前後の記録文書から明和八年(1771)の三~四月にかけての次のような文書がある。
一御先祖様以來御代々儀御家譜に記録有之事候へ共、猶追々増補被仰付事候、依之御家中先祖付ニ書出被置候外、
若御武功其外之儀共舊記等は不及申、承及候趣も何分之事ニても書付可被差出候、尤此方二て重疊しらへ申事
候條、強て眞偽を被相糺ニ不及、承傳之通書付可被差出候、且又急速ニ不及相達、今秋迄被差出候ても不苦候、
承及等無之面々は其段も承届追て可被相達候、右之趣觸支配方へも可被達候、以上
これは、細川家記(綿考輯録)の編纂に当たっての資料収集を促しているものではなかろうか。
細川家記の成立は安永7年(1778)であるから7年前の話である。
小野武次郎の努力によって『細川之御伝記』『細川家伝』『細川全記』『御伝記』『御家譜』『細川御系譜』などの過去の史料に合せて、各家の先祖附その他の史料から「承傳之通」書きつけて提出するように求めている。「尤此方二て重疊しらへ申事候條、強て眞偽を被相糺ニ不及」とあるが、これらの史料の真偽を武次郎が一々確認作業を進めて、7年後の成果となった。
但しこれとて、現在眺めてみると色々な間違い、錯誤が多々見受けられる。
小野武次郎の努力に水を差すつもりは毛頭ないし、現在においても細川家四代を知る上に於いては欠くべからざる特級史料であることは間違いない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます