石原加受子さんの”「どうして私ばっかり」と思ったとき読む本”を読んでいたら、次のようなことが書いてあった。
お母さんが「大丈夫、就職先は探せばきっと見つかるよ」と言う同じセリフを言った場合、「たしかに諦めるのはまだ早いな」と前向きになる子供と、何かと腹を立てる子供がいると言う。
後者の子供の場合は、それまでの親子関係に問題があると言う。
事をするたびに、親から否定的なメッセージを受け取っていた子供は、同じ言葉も全て否定的に受け止める、と言うのである。
それを読んで、私はあることを思い出した。
それは自分がまだ子供の頃である。中学生ぐらいだろうか。
当時、自分は毎晩皿洗いをしなければならない決まりがあった。
ある日父から「妹に皿洗いを教えたいから、sakeがここで洗ってみせなさい。」と言ったのである。
私は、そうかと思い、いつも通りに皿を洗ったところ、父は妹にこう言った。
「今のは悪い見本だよ、本当はこう洗うんだ。」
そして父は皿を洗ってみせたのだ。
私は心の中で強く訴えた。
「だったら、最初から父が自分で洗えばよかったじゃないか!」
でも私はそれを口に出すことはなかった。よく言えば相手を傷つけたくなかったし、悪く言えば気が弱かったのだ。本当だったら、そこで抗議することで親子関係を修復するというのが正しい方法だったのかもしれないが、頭も悪かったので思いつかなかった。
ここまで分かりやすい例もあまりないが、私の扱いは常にこんな感じで、だから親が大っキライだった。
いつかこの家を出て行ってやる、と呪文のように唱え続けていたが、魔力のように吸い寄せられ、結婚を決めるまで家が出れなかった。
そんな調子だったので、親の言う事なす事全てに腹を立てた。
この本によると、そういう風に育ってしまった大人は、自分の子供にもそういう態度を取ってしまうそうである。何故なら、自分が受けた親の態度しか知らないからだそうである。
だから私も息子に対して、肯定的なメッセージを与えることができなかったのだろう。
なるほど、そう言われてみればそうかもしれない。
今までずっと「損か得か」の世界で生きてきたのは、心から安心できる場所がなかったのだろう。
たぶん、kekeもそうに違いない。
でも私と両親の関係は、その後でだんだん変わっていった。
両親もこうして「はた」と考えたこともあったのかもしれない。
親子関係は、手遅れと言うことはないように思う。
大切なことは、自分を肯定的にとらえられようにすることらしい。
自分の感性を受け入れること。それを否定しないこと。
相手の領域に立ち入らず、自分の気持を表現すること。
だから、私はこれから好きなものは好き、不快なものは不快、と認識することにした。
kekeはまだ私よりはマトモかもしれない。
自分の思うことがちゃんと言葉に出せているからである。
それだけでも、誇りに思うことにしよう。
お母さんが「大丈夫、就職先は探せばきっと見つかるよ」と言う同じセリフを言った場合、「たしかに諦めるのはまだ早いな」と前向きになる子供と、何かと腹を立てる子供がいると言う。
後者の子供の場合は、それまでの親子関係に問題があると言う。
事をするたびに、親から否定的なメッセージを受け取っていた子供は、同じ言葉も全て否定的に受け止める、と言うのである。
それを読んで、私はあることを思い出した。
それは自分がまだ子供の頃である。中学生ぐらいだろうか。
当時、自分は毎晩皿洗いをしなければならない決まりがあった。
ある日父から「妹に皿洗いを教えたいから、sakeがここで洗ってみせなさい。」と言ったのである。
私は、そうかと思い、いつも通りに皿を洗ったところ、父は妹にこう言った。
「今のは悪い見本だよ、本当はこう洗うんだ。」
そして父は皿を洗ってみせたのだ。
私は心の中で強く訴えた。
「だったら、最初から父が自分で洗えばよかったじゃないか!」
でも私はそれを口に出すことはなかった。よく言えば相手を傷つけたくなかったし、悪く言えば気が弱かったのだ。本当だったら、そこで抗議することで親子関係を修復するというのが正しい方法だったのかもしれないが、頭も悪かったので思いつかなかった。
ここまで分かりやすい例もあまりないが、私の扱いは常にこんな感じで、だから親が大っキライだった。
いつかこの家を出て行ってやる、と呪文のように唱え続けていたが、魔力のように吸い寄せられ、結婚を決めるまで家が出れなかった。
そんな調子だったので、親の言う事なす事全てに腹を立てた。
この本によると、そういう風に育ってしまった大人は、自分の子供にもそういう態度を取ってしまうそうである。何故なら、自分が受けた親の態度しか知らないからだそうである。
だから私も息子に対して、肯定的なメッセージを与えることができなかったのだろう。
なるほど、そう言われてみればそうかもしれない。
今までずっと「損か得か」の世界で生きてきたのは、心から安心できる場所がなかったのだろう。
たぶん、kekeもそうに違いない。
でも私と両親の関係は、その後でだんだん変わっていった。
両親もこうして「はた」と考えたこともあったのかもしれない。
親子関係は、手遅れと言うことはないように思う。
大切なことは、自分を肯定的にとらえられようにすることらしい。
自分の感性を受け入れること。それを否定しないこと。
相手の領域に立ち入らず、自分の気持を表現すること。
だから、私はこれから好きなものは好き、不快なものは不快、と認識することにした。
kekeはまだ私よりはマトモかもしれない。
自分の思うことがちゃんと言葉に出せているからである。
それだけでも、誇りに思うことにしよう。
そろそろお帰りだと思っていました。
修行の旅はいかがでしたか?またブログを拝見させていただきます。
