津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■鏡子夫人と光琳寺の家

2022-12-04 06:52:37 | 地図散歩

                             

 何気なく藩政時代の熊本所分絵図を眺めていたら、夏目漱石が「涼しさや裏は鐘うつ光琳寺」と詠った光琳寺に蛍光ペンでマーキングしていた。
よく見ると現在ある「光琳寺通り」は存在していない。絵図では西に光琳寺、東に武家屋敷の二区画であり武家屋敷は下通りに面している。
その西側の現・栄町通りをかっては光琳寺通りと言っていた。
ふと鏡子夫人の「漱石の想い出」(松岡譲・筆録)の記事を思い出し、本を取り出して読んでみる。
漱石と鏡子夫人の結婚式が行われたこの光琳寺の家は、裏手にはお寺の墓地が並び、あまりお気に召さなかったのかしばらくすると合羽丁に引っ越すことになる。
鏡子夫人の語る処によると、「この光琳寺町の家というのは、なんでも藩の家老か誰かのお妾さんのいた家とかで、ちょっと風変わりな家でした。この間熊本へ参りましてさがしてみますと、入り口が反対の下通りに面していて、熊本簡易保険健康相談所というものになっていて、新しい部屋のつけたしなどがありましたが、大体は元どおりでした」とあり、かってのその妾宅の部屋の数とそれぞれの大きさが記されている。
ちなみに、簡易保険健康相談所は大正11年に逓信局所在地7か所に設置されたという資料がある。


 処が上記の記述によると入り口下通には面しておらずかっての光林寺通り(現・栄通り)にあったことになるが、当時は光琳寺の脇あたりを通る路地でもあったのだろうか。維新後武家屋敷は分割されたのかもしれない。
光琳寺自体は太平洋戦争で焼失した後再建されることもなかった。

今では光林寺通りと命名され、夜には歓楽街となるこの道はいつできたのだろうと思って、昭和4年の地図を見てみるとまだ存在していない。
終戦後の都市計画図に於いても存在しない。
絵図と夏目鏡子夫人のお話からすると、答えが出てこないが、娘婿の半藤一利さんに謎解きをしていただければと思うが鬼籍の人になられた。

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■突囲隊と木山街道

2022-09-30 08:52:30 | 地図散歩

 資料整理をする中で、いろんな地図をまとめるために大袋を作って収めたりしている。
江戸期のいわゆる絵図から近代に入ってからの地図、高速道路の地図とか、観光地の地図など雑多である。
そんな中に水前寺から砂取に至る、いわゆる木山街道の七曲りを歩いた時の絵図が出てきた。
その後、健軍神社脇から木山に至る道も自転車で確かめた。(一部は団地となり道路は消滅している処あり)

 昨晩になり今度は甲斐青萍の西南の役当時、白川を渡河する「突囲隊」が描かれた図のコピーが顔を出した。
橋の上では陽動のための「侵襲隊」が薩摩軍と激突している中、「突囲隊」が上流部を渡河していった。
そして木山街道を下って行ったのであろう、あの七曲りの道を通ったのだろうか。


             

 実は突囲隊はここで薩軍を振り切って水前寺→中牟田→健軍→隈庄(城南)をへて衝背隊が陣する宇土に達した。
突囲隊が宇土に達し連絡に成功したことにより、衝背隊が熊本城下を目指し、薩摩軍は敗走2ヶ月に及ぶ籠城軍も解放された。

 甲斐青萍が描く所の多くの絵図は2017年、熊大の伊藤重剛教授により「甲斐青萍・熊本街並画集」として発刊された。
しかし、この「突囲隊」の図は掲載されていない。
著作権があってご紹介は難しいが、同じ場所は、明治33年7月の白川大水害の図として二枚が描かれている。
いずれも府中から対岸の大江方面を描いている。橋の上流部に流木などから橋を守るための構造物が共に描かれている。
また、マンスフェルトは「水前寺道の大川に架かる橋」とネーミングされた写真を残しているがこれも府中側から・・・
小泉八雲は「橋の上で」を書き残したが、まさにこの橋の上で車夫に往時の熊本城を語らせている。

