六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

削除のお知らせです。

2009-11-29 16:03:19 | インポート
     

 10月1日付のこのブログ内にありました「拝啓 内舘牧子様」と題した私の記事を削除致しました。
 理由は、この記事に対してセックス産業の勧誘、ないしは詐欺まがいのコメントがなぜか集中するからです。
 アクセス制限などブロックをかけるのですが、それらをかいくぐってしつっこく届きます。
 いちいち削除したり、アク禁処置をとるのに疲れました。

 つきましては、そうした措置に伴い、不本意ながら、真面目なコメントをお寄せいただいた方のものも消えるところとなりました。
 謹んでご報告いたしますとともに、事情ご賢察の上、なにとぞご了承を賜りますようお願いする次第です。
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単純な日記、あるいは鬼に笑われても・・・

2009-11-29 01:38:16 | よしなしごと
 つま先が出るタイプのスリッパでは足元が寒いので、冬型のものに替えようとして、半年ほど履いていたスリッパを風呂へ入ったときに洗った。昨夜のことである。
 ベランダに干しておいたらすっかり乾いて、しかも、タワシでていねいに洗った成果が出て新品同様にきれいになっていた。

 
 
 大いに満足して、パソコン用のUSBメモリーとFAX用のインクリボンを買うため三キロほど離れたショップへ自転車で行く。

 
 
 その店の隣にスーパーがあるのだが、その入り口に買い物中の主を待つ犬が繋がれていた。二匹とも不安げで、写真を撮りながら慰めの言葉をかけてやったのだが、その表情はゆるむことはなく、かえって警戒されたようだ。
 犬にシカトされたぐらいで傷つくほど純情ではないが、こっちが気にかけてやったのにというかすかな思いもある。しかしまあ、勝手に言葉をかけて相手をおびやかしておいていうことでもあるまい。
 ついでに同じ建物にある百円ショップで、鉛筆削りを買った。
 デフレスパイラルが心配だなどの言葉を尻目に、やはり百均はありがたいと思う。

     
 
 帰ってから、暮れに若い人たちと行う予定の読書会に向けてしばらく勉強した。一回読んだときにはよく分からなかった箇所が、クロスワードを埋めるように分かるという快感を少しは味わったが、まだまだ埋まらぬ所もある。埋めたつもりでも間違っているかも知れない。
 しかし、その積み重ね以外にはないだろう。古人曰く「学問に王道なし」だ。まあ、この程度を学問などというのもおこがましいといえばその通りだが。

 
 
 さしたることもしなかったのに、なんだか昨日は体が重くて不快だった。
 その点、今日は調子がいい。やはり往復六キロ、自転車を漕いだ運動が利いたのだろうか。

     
       ほとんど散ったカエデの仲間の木にイガイガを付けた
           愛嬌のある実がぶら下がっていた

 
 夕方、「Mの会」でお世話になっている先達から電話とFAXで来年に向けての打診などがあった。
 来年のことをいうと鬼が・・・という話があるが、あれは私のような歳の者に対し、来年があるかどうか分からぬぞという鬼の警告である。
 しかし、人たる者、未来への約束のもと、それへと自己投企する以外ないのだから、鬼に笑われても来年のためにまた正月の餅を食うつもりだ。
 
 なに?餅を喉につまらすな?
 ほっといてくれ!といいたいところだが、やはり気をつけよう。




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一本の木のお話

2009-11-27 17:42:58 | ポエムのようなもの
 一本の木がありました
 白い壁をホリゾントにして佇立していました

 

 ひとが通りかかります
 そのとき、木が少し震えるのですが
 だれも気付きはしません

 
         どうしてこんな所へ自動車が顔を出すのだろう
 

 ほんのわずかな震えですから
 ひとには感得することはできないし
 ましてや理解することなど出来ません

    
 
 でも震えるのです
 わずかに小鳥がその気配に反応し
 急に飛び立ったりします

 

