過日、ご厚誼をいただいている、小倉在住で「 小倉藩葡萄酒研究会」の小川研次氏から、以下のような大変興味深い一文をお送りいただいた。
氏は九州でお一人の名誉ソムリエだとお聞きしている。その故をもって「小倉藩葡萄酒研究会」を立ち上げられておられる。
忠利が作らせた葡萄酒のことなどを研究されての論考をたまわったのが、お付き合いの始まりである。
過去にその他いろいろな論考をお送りいただき、お許しをいただいて当方ブログでご紹介してきた。
今回も又お許しをいただいて皆様にご紹介申し上げる。
「家康のワイン」は、秀吉へ又信長へと遡るのかもしれない。
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『家康のワイン』 小倉藩葡萄酒研究会・小川研次
明の李時珍著『本草綱目』(一五七八年)は慶長十二年(一六〇七)に長崎にいた林羅山の手に渡り、徳川家康に献上された。
さて、そこに葡萄酒の造り方があるのだが、「二様あり、醸したものは味が良く、焼酎にしたものは大毒がある」という。
醸造は麹と共に醸すのであるが、汁(ジュース)が無い場合は干しぶどうの粉を用いるとあり、葡萄粉末ジュースの様相である。
(子供の頃、舌を紫色にして舐めていたようなもの)
「葡桃は、皮の薄いものは味が美く、皮の厚いものは味が苦い。」
「葡萄を久しく貯えて置くとやはり自然に酒が出来て、芳香と甘味の酷烈である。それが真の葡萄酒だともいふ。」
完全無欠の「ワイン」である。シルクロードから、また自生した多種の葡萄がある中国ならでは可能だったのである。
しかし、日本ではどうだろう。そもそも、江戸初期に日本人が葡萄酒を造るという発想があったのだろうか。
一五四九年八月十五日、キリスト教宣教師として初来日したフランシスコ・ザビエルは日本人の「酒」に関して報告している。
「この国の人たちの食事は少量ですが、飲酒の節度はいくぶん緩やかです。この地方にはぶどう畑が有りませんので、米から取る酒を飲んでいます。」
(『聖フランシスコ・ザビエル神父全書簡2』)
また、徳川家康の通辞を務めたジョアン・ロドリゲスは一六二〇〜二二年に『日本教会史』を編集している。
「果物の多くは、ヨーロッパにある我々の果物と同じである。様々の種類の梨や小さな林檎、上の地方(かみ=五畿内、九州は下)における桃や杏がそれである。李と葡萄は少ない。それは葡萄の栽培に力を注いでないからであって、あるのは葡萄酒に向かないものである。叢林には野生の葡萄の一種があるが、日本人はそれを食べていなかった。もし、それから葡萄酒を造るならば、味にしても発酵の具合にしても、やはり真の野生の葡萄である。また、ローマにおいてこの地に関して認められた情報によれば、ヨーロッパから来る葡萄酒の不足から(これはすでに起こったことだが) 野生のものから造った葡萄酒でミサをあげてよいとの判断が下されたのである。」(「日本教会史」上、『大航海時代叢書』第一期、岩波書店)日本人は葡萄酒どころか、食してもいなかったのだ。その「野生の葡萄」から染料や籠などを作っていたのだ。
一五九二年のイエズス会総会においてヴァリニャーノがポルトガル産の葡萄酒の不足からミサに支障をきたすので、日本の野生品種である山葡萄(葡萄蔓)で造った葡萄酒の使用の可否をローマに求めたのである。この回答は一五九八年にローマから届いている。保存性を高めるためにポルトガル産の葡萄酒を混ぜることも許可された。(「日本の倫理上の諸問題について」『中世思想原典集成』二十)
宣教師らは、在来種の山葡萄による発酵も試みたが、アルコールの低さや雑菌による汚染などにより、味はおろか保存さえもできなかった。やがて、ポルトガルの葡萄酒を混入することにより、保存性を高めること知る。しかし、これはあくまでミサ用葡萄酒だったのである。
では、家康(一六一六年没)は葡萄酒を造ったのだろうか。
『駿府御分物御道具帳』に家康の遺品の中に「葡萄酒二壺」とある。(『大日本資料』第十二編之二十四)