 安己橋上流100mにある「熊本城突囲隊出撃の所」表示板

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■地図散歩の極み

2022-06-15 09:21:19 | 地図散歩

   

 街中を歩いていると、「なんで?」と思うようなところに出くわす。
古地図を見ると、なるほどと合点することになる。
この絵図の二つの、上は坪井橋の右手手前角、確か時計屋さんではなかったかと思うが小さな三角地、表は県道、その歌に小さな道がある。「何故?」
ご覧いただくとお分かりの様に、信愛女学院の前の県道沿いだが、新堀が開削されて上熊本方面へ大きな道路がつながると道路は坪井橋の上で30度ばかり方向を替えた。
これに伴い生じた残地であろうと思われる。
下は小さなガソリンスタンドがかってあった。脇と裏手に道路があり急阪である。
これは坪井川の流路変更で生じたのだろう。
大きく蛇行していた坪井川は、滑らかな曲線を描いて熊本城長塀下へ流れ下った。
現在の熊本大学付属幼稚園がその蛇行部分の川を埋め立てたところになる。

処でこの地図の上の□部分に「いせの惣四郎」という名前がある。これは伊勢野屋という旅館である。
伊勢野屋のすぐ右側までは、現在と同様の広い道路が見て取れるが、いわゆる火除け地「広町」である。
かって小倉藩が長州から攻められ、若殿様を擁して家臣団は肥後藩を目指して逃げまわった。
熊本初代藩主忠利の正室・千代姫の実方の災難である。しかし、当時の情勢を慮って、肥後藩の対応は芳しくない。
ようやくできたのが、幼い藩主をこの「伊勢屋」に御留めしたということである。
小倉城は逃げるにあたって自燃させた。事が納まると若君様始め帰国をされたがそれは元の小倉の地ではなく香春藩・豊津藩となった。明治維新の悲劇である。

そんなことを考えながら地図を眺めるのも一興である。
史談会会員の加藤氏・大矢野氏・木庭氏の屋敷が「向こう三軒両隣」であることにも驚かされた。

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■平井勘左衛門と被分町と長安寺

2022-06-14 11:02:06 | 地図散歩

            

    平成28年11月の熊本史談会例会では、安政の比とされる「熊本所分絵図」12枚を駆使して、現代の道筋などと比較しながら「熊本城下を古地図で散歩する」という企画をした。
足がお悪い会員のKさんは、本当に歩いて回るのかと思われて欠席された。
その資料は、ノリで張り合わせて上の写真のような体裁の冊子となり、出かける時の必需品となっている。
そんな古地図を広げてみたら長安寺界隈が目に飛び込んできた。

 市電水道町電停の肥後銀行水道町支店脇の道を進むと、現・手取菅原神社に突き当たる。
こにには熊本を発祥の地とする合気道の道場「万生館」があった。多くの弟子が全国に散らばり傍系の道場が多く存在する。

前の細い道は近世記から変わらない一本道で「長安寺通り」と呼ばれている。
この手取菅原神社があった辺りが、長安寺であったとされる。万生館の辺りは墓地の跡とは高田Drのお話だった。

右に曲がるとすぐに「国道3号・57号」に出、57号線をまたぐと江戸期の地名「被分(わかされ)町」があった。
現在の水道町10~14番地といった処で、鉄炮衆の屋敷が集中していたが、表通りには知行取の屋敷が並んでいた。
その中に平井勘左衛門の屋敷があったというが、古地図では見出せない。
「元々は手取本町に屋敷があったが、この地に新たに屋敷地を拝領したから、手取被分町と呼ばれた」とは「くまもと城下の地名」の著者の一人・小崎達也氏のお説である。
ある時、勘左衛門は夢を見て、屋敷の井戸に唐の尊像があるとのお告げがあり、翌朝調べるとその通りの事であった。
敷地内に祠をつくり「半尺」ばかりの尊像をお祀りした。五十年ほどたった宝永五年大火事に見舞われ、屋敷もその祠も焼失した。
処が元屋敷に近い長安寺の梅の木の根元に光るものがあるので掘り起こすと、まさしく平井家のあの尊像であった。
長安寺では境内に社を築いてこれを祀つた。これが手取天満宮だとされる。

代々の数葉の古地図にはまさしく長安寺の書き込みがある。西南の役で焼失したと聞いた。
古い絵図を見ると左角に「手木の者」の詰所らしいものがあったことが判る。
「手木=十手」だから、熊本にも「十手者」がいたと思われる。
武道に「捕手小具足」というのがあるそうだから、さながらそんな術を心得ていた人たちかもしれない。
何やら万生館の合気道に通づるものがあって面白い。

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■一年前の記事から「我が家検索リスト」再開へ

2022-05-30 06:35:46 | 地図散歩
 
■再チャレンジはあるか?