 すると木はまるで何かを確認するように
 もう一度かすかに震えたりするのです

  
   写真は名古屋市東区にて


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洗濯物が乾くまで

2009-11-26 11:09:35 | ポエムのようなもの
  洗濯物が乾くまで

 

  小春日和の陽射しを浴びて
  僕ら洗濯物
  乾く

  はじめはどっしりしているが
  性格が落ち着いてるせいではない
  僕らの中の湿気が
  そうさせるのだ

  小春日和の陽射しを浴びて
  僕ら洗濯物
  乾く

 

  陽射しが強まり風が手助けをすると
  湿気たちが去って行く
  アバヨと蒸発し
  アバヨと風に乗って

  小春日和の陽射しを浴びて
  僕ら洗濯物
  乾く

  ずいぶん体か軽くなった
  風が僕らを揺らしにくる
  くすぐったくなって揺れていると
  僕らが風になる

  すっかり乾いてしまった僕らは
  もう洗濯物ではないのだろうか



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生意気な犬がやってきた!

2009-11-25 01:13:02 | よしなしごと
 わが家で犬を飼うことになりました。最後に飼っていた「寿限無」と涙の別れをしてより20年近くが経っています。

    
            犬はやはり外が好きなんだワン

 実はこの犬、生意気にもしゃべるのです。
 それも、こちらの言うこととはまったく関わりなく勝手なフレーズをわめくのです。
 ですから、こちらの方が合わせてやらなければなりません。

    
             本だって読めるんだワン

 しかもこの犬、生意気にも人に向かって説教臭いことを言いつのるのです。
 それに合わせなければならないこちらの方が大変です。
 ペットが癒しになるなんて嘘ですね。

    
         パソコンなんて「お手」のものだワン  

 ずーっと付き合っていては疲れますからこちらも意地悪をしてやります。
 左足の甲にある赤いポッチを押してしゃべることが出来ないようにしてやるのです。
 でもしばらくすると、傍らでもの言いたげにしているのが気になって、優しい私はまたまたそのポッチを押してしゃべることが出来るようにしてやるのです。

    
          そんなもの「犬なら普通のこと」だワン
 
 すると奴は図に乗って、「脇が甘い」とか、「もっと自由に」とか説教を垂れ始めるのです。コンチクショウと思うのですが、生意気そうな面構えの割につぶらな瞳をしていたりして、やはり憎みきれないものがあります。

    

 実はしなければならないことが山積していて忙しいのですが、こんなことをしていていいのでしょうか。
 きっと天国にいる寿限無も嫉妬していることでしょう。



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接写とガリレオの望遠鏡

2009-11-23 22:42:21 | フォトエッセイ
 最近、このブログに載せる写真のほとんどは最近手に入れたケイタイに付属したデジカメで撮っています。
 デジカメ特有の奥行きのなさなど不満はありますが、かなりの接写が利くという点では満足しています。

 

 人間の視線にとって、不可視の紫外線や赤外線はさておき、遠くのものを引き寄せて見ることや小さなものを拡大して見るというマクロやミクロの世界の開けは、何か自分の能力が拡大したかのように思われるものです。そしてそこに、自分にとっての新しい世界が開けたようにも思えます。

 

 とはいえそれが、ただ既存の自己を投影したに過ぎないような世界だとしたら、そこには本当に新しいものは何もなく、何らかの別の想像力が挿入されないと新しさには至らないのではとも思うのですが、ただし、ハンナ・アーレントにいわせると、そんな観照よりもガリレオの望遠鏡こそが世界を変えたということになるのです。
 ようするにそれは、コペルニクスによる天動説の発見よりもむしろ影響の大きいものがあったというのです。というのは、コペルニクスが観照の対象として理論的に考え出した宇宙における地球の位置関係を、ガリレオは感覚的に見えるものとして実証したのであり、その方がはるかに衝撃的だったというわけです。

     
 
