一、眞源院様御代に上月文右衛門五千石にて被召抱候 其刻八代にて 三齋公へ村上河内申上候は
此頃熊本にて大身なる者を被召抱由申上候へば御意にて肥後は人數寄にて候間左様に可有之何
と申者かと御尋の時上月文右衛門と申福嶋左衛門太夫殿にて城代勤居いかにも御聞及被成候者
の由御意被成候 河内申上候は最早年が無御座候と承及び候由申上候へば以の外御立腹にて扨
々侍に年がいる物か今日被召置早用に立侍越後の忠太をしらぬかと御意被成候由其日のうちに
熊本に聞申候へば年寄たる侍中何れも八代の方を拝申候由遠坂関内殿咄承り申候 先年拾七人の
義士御預の刻此咄仕申候へば何れも承り被申被奉感候 河内も大坂陳にても能壱萬石被為拝領候
へとも河内申上候言と御意とは扨も/\上下の相違と書付置候 我等式も年寄申候へば別して
/\奉感調候内に感涙仕候 武士たる者は高下なく身を捨御静謐の世には夫々勤申役儀に身をす
て勤がたく存候事は断申候ても又相應の勤も可有事に候 役料にはなれ難く兎や角と能き手立を求
申上をかすめ申様成者は大小ともに數十年の間の事近年廿年餘致休息思ひ合せ申儀多有之候
右の御意の通に御代々思召候て御取立多くは御代々被召仕候 子供何も親同前に思召家を御潰し
不被遊候様に養子迄如願被仰付候 此御恩を奉存候はヾ親々よりは精を出勤候筈に候へとも或は
世上の仕合よきへつらひ者の不實成者を浦山敷存御為と存候ても傍輩へさわりありて迷惑仕者も
色々取なしにて能成候 實成る者は多くは働不申事遅く埒明候へ共誤り少く發明と申者又は埒明け
申は多くは當時の間にあひ候へとも以後にはあらはれ申候兎角我が心にて御為存る事道に叶たる
事と或は御為には少御損も可有之哉併御家中御國中の為に成り申事は少の御損にても大き成御
仁政に成候へば身を捨て可申上事に候 我等十年斗勤申在江戸にても如形大勢の諸侍城中下咄承
候へども百は百ともに御為/\とばかり承傳候 是は少御損参り候へ共御家中御國之為と申事一言
も承り不申候 昔の咄は當世にはあわぬ/\とばかりにて當世/\御意に入候様はかり上中下共に
勤申たる事能覺申候 長谷川久兵衛と申仁老父心易く度々悔被申たる事覺申候 拙者もその時分は
不入事を被申候なとと存候へとも扨々近年に成申 扨長谷川は能被申たる事哉と先見の明と聖賢
の書に見え申候 如形文盲成る仁にて候へども志は聖賢に叶たると存候一国壱人と存る尤おろかに
て心付不申者は天罰も蒙り申間敷候 世を渡ることのみ工夫仕時々にあわせ我身の為ばかり存候
者上中下覺申内に罰を蒙りたる人多く有之候 誠に/\當世は明将少く善悪分り兼候へども天道は
明らかに罰を蒙り申と奉存候 右之通昔は御用立■申侍は五千石にても他國にて名顕はれ申者は被
召抱候 幸に御家代々被召仕候者夫々に禄を被下被召仕候者我身を■ひ御奉公をば不實に勤め上
に御免被置候ても御代々の御罰蒙り申も天罰同時に奉存候 八十に成候て如此書置候事も心底に
は隠居相應の忠節と存候 大坂御陳の時松平加賀守殿内に家老の隠居松平阿波守殿内に家老の
隠居何も七十八十迄堅固相勤候由にて東照宮御父子様より御褒美被下候 難波戦記に見へ申候
我等一代御静謐にて戦場の御奉公不申儀は不及力事に候 せめて同名中の内へ御静謐の内には
其段々に被仰付候勤を身を捨相勤られ御用に立被申かしと日本國の尊神奉存上候儀一ッの忠にも
成り可申や拙者子孫は不及申堀内名乗申中大勢有之候へは何も同前に可有之事にて候日本國中
の昔より武士たる人名高書置候書物に御覧可有候人と生れ成ましき事に無御座候 心懸申様にと
世々書置候 御静謐の世には夫々の勤戦場同前に可存事に候
一、私歩の御使番の砌江戸竹御門未た小屋なと出来不申候刻宗宇御門の向に居候刻御供仕御歩行
にて被成御座候 御側のわかき衆中四五人被召連被成御座候刻折節五月朔日にて青山之方の昇
なと被成御覧 あれ見候へ青きは竹木にまきれ見へ兼候白きと赤き黄なと能見へ候 何も心を付け
差物抔可仕事と御意にて馬役の者共に申付候而駒なと遠乗にのり申昇を見せ申様に被仰付候
折節馬場に節々出申馬乗り候自分故細々遠乗に可参と悦申ひたと尋候へとも失念被仕候か右之御
意御馬役終に承り不申由 扨々不及是非心底様々御用も多く出頭にて御意を夫程大事に不存候故
名は書付不申 皆々拙者に十も十四五も弟に候へとも何も疾く果申候御主の罰と存候
一、同名文左衛門熊本にて被参候刻大坂に金紋のあをり可申遣とて注文調へ候所へ被参候て扨々御
家中に居申不存候哉御家のとう油のあをり其外皮籠或は具足箱刀箱は御旗本衆御心安衆より前
々より御貰ひ被成候 角入拝領の刀箱挟箱見申候へ第一戦場にて人に能きと御申候
光尚公御意に小身なる者は不断指申大小を陳場へ差申心得にて柄頭小尻前々より差被申候
御意の通ともっともに存候て覺居申候
一、角入老へ弾蔵殿若き時陳桶の儀申来候節居合候而承候 若き者の申越候故申付遣候 わりこなと
役に立つ事にてなく候 常々給申わんを糸そこを引切候て持参能きと古人申たる由御申候 島原の刻
承候に箱或は桶の類皆々ひしけ申候 皮の類にてなく候へはくたけ役に立不申候由拙者陳場馬ひし
やく革にて申付候 柄杓は長岡與八郎殿中間持候て御馬屋に参候時見覺申新知拝領之時申付候
陳桶革にて塗り不申からし申候て置候事関内殿見被申扨も/\能物數寄とて事の外誉被申候 親は
討死祖父越後は隠なき武功の人兄の孫九郎は追腹段々の血筋の人誉られ嬉敷存候つる
一、角入老江戸にて御咄被成候 老父三盛は古き事覺居申し候へとも話數寄にて事永く成候故尋置不
申事残念至極と神以被仰聞候
萬葉に 物はたヽあたらしきよしひたはたヽ
ふりぬるのみそよろしかるへし
此歌の心と存候
平九郎殿へ申候
古き事御聞被成度むかし御慕ひにて覺候事共申候へと被仰聞候御尤に存候て覺書の内あらため
如斯段々書付進申候 最早致出府御咄申事は有間敷候 折々御覧被成候様にと存候 拙者も御同前
に存書付置候 自然御心得にも成候へば本望に存候 各へ申入候何もと申心にて段々思ひ出候書道
候故御意なども無勿體存候へ共書置申候
一、山田竺印江戸へ被参候刻古佐渡殿・古監物殿へ暇請に参被申候へは御両人共御入國迄は存命
ましく候間貴老へ申置候 在江戸中に御機嫌見合被申し両人申上候と可被申候 妙解院様たとえば
御客御座候ても即刻御廣間番見かけ候間御口上も不承誰様御出と申上候へは其儘御出被成候故
