六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

その生涯の半分しか交流のなかった姉がみまかった!

2021-05-31 01:22:57 | ひとを弔う
 
 
 静岡県に住む姉が八十余年の命を閉じた。私より二歳上。
 お互い八〇年余の間、交流があったのはその半分の四〇年ほどでしかない。

 両親を病や戦争で亡くした私たち姉弟は、幼くして全く別々のところへ養子に出されたまま互いにその消息はわからなかったのだ。

 それを四〇歳過ぎに姉の方が私を探し出してくれ、以後、交流を持つこととなった。それだけに、お互い、その後の交流を大切にしてきた

 その最後の別れ、六月一日の通夜、二日の告別式には老骨にむち打ち、伊豆半島の付け根まで出かける予定。

 姉よ、安らかに眠れ! あなたのことは決して忘れない。

 

子供の頃、童謡の「花かげ」を聴くと、なぜか生き別れの姉のことを想い、胸キュンになったものだ。

1.十五夜お月さま ひとりぼち   
  さくら吹雪の 花かげに   
  花嫁姿の お姉さま   
  車にゆられて 行きました  

2.十五夜お月さま 見てたでしょう   
  さくら吹雪の 花かげに
  花嫁姿の 姉さまと   
  お別れおしんで 泣きました  

3.十五やお月さま ひとりぼち   
  さくら吹雪の 花かげに
  遠いお里の お姉さま   
  私はひとりに なりました

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【読書ノート】我が家にいること『ノスタルジー』バルバラ・カッサン

2021-05-30 02:45:51 | 書評

 著者であるフランスの哲学者、バルバラ・カッサンは父祖の代からの南仏育ちで、同じフランス領とはいえ、地中海のコルシカ島が故郷ではない。コルシカに居を構えたのは、人生半ばからにすぎない。
 にもかかわらず、そのコルシカにおいて彼女は歓待されてると感じ、その島にこそノスタルジーを感じている。

 ということは、ノスタルジーとは、一般に「望郷」と和訳されるような故郷への思いのみではないとうことだ。そういえば、この書のサブタイトルは「我が家にいるとはどういうことか」であった。

             

 その前に、彼女に即して、この「ノスタルジー」の語源的探索を済ませておこう。
 「しかし、ノスタルジーはギリシャ語ではない」と彼女はいう。それは、17世紀後半、ドイツ語圏のスイスで見いだされた「病名」だというのだ。 
 ジョン・ホーファーという19歳の青年は、バーゼル大学へ医学論文を提出するのだが、そのなかに、ベルリンから来た学生が次第に衰弱するのでベルリンに帰したところ回復したとか、また、入院中の農婦が帰宅を強く望むので帰したところ病が癒えたという事例を載せているという。

 ノスタルジアが、ドイツ語圏のスイスで発見された病名であったとは面白い。
 日本で作られたアニメの「アルプスの少女」では、フランクフルトから来たクララは、アルプスで麻痺しているし、逆に山の娘・ハイジは、フランクフルトで不調を訴える。

 まあ、そんな事例を引かなくとも、ノスタルジーに近い英語が「ホームシック」で、ちゃんと「シック」であることが明示されている。

       


 さて、カッサンは古代ギリシャの最大の叙事詩・オデュッセウスを題材にその故郷との関係を見てゆく。 
 オデュッセウスはは長い旅の末、故郷へ戻る。しかし、彼は妻からも、飼い犬からも自分を求めてもらうことができない。何よりも、彼自身がそこを故郷と実感することができない。やがて、時が相互の隔たりを埋め、やっと彼は故郷へ受け入れられる。
 しかし、それは同時に彼の旅立ちのときだった。彼には二重のノスタルジーがあったのだ。オデュッセウスのノスタルジー、それは、故郷イタケーへの想いをもち続けること、そして、冒険者、ノマド、世界市民であり続けることであった。どこにいてもわが家にいて、どこにいてもわが家にはいない、それがオデュッセウスのノスタルジーであった。

