津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「旦夕覺書」 花--15

2011-06-05 08:47:51 | 旦夕覺書

一、正保四年六月長崎え黒船渡海七月朔日之朝松平右衛門佐様長崎江御着被成候由此方よりは長岡勘ケ由殿御人數召連七月二日長崎へ着之由其前黒田殿・鍋島殿家老共承かけに鷹之場より直に参り申者も有之候由此方より御人數を連勘ケ由殿七月二日に被参候事一番と長崎の町人共も申由一騎かけに参り候而は御用に立申間敷候 定而公儀之御吟味にて町人共迄申たるにて可有之候 此一巻之覺書を一冊寫置候故略す

 参考: http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/3c2689655d2949415c6eb3da50027969

一、右之時分は光尚公御在江戸にて熊本より御飛脚不参候に御城には度々御注進有之 或時光尚公御登城被遊候刻井伊掃部様被仰候は今度長崎にて御家来之監物黒船之儀に付愚意を申上候儀委細達上聞候 定而年寄可申と思召候 随分御不便を被加尤江戸表之御供抔も御免被成緩々と居申候様に御心可被候 天下之御用に立申候由掃部頭様御咄被成候而一両日仕候て熊本よりも委細申成候由松平阿波守様御家老稲田九郎兵衛も此方之監物殿におとらぬ者之よし上月八右衛門度々咄承申候 稲田父子稲田宗心七十餘大坂冬陳に三人共に家康公・秀忠公より御感状并御腰物金子拝領仕候者共にて候

一、妙應院様御幼少之刻は御目附衆御両人づヽ熊本へ御越被成御逗留候 阿蘇大宮司より此二三日鳥井にくちなわ大小澤山に出申候不思議なるよし申来候 其刻熊本御家老中寄合にて御目附衆御通之日阿蘇御田植御祭禮にて人馬差支申候夫御祭禮可被差延候哉と御讃談の砌に右之通申来候 就夫神事は格別にて候間御目附衆江申遣可然と熊本にて御讃談相済申事其日之辰之刻にて御座候に阿蘇鳥井くちなわ一ツも見へ不申候由熊本へ申来候て御家老中も何れも神慮明らか成事被成候由其刻松村太兵衛は阿曾御郡奉行勤被申候哉息松村久右衛門拙者相組にて度々咄被申候 ケ様之事は昔より不珍事に候得共末になり候 両人の心信少かたとへは御國中之神佛共に殿様之御蔭にて社の修理御祭禮も調申なとヽ諸役人も悪敷心得社木等も御用と申せば切用申上に御存知被成ぬ事ながら神罰はのかるヽ處なきと申傳候 能々ケ様之事をも各々若く候間御了簡候て其役にて無之候ても忠義之信御座候はヾ何卒申立の成間敷事とは不存候 十人九人は笑止成事などヽ咄たる迄にて候 我子などの煩申時は神に祈念願立申候 其心をもつて主君と奉存候はヾ萬事道に叶ひ可申候 堀内権之助は十四之時能首取被申候へども人に奪れ被申候由父母被申候は武士は就中神を敬信し申者にて武の冥加に叶ものにて候 随分心掛被申候様にと教られ如形信被申候由拙者共祖母妙庵皆共にも咄聞被申候 老父も左様に被申候 又心得違にて神之精進或は我家の内に神を納候て信じ申者多く候 必々神之精進又屋敷之内は不及申候 左様にはせぬ者と被申候皆共幼少之刻あ羅太成薬師御座候いか様何とぞ心にかヽる事御座候哉薬師坊へ預申とて遣申候事覺申候 能々察し申候へば尤成事社は昔より地を吟味仕る事と見へ申候 神職さへも真意に叶ひ申様には成兼可申候 俗人として猶以成申間敷候 或は乱心に成申候か其家に災難有之物と老父被申候 尤なる事と奉存候 能々工夫めされ随分/\神を敬可被候 若き時より拙者は如形敬申候
     心たに誠の道に叶ひなはいのらずとても時は守らん

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「旦夕覺書」 花--14

2011-06-03 08:33:17 | 旦夕覺書

【家臣・小崎氏のこと】
三齋公御用にて八代江老父参候刻小崎忠次か子供は越中か不便かるかと御意被成候へ共御請不埒に御座候に付いかにも我は新参者にて存まし 丹後籠城之時関東より御使に被遣候御書の持様関所/\の通様委細に被仰付候 無恙丹後江着仕候骨を折たる者と御意被成候由後に吟味候へば小崎次郎左衛門・小崎孫右衛門親之由小崎太郎右衛門は歩御使番相組にて熊本之御姫様に付新地百五拾石被下候 右之小崎子孫多く可有之候

【家臣・金津氏のこと】
三齋公豊前小倉に被成御座候時秀林院様御年回に御参拝被成候而御帰座以後に金津助次郎子供成人仕候哉と御尋被成候 兄十次郎十一歳・又十郎九ツと申上候へば即日兄弟共に貮百石宛被為拝領候 松井殿より兄弟に青貝之鞍鐙給候由老父三盛に又十郎咄被申候事覺申候 誠以舊功を被思召十一歳・九歳之子供に如此之儀は御家之侍何も同前に難有事と書置候

【家臣・魚住氏のこと】
三齋様御代豊後國石垣原の合戦之時御家より松井殿有吉殿大将にて黒田如水も人數被遣刻御家にて魚住右衛門兵衛働如水老之紙面之寫なり
        一昨日御働手柄段松佐州有四郎右御物語に
        候於我等満足不過之候今日爰元相澄候て明日
        其地へ参面上以萬々可申入候恐々謹言
           九月十五日      如水軒判
                 魚住右衛門兵衛殿
其後三齋公江如水老右衛門兵衛御所望にて小身にて被召仕候由拙者江被下候はヾ貮千石被下との事に候 時あの様成者は幾人にても願申候とて則貮千石御加増被下候由魚住又助祖父之由 先年御家中先祖附差出候時右之通いかにしてもかヽれぬとて又助致遠慮候とて澤伊左衛門縁者にて拙者江咄申候 理知儀過たる男とて笑申候 右之紙面寫置候 三齋公御代は外之御家にも跡式皆々へり不残は不被下候由忠利公肥後拝領被成以後御家中侍中之跡目十五以上無相違可被為拝領と被仰出候由八代にて三齋公御聞被成越中か大名に成たるとて右之通被仰出候 後々には奉公人之人柄あしく可成と御意被成候由遠坂関内殿咄申候

【家臣・長谷川仁左衛門のこと】
真源院様御國廻り被遊候時御馬に召被成御座候處御馬つまつき候而御轡おれ申候 長谷川仁左衛門は不断挟箱に替の轡入置被申候 折節御先乗の御供にて長谷川轡を差上被申候殊之外御感被成御帰座之上御馬被為拝領候 拙者幼少之時見申候老馬にて拝領と申事にてつなぎ置れたるかと存候 黒栗毛のひたいに星御座候と覺申候