御書院へ御通候而夏は御汗も不被入冬は火鉢も出申さぬ内に御客衆に御逢ひ被成候
真源院様は御病気にて御痔を御病被成候事多く御自由に被成候ては中々おそくたとへば御客方御
出被成候而も御口上御聞被成扨御取次衆も段々に有之申上候故御書院へ御通候にも御客方御待
兼被成候 右御両所さまの間を御思慮被成候て宜敷様に被遊候様に申上候へとの由拙者幼少にて
茶の宮仕を仕候て覺へ申候 御尤成被仰上と書付申候
一、江村節齋先年咄被申候は珍敷傳承り申候 松平左京太夫様御出被成候 此頃法輪院様へ参候へは
其刻左京太夫様御入候て御意被成候は節齋は御城の様子存間敷候間咄聞せ候 越中殿公儀わゐ
唯今同列に無之様子に候間悦申候へ しかしながら親父肥後守殿には被及と思召候 唯今に肥後殿
は若く候時より病気にも有之候哉唯今に肥後殿間と申御禮済申前御休息所有之候 冬は火鉢出候
よし唯今御三家の外に火鉢出申事は無之候 是を思召候へば肥後守殿には被及ぬと思召との左京
様御咄にて初て承ると節齋申聞候 乍恐能々了簡仕候へば保壽院さまは 権現様の御嫡孫にて岡
崎信康公の御孫にて其筋目故かと奉存候 御家にて終に不承候事とて節齋被申聞候 此儀は多分
御聞及び被成間敷と書置申候 三十一にて御逝去被成候へば其内の儀と奉存候
一、京極丹後守殿に今野一郎兵衛と申千石被下丹後殿隠居被成候て安智と申候迄勤居候十二三之
頃南禅寺にかむろにて居申を丹後守殿御所望被成被召仕候 加藤式部殿御改易の砌被仰渡外へ
委細知れ兼候故右一郎兵衛は在江戸の一類多く有之候を丹後殿能御存知にて候ゆゑ其方は一類
多き事に候間今度式部少へ被仰渡之趣とくに承て帰り申上候へと御申付候て初て使者に出申候
並無出頭ゆゑ常々そねみ申者多く初而使者に出候間つくし申かしかられ可申などヽ批判仕候内に
罷帰候て直に罷出御尋之通御改易之被仰渡江戸中之沙汰一々不残申上候へは丹後殿機嫌悪敷
其儘閉門被申付候 其時に右の批判仕候者共夫見よ常に出頭にて初め使者勤閉門仕候とて打寄
/\笑ひ申候由 四五日程有て例年茶の口切の時分いつも家老相伴に出候迄にて外に出候者は無
之に右の一郎兵衛罷出候へと被申付京極之家に傳り申刀を御取寄候へは皆々承及手討に逢申候
と其身も存罷出候由 扨家老壱人居申處に其外用人共歴々御呼寄被申聞候は今度加藤式部殿御
改易之被仰渡委細御聞不被成候故何も存之様に一郎兵衛儀は江戸へ一類多く有之故世上之沙汰
能々承り候て申聞候へと申付候處に式部少事第一侍共之召仕様悪敷或は暇を遣候様なる者は切
腹申付切腹可申付者は成敗仕尤領國之仕置も悪敷有之候へども第一は家頼とも被召仕様悪敷御
改易と沙汰仕候 扨此次には御前之事を式部同前に世上沙汰仕候由申聞候に付我等も風と腹立候
故閉門申付候へとも能々致了簡候へば扨も/\ういやつ慥成者と存候 尤我等家にも武功之者共
品々多く家代々の者も多く用に立可申と存る者も候へ共唯今迄我等身の上の善悪申聞候者壱人も
無之候 此後も随分心底を不残一筋に勤申候へ 是は皆々存たる我等先祖代々相傳の刀にて候へ
とも今度の褒美に被下候由にて御加増にて千石に御申付候由 幼少の時は皆鼻をたれ候故成人に
て出頭の時もはなたれ/\と申何もそねみ申候由其時節世上に知れ一番鑓一番首は多き事に候
へ共其上たるへき批判仕候 無双の忠臣と申たる由於江戸上月八右衛門所にて咄を承候而書付置
候 右之安知老は京都に御座候て御子息丹後殿は私初江戸之刻御改易上屋敷大名丁は酒井左衛
門尉様御幼少の時小五郎様と申時御拝領被成候能覺申候
京極丹後守(高知) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E7%9F%A5
加藤式部(会津騒動) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E9%A8%92%E5%8B%95
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肥後拵えの原型といわれる忠興所用の「六歌仙」(三十六歌仙とも)
八代に於いて忠興が家臣六人を手討ちにした事に命名の由来があるという。
一、三齋公八代に被成御座候刻紀伊大納言様より申来候は御老躰にて御申兼被成候へ共此刀は加
藤主計頭清正より御もらひ被成候刀にて御座候 拵古るく成り申候間御物数寄にて御拵被成被下候
へ 御慰にも成候へは御本望之由にて被差越候由八代町中古き鍔なと御取寄被成御物数寄にて御
拵被成被遣候由三浦九郎兵衛 三齋公御兒小姓にて被召仕候 先年在江戸之砌遠坂関内殿小屋
にて咄申候處旦夕覺書付置候 近年も細川和泉守殿に松平越中守様御相役の時に和泉守殿は御
家の事に候間 三齋の物数寄も御存知可有候へとも御拵見候へは當世にて候 拙者所へは 三齋御
物数寄大小の拵三通迄致所持候 寫し拵進可申との儀と江戸にて承及申候 定て其通と存候 唯今伊
豆守殿御家来共存候拙者覺申し候而も五十九年以前に初江戸にて参候 其時分は御家中うね打と
申候て下緒何れも上下の侍中下ヶ申候 京伏見すあゐの女まても細川の御家中斗と申候 其外は
大方唯今御座候かいの口其外色々時々はやり申下緒にて候 横山九郎右衛門御腰奉行の時
綱利公むらさきのうね打ち御下緒古きをもらひ小サ刀の下緒に仕に今能仕召置候 唯今の若き衆は
うねうち見申間敷候 右之通に御座候 右之通に御座候へは刀脇差の拵さへ當世に成申候 其後細
川丹後守殿長岡筑後守殿なと江戸にて見申候へは大小ぬり鮫多御座候間舎人殿なとも後にはぬ
り鮫多成申候 御幼少の時の御拵御柄鮫なと拂に出申候 私も取申候 不残塗鮫にて御座候 大木隼
人殿御小姓頭之時御玄関前にて見申に薩摩守様・陸奥守様・加賀守様御腰物皆々塗鮫にて金拵
は見へ不申候 赤銅多きと被申候 加賀守様御供衆いつも皆其近所に居申候心付見申に四人宛腰
かけに居申内壱人脇差白鮫金拵にて候 三人は赤銅拵にて同し人度々出合見申候 唯今の
太守様宣紀公先年泰勝寺にて見申候御刀塗鮫にて扨々目出度事と乍恐奉存候つる 役所も他家に
ては細川家ちらし紋と申候由村井源兵衛事御家に参候て七所紋付申御家中付申さぬ男を事の外笑
ひ申候 有吉殿小笠原は昔より七所紋被申候 能覺申候 拝領多く候故其外之衆自分之紋七所に付