 ついでカッサンは、トロイア戦争の敗北者であり、ギリシャから追放され放浪の末、イタリアの地に至り、そこでローマの建国に関わるアエネアスをとりあげる。
 彼は、このイタリアの地こそ、実は自分の父祖のルーツであることを知り、この地に新たな建国をと思い立つのだが、それはもはやトロイアの再生ではなく、新しいものの追求となる。そのため彼は、トロイアの言葉=ギリシャ語をあえて採用せず、その地の言葉、ラテン語での出発とする。

 ローマにとっての外国人であるアエネアスは、ローマの人びととともに、新たな故郷を創設したのである。
 ここには、当時のヨーロッパ文明の先進国・ギリシャの言葉を押しいただかないという「統一言語」に関する問題もあるが、それを踏まえたままで次章のハンナ・アーレントへと進められる。

                

 アーレントは、ユダヤ系ドイツ人として生を享けたこともあって、ナチの台頭により1933年にはフランスへの亡命を余儀なくされ、更にフランスがナチの手に落ちるや、41年にはアメリカへ脱出せざるを得なくなる。こうして、51年にアメリカ市民権を得るまで、18年間の無国籍難民の生活を強いられたのであった。
 
 晩年、ドイツ時代について郷愁を感じる対象は何か?と問われた彼女は、それは「母語」だと答えている。彼女にとっての母語はドイツ語である。しかし、あえてドイツ語と言わず母語と表現したのは、母語とは、国や所属する民族の言葉ではなく、自分がそれに囲まれ、それを習得し、そのことによって自分の周囲に共生関係を生み出したそんな言語のことであることを言おうとしたのだろう。

 ようするに、どれか特定の言語の優越性を語ろうとしたのではなく、それぞれの人が習得した言語がそれによって世界へと参入する可能性を開くことを言おうとしているのだろう。そしてそれは、特定の言語を特別視する、例えばハイデガー、ドイツ語はギリシャ語にもっとも近く、「存在」を顕わにできるといった言語観を退けるものでもある。

 これは同時に、バベルの塔のような統一言語への否定でもある。言語の複数性は人びとの複数性の原因であり結果でもある。
 様々な言語のうちで、人は世界との関わりを産み出す。そして、それぞれの言語には他の言語と対応しうる面と対応しない面とがある。これが、翻訳可能性と不可能生の問題である。

 そして、これらの言語と人間の複数性をあってはならないものとして抑圧するのがグロービッシュ(グローバルイングリッシュ)のような統一言語への要請である。この立場は、世界においての偶然性を否定し、すべてを必然性のうちに置こうとする志向にも通じる。
 この立場によって失われるのは、文学と哲学である。なぜなら、文学や哲学は、人間と世界の、論理性、必然性、法則性からつねにはみ出すもの、その過剰、余剰、余白、他者性のうちにこそ棲息しうるものだからである。

 ようするに、「世界の揺れ動く曖昧さ」(カッサン)こそが、私たちが実存するそのリアルな土壌なのである。そして、これへの否定と抑圧こそが、全体主義的思考というべきであろう。
 カッサンのアーレントへのシンパシーは、彼女自身が母語はフランス語と異なるものの、アーレント同様、ユダヤ系フランス人であることと重なる。

 まとめとしていえることは、ノスタルジー(望郷)とは、決して場所としてのそれを指すものではないということである。そうではなくて、自分との共生関係全般が可能になる場(地理的な場所ではない)を指しているということである。

 以上がきわめて恣意的なこの書のまとめであるが、前半のオデュッセウスやアエネアスに関する部分はあまり自信がない。理由ははっきりしている。私自身が、こうしたヨーロッパの古代史、その頃に書かれた古典への知識について、きわめて曖昧だということである。
 では、アーレントについてはどうかといわれるとこれも不確かであるが、多少は読み込んでいるのでそんなに外れてはいないだろうと小さな声で付け加えておこう。