【家臣・山名十左衛門のこと】
妙應院様御入國の年か御國廻り被成候同名是安も御供に参り申候 御國中宿わりは御中小姓にて御供被参候 御中小姓不残参候由山名十左衛門殿未前髪御座候時陣羽織之様成たてなる羽織にて馬にて櫻馬場御通を見申候 松野亀右衛門息小源太後源蔵牧野安右衛門同勘右衛門松野父子鉄炮能打候由にて被召候由御帰候刻大津より一里斗熊本之方廣き所にて御側物頭之馬自身乗り御覧被成候由上田新兵衛馬能御座候抔と沙汰承候 拙者十七歳にて御座候

【家臣・澤村大學のこと】
妙應院様御幼少之時澤村大學殿御具足被差上候時鰹ふし一ツ添て上ケ被申候由控の御座候哉山崎傳左衛門咄申候

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「旦夕覺書」 花--13

2011-06-02 07:37:31 | 旦夕覺書

延寶四年と覺申候 芝之御屋敷に被成御座候刻紀伊大納言様御家頼衆尋被申候由にて森雲仙を以大木織部殿へ申来候 御右筆山崎角右衛門相調申如斯申遣候
      慶長五年七月廿七日八條殿より家老大西甚助を以扱之儀被下候得共幽齋同心無御座其後
      徳善院勅命を奉り双方に和議を入被取扱又勅命にて中院殿・三條殿・烏丸殿并前田主膳正
      等を田邊江被下種々取扱有之候勅詔及再三申に付幽齋難默和議を以被成出城候
  此通之紙面之様覺申候 江戸御書所には控茂可有御座候や其時分迄も慥成申傳も不承候 近年色々
  古き書付抔出申候と存候 田中又助祖父は中院殿相聟(1)之様に覺申候 右之書之内に加茂大宮司の
  松の下と御座候は河方安左衛門
(2)と覺申候 先年田中又助に此紙面咄申候へはいかにも/\承及
  申候 此方の御家譜は誰が書たるかと尋被申候へども不存候 拙者先年在江戸の砌田中一庵に被仰
  付候て御家譜調申由にて拙者へ引両の事尋申候 三引両と申間二ッ引両と申ても可然哉などヽ申たる
  儀覺申候 右之書付之内飯川妙佐の妹と御座候飯川殿とて譯ある人飯川何果(ママ・某カ)とか老父
  咄被申儀も覺申候 委細に知れたる書様にて候 誰の作と申事も後々吟味候はヽ知れ可申存候

 (1) 田中又助の祖父は長束大蔵正家、中院殿とは文脈から通勝であると考えられる。
    長束正家の奥方は本多忠勝・妹、中院通勝の奥方は細川幽齋・養女だとされているが、傳右衛門殿の勘違いか?
 (2) 500石河方九平家の家祖は松下民部少輔述久
   「或記に松下民部小輔述久、古今箱禁裏に持参仕候由、田辺御出城の刻も御忠節申上候と云々、何れもいふかし、右松下は
    加茂の神主の弟也、述久は従五位下禁裏に勤居たり、蹴鞠の御伽として幽齋君御懇に有之、内々御和睦をも御取持仕候
    段は先祖附にも段々書加来候」(綿考輯録・巻五」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

衆妙集之内に玄旨公吉田の草庵に松ノ下民部少輔数寄に呼侍るに遅く来けれは即座に此一首を讀て路次迄持せけり

        庭をおりて遅くたちよる松の下すきの道にはのへ足もなし

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水戸家の御末子松平大炊頭様は従公儀一萬石五十年以前に御拝領被成候 小石川の御屋敷之内に被成御座候て妙應院様御振舞に被成御座候て御供衆皆共御座敷に上り御料理被下候 御馳走人に田中文右衛門と申仁出候而咄被申候 私儀は熊本へ久々居申候田中又助甥にて御座候 先年京都へ御座候長岡與八郎殿・同半左衛門殿御両人肥後へ御呼下し被成候時又助を被遣候 其刻も又助致同道候而京都上下仕候由噺被申候 我等共幼少之時分與八郎殿半左衛門殿より乗馬を迎に兄の是安方へ被遣候事覺申候 甲佐近邊に御両人共千石宛被下候て御在宅にて候 川狩にて是安を御呼被成候かと覺申候
妙應院様御入國上にて貮千石宛御加増被遣御一門の格に被仰付候 其時分細川将監殿・細川修理殿・長岡與八郎殿・長岡半左衛門殿此四人にて候 右の田中文左衛門娘かと承候津田平助妻・田中又助妻・谷権右衛門姪にて権右衛門より津田・田中江遣被申と覺申候

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「旦夕覺書」 花--12

2011-06-01 08:46:14 | 旦夕覺書

この記事について傳右衛門は「東國太平記の抜書」としているが、当時この本は絶版になったとも書いている。綿考輯録にも見られない田邊城内での古今傳授の詳しい描写があるが、細川護貞様は御著「細川幽齋」で、同様の内容を「明徳親民記」から引用されている。
護貞様もお書きのように、諸資料によって小異がある。そういう意味でこの「東國太平記の抜書」も価値があるものと思われる。