申たる衆すくなく村井か笑ひたるも尤御先祖以来の御紋さへ失念と見へ申候 其外の失念は尤也
常に心の内をかへり見て一點の私欲邪念あらば早く去るへし 私欲とは名利名貨の欲とて名聞を好み利分を好み色を好の類并耳目口體の好む處の私する欲を云ふ 邪念とは人を虐け人を怒り諍ひ私自身にほこり人をあなどり人をそねみそしり人にへつらい人をあざむき偽る類をいふ 皆是邪悪のこヽろ也 若是等の事露斗もあらばすみやかに去べし 心を害する事甚敷けれはなり 又気質の偏あらば勝べし 気質の偏とは生れ付にかたおちたる所有を云 気あらきとはさはかしきと又やわらか過てよわきと或はや過たるとにふくゆるすきたるの類 或生れ付ていかり多く欲深き類を云 皆是気質の偏也 心を害す凡気質の悪敷所を変化する事は極てかたし 平生心を用てかたすんばあるべからず 又あやまちあらば速に改むべし 過とは工みて悪をするにあらず是非を知らずして不意に道理にそむくを云 気質の偏により私慾の妨みよりて過を成す事多し 人聖人にあらず誰も過多し 過としらば速に改て善に移るべし 吝かなるべからず吝成とは過をおしみて改兼ねる云 凡私慾邪念気質の偏と過と此三ッの物ありては心術を害す 心を正敷し道を行んとすれども是等の過悪有て去されば徳に進べき様なし 假ば田を作るに莠を去されば水をそヽぎ肥ても莠のみしけりて苗に益なし 先莠を去りて水と肥を用るが如し 亦身の病を去りて後保養するがごとし
日新之覺
一、忠孝武ノ三道片時モ不可忘此三ヲ能ワキマエ勤行事學ニアラザレバカタキ事
一、侍ノ格ヲハツサス一身ノ威ヲ不可失但威ヲ立ントスレハ威ヲ失フ事
一、邪智ヲ拂ステ心ハセテ誠實ナラシメ武略ノ外事を巧ニスヘカラサル事
一、行跡ハ正ク堅キ所肝要之事
一、言ハ少シテカリニモ偽カサルへカラサル事
一、義ニヨツテ交リ信ヲ以テナムヘシ不依親疎無禮スヘカラサル事
一、弓馬兵法等ノ家藝ニ不怠兼又合戦勝負ノ道ヲタツネ學フ事
一、好テ戯ノ遊宴ヲナスへカラス武器ニタヨリテ気ノ屈テ散ヘキ事
一、物ヲ玩ハ志ヲ失フトイエル言不可忘事
一、人ノ非ヲキラヒ嘲へカラス身ヲカエリミル事
一、神道ヲ能信シ尊テ聊モ軽シ奉ルへカラス但罪ヲ天ニウレハ■所ナシトイヘル言貴カナ
右何レモ中庸ノ徳ヲ不可失
一牧士書 蒲池三郎兵衛
一、奉公之仕様新参に出たる時の志を後迄不可忘
一、孝行之為様身之養生を能して不煩を孝の第一とす
一、傍輩之者相廣交慇懃成がよし
一、内之者之使様教を先として呵事を次とすべし
一、所務之仕様免を軽くして催促を厳敷するがよし
一、造作之仕様丈夫に成果を本として奇麗を次にすべし
一、諸道具調様能物を高値に買がよし
一、軍法以味方實待敵之虚討
一、日取之事天気清明之日を吉日にすべし
一、身之行勇にして分別有て物言和かなるがよし
一、三悪とは偽と盗と臆病と也
従若至于老可恐可慎者此三也
赤松則祐の歌
もてあそふその品々はおふくとも
常にわするなものヽふのみち
南条元信(大膳-以心)の養嗣子・元知は細川忠利の四男である。井上正氏の論考「南条元宅とその一族」にある「南条系圖」にある「細川忠利二男」は明らかな間違いである。寛永十八年(1641)二月廿七日の生まれ、寛永二十年(1643)には大膳の養嗣子となった。(三歳)大膳とその室・鍋(細川興秋・女)の間には女子(伊千)があるが、男子がなかったためであろう。伊千は米田是長に嫁ぎ寛永二十年娘・吟を生み、正保二年(1646)死去した。承応三年(1654)元知(14歳)は養母の孫娘である吟(11歳)と結婚、明暦三年(1657-17歳)に元服する。万治二年(1659-19歳)500石拝領、万治三年養父・元信の隠居に伴い跡式相続、寛文五年(1665-25歳)で家老になった。
そして寛文九年十月(1669-29歳)で思いがけない事件に遭遇することとなる。
いわゆる「陽明学徒追放事件」であるが、高野和人氏の著「肥後の書家・陽明学者 北嶋雪山の生涯」に詳しい。幕府は朱子学をして官学と定めてきた。寛文七年熊本には幕府巡見使が入り、肥後の陽明学は比較的高禄の士の信奉するところが報告されたらしい。そして寛文九年藩主綱利の帰国早々陽明学が禁じられることと成った。そして御小姓頭を勤める二千八百余石を拝領する朝山次郎左衛門や、北嶋雪山など十九名にお隙が言い渡されたのである。史料はその理由について何ら述べていない。
幕府の圧力に対し藩内でも是非の論議があり、藩主綱利にとっては叔父に当る長岡左近(南条元知)が諫言したとされる。十月六日の「御奉行所日帳」には「長岡左近殿御儀今日御前にて病気に御成候事」とある。八日には「左近殿乱心に付御知行上り」となる。侍帳の「寛文元年以来病気乱心ニ而知行被差上又者依願御暇被遣候面々名付之覚」には、寛文九年十月十一日 「煩ニ而知行被差上候 五千石 長岡左近殿」とある。十月廿六日隠居料二千俵を賜り竹部村に蟄居した。十一月五日剃髪して道固と称する。元禄十年(1697)に至り、藩主綱利から頭巾・小袖などが届けられた。この時期28年に及ぶ蟄居が解かれたとされる。
なんともお粗末な綱利の仕様である。道固はあたらの人生を棒にふった。元禄十六年(1703)死去す。元信-吟夫妻の嫡子是庸は延宝五年(1677)命により米田是長の養子(外祖父養子)となり、家老米田家を継ぐことになる。これにより南条家は絶家することとなった。
南条家及び細川興秋家の血は米田家により継承されていく。
次回は興秋女・鍋--伊千--吟の三代に亘る女性にふれたい。
南条元信は隠居後以心(意心とも)と号した。晩年以心の身に不可思議な事件が起こる。真実は何なのか窺い知れない。名家の胤の故をもって、細川興秋女・鍋を室に迎えている。お鍋さまの心労は如何ばかりであったろうかと察するにあまりある。種々史料から事件に迫る。
公儀先御代御窺等之覚書 (旧事集覧-切支丹之事)
寛文九年南条大膳事隠居被仰付名を以心と改、在郷ニ罷有候処乱気に成、道路之辻ニ而諸事放埓成行跡多ニ付而、左近(養子・元知)知行所江押込置申候 其後気色少能様子ニ付心侭に仕候処、切支丹宗門之者有之之由、長崎御奉行松平甚三郎様江書付を以て被申上、其趣従甚三郎様太守様(綱利)江被仰越、以心手前被遂御穿鑿候得共、皆以不実之由ニ付其段松野亀右衛門・佐藤安太夫を以甚三郎様江委細被仰達候 不実之儀ニ候へとも宗門之事儀ニ候間、御序以第右之様子於江戸北條安房守様・保田若狭守様へ甚三郎様より可被仰進之旨ニ付而、太守様よりも被仰達候処、大法之儀候間以心長崎へ被召寄甚三郎様被遂御穿鑿候様ニと御老中より申来ニ付而、以心儀早速長崎へ被指渡候之処、御穿鑿之上弥不実成儀故、如此方へ被指帰、其後御城内ニ被召籠置候事