 *なお、同書の目次は以下の通りである。
  ・コルシカ的歓待について
  ・オデュッセウスと帰郷の日
  ・アエネーイス ノスタルジーから流浪へ
  ・アーレント 祖国としての言語をもつこと

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コイのコイ 命あるものの戯れ

2021-05-26 02:03:17 | よしなしごと

 行きつけのクリニックと調剤薬局へ行き、薬をもらった。そのまま帰ろうかとも思ったが、ここしばらく、家にこもりっきりでほとんど歩いていないことに気づき、少し遠回りして帰ることにした。
 
 春夏秋冬、よく通る水辺の道を行く。水があるということはどこか潤いを感じさせ、ホッとするものがある。その上、水辺の小動物などに出会うと、嬉しくなったりもする。

 もうその時期は過ぎたが、カルガモをよく見かけるのもここだ。シラサギは年を通してやってくる。時折、カワセミに出会うこともある。
 珍しいところでは、ヌートリアにひょっこり出会ったりもする。

 高度成長期には、垂れ流しのドブ川になったこともあったが、いまは回復し澄んだ流れになっている。ここは、岐阜の中心部から南下した断層のようなところを横切っているから、自然湧水もあるはずだ。だから、人為的に極度に汚染されなければ清流を保てるはずなのだ。

     https://www.youtube.com/watch?v=I3heYuFZDI4

 流れは浅いが、ところどころに淵があり、魚類はそうした箇所に群れたりする。いつもの散策コースにはそうした箇所が二,三ヶ所ある。そのひとつで、鯉のつがいを見つけた。大きい方は五〇センチに近い。小さい方もそれに数センチ劣るのみだ。

 ときどき、じゃれ合うようにしながらも、悠然と泳いでいる。もちろん、私が数メートルの距離にいることをじゅうぶん知り尽くした上でのいちゃつきだ。
 チクショウ、ネットで公開した上、「週刊文春」にチクるぞ、と脅しをかけるが動じるところはない。

 しばらく眺めていたが、見せつけられっぱなしはシャクなのと、どうも空模様が怪しくなってきたので家路につく。
 いいタイミングであった。それから十数分ほどで家にたどり着くや、ザーッとひと降りがあった。

     https://www.youtube.com/watch?v=zzjW6MFoUN0

 鯉たちは、しっぽり濡れていることだろう。
 彼らを観ていて、この歳にしてはじめて知った情けない事実がある。新暦、旧暦を問わず、この時期の節句をなぜ「鯉の節句」というのか。そう、この時期こそまさに彼らの生命力が謳歌されるときなのだ。

 じつは、「身内」に関する悪い予兆のような知らせがあって落ち込んでいる。それを抑え込むようにしてこれを書いてる。
 生命を謳歌するものたちもいれば、その終焉を迎えようとするものもいるわけだ。

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「尊皇攘夷80年周期説」とわが家に咲く花々

2021-05-24 11:54:43 | 歴史を考える

           

 

 加藤典洋に「尊皇攘夷80年周期説」というのがある。
 尊皇攘夷思想というのは1850年代、1930年代、2010年代と80年周期で巡ってきているというものだ。
 この種の説は、たまたまの現象を背後に法則性のあるがごとく言い立てる場合があるので、あまり信用ならないが、加藤の指摘については観るべきものはあると思う。

         

 この内、1930年代のそれを必要があって調べたが、天皇機関説の否定による明治憲法解釈の一大転換(伊藤博文の想定をも覆すものだった)と、それによる天皇の現人神化、その現人神のもとにおいて国民はすべからくその赤子(せきし)であるという一大家父長制の虚構は、その後の歴史、とりわけ戦争への地すべりと悲惨の拡大生産の骨格として機能した。

         

 そして2010年代から続く今日のそれ、それは、加藤の指摘する「敗戦後」の「ねじれ」を放置したままの「戦後」を経由することによって出現したものであろう。
 その結果、安倍政治と天皇を対置させ、天皇親政を唱えるサヨク?リベラル?まで現れるという馬鹿げた状況が生まれた。「ねじれ」がよりカリカチュアライズされた「ねじれ」を生み出した例と言えよう。

