。
 一人は、主人公、モード・ワッツの夫、サニー・ワッツである。彼は最初、割合ニュートラルな存在として描かれるが、当初まったく闘争にかかわらなかったモードが、ふとしたきっかけでそれへの関わりを強めるに従い、もっとも身近にいながらも、彼女を敵視し、抑圧する存在となる。
 彼女を家から締め出し、息子ジョージを彼女から取り上げ、自分で育てられないとして、彼女に断りもなく他家へ養子に出したりしてしまう。まさにここで彼女たちが要求しているもうひとつの要求、母権の承認に対する直接的な抑圧者、加害者として立ち現れるのだ。

          

 もう一人は、彼女たちの闘争を取り締まる側のアーサー・スティード警部のありようである。彼は当初、弾圧工作に長けた冷酷な取締官として現れる。事実、彼の硬軟(軟は懐柔工作)取り混ぜた職務の遂行は、この映画における敵役的な存在といってよい。
 その彼が、映画の後半に至って微妙な変化を見せる。主人公モードが収監されている場所で、彼女がハンストで抵抗するのに対し、収監者側が拷問もどきの荒療治をするのを知り、それを軽減するような動きをしたり、抗議のための活動で非業の死を遂げる仲間と行動を共にしていて、明らかに共犯者であるモードを目前にしながら、それを見逃したりもしている。

 そこには、彼の良心といったものよりも、彼女たちの熾烈な闘いに気圧されながらもある種のシンパーシーを覚えるにいたる男性社会の側の動きが象徴されているように思ったのは私だけだろうか。

          

 かくして、彼女たちの願いがかなって、英国で女性の選挙権が得られるのは1928年のことだった。私が生まれるわずか10年前のことなのだ。
 ちなみに、エンドロールでは、世界の各国で、女性の選挙権が得られた年が列記される。これをみると、その歴史は意外と新しく、またいまなお女性の選挙権がない国々も連想される。
 
 冒頭で述べたように、日本でのそれは戦前からの平塚らいてうや市川房枝らの運動があったにもかかわらず、その時点では実らず、やっと敗戦時に戦後民主主義の一環として実現したものである。
 しかし、女性たちはただ消極的にそれを受容したわけではなく、女性参政権実現の最初の選挙、1946年の第22回衆議院議員総選挙では、一挙に466人中39人(8.4%)の女性議員が誕生した。

 この数字が当時としてはいかに素晴らしかったかは、その後、2009年の第45回総選挙に至るまでの60年余の間、この数字を超える女性議員が実現しなかったことを見てもわかる。
 なお、この国の女性議員の比率は、2015年時点において、世界186カ国中146位と低迷し、韓国や中国にも大差をつけられている。女性議員の方が多いところが数カ国ある中においてである。

          

 こうした諸権利というのは諸機械や装置同様、メンテナンスが必要で、それを怠ると錆びつき機能しなくなり、さらにはそれ自身が失われることすらある。
 何もこれは、女性の参政権のみの話ではなく、私たちの基本的人権そのものが、種々の管理、監視体制の中で、単なる建前のものに形骸化されているのではあるまいかと危惧せざるを得ない実情があるからである。

 その意味では、私たちの権利が獲得されるその現場そのものを彷彿とさせるこの映画は、私たち自身の権利意識が希薄になり、やがてはそれが機能しなくなるのを防ぐためにも、大きな参照点というべきだろうと思う。

 映画の話としては幾分固くなったが、冒頭から最後までこちらの視線をそらすことなく、とても良くできた映画だと思った。
 ちょっとくすんだ色調も、時代を感じさせてよかったと思う。
 かくも不屈に闘った20世紀初頭のイギリスの女性たちに、敬意と拍手を送りたい。

なお、先にこれを観た私の友人が、この邦題が似つかわしくないのではといっていたが、全くそのとおりである。原題の「Suffragette」は参政権拡大論者といった意味らしいが、「未来を花束にして」では一般的抽象的で何にでもくっつけられるような題であり、この映画の実情をまったく反映していない。
 とはいえ、私にもいい邦題は思い浮かばないが、原題をカタカナにして「サフラジェット」でも良かったのではと思う。





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正男氏と正恩氏 金王朝の行方はどうなるのだろうか?