 2017年8月14日にUPした「■「明暦前後」地図散歩」に「肝心の絵図が載ってねーぞ」と悪友が知らせてきた。慌てて眺めて見ると確かにない。添付し忘れていた。2017年のフォト一覧......
 

 ちょうど一年前にこんな記事を書いたが、恥ずかしながらそのままになっている。
ことしはこれをきっかけに、「我が家検索リスト」を再開しようと思ったことである。
現在進めている「家紋」とこの「我が家検索リスト」だけは片づけて置かねばならない。終活みたいな感じである。
まずはすべての地図を読み込むためにスキャンする作業を始めた。
53枚ほどあるから週一とすると今年中には終わりそうにないので、週二回ほどで進めて今年中には終われそうだ。
今までに見つからなかった皆さんの御宅も、何とか見つかればと念じながら・・・

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■小豆坂と折栴檀橋

2022-05-17 17:26:31 | 地図散歩

 お尋ねを頂いたので「小豆坂と俺栴檀橋」の書き込みがある絵図をご紹介する。
棒庵坂を下った突き当り位のところから、折り返して坂がある。
内坪井の武家屋敷(現在の登園中学のプール)辺りへ下っているが、高低差が7~8mあるので急こう配であったろう。
下りきったところに流れているのが坪井川、これに掛かっていたのが折栴檀橋である。
内坪井は広大な範囲があるが、現在は広町筋から上熊本に至る幹線道路に分断された。
大事なお侍さんの登城口であった。冠木門のようなものが見受けられ、番小屋らしいものも伺える。
小さな川の流れがあったと伝えられるが、下方に描かれているのがそうであろう。
              

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■熊本城下屋舗割之図から(そのニ)

2022-05-17 06:50:11 | 地図散歩

 先日■熊本城下屋舗割之図からを書いたあと、以前二の丸に居住した方々の四つの時代の屋敷の主の変遷を取り上げたと思い、過去のブログを調べてみたら■二の丸の屋敷群というのが出てきた。
これを眺めていたら、先の記事に間違いがあったことに気付いた。(後に訂正させていただく)
改めて当時の記事を引用して、再検討する。

                        

 