           
 
 それはさておき、30年代のそれも、実は明治維新の受容に関するあいまいさ、あるいは「ねじれ」の内在によるものといえるかもしれない 加藤は19年に逝ってしまったが、できれば日本の近代史そのものをそうした視点でいま少し展開してほしかった。

           

 それはさておき、まだまだワクチン接種の見通しもないなか、蟄居状態の私の視界はどんどん狭まってゆくのは必然である。ということで、ここに載せた写真は、それぞれわが家に今咲く花たちである。一枚だけ桜の若葉がきれいだったので混じえておいた。

         

 珍しいものはないが、最初のサツキは八重の花をつける。私の剪定が下手なので、びっしりとは花がつかないのは残念だ。
 紫陽花は今年は4輪の花をつけた。同じ樹なのに、それぞれの花の成長度合いが違う。
 ナンテンの樹は何本かあるが、この写真で横になっているもの、この花は他でもあまり見たことがない薄紅色に開花する。その時点でまた、お披露目しよう。

         

 余命少ない身にとって、著しく行動が制限されるのは辛い。そして、それ自身がわが老化を加速しつつあるという厳然たる事実がある。嗚呼!

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【読書ノート】『全体主義の克服』(マルクス・ガブリエル&中島隆博 集英社新書)

2021-05-20 01:53:11 | 書評

 ガブリエル・マルクスの書はこれで三冊目だが、まだこの著者については捉えきれない面があって、確信をもって語ることはできない。
 ただし、この書は中島隆博との対話ということで、概念の展開が続くという形はとらないので、比較的読みやすいとはいえる。
 
 テーマは題名通り、「全体主義の克服」なのだが、 途中、形而上学的な側面への言及もかなりあり、ガブリエル・マルクスのよって立つ ところが見えたりもする。それは例えば、シェリング哲学からハイデガー批判、 それに意外にも中国古代哲学からの吸収もあったりして、その幅の広さに驚くのだが、それら形而上学的な問題についてはここでは触れない。

          


 本書のタイトルに従って「 全体主義」に焦点を絞って見ていこう。
 ガブリエル・マルクス(対談相手の本田も含めて)は、この21世紀の全体主義の危機について語る。そしてそれは、前世紀、20世紀における全体主義とはいささか状況が異なると指摘する。
 
 いずれにしても、全体主義は公と私の区別が破壊され、全てが公のうちへと統合され ていくシステムであるが、20世紀の場合には、それが特殊な主義主張、ないしはそれを象徴する人物の独裁的支配のもとで 展開されることが多かった。例えばヒトラーのもとにおけるナチズム、スターリンのもとにおけるソ連邦のそれ、 そして天皇を中心にした日本の戦前のファシズム体制などである。

 しかし、と彼らは言う。この21世紀の全体主義はデジタル化の進行により公的な領域と私的な領域の境界線が破壊されていくこの内にあると。
 確かにデジタル化の進行は、諸個人の主義主張、趣味や欲望、その諸行動などの情報の一元的集約として実現されつつある。こうした監視・監督の具体的例は中国における今や3億台とも4億台ともいわれる監視カメラの設置、それによる諸個人の行動の軌跡の追跡可能性などに 顕著に見ることができる。 

 それはこの国でも、今年9月に開設が予定されているデジタル庁の設置によって加速されようとしている。
 ようするに、この私たちは、自分固有の欲望に従って独自の行動を選択しているように思いながらも、その実、ネットなどの情報を通じた誘導に従った結果としての欲望に従い、それを追求するために予め敷かれたレールの上を、ひたすら走っているのであり、その行為の軌跡もまたデータに記録され、次に密かに与えられる「指令」にも反映される。