一、東國太平記の抜書
     幽齋玄旨公古今御傳授并御先祖之事
■ハ略 其頃公家ニモ古今集ノ傳授中絶シテ天子ニモ御傳アラセ玉ハサル所ニ細川藤孝入道玄旨法印カ身ニ有ケレハ若藤孝討死セハ日本ノ神道歌傳永ク絶ナント 忝モ後陽成院嘆キ思召テ時ノ傳奏三條大納言實條卿・烏丸大納言光廣卿ニ加茂ノ大宮司松ノ下ヲ相添テ田邊之戦場ヘソ遣サレケル 両軍相イトンテ戦半ナルニ勅使急キ輦ヨリ下サセ玉ヒテ両陳ニ仰セケルハ今度天子ノ勅使トシテ三條大納言・烏丸大納言遥是マテ来リタリ 両陳儘ニ承ハレ 今本朝ノ歌道ノ秘傳鳳闕ニハ絶タル如クニて武家ニ相傳セリ 抑古今ノ傳授ト云ハ中古濃州士東ノ下野守平常縁より紀州ノ種玉菴宗祗ニ傳へ宗祗ヨリ三條大納言逍遥院實隆卿ニ傳實隆ヨリ穪名院公保卿ニ傳へ公保ヨリ三光院實澄卿へ傳へ其ヨリ丹智院公國卿ニ傳フ 公國早世ノ折節其子香雲院實條七歳ナリシ故ニ細川兵部太輔藤孝入道玄旨ニ傳フ 藤孝ハ文武二道ニ達シ義勇ノ名将ニテ我カ師範タル丹智院ノ息實條卿ニ傳ン為ニ田邊ノ城へ迎へ取テ養育シ歌道神道盡ク傳授シタレトモ未幼弱ナレハ古今ノ傳ハカリ残サレケル 實條既ニ成長ニ及ハレシ故ニ帝都ニ返シ奉リケルニ天子ノ寵遇他ニ超テ聞サセ玉ニハ補佐ノ大臣トモ成ハント思ハレテ藤孝モ悦アエリ 古今ノ傳授テモ遂テ師恩ヲ報セハヤト思ハレシ處ニ高麗征伐ノ觸アルニ依テ則異國合戦ノ用意取紛レ實條卿ヲ呼迎エテ傳授セン隙ノアラサル武士ノ習イ何國ニテモ討死セン事ハカリカタク思ヒ若討死セン時ニ於テハ本朝ノ歌道ノ傳授永ク絶ナン事ヲ歎則古今ノ箱ヲ幽齋ノ孫烏丸大納言光廣ニ遣高麗陳ノ間其方ニ預奉■若討死致スナラハ此箱を實條卿へ渡シ玉ハント有テ一首ノ若ヲ送ラレケル幽齋
      人ノ國ヒクヤ矢島モ治リテ二度カエセ和歌ノ浦波
      藻シホ草カキアツメツヽ跡留テ昔ニカへセ和歌ノ浦波
古今ノ箱預リ玉フトテ返歌光廣
      萬代ト誓ヒシ亀ノ鏡シレイカテカアケン浦島カ箱
斯ノ通リニテ高麗陳ノ時藤孝入道玄旨は筑紫名護屋ニ詰ラレケル 其息朝鮮ニテ軍功大ヒナルヲ以テ秀吉公御遺言ニテ豊後臼杵ノ城ヲ加恩ニ預ケラレケル 皈陳ノ後ニ光廣ヨリ箱ヲ返ストテ
      明ケテ見ス甲斐モアリケリ玉手箱二度皈ル浦島カ波
御返シヲトテ
      浦島ヤ光ヲ添テ玉手箱明テタニ見スカエス浪カナ
ト互ニ諷吟シテ傳授ノ箱ヲ贈リ返シ公家武家ニ悦カヘル折柄ニ圖スモ治部三成軍兵ヲ催シ諸卒ヲ遣シ玄旨カ在城ヲ取圍ミ大軍キヒシク攻戦ヒ落城近キニアリト奏聞アリケレハ驚カセ玉ヒ玄旨若討死スルニ於テハ本朝ノ神道歌傳永ク絶神國ノ掟モ空クナルへシ 古今ノ傳授ヲ再ヒ禁裡ニ残サレン為ニ勅使相向フナリ 此陣暫ク引退テ古今ノ傳授アラシメヨト宣旨委細ニ演玉ヘハ両陳畏テ則戈ヲ伏セ冑ヲ脱鳴テ静テ戦ヲ止スレハ勅使宣旨ノ通リヲ玄旨ニ仰ケルニ入道法印有カタキ勅命ナリト頓テ本丸ノ城ニ請シ焼香灑水シテ古今ノ箱ヲ取出シ三神五社ヲ掛奉リテ秘密ノ傳授一言半句モ残サスシテ三條大納言實條卿ニ傳授セラレケル 其上源氏物語ノ奥義二十一代集ノ口訣切紙和歌ノ三神人丸ノ正體八雲ノ大事二時ハカリ其間叮嚀ニ認テ神國秘密傳授ノ印信トテ一首ノ和歌ヲソ奉上ラレケル
      古モ今モ替ラス世ノ中ニ心ノ種ヲ残ス言ノ葉
ト讀テ實條卿ニ對シテ古今ノ箱並ニ源氏物語廿一代集ノ箱共ニ渡シ奉ラル 斯テ烏丸光廣卿モ次テヲ以テ傳授シ玉フトカヤ 最目出度ヲ聞へケル玄旨法印ハ傳授此時ニ永ク絶モヤセント是ノミ苦シミ思ハレケル所ニ再ヒ禁闕ニ遣シ奉リ神國ノ光ヲ彌々雲ノ上ニ輝カスナリト千喜万悦更ニ喩ンカタモナク思ヒ奉レリ 偖傳授事畢テ後両人ノ勅使ハ大宮司松ノ下ヲ以テ寄手ノ大将共ニ勅命ノ趣宣サセ玉ヒケルハ今度勅使トシテ三條大納言烏丸大納言向下ツテ藤孝入道玄旨法印ニ天子古今ノ傳授マシマセハ玄旨ハ則天子ノ神道歌道ノ國師ナレハ此陳早ク引取ヘシト仰ラレケレハ牙ヲカミシ寄手ノ諸将モ勅命ナレハ謹テ領掌シ意義ナク圍ヲ解テ引去ケル 抑此藤孝ハ尊氏十二代ノ後胤義晴公ノ四男也 母ハ還翠院儀賢ノ息女ニテ飯川妙佐ノ妹ナリ 萬松院義晴公東山鹿ケ谷ニ移居シ玉ヒシ時寵セラレテ懐妊シ男子ヲ設ケサセ玉フ 是ヲ後ニ兵部太輔藤孝トハ名ツケタリ 義晴公ノ嫡男ハ義輝二男ハ北山鹿苑院周崇三男ハ南都一乗院門跡覺慶四男ハ藤孝也 後ニハ此妾ヲ三淵伊賀守ニ嫁セラレテ大和守トハ別種ノ兄弟ナリトカヤ 慈母ノ嫁スル時ニ藤孝モ倶ニ行テ三淵カ継子ト成テ育ケル處ニ其頃泉州岸ノ和田ノ城主細川右馬頭元常ニ子ナシ幸ニ三淵ト縁有シ故ニ兵部太輔藤孝ヲ養テ子トス 仍テ細川ト云 其子越中守忠興長岡ト名乗事ハ昔日藤孝京南勝龍寺ノ軍ニ戦功アリシ故ニ則其在所長岡ノ庄ヲ信長公ヨリ采邑ノ地ニ拝領セシニ仍リ長岡トハ名乗ラレケルトカヤ
     右東國太平記ノ内ニアルヲ抜書スル由山鹿湯ノ町島屋長之允寫タルヲ見内々此書面ノ通ト聞
     傳クルマテニテ如此委細ハ此書ニテ見幸ト寫置也 島屋ハ町人ニテ家業ナラネト國恩ノ重キ事
     忘サル志感入候 此書ハ絶版ニナル由 島屋ハ父母ニ孝ナル由忠孝ハ車ノ両輪ト云事マコトナ
     ルカナ

