津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「永青文庫研究」第4号発行さる

2021-04-19 06:22:28 | 論考

 「熊本大学永青文庫研究センター」のサイトに、4月15日付で「永青文庫研究」第4号発行についてというお報せが出た。
大変ありがたい「紀要(永青文庫研究・第4号)」と「年報」の無料配布の御案内である。
郵便はがきでのみの申し込みとなるが、申し込み方法は上記サイトをご覧いただきたい。
但、「希望の紀要・年報の号数」については、書き込み例が記されているが、今般の発行は「紀要・第4号」であり、
「年報は12号」が最新版である。

無料配布ということもあり、部数には制限があることは当然である。お早目の申し込みを・・・・

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■ガラシャ幽閉地・味土野の地に関する疑義論

2020-12-20 10:47:27 | 論考

 先にも記した如く、明智光秀の信長弑逆後明智玉(細川ガラシャ)が幽閉生活をおくったのは、現在では京都府京丹後市大字弥栄町須川であるとされている。
これはヘルマン・ホイヴェルス神父によって明らかにされたとされている。しかしこれは歴史学的・考古学的検証はなされていない印象論であろうが、今日ではこれが定説となっている。
一方ウイキペディア「味土野」にもあるように「玉(細川ガラシャ)は丹波国船井郡三戸野に滞在しており、丹後国の味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論がある」

 それが、今年の三月、丹後郷土資料館の資料課長・森島康雄氏が「丹後郷土資料館だより」に発表された論考「細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う」である。

 森島氏は細川家の公式記録「綿考輯録」の、「丹波ノ国三戸野ト云フ山里迄ゾ返シケル」の記述をはじめ、その他の地誌検証され現在の味土野説を「史実としてはほとんど成立する余地がない」とされる。
氏は「定説とされてもそれほど確かではないものが多い」とされ「本当はどうなのか」という視点が歴史の醍醐味だとされる。

 すっかり観光地化された現在の「味土野」だが、地元の人々には心中穏やかならざるものがあろう。

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■『家康のワイン』

2020-07-20 18:05:27 | 論考

 過日、ご厚誼をいただいている、小倉在住で「 小倉藩葡萄酒研究会」の小川研次氏から、以下のような大変興味深い一文をお送りいただいた。
氏は九州でお一人の名誉ソムリエだとお聞きしている。その故をもって「小倉藩葡萄酒研究会」を立ち上げられておられる。
忠利が作らせた葡萄酒のことなどを研究されての論考をたまわったのが、お付き合いの始まりである。
過去にその他いろいろな論考をお送りいただき、お許しをいただいて当方ブログでご紹介してきた。

今回も又お許しをいただいて皆様にご紹介申し上げる。
「家康のワイン」は、秀吉へ又信長へと遡るのかもしれない。

     
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         『家康のワイン』                                        小倉藩葡萄酒研究会・小川研次

 明の李時珍著『本草綱目』(一五七八年)は慶長十二年(一六〇七)に長崎にいた林羅山の手に渡り、徳川家康に献上された。
さて、そこに葡萄酒の造り方があるのだが、「二様あり、醸したものは味が良く、焼酎にしたものは大毒がある」という。
醸造は麹と共に醸すのであるが、汁(ジュース)が無い場合は干しぶどうの粉を用いるとあり、葡萄粉末ジュースの様相である。
(子供の頃、舌を紫色にして舐めていたようなもの)

「葡桃は、皮の薄いものは味が美く、皮の厚いものは味が苦い。」
「葡萄を久しく貯えて置くとやはり自然に酒が出来て、芳香と甘味の酷烈である。それが真の葡萄酒だともいふ。」

完全無欠の「ワイン」である。シルクロードから、また自生した多種の葡萄がある中国ならでは可能だったのである。
しかし、日本ではどうだろう。そもそも、江戸初期に日本人が葡萄酒を造るという発想があったのだろうか。 
一五四九年八月十五日、キリスト教宣教師として初来日したフランシスコ・ザビエルは日本人の「酒」に関して報告している。
「この国の人たちの食事は少量ですが、飲酒の節度はいくぶん緩やかです。この地方にはぶどう畑が有りませんので、米から取る酒を飲んでいます。」
(『聖フランシスコ・ザビエル神父全書簡2』)

 また、徳川家康の通辞を務めたジョアン・ロドリゲスは一六二〇〜二二年に『日本教会史』を編集している。
「果物の多くは、ヨーロッパにある我々の果物と同じである。様々の種類の梨や小さな林檎、上の地方(かみ=五畿内、九州は下)における桃や杏がそれである。李と葡萄は少ない。それは葡萄の栽培に力を注いでないからであって、あるのは葡萄酒に向かないものである。叢林には野生の葡萄の一種があるが、日本人はそれを食べていなかった。もし、それから葡萄酒を造るならば、味にしても発酵の具合にしても、やはり真の野生の葡萄である。また、ローマにおいてこの地に関して認められた情報によれば、ヨーロッパから来る葡萄酒の不足から(これはすでに起こったことだが) 野生のものから造った葡萄酒でミサをあげてよいとの判断が下されたのである。」(「日本教会史」上、『大航海時代叢書』第一期、岩波書店)日本人は葡萄酒どころか、食してもいなかったのだ。その「野生の葡萄」から染料や籠などを作っていたのだ。

一五九二年のイエズス会総会においてヴァリニャーノがポルトガル産の葡萄酒の不足からミサに支障をきたすので、日本の野生品種である山葡萄(葡萄蔓)で造った葡萄酒の使用の可否をローマに求めたのである。この回答は一五九八年にローマから届いている。保存性を高めるためにポルトガル産の葡萄酒を混ぜることも許可された。(「日本の倫理上の諸問題について」『中世思想原典集成』二十)

宣教師らは、在来種の山葡萄による発酵も試みたが、アルコールの低さや雑菌による汚染などにより、味はおろか保存さえもできなかった。やがて、ポルトガルの葡萄酒を混入することにより、保存性を高めること知る。しかし、これはあくまでミサ用葡萄酒だったのである。

では、家康(一六一六年没)は葡萄酒を造ったのだろうか。
『駿府御分物御道具帳』に家康の遺品の中に「葡萄酒二壺」とある。(『大日本資料』第十二編之二十四)
慶長十年(一六〇五)に家康がフィリピン諸島長官(スペイン領)に送った書簡の中に「予は閣下の書簡二通併びに覚書の通り贈物を領収せり。中に葡萄にて作りたる酒あり、之れを受取りて大いに喜べり。」(『異国往復書簡集、改訂復刻版』雄松堂書店)
家康はスペイン王国からの葡萄酒を大いに気に入ったのであった。
さらに慶長十八年(一六一三)にイギリス国王使節のジョン・セーリスから五壺の葡萄酒を贈られたが、セーリスは日記に「甘き葡萄酒」と記している。(『異国往復書簡集』「増訂異国日記抄」雄松堂書店)
このことから、家康は甘口が好みであったことが理解できる。
当時のイギリスはスペインから輸入しており、ともにヘレスのワインと考えられる。実は、その根拠に日本人も関係している。

フェリペ二世(一五二七〜九八年)のお抱え料理人フランシスコ・マルティネス・モンチのレシピ本として発刊された『Gastronomi ia Alicantina Conduchos de Navidad』(一九五九年出版)である。
一五八四年十二月末、マドリードでフェリペ二世との謁見を終えた天正遣欧少年使節の一行は、バレンシア州最南端の地アリカンテにいた。
「フォンディリョン:アリカンテのブドウ園から造られる年代ものの甘いワインは至福の喜びを与えてくれる」そして今、王子(使節)が試飲した時に「これが様々な国でとても有名なアリカンテのワインですね!」と言った。
「王子」は単数形で書かれているが、使節リーダーの伊東マンショと思われる。ちなみにマンショはマカオにて司祭叙階後に小倉で勤務している。
さらにモンチーノは貴重な情報を伝えている。
「フォンディリョンの起源はヘレスの有名なワインペドロ・ヒメネスと同じであり、カルロス一世(一五〇〇~一五八八)の兵士が造ったことに始まる。」
つまり、この時代にアリカンテとヘレスのワインが長い航海に耐えうる高品質であったことを意味する。