 そうしたデジタル化全体主義を許したものはなにかが問われる。
 近代は、科学技術によって神話的世界観は克服されたという「神話」によってスタートした。神話的な世界統一原理に、科学技術がとって代わったというわけである。
 しかしである、そこからすべてが生み出される神話的「一」としての統合原理などがないのと同様、科学技術もまた、全てを生み出す「一」ではありえないのだ。

 この点だけで言うなら、前世紀後半のポストモダンが既に指摘していたところであるが、G・マルクスはそのポストモダンがあらゆるものを相対化することによって、逆にある特殊なものを強調し、それに固執するようなそうした傾向を激しく批判する。
 それは例えば、とてもショッキングなタイトルで注目された彼の書、『 なぜ世界は存在しないのか』などのいわゆる「新実在論」が支えているところである。

 それを平たく言うことは困難だが、 事実は無限の錯綜した連鎖の絡み合いのうちにある。それらは私たちの観察の対象ではなく、私たちもまたそのうちにあるものである。確かにそれらの一部を取り出せば、 そこには反復がみられ、科学技術はそれら一部の反復に依存した方法に過ぎない。しかし現実の反復は単に同じものの反復ではなく、その都度何らかの差異を含んだものとしてある。ようするに、実験室のような完全な反復はリアルでもなんでもないのだ。

 ようするに、現実は何らかの「一」から出発した体系ではなく、常にそれから逸れてゆく偶然性のうちにこそある。そうした偶然性の生起に開かれた立場こそが「全体主義」に陥らない立場といえる。
 なぜなら、全体主義は「一」からなる原理原則に固執し、それに反して偶然的に生じるものを異端、ないしは魔女として暴力的に抑圧することで成り立っている。

 こうして、21世紀の全体主義の様相と、それに対峙する私たちのありようが語られるのだが、それでは、実践的な面で私たちは何をなすべきかという点では、いささか心もとないものがある。

 まずは政治の中立化が図られるべきであり、そのためには、学者や学問、大学が政治的中立を確保し、その立場から政治にコミットすべきだとする。
 また、一方では大企業の倫理コンプライアンスチームの要員として哲学者が参加し、フェアトレードを実現すべきだともいわれる。
 また、新たな望ましい市民宗教として、強力な哲学的思考と科学的思考を融合させたものが提唱される。

 どれもまあ、実現すれば結構とは思うが、何かいまひとつインパクトに欠ける。
 また、政治、経済、市民社会での哲学の覇権というイメージを考えると、なんとなく、プラトンの「哲人政治」を想起してしまうのは私の的はずれな感想だろうか。

 まあ、いろいろ考えさせられる書ではあった。

 なお、昨年の夏、ガブリエル・マルクスの『新実存主義』(岩波新書)を読んでいるが、その折のノートを読み返してみて、やはり、いささか消化不良であるといえる。
  https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20200710

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要注意のなか、岐阜県美術館・県図書館界隈、久々の散策

2021-05-18 00:44:49 | よしなしごと

    

 図書館への返却7冊。といっても期限内にそんなに読んだわけではない。3冊は読んだが、あとの4冊はこれまで書いていた文章のために部分的に参照したにとどまる。
 新しく借りたのは5冊。これも全部読むのはたぶん3冊のみであとは部分的な参照。

             

 図書館と県美とは道隔てるのみ。
 県美での目当ては、主要な催し(「素材転生―Beyond the Material」は6月までやっているので別途観に来るかも)ではなく並行して開かれている岐阜アンデパンダン展とそれに、「わたしの視線」と銘打たれた写真展を観るためだ。

          

 アンデパンダン展の方には、お世話になっている写真家の作品が展示されている。この人の写真は、技術はもちろん現実の切り取り、光のバランスなど、いつ観ても素晴らしいのだが、今回の出品は4枚組で、どれもかなり大胆でコラージュのような趣をもったものだった。こんな作風をももってる人だとは知らなかった。

           