 加藤時代(上図)細川家の四つの時代(下図)の屋敷の主の変遷。 

  加藤時代(寛永初期) (1)明暦期     (2)元禄前後     (3)宝暦年後半    (4)天明年前後 

      下津棒庵・・・大木
   (へ)大木四郎・・・御目付屋敷
   (ほ)                              同上   
a (は)・・・清田儀左衛門尉ヨリ上・・・・・→御用屋敷・・・・・・・・→(     bに吸収       )
b (に)・明屋敷・・・芦村惣兵衛・・・・・・・→住江甚右衛門・・・・・・→長岡岩之助・・・・・・・・→長岡右門
c 相田内匠・他・・・・長岡監物(足屋敷二軒共)・→同左・・・・・・・・・・→同左・・・・・・・・・・・→長岡丹波
d 下川又左衛門・・・・平野茂左衛門・・・・・・→氏家甚左衛門・・・・・・→学校(時習館)・・・・・・→学校(時習館)
e 下川平吉・本庄某・・・川喜多九太夫・・・・・→川喜多治部右衛門・・・・→(    時習館敷地となる    )
f 加藤右馬允・・・・・長岡佐渡守・・・・・・・・→高見三右衛門・・・・・・→沼田勘解由・・・・・・・・→沼田熊五郎
g 蟹江主膳・・・・・・ (不明)・・・・・・・→竹内吉兵衛・・・・・・・・→沼田勘解由・・・・・・・・→沼田熊五郎
h 新美八左衛門・・・・尾藤金左衛門・・・・・・→尾藤助之丞・・・・・・・・→有吉万之進・・・・・・・・→松井土岐
i 加藤右馬允・・・・・松井帯刀・・・・・・・・・→同左・・・・・・・・・・→松井主水・・・・・・・・・→松井帯刀
J 坂井内藏允・・・・・竹内吉十郎・・・・・・・・→小坂半之丞・・・・・・・→西山多膳・・・・・・・・・→長岡丹波添屋敷
k 真田安左衛門・・・・尾藤貞右衛門・・・・・・・→田中忠介・・・・・・・・→溝口蔵人添屋敷・・・・・・→長岡助右衛門添屋敷
l 随雲・・・・・・・・牧丞太夫・・・・・・・・・→松野半右衛門・・・・・・・→  同上  ・・・・・・・・→同上
m 水野左膳・相田六左衛門・・住江求馬・・・・・→志水三右衛門・・・・・・・→溝口蔵人・・・・・・・・・→米田波門
n 庄林隼人・・・・・田中左兵衛(足屋敷共)・・→ 同左 ・・・・・・・・→田中兵庫・・・・・・・・・→田中左兵衛
o 不明・・・・・・・中村伊織・・・・・・・・・→中村庄兵衛・・・・・・・→住江甚右衛門・・・・・・・→同左
p 不明・・・・・・・志水伯耆・・・・・・・・・→柏原新左衛門・・・・・・→小笠原備前・・・・・・・・→同左
q 不明・・・・・・・下津縫殿助・・・・・・・・→下津求馬・・・・・・・・→小笠原備前添屋敷・・・・・→同左

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■山頭火の店「雅楽多」は、旧有吉家屋敷の一部だった。

2022-03-05 07:02:26 | 地図散歩

 白川が大蛇行していた時代には現在の熊本市役所の場所はどうやら流れの中に在ったようだ。
現在熊本市は現在の市役所庁舎の耐震性を理由に建て替えを目論見、市議会などを巻き込み、賛否揺れ動いている。
白川の河道の跡だということになると、あまり良い地盤ではないことは確かなようだ。
藩政時代この場所は御厩があった所で、裏手に出るとお花畑の馬場に繋がっている。
御厩の前の坪井川に架かる橋を「厩橋」と呼んでいる。


 その御厩の裏手には、三卿家老の有吉家の分家の広大な屋敷が広がっていた。
市役所の裏手から下通まで、表は市電の通りから裏手はかっての太陽デパートがあった広大な一角である。

本邸は重臣の屋敷が軒を並べた城内二の丸内の、西大手御門前右手にあった。二の丸の屋敷群が解体された後も有吉邸は残され、明治の一時期熊本県庁となった。
(ちなみに本家は現・国立病院の場所にあった)

「熊本城下町図-安政比」を引っ張り出して眺めてみると、下通筋にはその有吉市左衛門邸の先に宇野貞雄、その先に堀内三瞱、道を挟んでその先には益田弥一右衛門の屋敷が並んでいる。
明治維新後(5年)御厩あとに獄舎が作られた。いろいろ変遷があるが表通りには「研屋」という旅館が出来、有吉家の池や庭つくりなどを利用して「精養軒」という高級料亭が作られた。
いずれも庶民には手の届かない、官民のお大尽の利用する処となり大変賑わったようだ。

                                   

 井上智重氏の著「いつも隣に山頭火」を読むと、「雅楽多の場所は?甲斐青萍の絵図に探す」(p196~199)という項があり、この絵図のなかに山頭火の店「雅楽多」が描かれていることが紹介されている。
同著には大正五年の地図と甲斐青萍・熊本街並画集から該当絵図も紹介されている。
早速とりだして眺めてみると、「熊本明治町並屏風-部分十一・熊本監獄」(p35~36)及び、「昭和町並屏風-手取本町と市役所付近」(p44)で同様の場所が描かれていてその「雅楽多」の場所も良くわかる。
p36に於いては、お客を乗せた人力車が「精養軒」に入っていくのが伺える。「雅楽多」はその入り口の左手の二階屋らしい。