現在のフォンディリョンは黒ブドウ「モナストレル=ムールヴェドル(仏)マタロ(豪)」を遅摘し、糖分を凝縮させるために天日干しをした後に発酵させるのだが、ソレラ・システムの大樽で八年以上熟成させる。酒精強化せずに酸化熟成させたアリカンテの伝統的なビノ・ランシオである。

「ペドロ・ヒメネスと同じ」とは、その独特な製法で、現在でもヘレスでは、白ブドウ「ペドロ・ヒメネス」を天日干している。超甘口シェリーは有名だ。

現在、シェリーにも導入されているソレラ・システムの出現は十九世紀半ばとされる。(『シェリー、ポート、マデイラの本』明比淑子著)
また、マラガワインも現在では酒精強化ワインだが、天日干ししたペドロ・ヒメネスやモスカテル(マスカット)を使用している。
家康の遺品葡萄酒はこのペドロ・ヒメネスの可能性がある。三年間で三壺を消費して二壺を遺していたのではなかろうか。
幕府薬園で葡萄酒を造ろうとしたのかも知れないが、全く記録がない。
徳川家で国産葡萄酒の初見は正保元年(一六四四)まで待たなければならない。
『事跡録』に「殿様御道中ニテ酒井讃岐守殿ヨリ日本制之葡萄酒被指上之」とあり、大老の酒井忠勝が尾張藩主徳川義直に参勤交代で名古屋に帰る途中に日本製葡萄酒を献上したのである。(『権力者と江戸のくすり』岩下哲典)
将軍家光からなのか、忠勝なのか不明であるが、あえて国産としたのは日本のどこかで造られていたことになる。
ただし、これがワイン(醸造酒)である確証はない。
もし、家康が葡萄酒を造るとなると『本草綱目』の「薬効」を意識していただろう。しかし、日本の在来種は先述の通り弱いものであった。「薬効」どころか酸敗、腐敗した葡萄酒は身体に悪い。そこで必然的に日本人は酒や焼酎を加えることにした。つまり、「ワイン」ではなく「混成酒」なのである。
「日本制之葡萄酒」は「混成酒」の可能性がある。

天正八年(一五八〇)の『今古調味集』に葡萄酒の造り方が記されている。
「葡萄酒はくわ酒の通りにて宜し 又ぶだうエビツルにて作りたるをチンタ酒と言うなり」
「桑の実(葡萄)を潰して布で漉し一升五合の汁を一升になるまで煮詰める。冷ましたのちに瓶に入れ、そこに古酒一升と焼酎五合と氷砂糖二百五十匁を入れ三十日経てばよろしい。壺にてもいずれにせよ七分位に入れ置くこと。」

これは天正時代とあるが江戸期と思われる。材料はぶどうの他に日本酒、焼酎そして氷砂糖である。
当時、砂糖はたいへん貴重品であり、また薬であった。
さらに江戸時代に入ると葡萄酒のレシピが現れてくるが、ほぼ同じ造り方である。
『料理塩梅集』寛文八年(一六六八)
「山ぶどう酒は上白餅米一升を蒸して中に白こうじ一斗を熱いうちによく混ぜる。そしてよく冷ます。山ぶどう八升(茎は入れない)を壺に入れるが、先の米とぶどうを交互に重ねる。詰め込んだところに上々の焼酎八升を流し込む。そこに細い竹を刺し通すれば焼酎が壺の中でよく浸透する。五十日程の内に三度程よくかき混ぜること。

もう一つの方法
山ぶどう一升をよく熱する。糀一升、餅米一升を酒めしにして冷ます。これらを桶に、酒めしを一重に置き、又山ぶどうを置き、糀をかけて、交互に重ねる。そこに上々の焼酎一升五合を口まで入れ、二十日ほど過ぎたら酒袋に入れる。そして、空気に触れないように桶に詰める。
甘く仕上げたいならば、氷砂糖を粉にして加えること。
桑酒に仕上げるには山ぶどうを桑の実一升に取り替える。又、他のぶどう酒に仕上げるには、本ぶどう一升に取り替える。」

『本朝食鑑』元禄十年(一六九七)
「蒲萄酒、腰腎を緩め、肺胃を潤す。造法は熟した紫色のぶどうの皮を取り搾った後に、搾り汁と皮とを漉し、磁器に入れ一晩置く。これを再び漉し、この汁一升を二回煮詰める。冷ました後に三年ものの諸白(清酒)一升と氷砂糖百銭を加えてかき混ぜる。陶甕に入れ十五日程で出来上がるが、一年以上置くとさらに良い。年代ものは濃い紫で蜜の味がし、阿蘭陀(オランダ)の知牟多(チムタ=チンタ)に似ている。世間では、これを称賛してるが、この酒を造る葡萄の種類は、エビヅルが勝る。つまり山葡萄である。俗に黒葡萄も造酒に良い。」

『手造酒法』 文化十年(一八一六)
葡萄酒
焼酎二升 、白砂糖三升 、ぶどうの汁三升 、生酒  、

山ぶどう酒
ぶどう八升、上白糯米八升、上焼酎一斗、糀八升

本葡萄や黒葡萄が現在で言うヤマブドウであり、山葡萄はエビヅルのようである。
葡萄酒は本葡萄により、また山ぶどう酒はエビヅルにより造られていたと思われる。エビヅルの葡萄酒は、その色からチンタ酒とも呼ばれていたことも判明した。それは江戸末期に味醂酒を南蛮酒と呼んでいたことと同じである。
このように江戸期末期までは葡萄酒は「混成酒」として造られていた。
本格的なワインの登場は明治初期まで待たなければならなかった。
山梨県甲府で山田宥教と詫間憲久によるワイン製造である。

さて、余談だが寛永五年(一六二八)、小倉藩藩主細川忠利の命によって造られた葡萄酒はどのようなものだっただろうか。「薬酒」となると上述のように「混成酒」となる。
肥後国転封(一六三二年)前の四年間の葡萄酒製造の記録しかないが、「薬酒」となれば、熊本でも製造したすることが出来たはずである。しかし、現時点では史料は見出せない。
当時、忠利は多くのキリシタン家臣を抱えており、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアン神父も潜伏させていた。(拙著『小倉藩葡萄酒事情』『秀林院の謎』)
私見だが、「小倉藩葡萄酒」は母ガラシャへの魂救済のためのミサに使用されていたと信じる。
それは熟した在来種のエビヅルで造られたのだが、一旦天日干しされ、足による圧搾が行われた。発酵後に長崎で調達したアルコール度数の高いスペイン・ポルトガル産の甘口ワインを混入し壺にて保存していたと推考する。
つまり、ヴァリニャーノらの造り方を踏襲していたのだ。
この葡萄酒は禁教令前の忠興時代から造られていたと思われ、小倉教会長グレゴリオ・デ・セスペデスと伊東マンショが活躍していた時代である。
あのアリカンテのフォンディリョンを知った伊東が、葡萄酒の造り方を教えたことは想像に難くない。

「キリスト」の御血は「ワイン」でなければならなかったのである。

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■最近参考にした三つの論考

2020-05-30 05:51:26 | 論考

 過去にすでにご紹介しているかもしれない。ある文言で検索してヒットした三つの論考、改めて読みなおして認識を新たにしている。

1、宇土細川家で編纂・制作された『細川家譜』

1、参勤交代の制度化についての一考察 ー寛永武家諸法度と細川氏ー

1、華族資本としての侯爵細川家の成立・展開 

 

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■秘史・阿部一族(4‐了)