 写真展の方は、たしかにみんな巧いと感心するが、これならシャッターチャンスに恵まれれば私にも撮れるかもというのが若干はあった。しかし、よく考えれば、そうした場所へでかけ、粘り強く「その瞬間」を待たねばそうした写真も撮れない。
 残念ながら、私にはそれだけの集中心や根性がない。

   

 岐阜県は、ここへ来てコロナ患者発生が過去最大を更新するなど、いささかヤバイとあって、両館やその周辺の人影はまばら。
 これ幸いと、図書館の中庭、美術館の庭園などを少し散策して帰った。
 花もそこで撮ったもの。



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めげない私、ひるまない私、そして反撃する私!

2021-05-14 11:32:04 | よしなしごと

 10尾いた金魚の内、8尾を何ものかに襲われ失った私、2~3日はがっくりし、天を恨んで過ごしましたが、若さ(?)に任せて素早く立ち直り、反撃的防御の姿勢を取るべく、体制を整えました。
 居酒屋をやっている折、右翼に殴り込まれても、ヤクザに胸元を掴まれても、怯えることなく(ほんとうは怖かった)耐えてきた私が、これしきのことに屈することはできないのです。

 襲った「何ものか」の特定は不可能ですが、カラスなどの鳥類、ないしは猫の可能性が大です。また、襲われた時間帯は、朝寝坊の私が、まだ、白河夜船の早朝と考えられます。
 したがって、それらを対象に、その時間帯に防御をすればいいのです。

            

 まずは、最近まで実っていた桜桃の鳥除けに効果があったCDを金魚たちの棲家の上に吊り下げました。この、アト・ランダムな光の跳梁は、鳥類のみならず、猫にも効果があるやもしれません。それとも猫は、その動きにじゃれ付きに来るでしょうか。

 それから、夜間、早朝の対策です。これは金魚たちの棲家に物理的に蓋をしてしまうということです。しかしです。朝が来て、その陽光が訪れるのに、暗黒のうちに閉じ込めるのはやはり酷とのいえます。

            

 そこで、網戸の補修用にとってある金網を用い、若干暗くはなるものの、通気性もあるカバーを作りました。これを夕刻以後の最終チェックの折に被せることにしました。
 それだけの準備をしてから、新たに10尾を求め、それを放ちました。

 襲撃で残された2尾は、その衝撃が大きかったのかめったに水面には姿を表さなかったのですが、新参のものたちはその悲惨な歴史を知らないため、縦横に泳ぎ回っています。
 彼らを守り通し、その成長を見届けることができるかどうか、それが晩年の私のチャレンジです。

 それから3日目、金魚たちの華やぎを、以下の動画でご覧ください。
 
  https://www.youtube.com/watch?v=OcSZ_26WbHI

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自由への道は血塗られていた 『地下鉄道』(コルソン・ホワイトヘッド)を読む

2021-05-13 02:00:07 | 書評

 『地下鉄道』は、アメリカ、コルソン・ホワイトヘッド の小説である。この小説を読んだのは、彼の作品『ニッケル・ボーイズ』に感銘を受けたからである。実はこの『地下鉄道』 の方が前に書かれた作品で、私の場合は『ニッケルボーイズ』から遡ってこんな小説を書く人は 、他にはどんな作品を書いているんだろうかと興味を持ったからである。

              

 『ニッケル・ボーイズ』について衝撃的だったのはその内容もさることながら、この小説の舞台、ニッケル校のモデルになった少年院が、前世紀の中頃過ぎまで実在したということであった。ということは、私たちが先の戦争に敗北し、 アメリカ占領軍が経て、民主主義や基本的人権の洗礼を受けたその時点において、アメリカの本国においては、かくも凄惨な黒人差別が堂々と存続していたということなのだ。
 なお、『ニッケル・ボーイズ』についてはすでに先々月のこのブログに その感想などを書いている。以下を参照されたい。
  https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20210322