慶長十年(一六〇五)に家康がフィリピン諸島長官(スペイン領)に送った書簡の中に「予は閣下の書簡二通併びに覚書の通り贈物を領収せり。中に葡萄にて作りたる酒あり、之れを受取りて大いに喜べり。」(『異国往復書簡集、改訂復刻版』雄松堂書店)
家康はスペイン王国からの葡萄酒を大いに気に入ったのであった。
さらに慶長十八年(一六一三)にイギリス国王使節のジョン・セーリスから五壺の葡萄酒を贈られたが、セーリスは日記に「甘き葡萄酒」と記している。(『異国往復書簡集』「増訂異国日記抄」雄松堂書店)
このことから、家康は甘口が好みであったことが理解できる。
当時のイギリスはスペインから輸入しており、ともにヘレスのワインと考えられる。実は、その根拠に日本人も関係している。
フェリペ二世(一五二七〜九八年)のお抱え料理人フランシスコ・マルティネス・モンチのレシピ本として発刊された『Gastronomi ia Alicantina Conduchos de Navidad』(一九五九年出版)である。
一五八四年十二月末、マドリードでフェリペ二世との謁見を終えた天正遣欧少年使節の一行は、バレンシア州最南端の地アリカンテにいた。
「フォンディリョン:アリカンテのブドウ園から造られる年代ものの甘いワインは至福の喜びを与えてくれる」そして今、王子(使節)が試飲した時に「これが様々な国でとても有名なアリカンテのワインですね!」と言った。
「王子」は単数形で書かれているが、使節リーダーの伊東マンショと思われる。ちなみにマンショはマカオにて司祭叙階後に小倉で勤務している。
さらにモンチーノは貴重な情報を伝えている。
「フォンディリョンの起源はヘレスの有名なワインペドロ・ヒメネスと同じであり、カルロス一世(一五〇〇~一五八八)の兵士が造ったことに始まる。」
つまり、この時代にアリカンテとヘレスのワインが長い航海に耐えうる高品質であったことを意味する。
現在のフォンディリョンは黒ブドウ「モナストレル=ムールヴェドル(仏)マタロ(豪)」を遅摘し、糖分を凝縮させるために天日干しをした後に発酵させるのだが、ソレラ・システムの大樽で八年以上熟成させる。酒精強化せずに酸化熟成させたアリカンテの伝統的なビノ・ランシオである。
「ペドロ・ヒメネスと同じ」とは、その独特な製法で、現在でもヘレスでは、白ブドウ「ペドロ・ヒメネス」を天日干している。超甘口シェリーは有名だ。
現在、シェリーにも導入されているソレラ・システムの出現は十九世紀半ばとされる。(『シェリー、ポート、マデイラの本』明比淑子著)
また、マラガワインも現在では酒精強化ワインだが、天日干ししたペドロ・ヒメネスやモスカテル(マスカット)を使用している。
家康の遺品葡萄酒はこのペドロ・ヒメネスの可能性がある。三年間で三壺を消費して二壺を遺していたのではなかろうか。
幕府薬園で葡萄酒を造ろうとしたのかも知れないが、全く記録がない。
徳川家で国産葡萄酒の初見は正保元年(一六四四)まで待たなければならない。
『事跡録』に「殿様御道中ニテ酒井讃岐守殿ヨリ日本制之葡萄酒被指上之」とあり、大老の酒井忠勝が尾張藩主徳川義直に参勤交代で名古屋に帰る途中に日本製葡萄酒を献上したのである。(『権力者と江戸のくすり』岩下哲典)
将軍家光からなのか、忠勝なのか不明であるが、あえて国産としたのは日本のどこかで造られていたことになる。
ただし、これがワイン(醸造酒)である確証はない。
もし、家康が葡萄酒を造るとなると『本草綱目』の「薬効」を意識していただろう。しかし、日本の在来種は先述の通り弱いものであった。「薬効」どころか酸敗、腐敗した葡萄酒は身体に悪い。そこで必然的に日本人は酒や焼酎を加えることにした。つまり、「ワイン」ではなく「混成酒」なのである。
「日本制之葡萄酒」は「混成酒」の可能性がある。
天正八年(一五八〇)の『今古調味集』に葡萄酒の造り方が記されている。
「葡萄酒はくわ酒の通りにて宜し 又ぶだうエビツルにて作りたるをチンタ酒と言うなり」