・細川御家譜 御家系ニハ
 藤孝公實ハ三淵伊賀守晴賢入道宗薫子也
・御家傳ニハ三淵氏ハ室町幕府ノ落胤也ト穪ストアリ天文十八年三好カ亂ニ藤孝十六歳トアリ

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宣紀公女婿・小笠原備前長軌

2011-05-31 08:29:00 | 旦夕覺書

宣紀の十九子は津與、享保十年熊本で生まれた、生母は安野氏・民、同腹の兄弟に 、第9子 女子・勝(夭折・三歳) 、第11子 八代・花(松平讃岐守頼恭室) 、第17子 衛世・悦(長岡助右衛門是福室) 、第20子 興彭(長岡図書興行・養子)がある。寛保元年二月十一日縁組、安永六年八月廿日没、53歳。

女婿・小笠原長軌は小笠原備前家の六代目当主である。長得・長衛、茂道・七郎・大都・備前・美濃、家老・備頭等を勤め安永三年八月致仕。

(註)細川家には二流の小笠原家がある。
 ■備前家 ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎を祖とするもの。当主が備前を名乗る。
 ■多宮家 細川忠利夫人(寿光院)の甥・長賢を祖とするもの。
        小倉藩・中津藩・杵築→三河吉田→岩瀬→遠州掛川→陸奥棚倉→肥前唐津の三藩
        及び杵築の松平家が、寿光院の兄弟としてそれぞれ立藩している。

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「旦夕覺書」 花--11

2011-05-30 10:23:56 | 旦夕覺書

    ■幽齋公被示家臣十一首

   寄合之善友
正直や能者物書學問者貴人年寄余所を見し人

   寄合之悪友
喧嘩好いげん廣言うつけ者人の中垣公事工む人

   薬となる物
朝起や身をはたらかし小食に師親に近く灸を絶すな

   毒となる物
酩酊にぼうまん晝寝遊山好親を不幸に主へ緩急

    人に譽らるヽ物
柔和やかに心をしめて気立能いんきん成にしく物はなし

    人に悪まるヽ物
すいにして物知りたてのさして口ついせう有て自慢する人

    物になる物
算かんや勇力武藝世上かた公儀才覺身を立る人

    物にならざる物
馬鹿無力病者述懐わやく者引籠思案油断不気根

    気高く見らるヽ物
おふよふに慈悲深く身持たてなる人そげひぬる

    下劣に見らるヽ物
賣買の値段つめして慾深く身持たてなる人そげひぬる

    無事に見らるヽ物
何も唯心すなをにうそいはて主を敬ひ儀を守る人

    右は先年同氏(堀内)弾蔵書くれ申候 此御歌も玄旨公と申傳候
きるものも内外しらて着る人ははなれる時に耻をこそかけ


    ■三齋公辞世曰
萬代も直きにすめよ渡り川かへらぬ水のあはれおもはヽ

    ■忠利公木石心なしといへとも私なし人は心あはれと曲りぬれば木石になんおとるといふ心を
道しらぬ人は人にてひとならすけに岩木のもおとるなりけり

    ■光尚公御歌
煙たつ空をあはれと鳴捨てかへるにおしき山ほとヽきす

心やすくする世ありともいかて我つらきけしきを人にみせまし

目釘穴うちおさまれる御代なれは柄は中々なる事もなし

    ■忠興公関ヶ原上杉景勝逆心に付加藤左馬助嘉明・忠興・福島左衛門太夫正則為先鋒
     此時秀林院殿に忠興歌
なひくなよ我ませ垣の女郎花あらぬ方より風は吹くとも

    ■秀林院殿御返歌
なひくまし我ませ垣の女郎花あらぬ方より風は吹くとも

    ■玄旨公御姉宮川様より御妹光壽院様へ
君こむといひし月日もすきぬれは待こそ渡れ天の橋立

    ■若狭より御返し
今はとて忘れなはてそあふ時は心にもあらて程はふるとも

 

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「旦夕覺書」 花--10

2011-05-29 19:34:30 | 旦夕覺書

   綱利公御家督被仰渡候通熊本御一門方へ申参候此書付は■権左衛門方より寫置候

一、慶安三年四月十七日阿部對馬守様(1)より田中主殿(頭)様(2)を以被仰下候は長岡佐渡(3)・長岡勘ケ由左衛門(4)両人明十八日辰の刻主殿頭様被召連城江可罷上之旨被仰聞候 松平阿波守様(5)も上意にて同十八日辰の刻御登城候被成候様にと是又主殿頭様を以被仰付渡候由御座候 依之式部・勘由左衛門(ママ)十八日辰ノ刻主殿頭様御供仕御城江罷上候處に井伊掃部頭様(6)・酒井讃岐守様(7)・堀田加賀守様(8)・松平伊豆守様(9)・阿部豊後守様(10)・阿部對馬守様御列座にて阿波守様も御座敷へ御出被成式部・勘ケ由左衛門被召出為上意讃岐守様被仰候は肥後守(11)儀被成御取立候に付て御奉公をも可仕覺悟と被思召候處に不慮に若年にて相果御不便に被思召候就夫跡目之御仕置き早々可被仰付候處に依御違例唯今被仰出候肥後國之儀御手端其上大國之儀に候(12)事は幼少之儀に候條所替をも可被仰付候へ共三齋関ヶ原之時分奉對御當家一筋に御忠節仕其以後越中御奉公仕度奉存體に被思召候に付被成御取立肥後國へ被遣候處無程相果申候 扨肥後守儀若く候へ共御奉公をも可仕者と被為及御覧候故越中守(13)跡職無相違被仰付彌以肥後守御奉公一筋之志と被思召候就中相果候刻之申置にも御取立之儀に御座候へ共御奉公をも不仕千萬迷惑奉存候然は幼少之世倅に跡式被仰付又候哉御奉公をも不仕上様に御座候へは彌以迷惑至極奉存候條御國之儀は差上申候 世倅両人御座候御奉公をも可使用に罷成候はヽ至其砌被為斗御覧之通被召仕被下候様にと申上候 代々ケ様之御奉公振殊相果候刻御奉公之道も忘却不仕子供之儀にも無構御國を差上申段神妙に被思召因茲儀幼少に候へ共肥後國無相違被仰付候間奉存其旨幼少之事に候へとも此段々具に可申含候 實子無之候へは養子をも仕跡職之儀何角申事も御座候へ共肥後守今度之申上様御取立之肥後守には左に被思召候而如此被仰出候條家頼之者共も難有奉存奉公をも仕候様随分守立可申候 然上は諸事無油断相心得仕置等可申付候小笠原右近太夫(14)儀はと間柄之事に候幸隣國に罷在候間折々肥後國へ見舞候様にと被仰付候間仕置之儀談合仕度儀共相尋可致沙汰候 其上事御懇に被思召候條御目附をも可被遣候間左様可相心得之旨被仰渡御座敷を罷立候得は被召返重て被仰聞候は六丸被召出可被仰聞候へとも幼少之儀候間両人被召出被仰聞候 追付御目見も可被仰付候旨上意之由被仰聞候 右之趣早速國元江遣家頼之者難有奉存諸事精を入候様にと被仰聞候
右上意之趣四月十八日於殿中酒井讃岐守様被為仰聞候 謹て承知仕候て御座敷罷立候 左候て阿波守様・主殿守(ママ)様も被成御退出直に此方上之御座敷江被成御越此両所様と稲葉能登守様と殿様被成御同道掃部頭様・讃岐守様・加賀守様・伊豆守様・豊後守様・對馬守様へ御禮に被成御出式部・勘ケ由左衛門御供に被致参上候 翌十九日之朝田中主殿頭様・曽我丹波守様(15)・同又左衛門様(16)御供仕先讃岐守様へ致伺公候處に御前に被召出昨日之上意其難有可奉存之旨再三被成御意其上にて又被仰聞候は肥後守縁邊之儀越中守存生之時分被候は一筋にご奉公仕度奉存候間肥後守縁者組之儀不被仰付候様にと被申上候に付烏丸息女(17)被致祝言候處彼息女死去に付肥後守代に成縁邊之内證も難有之越中守如申上肥後守儀達而御断被申上依之縁者組を不被仰付候 ケ様之儀も被成上意候へ共上意多候故態讃岐守被仰除候由被仰候 夫より伊豆守様へ致伺公候處御懇被仰候昨日之上意之様子主殿頭様丹波守様へ被成御物語候 此外何も不残御禮に致伺公候
      右讃岐守様被仰聞候通私共如此覺申候御口上之事長く御座候へつる間
      前後為仕儀も可有之候へ共畢竟相違之儀は有御座間敷候以上
         慶安三年四月十八日          長岡勘ケ由左衛門
                            長  岡  式  部