2017-02-20 11:46:56 | 社会評論
 挿入した写真は私が撮ったものですが、本文とは関係ありません。

 金正男(キム・ジョンナム)氏が暗殺された。
 韓国などはいち早く、これが朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者、金正恩(キム・ジョンウン)氏の指示によるものと断定している。
 その点については、容疑者の何人かを拘束しているマレーシア当局がまだ慎重な姿勢を崩してはいないが、状況証拠としては朝鮮民主主義人民共和国の組織的な行為を伺わせるものがあるように思う。

             

 もし、そうであるとしても、それがなぜこの時期にというのは、憶測の域をでない。ワイドショーなどで訳知り顔に述べ立てる人たちも、ほんとうに事態の背後を衝いているのかどうかは疑問である。
 もちろん、私にもその辺の事情はさっぱりわからない。

 ただ、ここにきてめだつのは、日本の各メディアが、金正男氏に対してかなり好意的に報じていることである。それが悪いといっているのではないが、最後に述べるように、多少の違和感がある。
 なぜ金正男氏は好意的に報じられるのだろうか。

          <

 あたりまえのことだが、そのひとつには彼が加害者ではなく被害者であったということである。一般的にいっても、被害者が極悪非道の人などでない限り、被害者の方にシンパシーが集まることは必然である。
 もしこれが、朝鮮民主主義人民共和国の指示によるとしたら、彼の死はスケープゴートのそれとしていっそう同情の的となる。

          

 さらにいうならば、ひょっとしたら金王朝の三代目を彼・金正男が継いだかもしれない可能性があったにもかかわらず、今や流浪の身であるということからして、ある意味での貴種流離譚(?)として受け止められている向きもある。

 もうひとついうならば、これは日本だけの特殊事情だが、その名前、「正男」が日本人の名前と類似性をもち、町内に一人ぐらいはいそうな感じを与えるからであろう。
 加えて、金正恩氏の私生活がまったく見えてこないのに反して、金正男氏の方は極めて断片的ながら、その語学力、教養などがほの見え、彼とメールの授受をしていた人なども現れるなど、人間としての顔が幾分知られているということもあろう。

          

 ところで、当の朝鮮民主主義人民共和国の方だが、ミサイル発射や核開発などに加えて、今回の暗殺=テロルが確定的になれば、ますます国際的に孤立するところとなるであろう。
 しかし、しかしである。あえていうならば追い詰めて孤立させればいいというわけではないと思う。むしろそれは、ますます独善的になり、窮鼠猫を噛むにいたり、ある種の悲惨を招く可能性すらある。

 私の持論はむしろ交流の深化、拡大の必要性である。
 これはわが国がいまも堅持している制裁とはまったく異なり、人、物の交流を拡大するということである。これらの拡大は、当然、情報の交流が伴う。つまり、朝鮮民主主義人民共和国の然るべき人たち、さらにはいまのところ金体制公認の情報以外が遮断されている一般の人々に、自分たちの外部の状況を知らしめるということでもある。

          

 彼らはいま、そのイデオロギー的な締め付けと抑圧のテロル、そして情報の遮断によって自己の体制を絶対視している。それに対し、外部からの情報の流入は、自らの置かれた状況を相対視し得るチャンスを与える。
 かつて、ソ連圏を覆っていた鉄のカーテンが崩壊したのも、人々が外部の情報に触れ、自分たちの相対的な惨めさを実感していたからに他ならない。

          

 折から、拉致被害者家族会が基本的な方針を転換したというニュースが入ってきた。これまでの会は、どちらかというと政府に対し、もっと強く高圧的に交渉に当たれという立場だったような気がする。しかしながら、一方では制裁を強化しながら、一方では譲歩を引き出そうとするのは所詮無理な話である。
 拉致被害者家族会の新しい方針は、より柔軟に、条件付きも含めて話し合うというよりソフトなものだ。これは正解だろうと思う。ただし、頑ななわが政府自身が、そうした姿勢に転じるかどうか問題ではあるが。

 おっと、話題を広げすぎた。金正男氏の話に戻ろう。
 率直にいって、被害者だからといって、いまさら金正男氏を持ち上げるのもどうかと思う。彼の立場は、金王朝の三代目選びの中で与えられた一つの立場、役割だったのであり、もし彼が三代目に選ばれていたら、逆に、金正恩氏を暗殺する側に回っていた可能性もあるからである。

          

 それを裏付けるように金正男氏自身がどこかで語っているという。
 それによれば、なぜ自分ではなく正恩氏が後継者に選ばれたかというと、自分より正恩氏の風貌が、初代、金正日(キム・ジョンイル)氏に似ていたからだという。世襲制の独裁体制のもとでは、後継者が、初代と風貌その他で共通点をもったほうが有利だという話はありうることである。
 そして、それが事実だとすると、その選択は極めて恣意的なものであり、私がいう両者の立場の逆転もあり得たということになる。

