かっての備中笠岡の城主で、村上水軍の一族村上八郎左衛門景広は、関ケ原戦に於いては西軍に属して東軍の水軍と戦い107の首級を上げる大活躍をした。
其の後毛利氏を離れて、細川忠興に招かれ一万石の高禄をもって仕えた。寛永四年十月一日に死去、その跡式を嫡子景則が相続、その御礼その他の記事が詳しい。
(肥後八代入国後の三斎に仕え、その死にあたり離国した)
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| (村上景則)
村上景則相続ノ礼 |一、長岡河内、夜前中津ゟ為御礼被参候、 三斎様ゟ之 御書も参候ニ付而、古屋七左衛門持被上候
ニ中津ヨリ来ル | へとも、はや御門立申ニ付而、我々所へ被持参候を、則我々両人持上り、 御前へ差上申候、河
| 内ハ今朝御礼被申上、被成御振舞候事、
村上景則主知行惣 |一、長岡河内方ゟ、平左衛門を以上被申越候ハ、はやき申事にて候へ共、大坂御普請諸役之者なと仕立候
成ノ算用ヲ求ム | (村上景広)
| 間、八郎左衛門知行去物成之儀、差引被仰付候て可被下候、又前廉八郎左衛門御供ニ罷上候時ニ
戻米 | 戻米なとも有之様ニ承及申候、左様之段をも差引被仕候様ニ、金子・中神ニ被仰渡可被下候事、
景則ノ算用 |一、河内儀ハ、惣別小倉御米をかり申間敷通、前廉 三斎様被 仰付候、今又八郎左衛門跡 仰
| 付、壱万石ニなり申候とても、得 御諚候ハねハ御米かり申儀罷成申間敷と存候間、左様ニ御座候
景広馬乗ノ借米 | ハヽ、八郎左衛門馬乗共ニかし被下御借米之分も返弁可仕候、しかれとも、今ほと米の手廻何と
忠利ノ袖判ヲ請ケ | も罷成間敷候間、 御袖判をも申請、銀子にて上納可仕と存候、いかゝ可有御座候哉と被仰聞ニ付
銀子ニテ上納スル | 而、此方ゟ申候ハ、米と銀とのさわけの様子ハ、惣積り仕ものと談合仕候ハねハ、とかくの御返
ハ如何 | 事難申候由申渡候事、何時御返弁候とても、請取可申由、申渡候事、
| 〃
|一、右八郎左衛門知行分、去物成ともニ、長岡河内方へ急度被仕、渡候へと、加藤新兵衛・栗野伝介
| ニ申渡候事、
村上景広家屋敷之 |一、村上八郎左衛門家屋敷之帳、幷道具も有之帳被差上候事、
帳幷道具ノ帳 | (皆川)(林)
村上景広遺物ノ刀 |一、村上八郎左衛門遺物ノ刀一腰箱ニ入、茶碗壱つ箱ニ入、書置文箱ニ入、右野分、治ア・隠岐両人
幷茶碗 遺書 | へ相渡申候事、
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