 

 (1)阿部重次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E9%87%8D%E6%AC%A1
 (2)田中吉官 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E5%AE%98
 (3)松井寄之 細川忠興末子・松井興長養嗣子
 (4)沼田延元 細川藤孝室・麝香の甥 室は松井寄之生母(忠興側室・再嫁)
 (5)蜂須賀至鎮 細川忠利相婿
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%87%B3%E9%8E%AE
 (6)井伊直孝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%AD%9D
 (7)酒井忠勝
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E5%8B%9D_(%E8%8B%A5%E7%8B%AD%E5%9B%BD%E5%B0%8F%E6%B5%9C%E8%97%A9%E4%B8%BB)
 (8)堀田正盛 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%9B%9B
 (9)松平信綱 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E7%B6%B1
 (10)阿部忠秋 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%BF%A0%E7%A7%8B
 (11)細川光尚 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%B0%9A
 (12)細川綱利 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%88%A9
 (13)細川忠利 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%88%A9
 (14)小笠原忠真
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E7%9C%9F
 (15)曽我古祐
 (16)曽我近祐
 (17)烏丸彌々 細川光尚正室

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家光公御代
     條々
一、家中輩并國中仕置之儀可為如肥後守付町人百姓不窮困様に仕置可申付事
一、萬事家老輩遂相談仕置可申付候 難相談儀於有之は小笠原右近太夫可得差圖依事之品可致言上事
一、於隣國何偏之儀雖令出来無下知而不可出合之右近太夫并目附之面々可受差圖事
一、家中縁邊之儀知行三千石以上は可言上之■雖為小身依其仁體申上之可相慎事
一、貴理師旦宗門之儀最前度々如令制禁彌堅可申付事
  右條々可相守此旨者也
          慶安三癸寅年五月廿九日
                      細川六丸とのへ

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「旦夕覺書」 花--9

2011-05-28 08:59:12 | 旦夕覺書

   眞源院様(光尚)は六丸様と申御十七御元服の刻従江戸熊本へ妙解院様(忠利)より御一門中江被仰遣候寫也
家光公御代
  態飛脚を下候
一、七月廿三日に六元服被仰付肥後守に成申候 先六と我等先へ御前へ罷出候處に越中事御取立被成
  肥後の守に被為置候肥後守事も不相替御心安可被召仕候間其心得仕御奉公可致由御直に被仰
  聞其上にて御名乗之御字光之字を被下光忠之御腰物拝領扨官も侍従に可被任由被仰出候 扨御
  盃献々之御酒被下候上我等へ名物之政宗之御脇差拝領申候 扨三齋様被召出御年被寄候へ共能
  時分御下被成ケ様之祝儀に御逢候事御満足可被成とて又御酒を被出左文字之御脇差御拝領御
  座敷之様子外聞實儀無残所候可被心安候 就夫家中之者共祝儀可申候御成橋普請前に候間人な
  とも何も下候儀無用候 佐渡・頼母・監物より歩之者一人宛可被下候 扨高より五千石迄馬太刀其外
  は此方にて一度に祝儀調せ可申候間歩之者三人迄可被げ候 樽銭銀子迄爰元に候間人迄可下候
一、一門之女房方目出度とて文迄下し可申候 是又右同前に此方にて樽代も取替させ可申候 立允所より
  も歩之者一人下候様三齋様より被仰遣候様にと申候
一、熊本町中より祝儀可申候是又いかにもかろく右三人之者に言傳候様に飛脚同前に町人を一人下候様
  に可申付候以上

右之通先年於江戸與一郎様御十四之年御官位之御沙汰御座候砌會而知不申候由小笠原素心被申候 其後拙者罷下休息之内前田素閑所へ参候へは拙者は古き事數寄候とて此書付見せ被申候 素閑親其時分歩之御小姓を承及候就夫此口上書之様に當所茂無御座候つる右之時分熊本へ御使に参候かと存候 十左衛門殿へ見せ候へは扨も/\と御申物書に寫させ具に控書留候へと御申付候 舎人殿へ右之趣物語見せ候へは如此之書付は皆共役之扣に有之候 若無之は寫置可申と其儘御寫させ候 如此御両人之替り有之候 此政宗名物と御座候は鎌倉へ参候て打候時より正の字近江國生國にて政宗と打たる由承候 何事も本を致賞玩候故わかき時打たる故かと存候

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「旦夕覺書」 花--8

2011-05-27 08:28:38 | 旦夕覺書

妙解院様(忠利)御代に津川四郎右衛(ママ)(辰珍-管領斯波義近次男)思へは小身者別而不便に思召候 大身成者は屋敷も廣く萬事自由能料理も朝夕思ふ様に給申候 何その時御用に立事は大小身共に同意に思召との儀に候 櫻馬場御通候刻は必々三盛・竹村彌右衛門二百石三盛隣のよし御言葉掛り申候由老母被申候 いか様大身は末々おこり付近年別而病死多く懈怠多く家も潰れたる多く候 小身は多く候へ共家潰れ申は多く無之候 おこりは天の憎む事と申傳候 能々心を付可受申候事