上記のように元信は放埓な行跡があり、切支丹ではないかと届けるものがあり長崎奉行所で穿鑿が行われた。寛文九年十二月十五日に長崎に護送し、穿鑿は翌年三月迄かヽり「不実」となされ三月二日熊本へ帰った。しかしながらなぜか城内の質屋(牢)に一生留め置かれたというのである。不可思議な事件であるが、その間の種々の動きが「御奉行所日記」などに記されている。
■寛文九年十一月廿六日
一、御家老中御同座ニ而大蔵殿仰渡候ハ、南条以心儀竹ノ丸しちやへ御入被成候間、繕なと有之候ハヽ
丈夫ニ可申付候 以心儀松野亀右衛門所ニ居被申候今晩中ニ竹ノ丸へ被遣候様繕等急度可申付
候 出来候ハヽ大蔵殿へ御左右申候被仰渡候事
意心上番ニ歩之御使番衆六人申付両人宛夜白かけさる様に念を入相詰の可申由申渡候へと被仰
渡候事 下番ニハ足軽可申付由
意心在所ニ被居候家頼のもの共今晩被召寄候 御鉄炮頭衆前川彦左衛門と栖本又七被仰付候
家頼之者共からめ不申其侭召連被参筈ニ被仰渡候 両人衆ニ足軽を付被遣筈ニ候間可申付候
家来之もの十人可有之哉之由候間足軽廿人程申付可然之由被仰渡候事
一、意心被給物之儀念を入可申付被仰渡候事
■ 同 廿七日
一、服部武兵衛儀只今長崎之御使ニ被遣候間■びニ遣可申由并舟之儀川尻へ早々可申遣通御家老
中被仰渡候ニ付右之趣御奉行所へ申遣候事
一、意心家頼内田勘右衛門を服部武兵衛ニ付ヶ只今長崎へ被遣候間船中賄之儀可致沙汰由御家老
中被仰渡候ニ付御奉行所へ右之様子申遣候 勘右衛門ニも右之様子被申含候ニと申遣候事
一、意心家頼何も不残在所/\へ被遣可申御用之時ハ可被召寄候 むさとしたる儀を不申様ニ可申付
由御家老中被仰付候間松野亀右衛門・佐藤安太夫被申候事 其後大蔵殿御帰り道より使を被遣右
之趣被仰聞く候事
一、松野亀右衛門・佐藤安太夫此両人明朝長崎へ御使ニ被遣候 御いそぎの儀ニ而候間御舟之儀今
晩可申遣由助右衛門殿被仰候ニ付御奉行所へ申遣候事
■ 閏十月朔日
一、南条以心儀ニ付長崎へ為御使者松野亀右衛門・佐藤安太夫今夜五ツ過ニ爰元被差立候事
覚
■ 同 十八日
一、南条意心銀子たくわへ有之借付被置候様ニ御家老中被成聞候 是はかり取ニハ仕らせ間敷事ニ候
間何とぞ吟味仕 借り先知候ハヽ其沙汰仕取立おなへ様相渡可然思召候 次郎右衛門以心在宅所へ
参候時銀子など有之様子ニてハ無之候哉と御尋ニ付草籠の内ニ銀子入候袋弐ッ有之を以心家来
と御鉄炮之小頭相対を仕置候由申候 此外ニハ銀子有之様成荷物無之由申候ヘハ何を吟味仕候ハヽ
借分之銀子知可申哉と被仰ニ付 以心今迄召仕被申候家来を召寄承候ハヽ大方知可申候 借付之日
記なとも有所知可申由候ヘハ其通沙汰可仕候 つかへ申事有之候ハヽ監物殿へ御尋可申候 御月番
被成御聞様子ニ候ハヽ助右衛門殿へ申候へと被仰候事
■ 同 廿五日
一、南条以心借置被申候銀子之書付御家老中ニ懸御目候処被取立候而おなへ様へ可相渡由被仰候
一、同人家来三人給金之書付右同前ニ懸御目候処ニおなへ様へ申入差図次第ニ沙汰可仕由被仰候事
■ 同 十二月十五日
一、南条以心儀明日長崎へ被遣候間籠乗物申付上ニ者ほそ引のあみを懸、今晩中ニ出来候様ニ可申
付候 御使者ニハ松野亀右衛門・佐藤安太夫遣候間御舟之儀をも可申付由 助右衛門殿被仰付則御
城御奉行所遣候事 尤被付遣足軽以下も沙汰仕候へと申遣候事
一、南条以心へ松野亀右衛門・佐藤安太夫只今被遣候間方当御門被通候様ニ可有御沙汰候
一、同人ニ被付置候歩之御使番之内両人長崎へ付被遣筈候間可被仰渡候事并足軽十人付被遣候事
一、同人乗物之儀先刻籠乗物と申入候へとも只今又助右衛門殿被仰候ハ常乗物丈夫成を少々繕被
申付上ニあみを懸可然由ニ候間左様心得可有候事
一、乗物、御舟家形之内ニハ入申間敷候間家形無之御舟か又ハ御馬舟なと可然由亀右衛門・安太夫
被申候間其御沙汰候へと申遣候 右之分御城御奉行所へ申遣候事
一、亀右衛門・安太夫上下付ハ先日のことくニ而候間先日之通御舟二艘可申付由被申候事
一、御いしや水野了元被遣候 此段助右衛門殿より被仰遣候間被仰其意候へと御奉行所へ申遣候事
一、以心ニ被付遣歩御使番衆両人と最前申入候へとも只今亀右衛門・安太夫被帰御家老中へ被申上
候ハ四人被付置可然由ニ候 両人衆如被申候四人付可遣由御家老中被仰候間其通ニ被仰渡候へ
と御奉行所へ申遣候事
一、以心衣類見苦敷由候間小袖三道服壱ッ仕立候而可遣由御家老中被仰候事
一、亀右衛門・安太夫舟ニ小早壱艘付可遣由御家老中被仰付御奉行所へ申遣候事
■ 同 十二月十六日
一、南条以心儀今日長崎へ被遣候ニ付松野亀右衛門・佐藤安太夫并医師永野了元歩之御使番松木
又兵衛・坂本長兵衛・奥村助太夫・成瀬彦右衛門・御鉄炮衆十壱人・内小頭壱人・御長柄衆弐人被
付置候 舟中先様賄のため御料理人右田八右衛門ハ荒仕子弐人被付遣候事
■ 寛文十年二月廿八日
一、南条以心迎舟之儀最前渡海之通被沙汰仕 早々差越候様ニと被仰出由 大蔵殿被仰渡候間被得其
意急度河尻へ可被仰遣候
次ニ長崎より参候書状共被差越致一覧不残返進申候間左様御心得候へと御奉行所へ申遣候事
■ 同 三月三日
一、御状令拝見候 然者以心儀無別条夜前更ニて河尻着船候由就夫以後被召置候所最前之所にて候
哉御聞有度由被仰越候 最前之所ニ被召置筈候間左様御心得竹ノ丸御門より入被申候様ニ可有御
沙汰候 御紙面之通則御家老中へ相達申候 恐々謹言
三月三日 奉行中
松野亀右衛門殿
佐藤安太夫殿
御報
一、松野亀右衛門・佐藤安太夫以心致同道河尻迄差付候由にて書状被差越候 御家老中へ遂(ママ)御
目候処ニ達御耳可申由被仰付候 右之書状柏原新左衛門ニ相渡被達御耳候様ニ申候事
一、以心御番ニ最前被付置候人数只今の人数書付候而後程助右衛門殿やとへ遣可申旨被仰候事
一、松野亀右衛門・佐藤安太夫・永野了元御花畑御家老中間へ差出候事
一、以心方へ御なへさま・左近殿ト音信なと有之候ハヽ相改候て届可申候 其分わきより之音信御取次
申間敷候 何も御相談ニ而右之通ニ御極候由助右衛門殿被仰渡候事