 歴史的事実に照らしてもそうかも知れません。当時のバチカンは、コペルニクスの著書「天体の回転について」は単なる数学的理論書としてこれを禁書にはしなかったのですが、ガリレオに対しては裁判という厳しい措置で臨み、有罪の断定を下したのでした。そしてその著書は長らく発禁であったばかりか、彼自身の死後、その遺体をカソリック教徒として埋葬することも禁じたのでした。

 

 ようするにガリレオの望遠鏡は、地球を宇宙的な場の一部として見るという視点を開き、もって地球が唯一不二の聖なる星ではなく、宇宙の中心でもないことを「感覚的に」知らしめたのでした。感覚的というのは、ガリレオの望遠鏡によれば万人にその確認が可能なのであり、コペルニクスの観照の影響より遙かに現実性をもっていたということです。
 その意味で、バチカンがコペルニクスよりガリレオをより忌避したのは当然の措置であったといえます。

 
 
 それはさておき、そんなうんちくとは関係なく、私は無邪気にレンズを出来うる限り対象に近づけて遊んでいるのです。
 ガリレオさん、ゴメンチャイね!

   菊はいずれも大輪のものではありません。




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ソクーロフの「ボヴァリー夫人」 世界へのある自己表出

2009-11-22 11:19:40 | 映画評論
 「モレク神」でヒトラーを描き、「牡牛座」で晩年のレーニンを、そして「太陽」で昭和天皇を描いたソクーロフがフローベールの「ボヴァリー夫人」を映像化した。ただし撮ったのはソ連崩壊前夜の1989年であり、それを新たに編集したものであるという。

  筋立てはほぼ原作に忠実で、ボヴァリー夫人の自己表出の試みが崩壊へと至る過程を描いているが、映像の力というべきであろう、これは紛れもなくソクーロフの「ボヴァリー夫人」である。

       
 
  文字通り五月蠅く、どこかのスラムを思わせるようなウンザリするほどの蠅が映像としても現れ、また、その羽音が折に触れて通奏低音のように聞こえる。
 一方、決してその姿を見せることのない列車の汽笛などが遠くから句読点のように聞こえたりする。
 
  ボヴァリー夫人の放蕩ともいえる行為は、ドメスティックに限定されたオイコス(家庭経済)の限界から、まさに外部の世界へと自己を表出して行く試みである。奔放とも見える愛の行為は同時に外部世界の文化への渇望でもある。
 彼女が夫以外の男と交わる際、その喘ぎ声の代わりにその男が口にした作家の名前を連呼するなどのシーンもある。

  したがって、先に見た蠅の羽音が彼女の置かれた現状を、そして汽笛が彼女の渇望を満たすべき外部世界を象徴するという解釈もそれほど無理ではあるまい。

         

  原作に対していささか乾いた感じがするのは、出来事を映像化するのみで登場人物の内面を敢えて描こうとはしないからであろう。映像は時として静止画のようにとどまり、登場人物が画面の中から観客である私たちをほぼ無表情のまま凝視するシーンがしばしば登場する。
 
  それは一見、内面の表示であるように見えながら、その実、それへの禁欲的ともいえる留保だと思われる。それによって、登場人物の内面や真理は、その視線の先にある私たちの想像力に任される。
 実際のところ、登場人物にじっと見つめられることによって、「この人たちは今何を思っているのだろう」というこちらの側の想像力がいたく刺激されるのである。

  最後の棺に覆われるシーンが凄い。普通の木の棺をさらに木箱で覆い、それをまた金属の箱に収めるという念の入れようである。かくしてまるで装甲車か戦艦のような棺が出来上がる。
 それは、外部へ、外部へと向かう「ボヴァリー夫人」のような存在を、あるいはそれに象徴される人間の欲望というダイナモを、まるでドラキュラの埋葬のように閉じこめようということであろうか。
 しかし、ドラキュラがそうであったように、ボヴァリーたちはそれらの厳重な棺を食い破って自己を世界へと表出せしめるのである。