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三齋様丹後國宮津(田邊城)籠城之衆中之御書寫 
   以上
 昨日廿日亀山迄令着候處に城可相渡由申候得共徳善院事に候間可成程馳走可申と様子内府へ申入候 其御返事次第可下國候 扨々二度逢候はん事夢とのみ思ふ事に候 面々籠城さへ奇特と存候にかせき共のよし無比類にけおち候やつらは餘りの事ににくけなくおかしく候恐々謹言
    九月廿一日           越中興
          宮津(田邊城)
            籠城之衆中    右は鎌田五左衛門所持筑後殿御所望候へとも遣不申候
                              大洞彌一兵衛所にて見申候鎌田氏は大洞氏聟也

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同島原之時利根川道孝(大友宗麟次男)に被遣候御書寫
   正月十二日之御一ツ書具に披見仕候
一、我等気色能候江戸江参候尋に遣候其返事未参候間知不申候事
一、正月廿五日道家方より之便宜に煎薬清心丹又進候條此度は不進候能事分又跡より可進候事
一、島原の儀如仰不慮にて候 みづぼがれうちわるく候て大たうがさに成申候 大事の事不珍候 一揆の枝
  葉つよきにては一切無之候 其子細は松倉長門留守居共と二三度もせり合仕候 其トキ長門留守居纔
  の小勢にて候つるに勝つ負つ仕たるにて手並は知れ申候 され共今の寄手何も初心にて城のかつ様
  に仕なしたち存候 今又れき/\被下候へ共立花飛騨守殿の外はわらへと同事にて候間又不慮出
  来可申とあふなきせうしさ心もとなさ申斗無之候 不入事ながら是を案じ此頃はむねもいたく右のかた
  の乳はれ出煩申候 心中可有御推量候 何も大名衆一揆と申も人にて候 野あひの合戦にては候はヽ
  手に立申間敷候へ共城に取籠候故不成とのわけを未何もかてん不参と見へ申候 信長以来の事覺へ
  申候 城の中に一萬二三千の人數を入一たんせめに仕候事終に承も不及見申たる事も無之候 此所會
  て辨へられぬ大名衆にて候間扨々あふなき儀に候事
一、御養生之事御油断無之由尤に候 乍去心を長く可有御持事惣一の養生にて可有其心得事
一、此書中之通道家にも可有御物語候 京之落書寫進候 御なくさみに可有御覧候此外いくつも御入候へ
  共餘りこくう成事にて候間書て不進候 大名衆之はじかきと可有御心得笑敷候恐惶謹言
        二月七日                   三齋  利根川道孝は松野氏先祖
                 道孝老
                    御返事     



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「旦夕覺書」 花--7

2011-05-26 09:16:58 | 旦夕覺書

妙應院様(綱利)御代四十七八年以前に熊本御發駕十日斗前に江戸御供に被召連候御中小姓以上に御直に被仰渡候は今度船中道中於江戸公儀御法度之趣堅相守可申候且又御自分より被仰付候趣末々之者共に堅可申付候 惣躰御家の儀は脇より見まねを仕由前々より御聞及被成候 若狭守(綱利弟・利重) 丹後守(宇土細川家・行孝)家来共にもむつましく申合候様にと思召候 必々末々より何角兎有之候ては上々の御苦身に成候事世上に多く有之候 斯様に不残被召出被仰聞候はひつきょう何も不便に被思召候故被仰聞候とて御立被遊候刻佐藤四郎右衛門何も跡にて能く申聞候へとて御立被遊候 御跡にて佐藤殿御申候は唯今之御意之趣何も入念勤可被申候唯今も被仰聞候様に御家之儀は前々より他所にも見習手本に仕事に候 江戸に面は御發駕前に五ツ過に被仰聞候 其刻老母に申聞候は御先代之咄度々老父被申聞候へ共御側近く御懇頃之衆老父初として涙を流し忝かり被申候事今以少も失念不仕候

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眞源院様(光尚)御代九年之内七年虫くひ何やかやにて不作にて御勝手差支申に付御番頭十二人に被仰付難被召仕者共吟味仕候而申上候様被仰付候 其後何も被召寄御家老中御吟味之時薮圖書(二代・正成)被申候は私組中吟味仕候所に不調法にて差當役儀等は勤兼可申哉御軍用に立不申者一人も無御座候御かって差支及御難儀今幸私嫡子右衛門(三代政基)三百石・次男島之助二百石三左衛門殿父・三男熊之允三百石三人之者江被下置候御知行差上させ可申候夫にても不足に思召候はヽ私江被為拝領候貮千石之内千石差上可申由被申候 同市正(薮正成・弟)・槙島半之允兎角三人ならては如此申候者無御座候 残衆は書付なと持参之衆も有之由尤即刻達御耳圖書書申所尤至極に思召由其刻薮内匠(初代・正照 12,000石)子相應之申様とて御家中末々迄感申候由老父咄申候 今の三左衛門殿(四代・正武)にも度々咄申候 何事も人の為に能殊に組親と昔より申傳候 拙者幼少之時覺へ申候 今之清助屋敷にて候いつにても門前に馬鑓たへす御番頭随一と申たる由

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同時代歳暮に御一門之御女中より御頭巾を上ケ申候時老人之御伽衆何も居申候所にて扨々是は老人共には幸の事とらせ度思へ共不勝手にて家中之侍共にも無心申儀何も可存候  側之者共に少にても物をとらするなと外様の侍共批判可仕候 納戸に置ケと御意被成候 御家中末々迄承申候て扨々忝御意奉成候由同名文左衛門咄にて候つる事

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「旦夕覺書」 花--6

2011-05-25 08:04:38 | 旦夕覺書

妙應院様初而御入國萬治四辛丑二月五日上使稲葉美濃守様御出御小袖五十白銀五百枚御馬壹疋同三月廿七日江戸御發駕四月廿八日に熊本御着座同日江戸江為御禮長岡監物殿住庵被差立候
    辛丑六月朔日改元寛文元年
  献上
黒繻子   籃鶴一箱   昆布一箱   御樽一箱
右之刻御船中より直に豊前小倉小笠原右近太夫様へ御寄被遊候御仕舞被成鶴崎江小倉之御供御家老澤村宇右衛門友好・坂崎清左衛門・柏原新左衛門・小姓組十人此時之江戸留守居番長岡九郎兵衛十左衛門殿■親父四千石人持