一、不断たはこを数寄ニ而請被申候 番衆ニ申渡置きせるさをを長くにいたしつはをかけかこいの外に
火を置番衆付居候而内ニきせるを引取被申候ハがんくび落申様に拵のミ被申様ニ可仕候 番衆ニ火
の用心堅申付右之通ニ可仕旨御三人ニ而被仰渡候事
■ 同 十八日
南条以心被居候所御本丸ニ往来仕候もの見こミ申由以心悔之由御家老中へ相達候ヘハ佐渡殿・
監物殿・助右衛門殿御究ニ而被仰候ハわきへ被遣事ハ不成候間御本丸内別ニ被召置可然所有之
ハ召置可申候 無之候ハヽ出入のもの見こミ不申様ニ可仕由被仰付候
一、南条以心被召置候処御繕出来申候如何うつし可申哉又以心被申候ハ髪をふりかふり居申候而目
まわし又頭痛も仕候間つみ申度由爪長く迷惑申候間取申度よし 被申通助右衛門殿へ申達候ヘハ
則柏原新左衛門を以て被得御諚候ヘハ勝手次第うつし可申候 髪はつミ被成候ともそり候とも望之
通爪も取せ可申何も番之もの付居候而の儀ニて可仕旨被仰出候由助右衛門殿被仰候事
一、柏原新左衛門被申候ハ先日皆共申候以心衣類之儀達御耳候ヘハ時々の衣類さむくあつく無之様
ニ沙汰仕遣可申由被仰出通被申渡候 同時ニ助右衛門殿被仰候ハはな紙以下迄おなへ様へ申遣
事ニ而ハ有之間敷候間右之仰出の上ハケ様之儀も奉行所より沙汰仕へきよし被仰候事
何が原因で一生を質屋暮らしを強制させられたのか、今ひとつはっきりしない。
以心(元信)は天和二年(1682)に亡くなったとされるが、13年に及ぶ質屋暮らしであった。
この事件が起きた寛文九年養子である南条元知は、陽明学徒の追放事件にあたり藩主綱利に諫言して不興をかい、永蟄居の処分を受けることになる。(10月6日)
次回はこの事件とともに南条元知(細川忠利末子)の事をご紹介する。
紀伊古大納言頼宣公御制法
父母孝行守法度へりくたり不驕人々勤家職正直を本とする事誰も存たる事なれとも■下へ可申
聞者也
右之通被仰出候由にて熊本にて寫置候六十二三年に成可申候 殉死御制禁之事も紀伊大納言
頼宣公被仰上たるよし諸大名家中之證人も此時節御赦免かと覺申候 拙者覺候ても御家中よ
り御一門にては細川刑部殿御家老衆并御城代田中左兵衛此分と覺申候 其後御法度故追腹之
沙汰不承候 右之紀州大納言様は其刻聖賢之様に沙汰仕候
仁 忘自恵他救危扶窮都テ於物先■觸事ニ有憐心名テ謂之仁
他を恵み我を忘れて物ことに慈悲ある人を仁と知るへし
義 富て不驕積テ能施■天■地凡交衆不静守謙相譲名テ謂之義
へつらわす奢る事なく諍す慾を離れて義理をあんせよ
禮 臣尊君子孝親兄敬老愛幼居上不悔為下不猥名テ謂之禮
君をあふき臣を思ひて假初も高きいやしさ禮義みたすれ
智 廣學詩文■■萬藝温故知新凡三度思■是非分■名テ謂之智
何事も其品々を知る人にひろく尋て他をそしるなよ
信 心直詞正非■不行非道不興惣テ不筋内外勤行有眞名テ謂之信
心をは直なるへしと祈るへしあしきを捨てよきに友なへ
心に物ある時は心狭躰窮屈なり物なき時は心廣體ゆたか也
心に我慢ある時は愛敬を失ふ我慢なき時は愛敬そなはる
心に欲ある時は義を思はす欲なき時は義を思ふ
心に飾ある時は偽をかまふ飾なき時は偽なし
心に奢有時は人をあなとる奢なき時は人を敬う
心に私有時は人を疑ふ私なき時は疑ふ事なし
心に誤り有時は恐る誤りなき時は恐る事なし
心に邪見有時は人をそこのふ直なる時は人をそこなはず
心に怒有時は言葉はけし怒なきき時は言葉柔なり
心に貧有時はへつろふ貧なき時はへつろふ事なし
心に堪忍なき時は事をそこのふ堪忍ある時は事とヽのふ
心に優なき時は悔事をなし優有時は悔事なし
心に自慢ある時は人の善をしらす自慢なき時は人の善を知る
心にいやしき時は願發る賤からされは願ふ事なし
心に迷ひ有時は人をとかむ迷ひなけれは咎る事なし
心に誠有事は分を安んす誠なき時は分しらす
草々のほと/\における露の玉
おもきはおつる人のよの中
八十歳
享保九甲辰十一月十七日 堀内旦夕入道判
堀内傳右衛門殿
同 小傳次殿
(花の巻・・了)
寛永十五年戌寅六月廿四日 忠利公被仰出覺
覺
一、御蔵納之儀は土免に被仰付其上にて水損日損虫喰なと候へは検見之上にて免相定所務萬事之
儀御代官如此段々被為仰付置候上は別儀有之間敷と思召候事
一、御給人方百姓に對し非分有之間敷と思召候へ共小身成者亦は江戸上方に詰居候者しかと仕たる
下代持申間敷候間自然所務なと仕様むさと仕候儀も可有之と思召候 自然御給人により非分成儀百
姓に申懸候はヽ御代官御郡奉行沖津作太夫聞届其所務判之御年寄衆へ致相談埒明可申旨御意に
て如斯被仰出と有之候はヽ百姓奢り申儀も可有之候間其段御代官頭御郡奉行江堅可申付旨御意
之事
一、今度島原討死病死仕候跡目被遣候子供幼少にて所務成間敷と思召候間御代官より御蔵納同前に
所務等申付物成其給人に相談候様可被申付候事
一、御國中を大方三ツにわけ御年寄衆三人にて一年代りに余の郡へ無構銘々受取之郡々を先三年萬
事可被申候事
右之通被仰出上は御給人之儀は不及申御代官御郡奉行にても非分之儀於有之は言上可 被仕候不
届に極り候ハヽ其者に切腹被仰付儀斗殿様御存知被成旨御意御座候
以上
寛永十五年戌寅六月廿四日
佐渡殿
頼母殿
監物殿 并
河喜多五郎左衛門
椋梨半兵衛
沖津作太夫 江
・・・・・・・・・・・・・・次項は細川家のものかどうか不明である(備中なる人物の特定が出来ない)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
條々
一、民は國の本也御代官の面々常に民の辛苦を能察し飢寒等之愁無之様可被申付候事
一、國寛なる時は民奢もの也 春時は己か事業に懈り安し 諸民衣食住諸事奢なき様に可被申付候事
一、民は上へ遠き故に疑有もの也此故に上よりも亦下を疑事多し 上下疑なき様に萬事念入可申付事
一、御代官之面々常に其身を慎み費なく民の農業細に存候はヽ御取立等念を入宜敷可費申付候 惣て
諸事手代に不任自身勤儀肝要候 然時は手代末々迄私有有間敷事
一、面々之儀は不及申手代等に至迄支配所の民私用に仕はず并金銀米銭民より借亦は借し不申様堅
可被申付事
一、堤川除道橋等其外諸事常々心にかけ物毎不及大破時支配所へ達し可被加修理百并(ママ)姓訟論
ヶ間敷儀有之節は軽内聞届内證にて可相済儀は依怙贔屓なく不及難儀様可被申付候事