商店街として発展していく下通の一等地ともいえる所に、山頭火は店を構えた。
そして両絵図に共通して精養軒入り口の二軒隣には屋根の上に時計塔みたいなものを乗せているのも伺える。明治期の絵図では「山田時計店」、昭和期の絵図では「マルタ號」とある。
「マルタ號」とは私が若い頃までは営業していたし、良く通った洋品店であった。現在は同地に「マルタ號下通ビル」が存在する。
確か友人のT氏の何代か前は親戚筋だということを聞いていたから、電話をして古い写真でもないかと尋ねてみたが、こちらは叶わなかった。
処が話は思いがけない方向に飛んで、氏は昭和43年ころ、新町の有志が山頭火の映画を作ったことがあったそうで、これに深くかかわっていたらしく、話はそちらに移り、能弁に語る相手の長電話に引きずりこまれてしまった。
「甲斐青萍・熊本街並画集」は持ってないという。大いに推薦したことは勿論である。

 ちなみに井上智重氏は■東京銀座博品館にて上演「きょうも隣に山頭火」の公演準備のために超ご多忙の御様子である。
成功裡に終る事を願っているが、皆様のご来場を乞い願うものである。
お問い合わせ等はお気軽に井上智重氏の方にメールでどうぞ tomo12@alpha.ocn.ne.jp

 

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■見事な府中全図は加藤時代のもの・・

2022-02-25 08:34:49 | 地図散歩

 寛永六・七年頃の熊本府中を網羅した絵図は「加藤家屋敷割絵図」といわれるものだが、「熊本城跡歴史資料編第2分冊」においては、
「屋敷割下絵図」として紹介されている。

大変見事な絵図であり、加藤家時代の家臣の屋敷割が見て取れる。
加藤家の改易に当たりこの絵図は幕府に提出されたものと思われ、その後細川家の入国に当たり家臣団の屋敷割に使われた。
絵図の上にそれぞれ「上々々」「上々」「上」などと記入されている。

三卿家老以下重臣の屋敷の割当てが見て取れる。立派絵図がなんだか雑に扱われていて切なくなってしまう。
以降いろいろな絵図が作られていくが、府中すべてを網羅した「全図」としては最高級である。
そのスケール感もかなり精密で、現在の地図にもそん色ないように思える。
複製をつくって販売してもらえないものだろうか?「みうら折り」にして城下町を散策するのも良いではないか。

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■熊本城築城とお花畑の位置

2022-02-21 07:46:27 | 地図散歩

 一昨日の熊本史談会例会では、熊本城の三の丸の存在を検証した。
三の丸の存在を考えていると、あの茶臼山をどう縄張りをして梯郭式(階郭式)の城郭として築造していったのかに大いに興味を持った。
鹿児島大学が発表している熊本大地震後の熊本城内数か所のボーリングからくる地質断面図を提示したが、皆さんも大いに興味を持たれた様だった。
二の丸の広いスペースは薄い表土しか見当たらず、いわゆる熊本城の地山 Aso4(同上・紫色表示)を均したことを物語っていた。
一方天守部分などでは10m以上の盛り土をしている。これは驚きであったがこの土こそ二の丸を均した切土であったのかもしれない。
二の丸の北側の百間石垣における7~8mに及ぶ段差は立田山断層による地層のずれと考えられ、大昔の官道が通っていた。
古京町一帶を三の丸とも呼んだらしいが、梯郭式縄張りからするとそう呼んでも良かろうと思うが、道が通る曲輪というものを「丸=曲輪」と呼ぶのは如何かと思うがどうであろうか?町名がついていたということは侍町ではない。
古京町の人々を京町に移し、その後跡地に侍屋敷が建つようになると「三の曲輪」と呼ばれ始めたようだ。

 熊本城の建設は土をいかに動かすかということに尽きるような気がする。
大蛇行していた白川は資材の搬入には大いに活躍しただろうことは大いに予想がつく。
そして最後に現在の城内竹の丸に入り込んでいた白川の流れが、版築という手法の地盤改良で白川の流れ及び川岸が埋め立てられた。
それは慶長15年あたりまでとされる。これらを埋め立てる土量は10万とか20万立米に及んだのではないか。これも茶臼山を掘り崩して確保されたのだろう。
棒庵坂こそがその搬出の道ではなかったろうか。