2020-03-22 06:45:09 | 論考

殉死

即日、最初の殉死者が出た。太田小十郎政信である。享年十八歳。十一歳から忠利の児小姓として仕えた。この死は当時、多くがそうであったように、主人への「義」と「情愛」と考えられる。

一月後にまた小姓内藤長十郎元続(十七歳)が追腹をしたが、忠利が逝去直前に長十郎の申し出に、うなずいたともいわれる。(『綿考輯録』)

四月二十六日、名代堀平左衛門から光尚の追腹禁止が伝えられるが、即日、野田喜兵衛他七名の殉死者を出す。翌日に右田因幡、二十九日に寺本八左衛門が追随した。五月二日に宗像兄弟、六月十九日に田中意徳となるが、阿部弥一右衛門と他の三名の殉死日は不明である。六月十七日に藩から十九名全員に跡式相続の措置がなされているから、それ以前となる。

森鷗外の『阿部一族』では、忠利から追腹禁止を言いつけられた弥一右衛門は、十八人の殉死者がいるにも関わらず、生き続けなければならなかった。
「阿部はお許しのないのを幸に生きとる。お許しはのうても追腹は切れぬことはなか。阿部の腹の皮は人とは違うとる。ひょうたんに油でも塗ってきればよかばい」この「けしからんうわさ」に「そんなら切って見せましょう」となったのだが、これでは「犬死」である。史実は先述の通り、「殉死」となっている。
では、弥一右衛門はいつ追腹をしたのだろうか。
私は忠利が脳卒中の症状が出てから正月二十三日に弥一右衛門の屋敷を訪ねた時に、決心したと考える。そうであれば四月二十六日から、遅くとも寺本と同じ二十九日ではなかろうか。
「殉死」扱いされた弥一右衛門の知行千百石は、嫡子権兵衛九百石(前三百石)と五男左平太二百石(前十人扶持)と相続される。二男市太夫二百石、三男弥五兵衛二百石、四男五太夫二百石は既に知行取りであった。
この段階では、権兵衛の藩への不満はないが、後日の知行変更に納得がいかず狼藉を働くことになるというのが鷗外の『阿部一族』(以降「鷗外書」)である。

狼藉

「狼藉」は忠利三回忌の仏前で起きた。
寛永二十年(一六四三)二月十七日、妙解寺にて、権兵衛は焼香後に脇差を抜いて髻(もとどり)を押し切って、妙解院殿(忠利)の位牌の前に供えたのである。
これは、上述の知行が三百石まで下げられたことに対する抗議の意としている。しかし、熊本大学の吉村豊雄氏はこの記録は後年書き加えられたもので、底本となる『綿考輯録』には記載がないとしている。
では何故に権兵衛は髻を切ったのか。
先君への義を果たすことの意もあるだろうが、光尚体制への決別を意図すると考えられる。又、この時、「目安」(訴状)を添えている。(「細川家日帳」~『森鷗外「阿部一族」―その背景―』) その「目安」に書かれていたことは不明だが、おそらく「切支丹」としての自身の覚悟を書いたものかもしれない。
この事は父弥一右衛門の殉死から二年近く、兄弟で十分に話し合った結果である。
実は権兵衛らは、藩の大目付の林外記(げき)から転宗するように迫られていた。
藩側も先君との繋がりがあり、表沙汰にすることはできない。今更、幕府に知られたら一大事である。
外記は陰湿な目つきで権兵衛に言い放った。
「知行もそのままじゃ。切支丹を棄てんね。よか役をやるばってん」
事実、権兵衛は代官役は外され、使用人召放ちの願い出も却下されており(寛永十八年八月十六日『日帳』)、身辺整理をしていたことも考えられる。(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』

覚悟

キリシタンに寛容であった忠利と違い、光尚新体制では、林外記を頭に穿鑿が徹底された。
忠利没後、半年も経たたない寛永十八年(一六四一)八月一日、権兵衛への見せしめのようにキリシタン金川惣左衛門一族が穿鑿され、九月十五日には八人が誅伐された。(『新熊本市史』)

この「金川事件」により、権兵衛も覚悟したのだ。
つまり、キリシタンを棄てないと同時に己一人で阿部家の責任を取る覚悟だった。
権兵衛は病床に伏しているキリシタン柱石だった松野半斎親盛(大友宗麟の三男)を訪ねて、キリシタンとして死ぬことを告げる。半斎は目を閉じたまま、深く頷いた。
屋敷に戻った権兵衛は父がそうであったように弟らと今生最後の一献を交わした。
「おぬしたちは宇佐に戻りなっせい。おいの家族のこつも頼んだぞ」
そして、覚悟した権兵衛は忠利霊前で髻を切る「狼藉」を働いたのである。
「鷗外書」には権兵衛の刑が市中引き回しの上、縛首とされたことに、兄弟らが、せめて武士としての切腹をと抗議したことにより、謀ありとされ、一族討伐となったとある。
しかし、キリシタンとって自死は重罪である。確かに権兵衛の行動は他愛行動ではあるが、この時代は許されなかった。結果、権兵衛の望むところであった。
つまり、真の「殉教」なのである。父弥一右衛門の死はあくまで泉下の忠利への義を体現したものだった。
しかし、権兵衛の首ひとつでは終わらなかった。林外記の策により、女子供も含む一族全員を捕縛し、権兵衛屋敷に閉じ込めたのだ。
「妻子までもがそれぞれの屋敷を出て権兵衛屋敷に移ったのは、そうせざるを得ないような邪悪な情勢が切迫していたからではあるまいか。つまり、阿部一族全体が権兵衛屋敷に引き籠ったのは、藩側によってそのように仕向けられたということもできるのではあるまいか。」(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』吉村豊雄著)
私も同意見であり、藩により一所に集められたと考えられ、それはキリシタンを根絶やしにすることが前提であった。つまり「獄屋」化したのである。
一族の運命は明白であるが、「鷗外書」は権兵衛は狼藉直後に縛首となっている。しかし、史実は一族誅伐後である。つまり権兵衛と一族はそれぞれ人質になっていたのだ。
この狼藉から四日間に阿部一族が転ぶこと(転宗)を強制される。
外記は執拗に迫る。
「どうじゃ、権兵衛。一言、転んだと言いなっせ。」権兵衛は首を横に振った。

散りぬべき時

権兵衛屋敷周辺は見張り番が立ち、物々しい雰囲気に包まれていた。
二男市太夫は一族全員に向かって言った。「みなでパライソへ行こうぞ」
女子供たちはすすり泣いていたが、祭壇のガラシャのマリア像に向かいオラショを唱えると、不思議に落ち着いて暖かく包まれるような感覚を感じた。
外記は苛立っていた。阿部屋敷からも何の返事がない。
そして四日後の期限を迎えた。
寛永二十年(一六四三)二月二十一日早朝だった。
外記は吐き捨てるように言った。
「あやつ(権兵衛)一人で終わらせんばい。切支丹を終わらすっとばい」
「せからしか。皆討て、おなごも赤子もじゃ」
「家中には切支丹ばいらんばい」
外記は、阿部一族誅伐隊を既に編成していた。
隊長は竹内数馬であるが阿部家の「身内」とされる。この時、数馬は死を覚悟したという。(『真説・阿部一族』)
馬上の数馬は桜吹雪の中をゆっくりと歩いた。
阿部屋敷正門に着くと唇を噛んだ。采配が空を切った。

静かである。
「数馬が玄関から屋敷に入ろうとすると、兄の八兵衛が阻止するが、数馬は押し入った。その直後に鉄砲により討死した。享年二十一歳だった。」(『真説・阿部一族』)
私は阿部一族は、非武装化され、獄屋化にされた権兵衛屋敷に監禁され、権兵衛の首を担保に転宗を迫ったと考える。外記は数馬も「身内」すなわちキリシタンであることを知っており、成敗されたのではないか。