 この『地下鉄道』のほうはさらに100年以上遡る南北戦争直前、19世紀の中頃以前のアメリカ南部が舞台である。
 当時アメリカは奴隷制廃止に傾いている北部と、奴隷制に固執する南部との対立が明確になり始めた頃であったが、奴隷制度は緩和されることなく、その凄惨な度合を保っていた。

             

 この小説は、そうした南部の綿花農園に育った黒人少女の逃避行の物語である。 そしてそれを援助するのは「地下鉄道」と呼ばれる秘密機関で、逃亡奴隷たちを安全な北部へ移送することを事業内容としていた。
 したがってこれは実際の鉄道ではないのだけれど、作者はそれを実際に地下道を走る蒸気機関車の線路網として描写し、この凄惨極まりない物語に幾分SF的な要素を持ち込んでいる。

 主人公の黒人少女 コーラは、 この地下鉄道を頼りに逃亡を図るのだがその行程は楽ではない。というのは、実際の援助組織がそうであるように、この列車も一路北部へ通じているわけではなく、行く先々で一定期間の停滞があった後、次の列車に乗る機会を待たなければならないのである。

          

 したがって、その足踏みの間にも、 賞金稼ぎ=奴隷ハンターの手が回る可能性があるのである。実際、彼女は何度もその危機に襲われ、実際にその手に落ちたこともある。
 このハンターたちは、残忍そのもので、邪魔をするもの、捕らえても採算に合わない者の顔面に銃を押し当て、平気でその引鉄を引く。

 その過程はまさにスリリングであるが、危機に陥るのは、コーラのように追われる者ばかりではない。彼女たちを助ける地下鉄道の組織の傘下にある人々もまた、見つかり次第なぶり殺しとも言われるような悲惨な最期を迎える。 事実、彼女と逃亡を共にしたり、その手助けをした人たちがこの作品の中では何人も血祭りに挙げられている。

             

 奴隷たちの扱いはまさに胸くそが悪くなるほど凄惨なのだが、逃亡奴隷を見つけたハンターたちは、それを殺戮することなく、「持ち主」のところへ届け、賞金をせしめる。ただしこれは、逃亡奴隷の命を保証するものではない。 奴隷たちは家畜以下の扱いにしか過ぎないのだ。

 もし家畜が逃亡するならば、見つけ次第それは 元の持ち主の元へ収容されて事態は収まる。ただし、逃亡奴隷の場合はそうではない。彼らのほとんどは、他の奴隷が集められたその衆目のなかで、残忍極まりない損傷を与え続け、なぶり殺しの刑に処せられる。
 家畜も 奴隷も持ち主にとっては商品であることには関わりないが、奴隷の場合は、その逃亡者にできるだけ残虐な処罰を与え、それを見せることによって、その他の奴隷たちの逃亡の意欲そのものを削ぐことができるのだ。

 主人公コーラは、これでやっと救われたかと思うシーンが何度もあるのだが、その都度新たな危機に見舞われ、その最後まで予断を許さない。
 ここに描かれているのは、レイシズムということすらおこがましいようなまさに鬼畜の行為ともいうべきだが、 ただしこれは、すでに過ぎ去ったことではない。その後遺症のようなものは、アメリカにおいては、南北戦争における北軍の勝利、奴隷解放宣言などを経て、さらには前世紀中盤の公民権運動等を経た後にも、なおかつ目を覆いたくなるような事象が絶えないのは。まさに近年のBLM運動が示すところである。

          

 もちろんこれはアメリカのみの問題ではない。人間を人間として扱わない行為は、前世紀には、ナチズムにおけるユダヤ人大量虐殺、日本軍による周辺諸国民に対する残虐行為、ソビエト連邦内における人民の敵に対する凄惨な粛清行為などなどがあったし、そして今なお、紛争地域においては民族浄化的な動きが絶えない。 そうした歴史上の、あるいは現実のさまざまな事柄に目を凝らすとき、自分自身がその同じ人類であることに ある種の戦慄を覚えざるを得ない。もちろんこれは、自分がそうならない保証が決してないという深淵を思うからである。