 のちに細川家の居館となった「お花畑」は、かっての白川の流れの真ん中に位置していたのではないかと理解していたが、そうではなく大蛇行した湾曲の内側の頂上部分にあたるようだ。
花畑邸の裏手にはかって追い回し田畑という数メートルの段差がある低湿地があり、これが白川の蛇行の名残である。
加藤清正が支配したかっての阿蘇氏の居館矢部の愛藤寺城が破城の措置(慶長17年)が取られた際、その居館が解体され花畑邸に移され大広間になったと言われる。
すべて水運をもって為された。
白川、坪井川、井芹川のながれがこの大事業の運搬手段をになった。
熊本城の大工の棟梁善蔵の「覚書」によると、材木は茶臼山本体と近隣の山々から切り出され、石材は高平(?)だとある。
現在の高平の地から考えると、石材を京町台に運び上げるのは至難の業である。転がり落して坪井川を筏で運んだと考えるのが妥当である。
御城周辺の平均地盤高は標高12mくらいである。天守周辺は50mに近い。約40m、どうやって運び上げたのだろうか。
そして豊かな木々が生い茂っていたであろう周辺の山々は、材木の確保のために丸裸状態になったであろう。
そんないろいろな景色を頭に描くと感慨深いものがある。

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■発見「明暦前後」の桜町周辺絵図

2021-05-28 17:56:49 | 地図散歩

 2017年8月14日にUPした■「明暦前後」地図散歩」が幾重不明だったが、ようやく画像フォルダから探し当てました。
少々「ペイント」で書き込みをし、画像を見やすいようにしたつもりですが、文字がぼけており一応このままUPしますが、いずれほかの絵図をご紹介する際、もう少し見やすくしたいと思います。         

         

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■再チャレンジはあるか?

2021-05-28 06:13:38 | 地図散歩

 2017年8月14日にUPした■「明暦前後」地図散歩に「肝心の絵図が載ってねーぞ」と悪友が知らせてきた。
慌てて眺めて見ると確かにない。添付し忘れていた。2017年のフォト一覧を探すが見つからない。
さてどの地図だったろうかと、大いに慌てて探している。悪友には「しばらくお待ちを・・・」とメールしておいた。

処で過去に「我が家検索リスト」というものをご紹介してきたが、一連の「熊本分所絵図」12葉はこれは「安政比」とされる同時代のものがまとめられてある。
ほかにも熊本市史の「絵図帳」には時代が異なる種々の絵図が遺されている。これは時代はバラバラである。
これを何とか掲載してほしいというリクエストもあるが、これだけの数があるとこれは相当の体力を要する。安請け合いはとてもできない。