最後を覚悟した市太夫はマリア像のある祭壇の部屋に入った。母、妻や子供達が肩を寄せ合っていた。抱かれていた子供達は震えながら泣いていた。その手にはコンタツ(ロザリオ)がしっかりと握られていた。
市太夫は十字を切って「さんたまりあ様、ぜすきりしと様」と叫んで祭壇に火を放った。やがて、阿部一族は「ことごとく討ち果たされ、家断絶いたし候」(『綿考輯録』)

私は「獄屋」の一族は、その場で全員斬首されたと考える。

ここに忠利が母への祈りを捧げ続けた「秀林院」は永遠に「停廃」したのである。
権兵衛は白川左岸の「井出ン口」刑場へ連行された。対岸の浄土宗西岸寺の住職が手を合わせていた。
縛首になった首は、一族の首と共にしばらく河原に晒されていた。捨板には「謀反の謀あり」と書かれていた。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(細川ガラシャ辞世の句)

エピローグ

慶安二年(一六五〇)十二月二十六日、藩主光尚が三十一歳の若さで逝去。
翌年の七月朔日、大目付林外記が佐藤伝三郎から打ち果たされた。(『日帳』)
理由は不明としているが、その後のお咎めなしとなっている。
忠利寵臣の家老米田是季(これすえ)の命令だったのか。

是季の手にはガラシャのマリア像が横たわっていた。(了)

 

                        参考文献

森鷗外著『阿部一族』
栖本又七郎『阿部茶事談』
藤本千鶴子著『歴史上の「阿部一族」事件』
『綿考輯録』第六巻 第二十六巻
ルイス・フロイス『日本史』
イエズス会『一五八二年の日本報告書』
細川家『日帳』~『福岡県史』近世史料編 細川小倉藩(一)(二)(三) 西日本文化協会 平成二年細川家『日帳』
上妻博之編著 花岡興輝校訂『肥後切支丹史』エルピス 一九八九年
吉村豊雄著『森鷗外「阿部一族」―その背景―』
『小倉藩人畜改帳』
『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』松田毅一監訳 同朋社出版一九八七年
矢島嗣久著『豊後の武将、宗像鎮続、大友吉統の重臣』
イエズス会『一六一五、十六年度・日本年報』
『大内時代の宇佐郡衆と妙見岳城督』北九州市立自然史 二〇〇四年
『新熊本市史』
松田毅一著『近世初期日本関係南蛮史料の研究』~イエズス会士コーロス徴収文書
朴哲著『グレゴリオ・デ・セスペデス』
『大分県史近世篇II』
後藤典子著『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』永青文庫研究創刊号
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』吉田小五郎訳 岩波文庫 一九三八年
山本博文著『江戸城の宮廷政治』
『中世思想原典集成』~日本の倫理上の諸問題について 川村信三訳
武野要子著『藩貿易史の研究』
木島甚久著『小倉のきりしたん遺跡』
大橋幸秦著『検証島原天草一揆』吉川弘文館
東京大学史料編纂所『大日本近世史料』
『葉隠』
『新熊本市史』
『真説・阿部一族』

 

 

 

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■秘史・阿部一族(2)

2020-03-19 12:53:56 | 論考

 小倉

 元和七年(一六二一)に小倉に入った忠利は、母ガラシャの菩提寺を建立し、キリシタン家臣や潜伏しているコンフラリアの代表者の協力を得て着々と母の御霊の救済を図っていった。
二年後の元和九年(一六二三)四月九日には、忠利は宇佐郡郡奉行上田忠左衛門の息子忠蔵を万力などの購入や技術の習得をするために平戸に行くように命じた。その平戸の窓口担当者が忠左衛門の弟太郎右衛門だった。寛永三年(一六二六)に小倉藩に仕えて葡萄酒を造ることになる。(『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』後藤典子著)
私は忠蔵の受けた真の特命は平戸に潜伏していた中浦ジュリアン神父の保護だったと思う。足の不自由な神父を船で小倉へ搬送したのではないか。

『日本切支丹宗門史』一六二四年の条が二つの重要な記録を伝えている。
「ジュリアノ・デ・中浦神父は、当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は艱難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由であり、度々、場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。」
「長岡越中殿の子細川越中殿(忠利)は、その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシヤの思い出を忘れないでいることを示した。」

 また、同年同日の元和九年四月九日に忠利は葡萄酒の調達を家臣に依頼する。
神父とミサ用葡萄酒というわけだ。
「長崎買物に参候ものに平蔵相談申、葡萄酒を調候へと、あまきが能候、其段平蔵能存候事 四月九日」(『藩貿易史の研究』武野要子著)

(長崎に買物に行く者に平蔵に相談をして葡萄酒を仕入れるように。甘いのがよろしい。そのことは平蔵がよく知っている。)
「平蔵」は長崎の代官を務めている豪商末次平蔵である。祖父は平戸でフランシスコ・ザビエルの宿主だった木村家だった。父興善が博多商人末次家の養子になり、次男として生まれたのが、平蔵(政直)だった。父子ともにキリシタンであった。(平蔵は棄教) 当時は商品として葡萄酒は流通しておらず、忠利への特別の計らいだった。「あまき」は残糖分が高く、アルコール度数が高いことであり、長期保存に耐えうるということである。

しかし、禁教令下ではキリシタン穿鑿も厳しくなっていった。
「外国人は、長崎に入港する前に、幻獣な取調べを受けなければならないのであった。その乗組員や品物は、ミサ聖祭用の葡萄酒、ロザリオやメダイが有りはせぬかとの懸念から、臨検されなければならなかった。違背する時は、死刑と達せられていた。」(『日本切支丹宗門史』一六二五年の条)

長崎から仕入れていたミサ用の葡萄酒も入手が困難になっていき、上田太郎右衛門(忠左衛門の実弟)の努力によって寛永四年(一六二七)から国産葡萄酒を造ることになった。当初は仲津郡辺りで造っていたが、キリシタンのイメージがあるために警戒して城内で葡萄栽培を始めた。しかし、国産葡萄酒では、直ぐに酸敗するために、長崎からの「あまき」葡萄酒と混ぜることにより保存が可能になった。これをミサに使用することはローマからの承認を得ていた。(『中世思想原典集成』「日本の倫理上の諸問題について」川村信三訳)
寛永二年(一六二五)、郡奉行上田忠左衛門と山本村の惣庄屋山本少左衛門との間で紛争が起きた。
これは、少左衛門が管轄区域が隣接している山村の惣庄屋与右衛門との確執から始まったのではなかろうか。
つまり、少左衛門は山村のキリシタンに関する何らかの証拠を掴んでいて、発覚を恐れた忠左衛門は口封じのために押し込んだのだ。
翌年、忠利の命により、忠左衛門も籠から出されたが、少左衛門は火あぶりとなった。

 肥後国

寛永九年(一六三二)十月四日、忠利は将軍徳川家光から肥後国への国替えを命じられた。五十四万石の大大名である。

同年九月十一日、山村弥一右衛門は忠利から小倉城に呼ばれた。
「弥一右衛門、どうしてもおぬしの力がいるのじゃ」
肥後国で母ガラシャのミサを執行するためにも弥一右衛門が必要だっ.た。
幸い、忠興時代に立ち返った家中の者のようにキリシタンとは知れていない。ここに国替え前に、五十石の農民身分から、後に千百石の家臣に召し上げた大きな理由がある。当時は農民は連れて行くことができなかったので、武士身分にしたのである。また、阿部姓を名乗ることも命じた。
「おぬしに預かってほしいものがある。」
忠利は小さな桐箱を弥一右衛門に渡した。その中には七寸ほどのマリア像が横たわっていた。それは秀林院に置いていたものである。
「母からの形見じゃ」
慶長五年(一六〇〇)七月十七日、大阪玉造の細川邸にて生害した細川ガラシャが侍女の霜へ「内記様(忠利)への御かたみを遣わされ候」(『霜女覚書』正保五年)としたものだった。
「わしは今でも母の温もりを覚えておるのじゃ」
母ガラシャが大阪から長崎にいる霊的指導者グレゴリオ・デ・セスペデス神父(後の小倉教会上長)へ送った書簡の一部を紹介しよう。
「私の三歳になる第二子が危篤状態に瀕し、すでに治癒の見込みがなく、アニマ(魂)を失うことに深く悲しんでおりました。マリア(侍女清原マリア)と相談し、
創造主デウスに委ねることを最良の道年、マリアは密かに洗礼を授けてジョアンと名付けました。子供の病はその日から癒え始め、今では殆ど健康です。」
(天正十五年十一月七日・一五八七年の『イエズス会日本年報』)

