牛込・神楽坂 酒問屋 升本総本店の別館「涵清閣」 主人が語る

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手掛かりはブラタモリ、で見えてきた、新川大神宮の手水鉢の年代(2)

2020-10-21 11:41:18 | 新川大神宮と新川
                          

                           【公式HPはこちら↑】




昨日「以下次号」とした、新川大神宮の手水鉢の年代。

地層の年代を火山灰で知る(ブラタモリ的には「テフラ・クロノロジー」)考え方で調べてみましょう。

ウチが茅場町店(かやばちょうだな)を出したのは江戸末期くらいのようなのですが、当初は「升本喜八郎」名で出していました。

例えば、明治20年代(かな)の資料には、こんな名簿があります。





ここではまだ「升本喜八郎」で、「升本幸太郎(商店)」の屋号はそれより後ということになります。

また、ここには19名の名前が見られますが、手水鉢には15人。

名簿でウチの名前は最初の方にありますが、「茅場町」ですので、名簿当時の「北新川」「南新川」「茅場町」の3組からなる下り酒問屋の中では新参者の系統。19名いたら19名の名前が手水鉢に彫られるはず。

それでは、と「東京酒問屋沿革史」を紐解くと、手水鉢に「総代」として刻まれている「中井酒店」の「野村慶二」の名前が大正14年以降、数回、役員名簿に見られます。

ただ、明治の終わりの名簿では同じ「中井酒店」では「原島彦七」となっていますので、恐らく「大正以降」と絞られてきました。

さらに、「大正11年度」の「組合輸入表(上方からの移入量でしょうか)」に記されているのが17社ですから、この時より後、ということになります。

その後の資料はなかなか見当たらないのですが、「昭和七年、新川第一人者の鹿島本店が廃業」「説田彦助氏の廃業と打重なり新川酒問屋に暗雲低迷の感」とあって、「かくして東京酒問屋組合店数も漸時減少し左の如き13軒の少数になってしまつた」とあります。





これらを勘案すると、手水鉢の奉納年代は、大正11年以降、昭和7年以前では、と推定されます。

もう少し絞りたい気も済ますが、時間もないので、あとは冬休み(とか)の宿題にしましょう。






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