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    桑山左衛門殿江三齋公被■候節御書之写

  五月十三日之御状拝見申候 扨上様御息災之由目出度存候事

一、駿河大納言殿甲州江御越候由兎角何之道にもかた付不申候ては成不申事に候 朝稲彌太郎近年大納
  言殿江被成御付候 駿河在府之由此比此地江被参貴老江被参候時様子御尋候へは御気色替事は無
  之候 はり程の事棒之様に申成候と被語候由主君之事を加様に御成下候時左様に贔負に被申は奇特
  にて候へ共此中之ことく歴々之者子供を理不儘に御切候外別之気違は有間敷候事
一、馬之儀先書にも承候 年寄候故能も悪きも馬は入不申候事
一、松奥州彼年寄在江戸御奉公成間敷候間隠居被仕頭をそり有度由大炊頭江申来候由世間に沙汰仕候
  得とも貴老なとは一圓無御存由左様に可有之候 右之分に被申上候は如御書中気違か色を被立類に
  て可有候 されとも謀叛可仕と被存候はヽ政宗被上事十月可為時分候 上りきわに被申出其往来之面
  に當所務取こまるへき儀と存候 然を前永に被申出候事不思議千萬に存候 是こそはりを棒に申候か
  気違かにて可有之と存奉候
一、貴老両御所様江御目見候様子被仰越尤存候積殊之外強候へ共御食事さへよく候へは餘之事は入不
  申候 珍重存候 私此中無病に候つる當月に入積差出申候 いつも五月は如此候 大發無之候間可御心
  安事
一、島弾殿腫物同前之由貴様御父子御迷惑推量申候事
一、浅采女殿困之左様可有之と存候笑止にて土杢事さのみ痛不被申由珍重存候事
一、永傳十本丸へ口々夜々被詣息災之由珍重存候事
一、南光坊被炊大事と申候へ共又々能候由是おしき人にて候事
一、國師噂此前同前之由苦々敷儀候事
一、藤大學別儀も有之間敷體之由左様に可有之候 雅楽殿ひいきにて候間神明三寶もよけて通可申候
  谷大學身上可有御覧事
一、渡勘兵衛事少能様子有之由被召出か帰参此両條之内帰参に成候へは笑止と存候
一、御出頭衣之怖はやとくよりのことにて巳之刻之かヽやきはや申之下刻目出度頓而御口切たヽ一人御慰
  候由尤存候たヽ一疊の上に風爐御すへ御采女土杢にも無御見せ御一人御樂之山無餘儀候 當暮か
  来正月早々可罷下間私も池を掘り島をつき其中に堂をたて其中を半疊餘團一人之茶給所可仕と命を
  あらまし申候恐々謹言
           五月六日            三齋
                      桑左様
                         御返報



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「旦夕覺書」 花--5

2011-05-24 08:44:19 | 旦夕覺書

       三齋様御具足下之覺

一、羽二重御袷裏布長サ二尺九寸但しカネ尺 紉も右同前 御袖下一尺一寸 御袖口五寸袖口の下
     三寸五分アケボタン二ツカケ
左脇に御袖下より三寸さげて長さ六尺の紉一方に二尺置ぬい付て御
   ゑりたてにほたんあり
   (ぼたんという言葉がこの時期からあったとは知りませんでした)
一、布之御具足下も御ゑりたて同布ほたん右同
一、御下帯絹のも布のも半下帯に引廻す所より二ツにたちてたち目をとちて前下り両方に緒を
   付首にかける様に
   (いわゆる六尺褌の前下がりの布を胸前に持ち上げ、布を二つに裂いて首に廻して結ぶのだそうです。
     死んだときはずれぬようにするためです。「雑兵物語」に書かれています。)

一、木綿の花色にて両面に大廣袖に綿入具足の上に着由尤布にてもかきに染大廣袖同前
一、福島右衛門殿は番具足迄木綿わた入にて包有之由 上月文右衛門内三木又兵衛咄し
   (細川家家臣・上月氏は福島正則の家老職を勤めた人)

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       明廿三 御目仕度候御返事次第にて候

大御所様今日御精進あかり候由承及候 我等在所より此袖くろの鶴鉄炮にて打一昨日のほせ申候 幸にて御座候間上申度候 不苦候はヽ御ひろう奉願候 無用と思召候はヽ御さしつ次第可仕候恐惶謹厳 
          九月廿二日                三齋
                土大い様
                    人々御中

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家光公御代三齋様八代に被成御座候時分薩摩へ上使馬場三郎左衛門殿御下り三齋様江も為上使三郎左衛門殿御越御對面之刻上使之趣被仰達候へは三齋様御意に年寄候へは耳聞へ兼申候高く被仰聞候へ定而将軍三齋は未存命可も申候 此比柿被為拝領との事にて可有御望候 遠路御苦身に存候 上意之趣は済申候拙者も尻ひえ申候らくに居可申と羅穀(ラツコ)の蒲團にばんや入申候を御敷御頭巾被成三郎左ゆるりと御座候様茶をも可進候と御挨拶被成御長袴の上に十徳を御召候由 尤道筋橋なとの事神野理兵衛に被仰付候 橋の前にて三郎左衛門御挨拶被成候へは御馳走に橋をも申付候へ共不見申候次而に橋をも見可申と御歩にて橋を御通り過御暇請被成候 三齋様御挨拶に将軍御機嫌能御満足に思召由其後従江戸能勢次左衛門殿為上使御越鶴御拝領被成候 鶴を備後表に包青竹に釣候由御ひろめ之時御自分之鶴三ツ御添被成八代町人迄不残被為頂戴之由

ばんや : 文面からするとパンヤ綿(クッションの詰め物)だと思われる。この時代にこの言葉が普通に使われていたことに驚かされる。ラッコの毛皮にパンヤの詰め物とは豪華なものである

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「旦夕覺書」 花--4

2011-05-23 08:39:54 | 旦夕覺書

駿河大納言様御行跡不宜時分忠利公土井大炊頭様へ御物語被遊候由及両度候由大炊頭様被仰候は御舎弟様の事故か唯今迄一人も御自身之様に被申聞候仁無御座候達上聞可申候との事にて委細達上聞御代々忠節之事三齋様御勝れ被成候事に思召候へ共乱世之時分にて唯今治世の時節第一之忠節と被思召上事之外御感被成候由南光坊と申は上野御佛殿の開山にて有之候南光坊も忠利公御同意にて被達上聞候由肥後國御拝領被成候は本より三齋様御忠節にもおたらざる事と被思召上如此大國を御拝領被成候よし 阿部主殿と申五百石被下堀七郎兵衛母方の祖父にて在宅の時分近邊に心安き仁に咄申候由覺書見申候 妙應院様御隠居被遊候時分御代々御忠節右之趣も達上聞候由承及候 山名十左衛門殿も此噂を御聞候由拙者へ御噺被成候 多分弾蔵は委細可存候 惣體御代々御忠節之儀は書物にも見へ申候 箇様之儀は見へ不申候へ共各能承置可被申候上を學下と俗語にも申候 小倉にても志を御代々の御家来大身歴々に負可申様なく候