この年の第二子興秋は五歳であり、第三子忠利は二歳であるが、「三歳なる第二子」は忠利と考えて間違いないだろう。確かに、その後の記録には「この若い領主は、既に長年、デ・セスペデス神父を城中におき、而も政治的の事故がなかったら、彼は、洗礼を受けたであらう。」(『日本切支丹宗門史』一六三二年の条)とある。しかし、忠利が受けたのは「密かに」授かった幼児洗礼である。間もなく江戸に証人(人質)に出され、中津に入ってからも「政治的の事故」、すなわち「禁教令」がなかったら、忠利は洗礼を受けたであろうとある。しかし、忠利は母ガラシャから、病気のことや洗礼のことも聞き及んでおり、あくまで「密かな」ことだった。それは禁教令下の忠利の行動が如実に表している。
宇佐郡山村に戻った弥一右衛門は父与右衛門に忠利と肥後に随行することを話す。庄屋跡取りや信仰に関する話し合いをした。

「弥一、何も心配なか。殿様に存分に尽くしんしゃい」
中浦ジュリアン神父とトマス良寛も肥後に移ることにした。忠利一行の後に続くことにした。
寛永九年(一六三二)十二月六日、忠利は小倉を立った。
「越中殿(忠利)は、当時、全家族と共に、筑後を経て、肥後に行かねばならなかった。ビエイラ神父は、この行列に出会った。」(『日本切支丹宗門史』一六三二年の条)
忠利一行は途中でセバスチャン・ビエイラ神父(一六三四年殉教)と遭遇している。
一行は秋月街道から陸路肥後を目指した。ビエイラ神父はこの後、大阪近海の船上で捕縛されたところから、小倉から船に乗ったのであろう。
万全の準備だった。しかし、転封直後(数日後)に想定外の事件が起きた。
小倉城下で中浦ジュリアン神父と同宿トマス良寛(天草出身)が捕縛されたのだ。おそらく忠利転封の機をみて報奨金目的の者が入封したばかりの小笠原家に訴えたのだろう。トマス良寛は小倉で火炙りの刑となり、中浦ジュリアンは翌年、長崎で穴吊りの刑で殉教する。

では、肥後ではガラシャのミサは神父不在のために行われなかったのか。
細川藩が肥後に移封して領外貿易の取引に利用した商人に長崎の天野屋藤左衛門がいる。天野屋は忠利依頼の葡萄酒の調達だけでなく、貿易以外の情報である幕府の長崎におけるキリシタンの穿鑿の状況を藩に報告している。(『藩貿易史の研究』武野要子著)
藩の動向と司祭らの情報を入手していたのだ。むしろ長崎は肥後の方が豊前よりも近い。
私は一人の日本人司祭に注目する。マンショ小西である。キリシタン大名小西行長の孫である。母小西マリアと対馬藩主宗義智の子であるが、関ヶ原の戦いで西軍の行長が処刑され、離縁された母と共に長崎へ移ったとされる。
有馬のセミナリオ(イエズス会司祭・修道士育成の初等教育学校)で学んだ後に、慶長十九年(一六一四)のキリシタン追放令により、マカオに渡る。
その時、十四歳のマンショを励ましたのが、一緒にいたペトロ岐部と天正遣欧少年使節の原マルティノだった。
やがて、ポルトガルのコインブラ大学で学び、寛永四年(一六二七)にローマで司祭叙階した。キリシタン迫害の頂点に達していた日本への帰国を強く希望し、寛永九年(一六三二)に十八年ぶりに帰国を果たした。三十二歳の年である。
忠利は天野屋から、そのことを知る。

「日本人のパードレが長崎におらっしゃるとのことです」
「さようか、天野屋。抜かりのないように頼むぞ」
マンショ小西は正保元年(一六四四)に高山右近の旧領音羽(現・茨木市)にて捕縛され、殉教した。帰国からの十二年間の行動は不明だが、祖父行長の旧領であった肥後熊本に旧家臣らもおり、暫くは潜伏していたと考えられる。
領内のキリシタンを訪ねて告解やミサを授けた。高瀬、山鹿、宇土、豊後街道筋まで足を運んでいたことだろう。忠利死後にマンショは豊後街道を経て肥後領鶴崎(現・大分市)から海路で近畿地方へ向かったのではなかろうか。

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■秘史・阿部一族(1)

2020-03-18 07:59:49 | 論考

            秘史『阿部一族』

                          小倉藩葡萄酒研究会 小川研次

■プロローグ

   山村与右衛門は宇佐郡山村の惣庄屋だったが、コンフラリア(信心の組)の代表者の一人であり、信徒の葬儀や洗礼、また神父の手配など行っていた。
慶長十八年(一六一三)十二月十九日の幕府による禁教令以降は、藩主細川忠興はキリシタン穿鑿を強めていた。多くの信徒が人望のある与右衛門に頼っていった。
後の元和八年(一六二二)の『小倉藩人畜改帳』には、山村村民一五八人の内九十三人もの「身内」を抱え、藩内では突出している人数である。大惣庄屋である。
それは家族も含めて全員キリシタンであった。山村の惣庄屋は、まるで「教会」の様相だった。
嫡子弥一右衛門もしっかりと父を支えていたが、将来、大きな運命を背負うことになる。
慶長十九年(一六一四)、忠興の強制転宗により、宇佐郡の仏教への転宗者は藩内最大の人口(二一,八三八人・元和八年)にもかかわらず、わずか五名だが、それは寧ろコンフラリアの組織運営がしっかりと機能している証である。
最も慎重にならなければならないことは、宇佐郡は豊後との国境にあり、潜伏した神父らを安全に要所に運ぶことだった。
特に忠興が教会の破却や転宗政策の徹底化を図った慶長九年(一六一四)から忠利が元和七年(一六二一)六月二十三日に小倉城に入るまでの七年間は小倉は厳しい監視下に置かれていた。
当然、この間はガラシャ夫人のミサなどは不可能であった。忠利の居城中津城で行われていたと推考する。
忠利小倉城入城以降は、直ちにガラシャ菩提寺秀林院(現・北九州市立医療センター)を建立している。そもそも、慶長十七年(一六一二)以降、忠興はガラシャのための教会を破却しているにも関わらず、菩提寺を建立していない。『綿考輯録』に位牌を南蛮寺(教会)から浄土宗極楽寺(現・廃寺 HIS北九州支店辺り)へ移したとあるが、忠利建立まで、その寺で法事が行われていたのか。

禁教令発令(一六一四年)の翌年からのイエズス会記録を見てみよう。
「豊後にいる司祭たちは豊前の国まで足を延ばしており、特に豊前の国の中心都市である小倉の市(まち)にも足を運んでいる。市の城門の上から見張っている警備員(の眼)をはばかって、夜、変装してからでなければ市に入らない。この地のキリシタンは(迫害という)この試練にも見事に耐えている。」(『一六一五、一六一六年度イエズス会日本年報』)