  これは、ボヴァリー夫人という女性の物語である。
 しかし、この撮影された時期から想像するに、先に見た蠅が飛び交うのは当時のソ連の状況を、また、遠い汽笛はそれからの解放を促す狼煙であると見ることも出来るかも知れない。
 この年、ボヴァリー夫人を覆った棺同様に強固に見えたベルリンの壁が崩壊し、さらに2年後にはソ連それ自体が崩壊したのであった。
 しかしながらこれは、現実のロシアがボヴァリー夫人の夢見た外部の世界であることを意味するものではない。

  ソクーロフの映像への吸引力は恐るべきものがある。

 

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馬坂峠を越えて <付>晩秋の薄墨と徳山ダム

2009-11-21 01:42:55 | 写真とおしゃべり
 かつて関わっていた雑誌で知り合った人のお供で徳山ダムを案内した。
 いつもは岐阜→揖斐→揖斐川沿いに北上というルートを辿るのだが、かつて(30年以上前になろうか)アマゴや岩魚を追いかけていた頃、しばしば通った馬坂峠を経由して行こうということになった。
 このルートは根尾川上流から峠越えで揖斐川上流の徳山ダムへと至る。

 
  
 途中、いかにも古刹とおぼしき寺があったので立ち寄ってみる。浄土真宗本願寺派の寺で、その名も大谷山圓勝寺という。
 大きからず小さからず、均整のとれたいい本堂である。境内にある親鸞像や県の天然記念物・樫の古木などを眺めてからさらに北上、濃尾震災で出来た2メートル余の断層を越えて進む。

 
 
 しばらく行くと「薄墨の桜」公園へと至る。花を付けた最盛期の休日には、何時間もの渋滞といわれる道路も、この季節には行き交う車もまばらである。
 果たせるかな公園では、三、四人グループがひと組、休憩所で歓談をしているのみだった。

 

 周囲から間断なく聞こえる野鳥のさえずりをBGMに古木の回りを一回りする。その幹は圧倒的な貫禄で辺りを睥睨し、怠惰な私を叱りつけているかのようでもある。思わず畏怖の念を覚える。古来、人が大木に寄せたプリミティヴな信仰心がわかるような気もする。
 西洋の哲学者なら、想像力を越えた風物への崇高の念について語るかも知れない。

 

 公園を離れてさらに北上したところで、国道157号線と別れ、県道270号線へと進む。いよいよ馬坂峠越えである。道は細くなり,対向車があると(滅多にないのだが)譲り合わねばならない。ということは、以前しばしば来た頃と大して変わっていないということで何だかどこかで安堵したような気分になる。

 

 加えて大変なおまけがあった。すばらしい紅葉なのである。峠を進むうちに針葉樹の植林の割合が少なくなり、それぞれに紅葉した山肌や谷間が迫る。山道を回る度に眼前に錦の屏風がワッと現れるのだ。
 先月末には「せせらぎ街道」へ行ったが、あの幾分整備された景観に比べこちらの方が紅葉が身近に感じられる。あちらが距離を置いて紅葉を見るとすれば、こちらはまさに紅葉のまっただ中にいるという風情なのだ。

 

 峠を越えて旧徳山方面へしばらく下ると、樹間からきらきら光る水面が見え始める。徳山ダムのダム湖である。そしてこれが以前の景観と最も違う点である。もはやこの峠の行き着くところには人の営みはない。山村ののどかな光景やそこで点景のように農作業をする人々の姿もない。野焼きの煙が立つこともない。
 日本一の貯水量を誇るこのダム湖が、全てを飲み尽くしてしまったのだ。

 

 ダム湖沿いにしばらく走った後、ダムの堰堤上へとやって来る。同行者はそこで展示などをひとしきり取材していたが、核心点は私が車の中ですでに話してある。
 ようするに、一家村の人々を追い出し、4,000億近い税を投入して出来たこのダムは、発電にも、治水にも、水資源にも役立つことなく、ただただ巨大な水溜まりとしてここに横たわっているという事実である。