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忠利公熊本にて或時御家老中へ色々御咄之時御意被成候は乱世の時は忠不忠上下共に人の心顕れ申候 御治世の時は御仕置に夜白御心盡され萬民安穏にと思召外なく候 何も其心得仕候而随分心を盡候へ 萬々一御乱心にて御謀反なとヽ御座候時は即刻公儀へ言上可仕と誓紙仕候へ御深志に思召故與風被思召出候由御家老中へも何れも右之趣之誓紙を被仰付候由是は細川修理殿に御家中老人誰か名は覺不申左京殿と申時咄申候由後藤文右衛門は幼少之節小姓にて居候右之咄承候故書付置候 

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「旦夕覺書」 花--3

2011-05-22 08:21:28 | 旦夕覺書

 関ヶ原御帰陣の上秀忠公東照宮へ御咄被成候は加藤肥後守馬藺の差物細川越中守銀の中くりの差物か此二ツの内に御替被成度思召候 いかゞ思召候哉御伺被成候へば家康公差物などはあやかり物にて候 肥後守は若き者も能けなけ成者にて候へども太閤代競斗に合候 越中は信長數度難儀成義戦迄を能勤先年小牧表の退口を敵に成能見届候 越中守差物可然と被仰出土井大炊頭為上使右之趣被仰渡忠興差物被召上唯今は御まといに成銀の半月と號す 此節土井大炊頭内意被申候は松平氏被遣度御内存に候いかゞとあれば忠興曰上より被仰付候へば兎角は難申上候御内意と御座候はゞ迚の事に徳川氏を候免被下候へば一入難有可奉存とあれば其後は無挨拶退座なり

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寛永十五年寅戌九月七日於西御丸細川三齋へ被下御茶の次第
      御一客       三齋一人此時七十六
前日為上使佐久間将監を以明朝可被御茶候 御道具何也とも望次第御飾可被旨上意也 御請に投頭巾安國寺虚堂鶴一聲拝見仕度由

御表迄迎に松平伊豆守御出し御病後故御さかやき御断之上意也 家光公三十五の御時

御路地へ三齋手を引土井大炊頭御数奇屋四畳半大目縁有之御床安國寺虚堂御爐御ほり出口廣の御釜御棚に羽掃御香合御置合ふくべの御炭計

御壺當年御茶末御取寄不被遊候為休息の急御上せ可被遊と思召去年之御壺之内其儘有之候を今日御口切被遊候由上意之旨大炊頭傳之

御勝手口御明被遊三齋今日被参被遊御満足候しかと被居候へ今日初て爐御開被遊候處雨天故寒く候て仕合たるとの上意也 扨御炭被遊御勝手へ御入御會席出る

御吸物之節出御盃被下之寒気前可被為成御上せ候 目出度頓て被致参府候様にとの上意御茶菓子過ぎ御路地江被出大炊頭手を引

後の御飾御床鶴一聲御花菊を御入被遊候處に永井信濃守見事の木瓜献上被遊御上覧三齋は老人公方は病気木瓜ところにて無之四季と云菊可然との上意にて則菊を御生被遊
    一 御茶入投頭巾        一 御茶碗割香(ママ)臺高麗
    一 御茶杓二尊院        一 御水指烏帽子箱
    一 メンツウ引切御持 出御御茶被為立

御茶終て前々ふくべに御炭御組出御有て畢而御勝手へ被通緩々と被居候様にと上意也

御数奇屋より直に御暇申上退出之節御路次口迄被遊御送大炊頭外御路次迄手を引被送之

      右御會席
         生蚫 細作り 鰹掛ク      御汁 鴨 シメチ
         御椀 煮豆腐          御飯
御自身御重箱二重 水なやきて 蒲鉾
         御吸物 白魚
         御肴鱈 細くシテ焼
         御茶菓子 ウツラ焼 芋

御勝手定家古今       一子皍硯珠光文琳
      此外色々御飾有之

右の書附在江戸の飾寫置片桐石見守殿覺書之内抜出す由小堀遠江殿所に此書付有之由 


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「旦夕覺書」 花--2

2011-05-21 15:41:10 | 旦夕覺書

家光公御代土井大炊頭様・酒井讃岐様・酒井雅楽様・阿部對馬様・堀田加賀様被仰合御屋敷へ御出三齋公へ御申被成候は御隠居の上は向後共に越中殿え何事も御任せ被成候て皆共方迄不時に御使者被差越被伺御機嫌候て可然と存候 此段は越中殿と可然様に御談合可仕候 又御隠居に而は御家中の様子も御かろく被成可然様に各存候由何も御申候へば御請拙者存候とは抜群相違にて候 唯今の将軍へは私終に御奉公不仕候 内府様へは如形ひじに仕候と存候 然れば各被仰聞候忠節は栗柿にて不時の御訪れにて済候哉得其意申候 内々は當将軍へ差たる御用をも不承候間老極仕候共何様何ぞと御座候はヽ穴くさく罷成候へ共少々侍共洗濯仕召置候 向後最早不入にて御座候はゞ児小姓一両人に草履取にて上方に罷在候て能御座候由被仰候へば何も御行當の體にて土井大炊様被仰候は曾て其御合點にて無御座候上に思召處は御老極の所御残多思召候左様思召候へばいつ迄も御身の御養生にて御長久にも候へば何ぞと御座候時は一御談合をも必可被成と思召候 就夫遠國海陸共に隔り有之事に御座候へば江戸御参勤等に付此趣にて我々奉存候所は御養生と存候に付御公儀向何事も越中殿へ御任被成可然様に奉存候由御挨拶此所にて越中様を三齋様御呼被成唯今の御口上を能承置候へと三齋様御意被成候 大炊頭様然れば御心休にと奉存候へば御心に當り候へ共左様にては無御座候御失念は有御座間敷候先年御参之砌御一人御馳走の然三齋は能すきにても御座候と上意にて御能御見物被成候 扨其以後御下り之時上使被成遣候御口上に老足被致候儀惜敷被思召いつ迄も國元にて被致養生何卒長命に被罷居候へとて御秘蔵の白苻の大鷹の御手鷹一居御拝領被成忝由の御禮被仰上候 定而御失念は被成間敷と存候由御申被成候て何れも寛々と御咄被成候て御帰候由也

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三齋様忠利様御登城被遊御直に色々御咄従前々御忠節之上意御座候砌三齋様御請度々に無御座候に付井伊掃部様其該之御老中上意之趣毎々高々と被仰通候時に三齋様御請御座候 御下城以後忠利様御意被成候は段々難有上意共に御座候處御耳遠く御聞不被被成候哉御請無御座候に付掃部殿其外御老中方被仰通候 忠利様殊の外御迷惑被成候由御意被成候へば今日之様成御懇之上意は御次の間に詰被居候若き衆迄慥承傳候様にと御請御延引故掃部殿初御老中方御■次に御次に請居候若き衆も慥に承可被申と思召由被仰候事

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