豊後から宇佐郡、中津、そして小倉へ、「市の城門」は中津口である。「夜、変装して」とは、外国人司祭であり、当時、豊後にいたのはペドロ・パウロ・ナバロとフランシスコ・ボルドリーである。
また、中浦ジュリアン神父も藩内に潜伏していたが、彼の言葉と思われる記録も残されている。
「私は一年間に三度、小倉に行きました。それも辛い苦労をし、明らかに生命にかかわるような危険を冒しながら夜を日に継いで歩いたのです。豊後へは二度行きました。そして、各地で大勢の人々の告白を聴きました。しかし、そこで私が滞在していた家から殆ど外へは出ませんでした。なぜなら、それらの町々で私を匿ってくれた人々が ―彼らはそれぞれの町で重立った人々でした。―私に外出することを許さなかったからです。」(同上)

ここから見えてくる「滞在」先は宿主であるコンフラリアの代表者宅である。『コーロス徴収文書』(一六一七年)に豊前小倉藩には、小倉に三十一人と中津に十七人いたとある。多くは忠利の上級家臣である。松野半斎(大友宗麟三男)や加賀山隼人、志賀志門などの名があり、慶長十九年(一六一四)の忠興時代に転宗した家臣の多くがキリシタンに立ち返っていた(キリシタンに戻る)ことの証明である。

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■「阿部一族」の一考察(3・了)

2020-03-17 06:57:03 | 論考

コンフラリア

「聖職者らは秘跡以上にキリシタンたちの心を強める手段を見出した。それは適当な時期を選んで行われる信心の組であった。(中略) 聖職者不在の折には、このような組において、必要に応じて赤ん坊に洗礼を施したり、病人を見舞ったり、病人に危機が迫っている時は聖職者を呼んだり、死者を埋葬したり、必要に応じて施し物を配分したりといった活動が、特に、主の教えを守ったために追放されたため人々のために行われた。」(イエズス会『一六一五、一六年度・日本年報』)

この信心の組がコンフラリアである。やがて集落や村ごとに組ができるが、それらを地域別に統括する責任者を必要となってきた。
イエズス会は元和三年(一六一七)に重要な決定をする。イエズス会司祭の不在に備えて地域別にコンフラリアの代表者(司祭の補助人)を定めたのだ。

小倉三十一名、中津十七名から文書に自筆署名を受けている。当然、この文書は最高機密文書である。(『近世初期日本関係南蛮史料の研究』「イエズス会士コーロス徴収文書」松田毅一)
マテウス・コーロスはイエズス会日本管区長であった。天正十八年(一五九〇)、天正遣欧少年使節の帰国と同時に来日した。

小倉では「松野はんた理庵」(親盛パンタリアン)、「加賀山了五」(隼人ディエゴ)、「小笠原寿庵」(ジョアン)、「清田志門」(シモン)の名もあり、中津には「志賀ビセンテ」(市左衛門)、「魚住たい里やう」(藤三郎?)、「川井寿庵」などがいた。選ばれたのは武士階級や地元の有力者である。
このことは小倉のみならず、中津が重要なキリシタン地区の拠点であったことの証明である。当然、忠利は認識していたと思われる。
文書には当時宇佐郡郡奉行だった宗像清兵衛の名はないが、時代が下って奇妙な事件が起きる。
寛永十三年(一六三六)七月八日に忠利から清兵衛は切腹を言いつけられたのだ。
これは多くのキリシタン家臣(主に旧大友家臣)が仏教徒に転宗するための証文(転び証文)を提出する七月十三日の五日前である。何があったのだろう。キリシタンとの関連を考えざるを得ない。転宗を拒否したための処置なのか。

また、清兵衛は転宗する松野右京正照の組に属していたこともあり、同じ豊後出身であろう。
後述の郡奉行上田忠左衛門も失脚し、宇佐郡には深い闇が漂っていた。

黒田官兵衛と宇佐郡

 天正十五年(一五八七)に黒田官兵衛は九州平定の功として豊臣秀吉より豊前六郡(京都、仲津、築上、上毛、下毛、宇佐)十二万石を拝領した。
キリシタン大名官兵衛は領内のキリスト教布教を認めており、細川入封前にはすでに多くのキリシタンがいたと考えられる。
文禄の役(一五九二~)の最中、一番隊隊長のキリシタン大名小西行長の招きにより、イエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父が朝鮮に渡った。忠興の室ガラシャ夫人を洗礼に導いた神父である。

行長の熊川倭城に日本人修道士レオ・コファンと滞在していたが、官兵衛と嫡男長政の強い要請により機張城に向かった。十五日間の滞在の際に彼らや家臣らに説教したり、告白を受けたりし、また家臣らに洗礼を施した。敬虔なキリシタン官兵衛は後日、再び修道士を呼んだ程であった。(『グレゴリオ・デ・セスペデス』朴哲著)そして、セスペデス神父の帰国後の興味深い報告があるが、神父の手によるものではなく、長崎にいたルイス・フロイス神父が聴き及んで書いたと考えられる。(一五九六年十二月十三日付 長崎発信)

『一五九六年イエズス会日本年報』に「ある司祭が一人の修道士とともに朝鮮に行っていた時、たまたまキリシタンたちを訪れたことがあるが、その際に彼は宇佐宮という領国で主要な神社の祭司職をしていた時枝という名の豊後(豊前の間違い)の高貴な神官に会った。」そして「長い議論をしたが、ついに道理ある効力に負け、朝鮮で真理と完全さを認めて福音の法を納得した。」とある。
これは、セスペデス神父と修道士レオ・コファンであり、官兵衛所領の宇佐郡である。

時枝氏は宇佐神宮弥勒寺の寺務を務めた家柄である。(当時は神仏習合) しかし、「時枝」は誰だろう。
官兵衛と共に朝鮮に渡っていた「時枝」は「神官」の身であっても武将であったはずである。史料がないが、それは官兵衛家臣の時枝鎮継(しげつぐ)本人又は身内の者と考えられる。

「朝鮮でこの人物に説教した同じ修道士が彼の郷里(宇佐)を通過した時、この(神官)は彼に会えたことを非常に喜び、しきりに幾度も懇願して自分は家族全員でキリシタン宗門を受け入れることを考えているので、しばらくそこに滞在するようにと頼んだ。そこで修道士は滞在し、二、三ヶ月足らずでこの者の妻は、他の二十人の人々と一緒に洗礼を授かりキリストの教会に入った。」
その後、鎮継は慶長五年(一六〇〇)に官兵衛に従い筑前国に移ることになるが、官兵衛はセスペデス神父を中津城下に住まわせていたことからも、鎮継もキリシタンだった可能性は大いにある。このように宇佐郡では布教が進んでいた。

細川忠興

 慶長五年(一六〇〇)の官兵衛転封後、六郡に規矩、田川、速見、国東が加増された細川忠興は中津城に入るのだが、セスペデス神父が領地に留まることを日本布教長ニェッキ・ソルド・オルガンティーノに懇願した。
ガラシャ夫人の霊的指導者である神父による夫人の御霊の救済のためだった。
慶長七年(一六〇二)に忠興は本拠地を中津から小倉に移すのだが、教会を建ててキリシタンへの理解を示し、妻ガラシャのために盛大な追悼ミサを挙行していた。
小倉の住民およそ六千人の内、二千人以上の信者がいたとされる。(『日本年報』)
しかし、セスペデス神父の死後(一六一一)、その姿勢を一変させた。背景には徳川幕府によるキリシタン禁教令(一六一二、一六一四)によるものだった。外様大名として忖度せざるを得なかったのだろう。
慶長十八年十二月十九日(一六一四年一月二十八日)、幕府の禁教令が発令されると江戸にいた忠興は国元へ「耶蘇宗門堅禁止之旨」の書を送り、領内のキリシタンに対し転宗を強制した。
家臣以外の信徒は惣庄屋を通してキリシタンの道具や転び証文を提出しなければならなかった。

