そう言えば、今日は秀くんが荷造りしていて、宅配の伝票ある?と言うのだ。
さあできたよ、って何かと思えば、別れて住む娘にクリスマスプレゼントを送るのだと言う。
「何を送るんですか?」と尋ねると、絵本とかお菓子を色々買ったと言う。(でも何気にもっと違う箱物のプレゼントも詰めていた)
「うまいダンボールみつけましたね」と、とってつけたような褒め方を探すと秀くんは「家電屋で買った箱だよ」と言う。「俺はやる事はやる。」と秀くんは言い、「あんなケチな男」と陰で言われたくないのだそうだ。
前回同様、この会話になると、私は何とも言えない気持ちになる。
本当にこのプレゼントは「別れたパパからよ」と言って渡されるのだろうか。。。その家庭ではパパの話はタブーになっていたりはしないのだろうか。
秀くんが期待するように、いつか娘さんは会いに来るのだろうか。
そして、秀くんは毎回毎回、その娘にプレゼントを送るのを、どうしてわざわざ私の目の前でするのか?俺はいいお父さんと私にアピールする意図は?もうそれは充分わかっていますが、あっ、それともこれは一種のギャグ(ウケ狙い)なのだろうか?
何だかよく分からないけど頑張って。
そして私たちは年賀状の話になった。私がY子ちゃんに住所録を送ったけど、年賀状を書けと言う押し付けに思われちゃったかしら?と言うと、秀くんは「それ訊かれたよ。だから俺以外の人に送っておけばと言っておいたよ。」と言うので、秀さんは今年も出さないのですか?と言うと、もう「誰にも出してないよ」、と言う。
「社長にもですか?」
「出してないよ」
「社長から来てもですか??」
「書かないよ」
もう「書かないことにした」そうである。
「だって、切なくない?」
切ないと言うのは、自分が1人の名前と言うのもあるけど、よその家族の年賀状を見るのが切ないのもあるのではなかろうか。。。
そう思ったら、年賀状も虚しくなって来た。親戚づきあいならともかく、どうして仕事がらみの年賀状なのに子供の成長や家族円満のハガキになるのだろう?それを受け取って切なくなる相手もいるのではなかろうか。
そう思ったら、自分の自己満足の年賀状も何だか疑問に思えて来た。私の撮った写真を並べた年賀状も承認欲求丸出しの年賀状だ。
「私は今年もこうしてあちこち観光地を巡って、いろいろ写真を撮り歩いてるんですよ。」
そういう承認欲求丸出しの年賀状なのではないか。
私は内心、「家族の写真なら、私は1人で出かけた写真葉書にしよう!」と思って喜んで作っていたが、受け取った人から見たら「お出かけ自慢か」と言う虚しさを感じる年賀状だったかもしれない。
それは感じ方によるのだろうけど、そう捉える人もいるかもしれない。
いろいろ考え始めると、年賀状も考えものだ。
ただ一言「あけましておめでとう。今年もヨロシク」と送ればいいものを、家族円満の写真が並んでいたり、「こんな商売繁盛してますよ」という写真もあるかもしれない。これからは孫自慢、私のようなお出かけ自慢もあろう。
ほんとは相手によって、文面や内容は違っていて当然なのに、葉書であるゆえ、同じような写真を全員に配らねばならぬ気まずさ・・・かと言って、そこらから引っ張ってきたイラストで毎年毎年同じように出す意味があるのか??
そう思うと何だかなぁ。(もう今年は投函してしまったが・・・)
おのおのの承認欲求を満たすべく、友情と言う名前を借りるのは悪いことではない。お互いに理解しあえる分かち合える部分でもあるし。でも、それをあえて全員に送る必要かどうかはまた別の話かもしれない。
たしかに仕事相手から家族の写真の年賀状が届いても「だから何?」と言うツッコミたくなる気持ちは、いびつな私の心には実はあるんです。年賀状って何なんでしょうね。