一、面々御代官所替又は私領相渡節は銘々未進其外諸事無油断常々念を入第一御勘定所無滞様に
可被掛心事
右之條々堅可被相守之事
延寶八年閏八月 備中列
御代官中
一、大友家の侍森迫三十郎甲の前立物三本菖蒲金にして討死の時
命より名こそ惜けれ武士の道をは誰もかくや思はん
一、冨田信濃守知信は関ヶ原御陳泰平の後被召出伊與國宇和島にて拾貮萬石賜也 或説曰勢州の城
にて籠城かなひかたく信濃守自害せんとありし時上田吉之允か児小姓佐治頼母と云者信濃守前に
来たり申けるは味方の言今に支て罷在候 某見て参らんと出し處に敵四五騎早城に責入けるを上田
吉之允佐分利九之允二人にて支へたる所に佐治も馳付鑓にて一人突伏る かヽる所に扱に成城渡
す 此時信濃守より佐治に作の鞍鐙を賜る 頼母は後に松平新太郎光政家に来て佐治縫殿と號領地
線石にて足軽預りたると也
此佐分利は當御家の佐分利也 佐治頼母事は老父三盛度々咄候被申候
一、難波戦記の内浅野采女正も城兵と刃を交進んつ進れつ討つ討れつ鋒より火烟を出し汗馬に息を不
継せ戦ける 采女正か家人牧野金彌 或は數野とも有 一番に首を取て来る所に山城半左衛門も浅野内匠頭殿
内奥野将監祖父也 首を持参す 金彌是を見て我取所の首は二番也 某は二の備成故に本陳に近し依之
早く来る山城は先手に在て本陳に遠し是故に遅く来ると申遣れは浅野大に是を感し先手の一番首
を半左衛門二の備の一番首は金彌也と定られ正月具足の祝にも左右の上座を替々勤けり 又是に似
たる事有り昨六日の合戦に松平陸奥守政宗か軍士浦倉仁兵衛と云者一番に鑓を取て来る所に歩
行立の侍も同く首持参せり浦倉是を見て渠か取處一番首也其故は某は馬にて馳来る此者は歩行な
れは遅参せり 敵を討時刻においては足下一番也遅速大に相違あれは論するにたらすとそ申ける
歩卒聞も不敢譬騎馬にても歩行にても本陣へ来る事一番なれは是を實の一番首なりと申す 政宗大
に是を感し馬上の一番首は浦倉仁兵衛歩行立の一番首は汝也とて二人を被褒美ける 惣して義士
の振舞は斯こそ有へけれと皆人大に感じける 青山伯耆守忠利組大久保玄蕃允武功あり此度先登に
進む 御帰陳有て御加恩給り駿府の御城代を命す 行年九拾余にて卒す
一、名将の曰敵國へ押寄明日辰の刻城責と云にて有へし心懸る者は宵より可参諸人より勝れたるは
日の暮さる内に可参そ萬事如此ならされは諸人の中より人に先立事は難成もの也
「宣紀公女婿」を数回にわたってご紹介したが、男子もご紹介しないと片手落ちだろうと考えてご紹介することにした。21人の子女を為されたが、第一子から九子までは夭折されている。第十子が宗孝公、十三子が重賢公、第十六子に紀休、廿子が興彭(刑部家相続)、廿一子が龍五郎でこれは夭折した。
宗孝公・重賢公はさておく。
第十六子紀休(のりやす)は享保八年江戸の生まれ、病がちで有ったらしく熊本へ帰り横手筒口の屋敷に入った。史料は「うつし心無く」と表現する。しかしながら「一病息災」とでもいうか六十一歳まで生きながらえている。称細川、伊三郎、紀豊、織部、清記、後改長岡姓。
廿子の興彭(おきはる)は享保十一年熊本生まれ、宝暦六年長岡圖書興行(刑部家・五代)の養嗣子仰出さる。(31歳) こちらも六十一歳で死去した。養父興行の男子典弥を養子とした。(七代・興貞) 兄・重賢とは六歳年下であるが、興彭とともに細川興里夫人・清源院、重臣長岡是福夫人・壽鏡院の三方となられ大変仲がよかったと伝えられる。
銀臺遣事に曰く
ことにあはれなりし事は、天明三年君関東の御首途の程にや有りけむ 興彭主に向はせ
給ひておことの許に茶屋しつらわれよ やがて帰り来てかならず住給ふ所をも見む 其折
茶給らばやと宣ひしかば、興彭君難有御事にこそとてなヽめならず よろこび程なく茶屋い
となませられ、おもふまヽに出来にけれども君のわたらせ給はむ時、はじめていれ奉らむ
とて其身はかりにも立入られず、明暮御帰国の程を待たれけるに御所労ありて滞府まし
まし、同五年十月遂に関東の屋形に於て卒し給ひければ、其設もいたつらになりて興彭
主のなげきいはむかたなし やがて其年の十二月にこれもみまかり給ひぬ 紀休主もう
つヽなき御心にてひたすら君の御別れをなげき給ふなど聞えしほどに、御痛もいやまし
同七年九月むなしくなり給ひ、壽鏡院の御方は君に一とせ先たち給ふ 天明四年二月の
頃なりき
一番末の子供である龍五郎は、家老木村半平豊持の養子となったが、わずか三歳でみまかった。
一、岐阜城責の時福島左衛門太夫正則軍使櫛田勘十郎塀の手へ上りける時しなへの差物上につかへ
乗入難きに付差物を下人にもたせ城に乗入然處に櫛田か差物持たる下人鉄炮にて打立られ坂より
下へ迯下る 岐阜落城の後櫛田が同役の使武士十九人正則に訴て曰櫛田勘十郎御差物を預なか
ら卑しき下人に持せ置たるに依て坂下へ迯下る 他の備より是を見は當家の軍使迯たると申さん若
明日にも某共御機嫌を背く事有りて他家の奉公を望んに彼岐阜の城責に迯たる者にやと疑れ可申
事可有然は勘十郎に切腹御申付可給と申達る 正則も暫く無同心色になため扱申されけれとも承
引仕依て是非なく勘十郎は切腹被申付由
一、関ヶ原御陳前黒田如水の歩士山中市内と云者如水の使として息甲斐守長政に書状持参る 長政如
水の状拝見せらる 石田治部少輔三成佐和山出て大坂へ下り逆意を企る聞へ有に依て軍勢を揃へ
三成に組する敵地へ責入軍功を顕す覺悟也貴殿も志を堅して内府の下知に可任との趣也 長政彼市
内を呼彼申付は先日より度々如水公より此書来ると云へ共此度汝か持参せし委細なる御文言終な
し此状を関東へ差下し内府の御目に可懸汝乍若身此状を持参せよと被申遣れは山中違背して曰
筑後より遥々参たるを又関東へ馳下るへしとの仰近頃無御情御事也別人に被仰付と云 長政以の外
気色を替て如水も我も己がために主人不成や彌違背するにおいては座を立せしと怒られける 其時
山中申けるは筑紫より遥々参り候事申立るには更に苦身をいとはす候如水公既に御出陳之御沙汰
有之半なれ共主命成に依て此表へ馳来候 然るに近日此邊に於て御合戦可有風聞有関東に下れ
と被仰は無御情と申物也但如水公於筑紫の戦をも見たるにもあらす亦人數ならぬ某か関東へ下り
たれはとて何の御為に成可申哉依之愚意を廻らすに御身近き輩には御ひいき有て如水公へ御奉公