『御国中伴天連門徒御改之一紙目録』(松井家文書)によれば、転宗者は藩内全体で二、〇四七人(奉公人一〇五人、農民・町人一、九四二人)だが、最も多いのは速見郡(特に由布院)で九三四人で最も少ないのが隣接している宇佐郡の五人である。(『大分県史近世篇II』)

元和八年(一六二二)の『小倉藩人畜改帳』によると、人口は速見郡で六、四四〇人に対して宇佐郡は二一、八三八人とあり藩内最大の人口であるが、五人とは、非常にアンバランスである。宇佐郡には大友時代からパンタリアン田原親盛(のちの松野姓)や「時枝」一族がおり、布教はかなり広がっていたはずだ。つまり多くのキリシタンが潜伏していたと思われる。また、宇佐郡山本村(一六一人)の惣庄屋山本少左衛門の名もあるが、この人物も不可解な事件を起こすことになる。

寛永二年(一六二五)に宇佐郡の郡奉行上田忠左衛門と少左衛門の間で紛争があり、翌年に忠利の御前にて裁判があった。少左衛門は火炙りの刑となり、忠左衛門は籠から出されたが、奉行は解任された。(『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』後藤典子著)
火炙りとは極刑中の極刑である。何があったのだろうか。
実は郡奉行だった上田忠左衛門は葡萄酒造りをすることになる上田太郎右衛門の実兄である。
事件の二年前の元和九年(一六二三)に忠利は忠左衛門の息子忠蔵へ石などを引く「万力」の仕入れと技術を平戸にいる「叔父」から習得するように命じた。
熊本大学は「叔父」を上田太郎右衛門としたが、このことは別に論じることにする。(『永青文庫研究 創刊号』小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景)

細川忠利

 慶長九年(一六〇四)、忠興は三男忠利を嫡子とした。次男興秋は証人差替え(人質の忠利と)のために江戸に向かったが、不服とし出奔した。中津城に入った忠利は城下にキリシタンのために教会を建て、セスペデス神父を初代教会長とし布教拡大に協力した。
城のある下毛郡のかつての郡奉行はキリシタン柱石の加賀山隼人であった。下毛郡の十四人の惣庄屋のうちに十二人がキリシタンであったという。しかし、慶長十九年(一六一四)に百二十七人(人口八五〇七人)の転宗者を出している。(『大分県史』近世篇II「下毛郡伴天連門徒御改帳」松井文書)
惣庄屋の一人蠣瀬新五兵衛は元和三年(一六一七)の『イエズス会士コーロス徴収文書』に中津のキリシタン代表者の一人として「蠣瀬自庵」としての名がある。すぐに立ち返り、信徒らをまとめていたのだろう。この時期は忠利は中津城にいて、容認していたと考えられる。

それは、一六一一年の『イエズス会日本報告集』に忠利の言葉により明らかにされる。
セスペデス神父の死後、キリシタン保護から一変した忠興に小倉から追放された伊東マンショへの言葉である。

「私の魂は聖なる信仰の同じ流れにの中にあり、それが報われないのは遺憾である。自ら(司祭)の判断で、来たい時はにはいつでもキリシタンを訪ねられるように許可し、将来についても大きな希望を与える。」

元和七年(一六二一)正月に忠利は隠居した忠興から家督相続した。それに伴い忠興は中津城へ、忠利は小倉城に入ることなった。(六月二十三日)
一六一二年以降、度重なる幕府の禁教令にもかかわらず、忠利はキリシタンへの姿勢は変わらない。特に以下の記録は忠利が小倉城へ移って三年後であり、貴重である。
「長岡越中殿の子細川越中殿(忠利)は、その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシヤの思い出を忘れないでいることを示した。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の条)
この事は宣教師を小倉へ招き、母ガラシャの記念ミサを挙行していたことを物語っている。場所は秀林院(現・北九州市立医療センター)、肥後熊本転封まで毎年続いていたと推考する。
寛永九年(一六三二)五月二十九日、肥後熊本の加藤家が改易された。原因は加藤忠広の嫡子光広の将軍家への謀反の嫌疑である。江戸では、加藤家改易後の肥後国に忠利転封の噂が起きていた。

七月十一日の忠興書状に「江戸では、その方に肥後国を与えられるとうのは、いよいよ決定したように噂されている。」また「その方が大大名になるのを、生きているうちに見ることができるのは、たいへん嬉しい。」とある。(『江戸城の宮廷政治』山本博文著)
寛永九年(一六三二)十月四日、忠利は将軍家光から肥後国への国替えを命じられた。

 さて、先述した山村弥一右衛門への惣庄屋から家臣取立ての忠利『奉書』の日付は九月十一日である。転封決定前だが、忠利は肥後国転封を前提として弥一右衛門を召抱えたと考えられる。この時代は豊臣秀吉時代から転封先に農民を連れて行くのは御法度であり、農民身分である惣庄屋も同じである。唯一、武士だけ連れて行くことができた。それ故に弥一右衛門を「武士」身分にしたのだ。それは「別之御用」が重要であったからだ。
「惣庄屋としての五十石に五十石を加増し、百石とし、そこから三十石程を惣領のせがれに当てて、代を譲り、「別之御用」で弥一右衛門を召し抱える」(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』)
十二月六日、忠利は「キリシタン」家臣と共に、小倉を立った。

 

                                (第一部・「阿部一族」の一考察は完了しました。次回からは秘史・阿部一族をご紹介します。お楽しみに)

 

 

 

 

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■「阿部一族」の一考察(2)

2020-03-16 06:43:28 | 論考

野田喜兵衛(六十九歳 四月二十六日)

 野田喜兵衛の父は野田美濃といい天草伊豆守の家老であった。喜兵衛も仕えていたが、伊豆守の没落後に浪人となり、豊前中津にて忠利に仕えた。(『綿考輯録』巻五十二)
ところが『綿考輯録』(巻二十六)によると「天草本渡城城主天草伊豆守種綱三男野田喜膳」(伊豆守一門家老野田美濃の養子)とあり、天正十七年(一五八九)十一月二十五日に天草本渡が没落後、養父は討死し、遺言により丹後の細川忠興を訪れたとある。首に家系図を掛けていたという。
忠興は十七歳の喜善(喜兵衛)を見て野田姓を与え、一句詠んでいる。
                                        天草は藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
天正十七年は小西行長の宇土城普請を拒否した河内浦城主天草久種が行長と加藤清正に攻め落とされた年であるが、一族の本渡城主天草種元も落とされている。(天正の天草合戦)
永禄十二年(一五六九)、久種の父天草鎮尚(しげひさ)がイエズス会修道士ルイス・デ・アルメイダを招聘し、キリスト教の布教を認め、自らの家族と共に洗礼を受けたことから、天草全土に広がった。(一五七一年、フランシスコ・カブラルにより)(『日本史』ルイス・フロイス)
また、久種は一揆敗戦後に行長の家臣となり、本渡の代官に任ぜられたが、領地に教会やコレジオを創立し、父とともに天草のキリシタン布教に貢献した。聖堂は三十カ所以上あった。(『一五八二年の日本年報』)

天草一族の喜兵衛は当然の如くキリシタンであった。
忠興時代から細川家に仕え、小倉藩時代の寛永元年(一六二四)八月十八日には初代銭鋳奉行(銭鋳所は田川郡香春)に任ぜられている。(『日帳』) 喜兵衛五十ニ歳の時である。
実は四日前の十四日に「瀬崎猪右衛門」が銭鋳奉行に指名されているが、「罷りならず」と辞退している。
興味深いことに、猪右衛門もキリシタンであった。
それは二人とも、寛永十三年(一六三六)七月十三日にキリシタンから仏教徒に転宗しているからだ。また、細川家家臣に八代与力衆二百石の天草十太夫の名があるが、久種の近親者である。やはりキリシタンであった。また同日に転宗している。(『肥後切支丹史』上妻博之編著 花岡興輝校訂)
三人とも、忠興時代の慶長十九年(一六一四)頃に一旦、棄教していたと考えられるが、忠利時代(一六二一年~)に立ち返った(再びキリシタンに)ということだろう。
銭鋳所は田川郡香春町採銅所(殿町山の方遺跡?)にあったが、この地帯の金山(かなやま)で多くのキリシタンが坑夫(女性も)として働いていたと考えられ、忠利はあえてキリシタン奉行を配したのか。