 最近、さまざまな意味で、人間というものは誕生しない方が良いのだという思想が広がりつつあると聞く。もちろんこの命題は、 人間が生存していると言う現実の上で、初めて主張できるという意味で、自己言及的な矛盾を抱えているが、そうしたことを主張したくなる状況そのものはわからないではない。
 
 人は、単純に性善説、性悪説に分けることはできない。 つまり人間は、状況次第によっては容易に鬼畜になり得るということである。それでは、自らが鬼畜にならず、また、人を鬼畜にしないことは可能なのだろうか。そのためには、何が必要なのだろうか。
 
 人が鬼畜になる構造や状況を知り得た者たちが、そうした構造や基軸になる状況そのもの実現を防止する営為を日常的に積み重ねるという「未完の努力、未完の過程」の継続でしかありえないのではないか。
 歴史にはここが到達点などという地点はありえない。私たちは、その過程のなかで、許される最良のものを選択しながら生きてゆくほかはない。
 そうした折、優れた文芸作品は、私たちの知らない他なる出来ごとの多様性を指し示してくれる。

          

 この小説を読み続ける間、私の頭のなかでは、下に貼り付けたビリー・ホリディ歌うところの「Strange Fruit」が鳴り響いていた。
 南部の樹々に吊るされた奇妙で異様な「黒い」フルーツ・・・・。
 英語と、日本語の訳詞を載せておく。

https://www.youtube.com/watch?v=Web007rzSOI


Strange Fruit

Southern trees bear strange fruit,

Blood on the leaves and blood at the root,

Black bodies swinging in the southern breeze,

Strange fruit hanging from the poplar trees.

Pastoral scene of the gallant south,

The bulging eyes and the twisted mouth,

Scent of magnolias, sweet and fresh,

Then the sudden smell of burning flesh.

Here is fruit for the crows to pluck,

For the rain to gather, for the wind to suck,

For the sun to rot, for the trees to drop,

Here is a strange and bitter crop.

奇妙な果実(Strange Fruit:訳詞)

南部の木は、奇妙な実を付ける

葉は血を流れ、根には血が滴る

黒い体は南部の風に揺れる

奇妙な果実がポプラの木々に垂れている

勇敢な南部(the gallant south)ののどかな風景、

膨らんだ眼と歪んだ口、

マグノリア(モクレン)の香りは甘くて新鮮

すると、突然に肉の焼ける臭い

カラスに啄ばまれる果実がここにある

雨に曝され、風に煽られ

日差しに腐り、木々に落ちる

奇妙で惨めな作物がここにある。


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【大ショック】消えた金魚たち!

2021-05-10 11:25:07 | フォトエッセイ
     
 
 今朝、金魚の入った火鉢の水を一部代え、餌をやろうとしたが、金魚の姿が見えない。
 水が撹拌されたように濁っている。慌てて覗き込んだら底近くに赤いものが。
 汚れた水を除いてゆくと、赤いのが2尾のみ。赤7・黒2・斑1と計10尾いたのに。
 死骸も見当たらぬから病死ではない。何者かに襲われたのだ。水深20センチほどでも猫が襲うだろうか?それとも鳥類?
 ここに添付する写真も動画も昨日撮影したばかりなのに・・・・。嗚呼!
 
 
 飼いはじめて、当初は私が近づくとさっと底の方やホテイアオイの影に逃げ込んで姿を見せなかったのに、最近は近づいても逃げなくなり、やっと懐いてきたのに・・・・。
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カンツォーネと金魚たち

2021-05-09 15:07:35 | フォトエッセイ

 今日の金魚たち。BGMはテノール歌手:ジュゼッペ・ディ・ステファーノが歌うカンツォーネ「つれないあなた」。

 同時録音ですから、金魚たちもこの歌を聴いています。クリックして動画をどうぞ。

     

      https://www.youtube.com/watch?v=vIOfWyifXjg

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