申某なとは御不便も薄き故此御意を承るにやと申立けれは長政忽気色を直し誠に汝か申所至極せ
り汝を関東へ下すへしと云しは我の誤り也とて山中か訴訟を叶へ其後如水の状二三通井伊兵部少
輔所へ遣し直政返書を送らる
従如水公此中貴様へ被差越候御状共數通被下拝見仕候
内府披見に入可申候 今度於御國元別而御情被入殊に御
人數多く御抱被成内府次第何方へ成共御行候半由に候
此節に御座候間何分にも被入御情を御手に可入所は何
程も御手に被入候得と可被遣候 何事も面止可申上候
恐々謹言
八月廿五日 井伊兵部少輔直政
黒甲州様
彼山中市内長政の前を退て黒田三左衛門一成後号美作逢て某に鎧一領御借有りて給れと云
三左衛門返答に我等も必替の具足なし家来の鎧を抜せて御邊に與んもいあかヽ也 所詮金子を一
両與る程に是に用意せられよとて遣しける 山中悦て清洲の町中走廻り右具足一両求出し合渡の合
戦に先を争ひ働ける 石田三成か家人松井又右衛門と云者に突伏られて果たり まつい山中か首を
取りけるに笠印の緒に文字書付たる是を取揃て三成實検に備ふ其詞に
今日之闘に可極功名若不然者討死し義を可守者也
月日 黒田如水内山中市内
うたるヽも討もよろしき武士の道より外は行方そなき
石田三成山中か頭を見て彼は志の者ならんとて松井又右衛門に恩賞を厚く與へたると也
一、古侍に四坂鑓之助と云者あり 數度の武功の勇士或時戦場にて能敵を鑓つけ討取らんとする所に
味方の内に村井玄蕃と云者彼も武功ある者なれ共此陳に未敵を不討鑓之助鑓付たる敵を某未敵を
不討此敵我にとらせよと所望しけれは鑓之助何とも答へす突捨て不知體にて其場を立退程に玄蕃
走り寄て首をとる 其後玄蕃も能敵を討首を取首帳に付る時玄蕃か曰此一つの首は四坂鑓之助鑓付
たる首也某もらひたる也我は不討と云 鑓之助脇にて是を聞て云様は玄蕃は何を云るヽか左様の能
敵を討取人に取らるヽうつけにてはなしうろんなる事を被申物哉と云てしかりけれは玄蕃か曰鑓之助
はさすか武道を能知る物そ數度用に立たるか道理也侍たる者は誰もケ様にあり度物也と感心する
と也
血走兜 忠興公
此駒の血筋の血をはとヽめ置て乗てあからん雲の上迄
右三篇唱
右之方なれは右之指をまけ
左之方なれは左之指をまけ
高麗陳の時敵に手負有之を味方の中より討取へきとする 加藤清正之曰敵之手負は不討取物也
子細は敵に手負働不成者は其所に其儘置は看病して引懸退とする 依之敵の人數ひけ味方の弱み
となる物なり
一、同時諸将参會して小早川隆景に一戦之仕様被尋處に曰其家の古老の者と談合仕可申と云て手立
を云す 其坐を立私宅にかへり自身分別して書付を以曰第一後の山に道を作る第二合戦可有とな
らは味方の兵粮を引たもつへし左あらは合戦早くあるへしと云第三は密にして不云之三ケ條ともに
用之後の山に道作るを見て日本より加勢の人數来ると云て敵引取と也
一、大坂御陳の時矢尾の土居に城中より人數出し引入んとす 去れ共藤堂和泉守内渡邊勘兵衛・遠藤傳
右衛門喰留付入へき様に成故引取事ならす 依之敵差物を土居に立置土居かけより人數引入るヽに
遠藤傳右衛門敵之差物いこかさるに目を付高き處より見立其處より乗取なり
一、宇土郡小西行長城加藤清正攻給ふ 清正之侍庄林隼人と行長か城代南條玄宅と戦て組けるか双
方共精兵にて上に成下にころひ廻り互に押て首をかヽんとすれとも脇差の寸長く不抜両人脇差の鞘
小口さけたり 後に南條と庄林傍輩と成て此事を語り出しけると也 庄林刀は一尺八寸南條刀は一尺
六寸にて有しか切先二三寸つヽ掛て不抜となり
一、東照宮の御詞に乱世に武を嗜は不珍 縦は鼠の人に被捕を苦んて人に喰付か如し 治る世に武道
を嗜は信の武道を好む人と可謂 司馬法に國大成といへ共戦いを忘るヽ時は危しといへり 太平の時
も戦を不忘か武道を知る人と仰られると
一、同武士は常に忠義の勤肝要也 心懸能武士は人に負さるものそ 人間生して其様貌四民替る事なし
然て共家職の務めに依て其事業替事也 子細は先和歌の道公家脳知るもの 仙法の事を談するは出
家能知るもの 武儀の道理を知る事は武士に及者なし縦は軍陳において對する人數を以て合戦して
勝負を決時一方は武士千の人數にて合戦する時は武士必可勝そ 此其家に生れ出るより家職なれば
武道の勤有故也 扨こそ武士の常に武儀を能勤る者は又武士に勝事必定也 此故に家職能勤る事肝
要也
一、同世の中に狐つきと云事有 是をかちする事世に多し 唯世の人に人の付と云事あり 是を能禁へき
事也 倭肝邪欲ある者を寵愛し其人を用る是人に人の付といふ物也 國亡敗る物也
一、同我家に武道不案内なるは大小上下共に不用之凡武道不咾の者は耻を不知耻は虚言多し 虚言
多き者は必臆病なり 臆病なる者は騙安し 騙安き者はめり安し 如是侍は見方と成て多くは逆心をな
す 敵と成りては恐るヽに足らず又曰大将は文武一致を知りて軍法の二字に本つき政道を立各家職を
勤る者を用ゆへき也
一、同大将は人を能見知る事専一也 古今の各将人を能知れり 賢愚倭肝勇臆を見る事其品有といへ
共先言と行と合と不合との二つにて大形知らるヽ物也
一、同関ヶ原にて九月十五日の朝霧かヽり敵の様子四五間の先も見へす 依之家康公被仰は物見に誰
か可被遣井伊兵衛・本多中務は先へ参る内藤四郎左衛門は江戸留守に被召置扨は横須賀者に渥
美源五郎を召て先の様子見せに被遣候處に源五郎二三町程行先の様子見れ共見られさるに付即
刻立かへり御合戦は御勝利無疑候御旗本を被詰可然と申上る 依之即刻御旗本を御詰被成御合戦
に勝利得らるヽ也 其後源五郎に間敵の様子を見へさるに何として御合戦御勝とは申そと 間源五郎
曰関東よるはる/\是迄御出馬有て御合戦ならすして御引取被成場にてなし是非共に御一戦なくて
は不叶場也 御勝利なれはよし御負の時は家康公も御討死我等も死する程に見そこなひは不入と云
是心眼を以て見る者也
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