 いずれにしても、問題は金正男(キム・ジョンナム)氏と金正恩(キム・ジョンウン)氏の個性の問題などではなく、その世襲制の王朝の問題である。
 こうした世襲制の王朝を周辺の雑音なしに純粋に維持するために、邪魔者は消すということは常道であり、そうした世襲制にまつわる近親憎悪的なできごとは、これまでの歴史の中で、西洋でも、この国でも例外なくみられた事実なのである。
 

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野菜と仏花

2017-02-16 15:01:07 | 日記
 久々に農協の野菜売り場へ行き、以下のものを買った。
 ・ブロッコリー一株130円 ・里芋(7個入り)170円 ・水菜一束60円 ・小松菜一束100円 ・ほうれん草一束100円 ・赤かぶ小玉5個100円 合計で660円。 
 この安さは助かる。
 会計を済ませてから思い出し、彼女のための仏花を買う。250円。単価としてはこれが一番高かった。 
 写真の赤かぶは葉っぱもろとも漬物にするつもり。


     

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ヒッキー老人から脱出のために

2017-02-15 22:50:34 | 日記
 これはいかん。考えたら、ここ2、3日というもの、ほとんど家を出ていないし、したがって、歩いていない、ひと様と口もきいていない。このままでは、独居老人のヒッキーになってしまう。
 ちょうど、銀行にゆく用件があったので、歩くことにした。といっても大した距離ではない。せいぜい往復3,000歩ぐらいだ。でも今の私にとっては、その移動のために体を動かすことは必要なことだし、それに今回の用というのがATMではすまないことなので、窓口の人と話すこともできる。

  
 
 出かける前に発声練習で「あいうえお」などと言ってみる。というのは、同じような状況だった先日、いきなり電話がかかってきて受話器を取り上げたのだが、うまく声が出ないことがあったからだ。
 ようやくでた声が、どこかが漏れているようなかすれ声で、相手から、「風邪でも引いたんですか」と訊かれてしまった。

          
 
 エンジンや機械類が、使わないまま放置しておくと錆びついてしまうように、私の機能も随分怪しくなってきている。いちばん可能性があるのが頭脳の衰えで、認知などの障害のほかに、老害による感受性や思考能力、あるいは表現能力の低下などは確実に私を蝕みつつあるのだろう。
 日記やブログの更新が間遠になって来ているのも、その兆候だろう。何かに接して、それを受容し、咀嚼しながら表現し返してゆくという作業そのものが幾分億劫になってきているのだ。
 それではというので、銀行の帰り、いつもは素通りするだけの鎮守の境内を散策し、しばしのウオッチングを試みることとした。ここは昨秋、2、3人の人たちが、スマホ片手にウロウロしていたところである。ポケモンがいるのかもしれない。

          

 それはともかく、鎮守の森の社殿の裏には、日常では見かけないいろいろなものがある。それらをガラケーで撮っては来たが、それらが何であるのかはよくわからない。
 何か文字が彫ってあったのが、長い歳月風雨にさらされて、解読不能なものもある。その形状からして何であるかを推し量ることができるもの、形状ははっきりしているがなんだかわからないものもある。切り倒された樹木や、一箇所に集められた鯱瓦の破損したものなど、人為の痕跡をはっきりとどめたものもある。

            

 それも含めてここはちょっとしたワンダーランドだ。もう少し暖かくなったら、それらの痕跡をもっと丁寧に観るためにゆっくり来たいものだ。

          

 猿面のような写真があるが、片目はもともとそうなっていたが、もう一方にも黒い石を置くことをやってのけたのは私である。だからこの猿面そのものには意味はないが、その土台の石がなんであったのかはやはり謎である。

          

 こんな片田舎の小さな神社にもある遺物のような品々、これらに精通しその由来などを知る人はいるのだろうか。もう少し範囲を広げて考えると、全国にはたくさんのこうしたお社があり、大は観光の目玉としてしっかり管理されているものから、もはや地域からも見放されて荒れ放題になっているものまでがあると思われる。
 そしてその一つ一つに、遺物のような痕跡があるとしたら、それらのうちには、もはやかつてそれがなんであったのかもわからず、その機能からも切り離されて、たんなるモノ、オブジェとして遺されているものもかなりあるのではないだろうか。
 それらは、歴史においての連続と非連続を象徴するまさに痕跡そのものであるのかもしれない。


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雪! 天がつかわしたこの優雅のものよ!