私も物事を悪い方悪い方に捉える性格ですが、kaoさんが言われるように打たれ強くなりました。
キライな学校も休まず通い、置かれた状態に我慢するということには長けているんです。
kaoさんの新聞配達も、挫折する方も多いように思いますよ。いつも頑張っていますよね。
今から振り返ると、私の親も完ぺきではなく、子供時代傷ついたこともたくさんありました。
でも自分が親になると同じように子供を傷つけていることが多いように思います。でも愛情が無いわけではなく、それが思いつめた要求になってしまっているだけ。。。。
迷いながらも、子供が後で生きる力になれるように良い時代を過ごしたいと思います。
そうですね。
記事からの文脈の流れで自分のことを言われたのかと誤解してしまいました。失礼いたしました。
親子関係って、それぞれの性格もありますし、一概にこういう状態が素晴らしいとか、こういう状態はダメとか決められないものではないかなぁ・・・と思います。
さすがにいい年の息子と母親が手をつないで道を歩いていたら気持ち悪いと思いますが・・・
仲が良いのは「親孝行」と言うことも言えると思います。^^
相変わらず鋭い感受性にあふれた
文章でいらっしゃいますね^^
読んできて本当に共感いたします。・
私もこの年で親にビシビシ言われて
ばかりで、でも親の愛情って
わかっているから恨んではいないのですが、
どうもこう物事をネガティブに考える
癖がついてしまいました。
あと打たれ強くなりましたかも・・・^^。
sakeさんはご自分を客観的に
ご覧になる力に大変に優れていらして
ほんとうにすごい。改めて尊敬いたします。・
kekeさまはそういうsakeさんがお育てになったから
ちゃんと意見をはっきりおっしゃれるのでしょうね・
誇りにお思いになって良いと思います!!^^
また、これからよろしくお願いいたします^^!!
しばらくは書き込みませんので・・・・
一般的なことを言ったまでで、直接批判したわけではないのになあ。
西洋人の躾、キビイシイことにぼくはシンパシーを覚えます。
子供も、感謝すると思うし、親もきちんと躾ける責任を果たしているように思います。
どちらもべたべた、お友達親子って気持ち悪くないですか?
虐待ではなく、愛の行為なんだと思いますよ。躾けるのは・・・・それは、せいぜい5,6歳までなんでしょうか。
長い目で楽しむという方法もあるんですね。
いつも悪い方悪い方へ考える癖があるのですが、そんな風に無理に考えるより楽しい方に考えた方がほんとは前向きになれるかも。
さらさんも遠くに引っ越す際にも、ご主人と長く連れ添う中にも、変えていったことがたくさんあるんですよね。
私もこれからさらに進化したいのです。(^O^)
年を取るごとに勉強になることが多いですね。
チャンスは何回もあったけれど、うまくいきませんでしたか。
最後の敵の2点は、手薄になっているところだったから、どうにも残念です。
ほんとほんと、
みんな頑張ったのだから良いと思います。^^
すぐにぱっとは変えられないけどだんだんならできます。
私は慎重すぎるので前へ進めない。
これではいけないと思い良い方に考えて一歩前へ。
そんなことを続けているうち日常が楽しくなって。
それは、自分の置かれた環境の中でです。
一時、悪い結果になっても
自分がこれで良しとしたんだし
状況も常に変化するので長ーい目で見ています。
良い方向に自分を変えておくと
神様がこちらに向きやすくなる気がします。
残念だったわぁ
決定力の決定的不足でしたね。
4点目が入った時は笑うしかなかったです(汗)
みんな必死だったから責められもせず。
私には出来ない事だもの。
いい言葉ですね。
人との関係って自分から変えて行った方がいいですよね。
相手が変わってくれたら・・って思うことが多いけど、誰だって人に言われて変わるのは嫌なもの。。。
と、客観的に考えれば、成人過ぎた子供にうるさく言っても思うように行かないものなのかも。
みみさんも今サッカー見てるのかな?(^o^)丿
前半の終わりで同点になってうれしいです。
「気づいた時が 変える時」
でした。
この言葉は娘が中学生の時 PTAの大会に参加した時に講師の方が言った言葉です。
子育てだけじゃなくすべての事に当てはまる言葉だと思いませんか?
実際はなかなか変えられないけれど知っていたらちょっとは勇気が出そうじゃない?
例えば、私自身が「もしかしたら私、子供を虐待してるかもしれない」と使うのはOKなのですが、他人が人に向かって「あなたは子供を虐待しているでしょう」と言うのはキライです。
「虐待」と言う言葉がある以上、虐待と言う定義があり、虐待と言う現象があるのでしょうが、それを素人が勝手に解釈して使うのは危険なことだと思うのです。
そして、私は「虐待」は親からされてもないし、自分もしていないと思っているんですよ。
・・・と、
こんな風に私は自分を守るために、言葉を使うことを始めました。
これが自分を肯定する始まりだと思うんです。
親に愛されていないと一瞬寂しい思いをしたのでしょうね。
親の一言に、傷つけられた。
親に虐待された子は、自分の子にも虐待するっていいますもんね。
早く気が付いてよかった。
ぼくも小さな記憶に、中学生の時に、ある先生に依怙贔屓されたことがありまして、その音楽の先生はとっても評判のいい先生で・・・・・傷つきましたねえ。
ぼくは子もないし、分からないのだけれど、黙って抱きしめてあげるというのは結構いいのではないかと思うのですが。
勇気を出してやってごらんなさい。
愛されているという事が子供にとってどれだけ勇気をあたえてくれることか。年は関係ないと思いますけれどもね。