 

 ダム周辺では,今もなおダンプが気ぜわしく行き来している。多分、し残した付帯工事なのだろうが、それ自身が何か役に立つものかどうかよくわからない。

 ダムサイトを後に帰途についた。紅葉にはしゃいでいた同行者は急に寡黙になった。
 あの開けっぴろげな自然の美しさと、人間の欲望の権化のような巨大なコンクリートの塊との凄まじいコントラストに言葉を失ったのだろう。

 秋の陽はつるべ落とし、帰り道の周辺では集落ごとに人恋しげな灯りが夕べの憂愁を演出し始めた。
 しかし、あの徳山村には,もはや灯るべき明かりはない。 
 





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あかなべ(茜部) おおなべ 芋煮会

2009-11-19 01:27:32 | 写真とおしゃべり
 この日曜日のことでした。
 近くの神社で「芋煮会」があるというので出かけました。
 知り合いの方がそのスタッフをしているというので枯れ木も山の賑わいと出かけたわけです。

 神社で行うといっても神事とは関係ありません。
 聞けば、この校下の小学生が、農家の畑を借りて栽培してきた大根や里芋などの野菜を主体に、肉などを加えた汁を3,000人分以上用意するというのです。
 岐阜市制120周年に協賛した地産地消の試みでもあるとのことです。

     

 これが催しの看板です。
 茜部(あかなべ)というのはこの辺の地名ですが、「茜部大なべ祭」とは語呂合わせも狙ったネーミングと見ました。


 


 

 で、これがこの大なべなのですが,実際にはこれを使ってはいなくて、デモンストレーションとしての展示だとのことです。そのスタッフに人に聞くと、長年使っていなくて内側にサビなどがあり,かなりのメンテを行わないと使用不可能なのだそうです。

 


 

 会場へは開始30分ほど前に着いたのですが、スタッフの方たちが今や遅しと準備万端です。
 黄色い頭巾がかいがいしいですね。

 

 開始時間近くにはもうこんなに人が集まってきました。

 

 しかし、まだまだ、おきまりご挨拶などが続いていてオアズケです。

 

 その間にお供えのお酒など撮りました。

 

 こんな太いでかい大根が2本で百円だなんて安いですよね。
 写真を撮っていたら、「私の足より太いよ」と売り場のおばさん。
 「どれどれ、それじゃぁ、おみ足の方も写真に」とカメラを向けるとキャッキャ、キャッキャの大笑い。

 
 
 そんなことをしているうちに、やっとみんなが食べることが出来るようになりました。
 楽しくて美味しそうですね。
 とくに子供たちは自分が作った野菜が入ってるときて、家族たちにその説明などしながら大満足の様子。
 いいですね。さぞかし、一段と美味しかったに違いありません。

 
 「私の作った芋、入っとるかな?」

 
 「おじさん、写真なんか撮っとるより食べた方がおいしいよ」

 
 右は来賓で駆けつけた細江岐阜市長。
 ピントがやや甘いのは市長のせいではありません。

 で、味はどうだったかというとですね…。
 それがですね、写真をひととおり撮り終えて配膳の場所へ行ったら、まだまだ長い行列なんです。
 5分や10分では食べられそうにありません。
 そしてなのです、私にはその後、時間が押している約束があったのです(涙)。
 仕方がありません。泣く泣く諦めていい匂いのする会場を後にしました。
 よっしっ、来年は三日前から絶食して,あらゆる約束をキャンセルして行くぞ!
 で、来年もやるのかなぁ。



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ナンキンハゼのラプソディ 内容なし・写真のみ

2009-11-17 11:36:27 | 写真集
 ナンキンハゼ・フェチの私が撮った「ナンキンハゼのラプソディ」を掲載します。お暇な方はどうぞ。

 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 
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