2017-02-12 02:12:32 | 日記
 かつては雪が積もると何やらワクワクしたものだ。この平板な日常に、異形のものが差し込まれたようだった。遠い少年の日のことだ。

          

 今も目覚めて、一面の銀世界を見ると美しいと思い、すこしときめくものもある。
 しかし、次の瞬間、今日は出かける日なのに難儀なことだなぁ、と思ってしまう。
 ようするに美意識よりも機能性のほうが優先するのだ。

          

 そんな私を、芭蕉の句は叱責しているようだ。風雅というのはこうでなくっちゃぁ。

           いざ行かむ雪見にころぶ所まで

 
【後日談】などと書いていたら、友人から以下のようなコメントが・・・。

 《Yさん》いや〜、芭蕉先生はまだ我々より若かったですもの。転ぶことの危険をご存知なかったと思いますよーー。

 《私》 Yさん そういえばそうですね。先人たちは、私たちより古い時代を生きていただけで、いまの私たちより年長であったわけではないのですね。とりわけ芭蕉翁などといったりするものですから、つい錯覚してしまいます。

 Yさんが指摘する通りで、芭蕉は50歳でその生命を終えている。いまの私は、それを30年ほど上回ろうとしている。
 やはり、「ころぶ」までに杖が要るし、そもそも風雅ぶって危険なところへは出かけないのが正解かと。
 「年寄りの冷や水」はやはり歓迎されたものではないようだ。
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「別れのワルツ」はまだ早い 63年来の友人たちと逢った

2017-02-08 17:48:22 | 日記
 車の中は温室のように温かいが、吹く風が冷たそうななか、岐阜の近郊の街へ向かって車を走らせていた。
 21号線の高架からは、ほぼ正面に御岳、やや右に南アルプス、そして左手には乗鞍などが白く光っている。

 昨年春、私の高校時代からの友人は、肺がんで余命3ヶ月と宣告された。それから一年近く経ったが、電話で聞く声はまだまだ元気だ。
 今日はその彼と、岐阜在住のもう一人を含めた3人で、昼飯でも一緒に食おうかということで、私が運転手で肺がんの友を迎えにゆくところだ。

 同じ21号線近くに居を構えるとあって、彼の家までは車で15分ぐらい。もう8年ほど前に連れ合いに先立たれた彼は一人住まいで、週3回ほどヘルパーさんの世話になっているという。
 玄関の呼び鈴を押すか押さないかのうちに、ガラガラッと戸が開いて彼が顔を出す。何というタイミング。聞けばもうそろそろ来る頃だと出てきたら私と鉢合わせをしたとのこと。

 さっそく岐阜へととって返す。杖をついた彼の歩行はいささか危なっつかしい。「どのくらいなら歩ける?」と私。「そうだなぁ。時々行く大きな病院で、診察室だの検査だの、最後のクスリの窓口などのたらい回しがもうしんどい」と彼。
 足腰の問題というより、やはり息切れがして大変だということらしい。肺の機能が次第に低下していることは明らかだという。

 岐阜の街中でもう一人の友人を乗せる。
 この3人、どういう仲かというと、高校一年以来、当時の文系サークル、歴史研究会、文芸部、演劇部などなどを横断的に行き来していた仲。数年前までは、これに2~3人を加えて年1~2回の勉強会をしていたが、寄る年波のせいで、その勉強会は消滅し、この3人はいまも時折逢っている。
 今回も、昨年末に忘年会をとのことだったが、私自身の取り込み事で、今日にまで伸ばされた次第だ。
 3人共に78歳。したがってもう63年の付き合いなのだ。

          

 昼食は、市内の料亭の百貨店の出店で摂る。車を預けた場所から店までは徒歩だが、肺がんの彼はやはりきつそうだ。さしたる距離でもないところを何度も休みながらたどり着く。

 席につくと自ずから彼の病状についての話になる。肺に水が溜まってきたので、近々それを抜くという。そのためには一週間ほどの入院が必要だとか。
 もう一人は青果商で、いまなお現役である。いつやめるべきかのタイミングが難しいという。そして、お互いあの15歳の少年が、この歳になってこうして逢っていることのめぐり合わせにしきりと感心していた。
 二人は日本酒、私はノンアルコールビールで、鯛の兜煮御膳を食べた。

 歳の話、健康の話はこの年代には欠かせないが、そればかり話したわけではない。最近の読書傾向などにも話が及ぶ。お互い、歳はとっても活字とは縁が切れないようだ。

 食事を終えてどこか喫茶店でもということになったのだが、肺がんの彼が、もう体がついて行けないから帰りたいといい出した。多少なりとも歩いたのと、酒を飲んだのとで、傷んだ肺の供給する酸素量では、どうも耐え難いらしい。
 ならばということで、青果商の友人を自宅で降ろし、彼を近郊の街まで送る。