    22・二ノ丸之絵図     元禄年前後(1690~1700)
    23・ 同上        宝暦年後半ころ(1700年代後半ころ)
    24・ 同上        天明年前後(1781年前後)
    25・二ノ丸之内千葉城段山 文政年間(1718~29)
    26・東二ノ丸       不明 27と一対か
    27・西二ノ丸       不明 26と一対か
    28・山崎之絵図      寛文五年(1665) ~延宝二年(1674)
    29・ 同上        寛延三年(1750) ~明和四年(1769) 
    30・ 同上        宝暦五年(1755) ~宝暦九年(1759) 
    31・山崎         弘化二年(1845)五月以降 
    32・高田原之絵図     万治二年(1659) ~寛文二年(1662) 
    33・ 同上           同上
    34・ 同上        元禄七年(1694)
    35・ 同上        元禄十一年(1698)~宝永元年(1707)
    36・ 同上        宝暦六年(1756) ~宝暦十一年(1761)
    37・南高田原之図     享和三年(1808) ~天保六年(1835)
    38・北高田原       文化十三年(1816)~文久三年(1863)
    39‐1・手取 千反畑 外坪井 向寺原 竹部之絵図 分割1
    39‐2・手取 千反畑 外坪井 向寺原 竹部之絵図 分割2
                 明暦元年(1655) ~寛文二年(1662)
    40‐1・手取 外坪井絵図  向寺原 竹部共ニ 分割1
    40‐2・手取 外坪井絵図  向寺原 竹部共ニ 分割2
    40‐3・手取 外坪井絵図  向寺原 竹部共ニ 分割3
    40‐4・手取 外坪井絵図  向寺原 竹部共ニ 分割4
                 寛文四年(1664) ~寛文七年(1667)
    41‐1・手取 千反畑 外坪井之絵図 分割1
    41‐2・手取 千反畑 外坪井之絵図 分割2
    41‐3・手取 千反畑 外坪井之絵図 分割3
    41‐4・手取 千反畑 外坪井之絵図 分割4
                 延宝六年(1678) ~延宝七年(1679)
    42・手取之絵図      宝暦三年(1753)ころ
    43・手取藪の内坪井堀端之絵図  延享四年(1747) ~宝暦四年(1754)
    44・外坪井 千反畑絵図        宝暦元年(1751) ~宝暦四年(1754)
    45・建町構ヨリ荘厳寺迄  文化年(1804)以後
    46・千反畑        江戸後期
    47・立田口絵図      宝暦十年(1760) ~安永二年(1773)
    48・向寺原 建部之絵図     宝暦三年(1753) ~宝暦五年(1755)
    49・  同上       文化十一年(1814)~天保十年(1839)
    50・向寺原絵図      宝暦二年(1752) ~宝暦六年(1756)
    51・向寺原        文化十一年(1814)~天保十年(1839)
    52・建部         明和年間(1764~1772)ころ
    53・内坪井        延宝四年(1676)~元禄十一年(1698)
    54・寺原之絵図      元禄年前後(1600~1700初)
    55・南寺原絵図 但 内坪井京町之内モ有之
                 宝暦年間(1751~1763)
    56・北寺原        宝暦年前後(1750前後)
    57・京町之絵図      寛文六年(1666)以前
    58・  同上       元禄七・八年(1694・1695)
    59・南京町        明和七年(1770)以降
    60・北京町           同上
    61・岩立之絵図      寛保二年(1742)~宝暦五年(1755)
    62・北岩立之絵図     宝暦元年(1751)~宝暦六年(1756)
    63・高麗門 塩屋町之絵図 明暦二年(1656)~寛文末期(1672)
    64・高麗門 塩屋町絵図  元禄十一年(1698)~元禄十四年(1701)
    65・高麗門 塩屋町絵図  宝暦五年(1755)~宝暦十一年(1761)
    66・高麗門 塩屋町之絵図 文化八年(1811)~文政七年(1824)
    67・塩屋町        文政九年(1826)

    68‐1 ~ 68‐12 熊本所分絵図 安政四年(1857)以降   ご紹介済「我が家検索リスト」
   

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■地図散歩「竹部」界隈

2021-05-27 09:41:59 | 地図散歩

 昨日ご紹介した坪井七曲りを東に進むと「菊池往還」へ出る。このあたりは藩政時代の「竹部」という地名であったが、現在では存在しない。
古くは建部とかき、磐井の乱(527)のおり肥後の火の君をけん制するために軍隊を派遣した其地であるといわれる。由緒ある地名である。
南は豊後街道(国道57号線)に面し、藩政期には街道沿いは鉄炮の者が住まいして、小さな道が迷路のようにあった。
現在では随分道路も整備されたようだが、これまた奥へ入ると七曲り同様、車の運転に自信がない方は立ち往生しなければならない。
中に入り込むと突然火除け地ででもあったのか広い道があらわれ驚かされる。今日ご紹介する絵図では「小枩(松)原」と記されているが、松の木が植えられていたのだろうか。
この辺りにになると下級武士の住まいが立ち並び、わが先祖の住まいもここにあった。■向こう三軒両となり(二)
このあたりの散策には、地図が必需品となる。但絵図に見える泰勝寺への道などは、現在は消滅している。
黒髪小学校・濟々黌高校・熊本大学などの校地、久本寺などの取り囲まれた一角でと、菊池往還を挟んだ反対側の地区で、現在の地名でいうと、黒髪1・2丁目、坪井4丁目当りである。
西の方では菊池往還の「中三軒丁」につながっているが、「出屋敷」の名前が見られる。
小路名が書かれており、大変貴重な古地図である。