家康公伏見御城下へ御屋敷御座候時五奉行方より逆心可有と風聞之時黒田如水を召此屋敷無用心にても三千人數有之は自然の時三河へ可退との仰也 如水曰敵上の小幡やまより鉄炮二三百挺にて打懸其上火矢を射かけ申さは此所に御座有事難成奉存候向島へ御移可然と申上る 依て向島へ御移り被成則細川忠興・福島正則・加藤左馬之助・森右近此四人を召し宣ふは敵火を懸たらは各は何として馳参るへきやと被仰忠興の曰火懸を見て可参と申さる家康公宣ふは先各々家に火を可被懸子細は小西攝津守初其外奉行中之屋敷各家々の間に入りましり有之上は鍛冶にて驚き妻子を退る仕配にて此方へ之働延引すへきそ其間に向島へ御移り被成其後は東寺へ御引取あるへし 東寺は要害能しまり有る所にて三千の人數にて御籠何の御気遣もなき能地形との御諚也
リンク http://www.youtube.com/watch?v=89xgfjIM_tE
元和元年五月七日申の刻大坂落城に付三齋公より
忠利公江御注進之御書寫
急度申遣候
一、昨日大坂より飯守之下大和口江人數六萬斗も出候故藤堂手にて合戦候て首數多討捕候 井伊掃部手・本多美濃手にて合戦候て首數多上り申候 大坂にて物頭果候故木村長門・後藤又兵衛・鈴木田隼人にて候事
一、今日七日之牛の下刻大坂江少々御寄せ被成候處に茶臼山より岡山迄取つヽけ七八萬も可有之候 此方之人數立是よりひた物無利に合戦のかけ候處に及一戦數刻相ざらへ半分は此方へ半分は大坂勝申候つれ共此方之御人數数多に付御勝に成申候 不残打果し被成候 度々之せり合中々推量之外にて候 本多雲州討死小笠原兵部殿も手負候 是にて推量可有候 我々事先書に申越候哉鉄炮頭三人小姓斗にて大坂へ参り合戦に逢申候
一、鑓つき候面々 一番七助 二番縫殿助 佐藤傳右衛門 甲つけ 薮三左衛門 甲つけ 佐方與左衛門 吉住半四郎 續少助右之鑓寄衆之ものくつれに成候處に七助・縫殿両人馬を入かせき候事
一、又其後大崩に成候處右近一人取て返し候處に酒井左衛門尉殿も披見候 酒井左衛門小姓右近と返し中程に迯又右近側へ返し候間はつを取申候則右近は甲共に首を取申候
一、七助鑓は先を突まけ申候 傳右衛門も鑓二本先をつき曲申候
一、首二亀之助 二主水 首二かヽ山半兵衛 首一朽木與五郎 首ニ主水内之者取候事
一、何も事之外手柄仕候事
一、大坂御城天守も申ノ下刻火掛申候 不残御果被成候 一時之内に天下泰平に成申候事
一、此状之内披見候而くたひれさる飛脚之早き者に持せ豊前江可被差下候 取紛書状書兼申候
恐々謹言
又申候我ら小姓共迄物に逢候事申上候へは大御所さま御前江被召出候 是にて仕合可有推量候
以上
五月七日 越中忠興
内記殿
内匠殿
隼人殿
蔵人殿
志主水殿
式部殿
中務殿
内膳殿
左馬殿
番かしら
馬之助殿
此状披見之後壽斎に渡しまんへも讀聞せ候へと可被申候
宗入老
小民殿
六兵殿
周防殿
小谷殿 本書は沼田小兵衛殿より清田源左衛門方へ被遣被候由也
かけゆ殿
宗り九軒へ刑部いり殿太郎左方へも可申遣候
以上
又申候丹後討死ふびんさ中々申はかりも候はす候
以上
又申候七太夫は御本陣へ付置候故手にはつれ候
以上
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細川與五郎様は大坂落城已後同年六月六日稲荷にて御切腹松井右近御介錯仕候由其後右近は子はもたぬかとの御意御座候由右近も三年の内悪病煩果候由主君の罰蒙りたるとの沙汰之旨老父咄申候 右近儀は高麗陣にも如形働右之通大坂陳にも勝れたる働と御書見へ申候 然は一命を惜み申候而御介錯仕たるには有べからずと存候 就中ヶ様之處にて武士之高下に知れ申候 平生心懸武道吟味可仕事に存候
君命有所不恐 軍陳無禮法
と古語に見へ申候
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光尚公殉死之衆江保鹿良益和歌詠する
小車の道ある人は雲井まて君にひかれて名をも上ける
長岡筑後殿歌の由
言の葉は中々たへて誠より語につきてつく者はなし
世間好事惟忠孝 臣報君恩子報親
丹鳳来儀宇宙春 中天雨路四時新
一、三齋公忠利公光尚公御三人於江戸御咄之節光尚公へ三齋公被仰候は何を稽古被致候哉と御尋被成候へば御請に小畑勘兵衛に軍法を被聞召候由御意被成候へば三齋公終に軍法御聞不被成候軍法は常々家頼能召仕候へば何事之時にても軍配能候 唯侍を能召仕其程々に能召仕候へば何時も軍法能と被成御意候と也
一、忠利公肥後御入國二年目に唯今之出町小笠原備前屋敷之木戸より外に町被仰付候由 其後御後悔被成清正は半國之時に城石垣等調申し候 一國之力にても中々難及思召候 當分之御城荒不申候様にと思召候 御城下廣く成候はヾ荒可申と思召此後は御廣め被成ましきととの御意の由御座候 委細は八代に居申候白江元咄承候御城付三百石山名殿懇意之人
一、忠利公御在江戸之時被得上意候て御下國之上にて白川筋浅き処を御掘せ被成可成事あらば川尻江着仕候船を熊本長六橋邊に船付候様に被成候はば熊本賑やかに可成と思召候てそろ/\と御掘せ被成候由古監物殿へ誰か出入の侍衆咄申候へば夜中にて御聞被成候て扨々夫は曾て不聞事とて其儘御花畑へ御出候て可得御意儀御座候て夜中にても罷出候旨被申候へば其儘被為召何事ぞと御意之時唯今初て承申候白川筋御ほらせ長六橋邊船着に被成旨私存候ば唯今之如く其儘にて川尻船着能奉存候 子細は熊本之町中に駄賃馬持居候長六橋邊に船着候ては駄賃少く成可申候 左候ては小身なる侍とも俄に馬を求申儀成兼可申候 何卒馬を澤山に持申様に仕度私は存候旨御申上候は扨々尤至極に思召候 今度御在江戸之刻御願被成候間先少々掘候て其後ならぬとて制止可被成と御意之旨于今其堀懸申跡御座候由御郡奉行金津助十郎勤申時承申候 海船も昔は澤山に町人共持居申候 浦番とて御侍衆両人づヽ熊本にて代々在宅者致逗留相勤申候 拙者心安く咄申候津崎庄九郎百石にて御留守居組 追腹仕候津崎五助か跡かと覺申候 定て島原御陣の刻大分御船入たると存候 四十五七年此方御國中の船持とも次第/\に少く成申と承覺申候 他刻船定て運賃下直成故と存候
一、寛文元年丑辛正月十五日巳之刻禁裏炎上餘煙及民家仙洞様は修學寺江渡女院様は岩倉江渡御炎上之内鳳祥院様岩倉江伺御機嫌被成御座候節御菓子御用意其外洛中洛外之餅鼻紙草履迄不残御調させ御持参被遊候由尤女院様御機嫌洛中洛外迄其節は是のみ沙汰仕候由鳳祥院様は三齋公御姫様御幼少之時はおまん様と申候て三齋様別而御寵愛にて烏丸大納言殿御簾中也
参考:http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No05/F021-028.pdf