 途中、コンビニで止めてくれという。何を買うのかと訊くと「帰って飲む酒がない」とのこと。車のなかで待っていてくれとのことだったが、歩行が心配なのと、酒のような液体はけっこう重いからと、しばらくして私も店内に。
 案の定、彼は、紙パックの酒を2本抱えて悪戦苦闘している。さっそく駆け寄ってそれをもってレジへ。

              
 
 よく見ると、一本は日本酒、もう一本は麦焼酎。「両方を飲むのか」と尋ねると、「いや、焼酎の方はお前の分だ」という。そんな心遣いはいらないと押し問答。コンビニのレジで言い争っていてもと車へ。
 「今日は、迎えに来てくれて、二人に逢うことができ、ほんとうに嬉しかった。これはささやかな礼だからどうか受け取ってくれ」
 ここまでいわれたらむげには断れない。

 彼の家まで送る。「今日は、ほんとうに嬉しかった、嬉しかった」と繰り返す。「そんなに喜ばなくてもまた逢えるから」と私。「また逢おう」と別れる。いつまでも見送っている彼の姿をバックミラー越しに見ながらこみ上げるものがある。
 「生・老・病・死」は人の常とはいえ、お互い、間近にそれを見据えなければならないというのはつらい。
 彼の今日の一連の言動は、それなりに別れを告げるものだったかもしれないと思うと余計胸を打つものがある。

 帰宅して幾ばくかした頃、青果商の方の友人から電話がある。
 「おい、思った以上に病が進んでいるのではないか」というのが第一声。「そうなんだ」と、彼の病状、それから今日一日の彼の言動などなどに話が及び、やはり別れのつもりかも・・・ということに。

 やはりこれで別れにはしたくない。彼の病状がわかったいま、それに合わせた方法でまた逢えるようにセッティングを考えようということで話が一致した。
 しかし、お互い、どちらが先かはわからない身ではある。

 今夜は、彼がくれた焼酎を味わうこととしよう。





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VIVA ! 柳ヶ瀬 !

2017-02-05 15:36:12 | 日記
 二月になってから幾ばくもしないのに、岐阜の繁華街(?)柳ヶ瀬へ出る機会が2度もあった。
 かつて、終末や休日となると、肩すりあわせてでないと歩くことができなかった栄華の日々は、もはや偲ぶべくもないが、落日後を思わせる街の佇まいが、再開発されたスマートな町並みにはない独特のくすんだ風情を漂わせ、そのなかに、残り火のように光るものもある。
 
 そんな街を逍遥しながら、アトランダムに。

           

 シャッター通りに不釣り合いな流線型の三輪スクーターを見つけた。
 後ろには「弁当女の子」の文字が。
 なんだろう? これで弁当を売ったり運んだりしているのだろうか。
 よくわからない。そしてそれが面白い。

           

 名古屋から来る女性4人を含む総勢7人で、知る人ぞ知る「娯楽の殿堂」へ。
 聞くところによると、こうした場所はもはや全国に20箇所前後しかないのだとか。
 半円形に舞台を囲い込んで観るショウは、淫靡な感じなどいささかもなく、カラッとしていて楽しい。さして広くない客席とあって、演者と観客との交流も濃密だ。
 また、そうした時間を設定してあって、それ自身が「参加型」のショウともいえる。
 ここには、劇場や舞台全体を含めて、独特の文化が息づいていた。

           
           
 大満足をした後、一同、昭和の匂いを残したレトロな居酒屋で話が弾む。
 私は、同会の「シニア部長」だそうだ。
 部長といわれる限り、私同様なシニアの部下を見つけねばなるまい。

           

 日を改めてやはり柳ヶ瀬にでた。
 映画「沈黙 サイレンス」を観る。
 これについては、然るべきところに書く予定があるのでここには書かない。
 半世紀前に原作を読んだ折の自分の置かれた状況がふつふつと蘇ってきたことのみを書いておこう。

           

 映画を終えて外に出たら、閉店した百貨店の前で、子どもたちが琉球舞踊エイサーの練習をしている。保護者のような人に、了承を得て写真を撮らせてもらう。
 話を聞いたら、三月に行われる公演に向けての練習だとのこと。
 そのチラシを貰ったのでそれを貼り付けておこう。

               
               

 柳ヶ瀬は、未だ明確な再開発や再生への道をもってはいないと思う。
 また、外部からそれを押し付けられることがあっても、それが本当に活性化につながるかどうかも疑問である。

 しかし、つぶさにみれば、キラリと光るものが随所にあるはずだ。それらを外部に向けた健全なウリにのみに限定して探しても見つからない場合もあろう。
 今回は、私が知らなかったというか、あまり意識していなかった街の様相を、少しばかり見つけ直したような気がした。





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