      

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■坪井七曲りと木山往還七曲り

2021-05-26 17:06:55 | 地図散歩

 もう30年ほども前の話である。私の伯父嫁の実家S家が当時坪井の七曲りにあった。
所用があって車で出かけたが、その名の通りクランクが連続し大いに難儀したことを思い出す。
新国道三号線の開通によって、分断されたが、坪井の必由館高校(元米田家屋敷)の正門前からやや進んだかってはどんずまりの所から右折し、黒髪1丁目の椋天神のあたりまで繋がっていた。
だから私が入り込んだ七曲がりは、四曲がり目くらいの所であったのだろう。
地図上は国道につながっているように見えるが、5・60センチくらいの段差が有り、帰りはこのクランクをバックで出たという次第である。
もうS家も引っ越されたので出かける機会もないが、今一度歩いてみたいし、椋天神当りにも出かけてみたいと思う。

       
   

 過日もブログでご紹介した「木山往還」ここにも七曲りが在る。ここは全く道筋が変わることはなく存在している。
ただし、木山往還自身は、白山から水前寺地区で豊肥線により分断された。しかし数少ない横断路の一つとしてかろうじてつながっている。
県営堀之内団地の南側から、国府高校の北側をへて、私が幼少期を過ごした出水町(今)のどんどん川に沿って砂取四つ角のやや手前に顔を出すことになる。
ここから県立図書館の前を通り、八丁馬場から健軍神社へと進むことになる。
こちらも初めての人は迷い込んで身動きが付かなくなるが、現在は携帯の地図で居所が瞬時にわかって大助かりである。

       

                                 ルートは 今昔マップon the webで確認済です。

 

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■地図散歩・八代

2021-05-16 08:34:25 | 地図散歩

 随分以前の事だが、「八代御附衆」のリストをご紹介したことがある。

■八代御城附衆(1)

■八代御城附衆(2)

■八代城御附衆(3)

処が御約束の、「肥陽諸士鑑」を調べて、八代御附衆を引っ張り出す作業をまだ終えていない。
これは御約束したことだから、近々チャレンジしてご報告したいと思っている。

(1)については、写真でご紹介する松井文庫所蔵の「八代町図」があり、諸家の場所が明示されており大変有難い。
(2)(3)については、このような資料が存在するのかどうかさえ、よくわからないでいる。一度八代にお邪魔して伺ってみたいと考えている。

 熊本史談会の会員のK氏のお宅もそうだし、物故会員のS氏のお宅も八代御附衆であったとお聞きした。
K氏のお宅の場所はよくわからないが、S氏のお宅はご自身も住んでおられたらしく場所ははっきりしている。
彼にいろいろ聞く間もなく病の床に就かれてコロナ禍の中御見舞いも出来ないままお亡くなりになり、お別れした。
私も少々お手伝いをしたが、S氏は10年以上にわたり見事なご先祖様の調査をされて「S家累代の歴史」を物にされた。
その最後の取材に八代を訪ねるといわれるから、同行し、お宅が在った場所などをみてまわった。
1,000坪ほどの大きな屋敷であったらしい。

 現在残る八代城も見事なものだが、これは本丸のみであり、三斎が入城した八代城は二の丸・三の丸・北ノ丸がある、広大な城であった。
三斎の死後筆頭家老・松井氏が預かることになったから、松井家家臣と「八代城御附衆」と呼ばれる人たちが、混在して侍町を構成した。
当時の大手門は、現在の松井神社の大鳥居がある当りである。クランク状になっている正面の大通りは昔も今も変わらない。
大手門前の大きな屋敷は、松井家・家司の山本氏、そして「八代城御附衆」の備頭・高見氏のお宅である。
二家の御子孫ともに、ご厚誼をいただいているが、100石取の当家にとっては過分なことではある。

 車の免許を返上してから、八代の地は大いに遠く感じられるようになった。
ゆっくり、この地図をもって八代の街を散策したいと思っているが、これも秋風がそよぐ頃を待たねばならない。

   

 

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