「桑の実(葡萄)を潰して布で漉し一升五合の汁を一升になるまで煮詰める。冷ましたのちに瓶に入れ、そこに古酒一升と焼酎五合と氷砂糖二百五十匁を入れ三十日経てばよろしい。壺にてもいずれにせよ七分位に入れ置くこと。」
これは天正時代とあるが江戸期と思われる。材料はぶどうの他に日本酒、焼酎そして氷砂糖である。
当時、砂糖はたいへん貴重品であり、また薬であった。
さらに江戸時代に入ると葡萄酒のレシピが現れてくるが、ほぼ同じ造り方である。
『料理塩梅集』寛文八年(一六六八)
「山ぶどう酒は上白餅米一升を蒸して中に白こうじ一斗を熱いうちによく混ぜる。そしてよく冷ます。山ぶどう八升(茎は入れない)を壺に入れるが、先の米とぶどうを交互に重ねる。詰め込んだところに上々の焼酎八升を流し込む。そこに細い竹を刺し通すれば焼酎が壺の中でよく浸透する。五十日程の内に三度程よくかき混ぜること。
もう一つの方法
山ぶどう一升をよく熱する。糀一升、餅米一升を酒めしにして冷ます。これらを桶に、酒めしを一重に置き、又山ぶどうを置き、糀をかけて、交互に重ねる。そこに上々の焼酎一升五合を口まで入れ、二十日ほど過ぎたら酒袋に入れる。そして、空気に触れないように桶に詰める。
甘く仕上げたいならば、氷砂糖を粉にして加えること。
桑酒に仕上げるには山ぶどうを桑の実一升に取り替える。又、他のぶどう酒に仕上げるには、本ぶどう一升に取り替える。」
『本朝食鑑』元禄十年(一六九七)
「蒲萄酒、腰腎を緩め、肺胃を潤す。造法は熟した紫色のぶどうの皮を取り搾った後に、搾り汁と皮とを漉し、磁器に入れ一晩置く。これを再び漉し、この汁一升を二回煮詰める。冷ました後に三年ものの諸白(清酒)一升と氷砂糖百銭を加えてかき混ぜる。陶甕に入れ十五日程で出来上がるが、一年以上置くとさらに良い。年代ものは濃い紫で蜜の味がし、阿蘭陀(オランダ)の知牟多(チムタ=チンタ)に似ている。世間では、これを称賛してるが、この酒を造る葡萄の種類は、エビヅルが勝る。つまり山葡萄である。俗に黒葡萄も造酒に良い。」
『手造酒法』 文化十年(一八一六)
葡萄酒
焼酎二升 、白砂糖三升 、ぶどうの汁三升 、生酒 、
山ぶどう酒
ぶどう八升、上白糯米八升、上焼酎一斗、糀八升
本葡萄や黒葡萄が現在で言うヤマブドウであり、山葡萄はエビヅルのようである。
葡萄酒は本葡萄により、また山ぶどう酒はエビヅルにより造られていたと思われる。エビヅルの葡萄酒は、その色からチンタ酒とも呼ばれていたことも判明した。それは江戸末期に味醂酒を南蛮酒と呼んでいたことと同じである。
このように江戸期末期までは葡萄酒は「混成酒」として造られていた。
本格的なワインの登場は明治初期まで待たなければならなかった。
山梨県甲府で山田宥教と詫間憲久によるワイン製造である。
さて、余談だが寛永五年(一六二八)、小倉藩藩主細川忠利の命によって造られた葡萄酒はどのようなものだっただろうか。「薬酒」となると上述のように「混成酒」となる。
肥後国転封(一六三二年)前の四年間の葡萄酒製造の記録しかないが、「薬酒」となれば、熊本でも製造したすることが出来たはずである。しかし、現時点では史料は見出せない。
当時、忠利は多くのキリシタン家臣を抱えており、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアン神父も潜伏させていた。(拙著『小倉藩葡萄酒事情』『秀林院の謎』)
私見だが、「小倉藩葡萄酒」は母ガラシャへの魂救済のためのミサに使用されていたと信じる。
それは熟した在来種のエビヅルで造られたのだが、一旦天日干しされ、足による圧搾が行われた。発酵後に長崎で調達したアルコール度数の高いスペイン・ポルトガル産の甘口ワインを混入し壺にて保存していたと推考する。
つまり、ヴァリニャーノらの造り方を踏襲していたのだ。
この葡萄酒は禁教令前の忠興時代から造られていたと思われ、小倉教会長グレゴリオ・デ・セスペデスと伊東マンショが活躍していた時代である。
あのアリカンテのフォンディリョンを知った伊東が、葡萄酒の造り方を教えたことは想像に難くない。
「キリスト」の御血は「ワイン」でなければならなかったのである。