何とも理解に苦しむ話がある。100石取りの代官・保利与兵衛なる人物が銀100貫を京都の平野屋から借銀した。
「1両=銀60匁」からすると、100貫は100.000匁だから1667両ほどとなる。
こんな大金(銀)がたかだか100石の知行取にどうして融通されたかというと、その借状には細川忠利の袖判が為されていたというのである。
袖判とは文書の右上に記された、署名と花押の事を差す。借状に記された忠利の袖判は「保障」の意味合いを有する。
上記の保利与兵衛の借状は「個人の借銀」だとされているが、何か曰くがありそうな話ではある。
借銀奉行は期限に成ると利子を保利から受け取って返済し、また袖判借状を新たに書き換えたという。
「四公六民」といわれた当時、保利の収入は40石ほどである。(1石=1両で換算すると40石=40両≒400万円)
当時の細川家が京都の商人からの借入利息は年15%だったと言われるから、1.667両×0.15=250両≒2.500万円、まったく返済能力はない。
この事についてはどう解決されたのかよくわからないが、大いに疑問が残る・・・・・
(参考:宮崎克則著 逃げる百姓、追う大名)
保利与兵衛については次の資料しか見当たらない。光尚公の時代までは与兵衛は肥後にあったことが判るが、死去したのか離国したのかその行方はようとして知れない。子孫の情報も伺えない。
○ 保利与兵衛 留守居組 百石 (於豊前小倉御侍帳)
御代官衆 百石 (肥後御入国宿割帳)
百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
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