阿部弥一右衛門と宇佐郡 (年齢、殉死日不明)

 阿部弥一右衛門は殉死の際は千百石の上級家臣であった。
出自は広島大学の藤本千鶴子氏の研究により宇佐郡山村(現・JR宇佐駅東の大字山)の惣庄屋であったことが判明している。そして、寛永五年(一六三二)九月に忠利肥後転封直前に家臣として召しかかえられている。(森鷗外「阿部一族」―その背景―』 吉村豊雄著 熊本大学学術リポジトリ)
わずか五十石の農民身分の者がどのような理由で忠利側近となったのだろうか。
あまりにも謎に包まれている人物である。
『小倉藩人畜改帳』(元和八年(一六二二))の宇佐郡における山村の村人数一五八人の内、九十三人が惣庄屋の者とあり、郡最多でかなりの実力者であったことが窺える。手長名は山村与右衛門であり、弥一右衛門の父である。
忠利の寛永九年(一六三二)九月十一日付『奉書』には山村弥一右衛門に「別之御用」とあり、これが惣庄屋から家臣に取り立てられる大きな理由である。(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』)

「別之御用」とは何を指しているのだろうか。まず、細川黒田豊前入封前の大友時代の宇佐郡を見てみよう。
キリシタン大名大友義鎮(よししげ・宗麟)の義兄(奈多夫人の兄)である田原紹忍親賢(ちかかた)の妙見岳城(宇佐市院内町香下)は宇佐郡の中心的存在であった。親賢は宗麟の第三子大友親盛を養嗣子に迎えていた。また、親盛は洗礼を受けており、洗礼名はパンタリアンである。『一五八二年のイエズス会日本年報』
この人物が後の細川家にて二千石で仕えることになる松野半斎親盛である。兄の親家(宗麟二男)、松野右京正照(宗麟嫡男吉統の二男)、志賀左門(妻は宗麟の娘)など多くのキリシタン旧大友家臣も仕えた。

親盛は慶長十九年(一六一四)に仏教に転宗しているが、再びキリシタンに立ち返り、寛永十三年(一六三六)に禅宗に転宗した。(上級家臣を中心に二十七名『花岡興輝著作選集』) 後述するが、元和三年(一六一七)にイエズス会へ地区代表者の一人として自署した文書を提出している。つまり、すぐに立ち返ったのである元和五年(一六一九)に殉教した藩内キリシタン柱石であった加賀山隼人の後継者と目される。つまり筋金入りのキリシタンである。
親盛のキリシタンになることを反対していた兄大友義統(よしむね・宗麟嫡子)はやがて宇佐の妙見岳城にて洗礼を受けることになる。

宗像兄弟 (ともに年齢不明 五月二日)宗像兄弟家

 天正十四年(一五八六)十二月の戸次川(現・大野川)の戦いにおいて九州平定を狙う豊臣秀吉の傘下に入った大友義統は薩摩国の島津家久の猛攻により敗走した。
豊前にいた黒田官兵衛を先鋒隊とする大将羽柴秀長、宇喜多秀家らの秀吉軍と合流するのだが、官兵衛は義統にキリシタンとして豊後に帰国することを望む。
イエズス会士ルイス・フロイスの『一五八八年二月二十日付、有馬発、イエズス会総長への書簡』(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に詳細に記録されている。
ペドロ・ゴメス神父は「一五八七年四月二十七日、親賢の城(妙見岳城)の中で、国主フランシスコ(宗麟)の息子である嫡子(義統)に洗礼を授けた。」とある。
この時、のちに小倉藩でセスペデス神父と活動を共にする日本人修道士ジョアン・デ・トルレスも同伴していた。
「嫡子は、当時彼と一緒にいた多くの武士や殿たちと共に、ゴメス神父から洗礼を受けた。」
この武士の中に宗像鎮統(しげむね・鎮続しげつぐ)がいたとされる。(『豊後の武将、宗像鎮続、大友義統の重臣』矢島嗣久著) 元は宗像大宮司宗像氏の一族だったのだろう。
また、『イエズス会一五九六年度日本年報』に「豊後に宗像という名のキリシタンの貴人が住んでいた。彼の息子は異教徒であったが、高貴な生まれであったので、国主フランシスコ(大友宗麟)の二人の娘の一人モニカを夫人にしていた。」とあり、「彼は(修道士)からキリシタンの教えを聞いて、ついに家族全員とともに洗礼を授かり、モニカのこの上ない喜びとなった。彼の兄弟も二十人以上の仲間たちと一緒に、彼に倣って受洗した。」
この「宗像」は鎮統と考えられ、モニカは宗麟が奈多夫人と離縁後に婚姻したジュリアとの間にできた娘である。
この時の鎮統は義統改易のため、大友家筆頭家老田原親賢(元妙見岳城城主)と共に岡藩(竹田市)の中川秀成(ひでしげ)の客分与力となっていた。
鎮統は中川家に叛旗を翻し義統につき、慶長五年(一六〇〇)の石垣原(別府市)の戦いで戦死する。

忠利殉死者に宗像姓が二人いるのだが、加永衛景定とその弟吉太夫景好である。宗像兄弟には他に弟二人いたが、藩主光尚の命に従い思い留まった。(『歴史上の「阿部一族」事件』) この宗像家は鎮統の一族と考えられる。
実は、宗像兄弟の父清兵衛景延は元和元年(一六一五)に宇佐郡の郡奉行(こおりぶぎょう)であった。この年は幕府による禁教令が発令された翌年であり、藩主細川忠興は家臣らに転宗を迫り、従わなかったものには極刑に処すとした。
その言葉通り、豊前国の最初の殉教者が出た。

 小倉に片野八十右衛門という敬虔なキリシタンがいた。友人や妻や身内、土地の奉行らは、彼に転ぶ(転宗)ように何度も説得したが、すべて拒絶した。ついに身内の宗十郎が、彼の名のもとに偽の転び証文を奉行に届けた。しかし、やがて、そのことを聞き及んだ八十右衛門は奉行所に出向き、キリシタンであることを伝えた。八ヶ月の収監の間に多くの者たちから説得されるが、転ばなかった。
一六一五年三月十八日、忠興はついに死罪を宣言し、斬首された。享年三十三歳だった。(『一六一五、一六年度・日本年報』)
藩内では忠興時代(~一六二〇)に多くの殉教者を出すことになるのだが、忠利時代は一人いた。寛永元年(一六二四)に成田喜右衛門に転宗を説得するも叶わず、死罪にしている。これは何らかの理由があったと考えられる。
このように忠興の迫害が厳しくなる中、中津にいた忠利は郡奉行であった宗像清兵衛とキリシタン対策について話し合ったのではないか。

右田因幡 (六十四歳 四月二十七日)

 右田因幡統安(むねやす)は、かつては大友家牢人(浪人)だったとあるが、右田家は先祖以来、松野半斎親盛の家(田原家)に仕えていた。大友氏没落後に浪人となり豊前小倉の町屋に住んでいたところ、兵法の使い手であったことが、忠利の耳に入った。やがて、仕えることになるが、呼野金山にて運上取立や金銀吹替両替の職を得た。後に忠利と共に肥後国へ移る。(『綿考輯録』)
殉死を覚悟した因幡は親盛の家に呼ばれ、追腹を思い留まるように言われたが、忠利から受けた大恩に報いるとした。『大内時代の宇佐群衆と妙見岳城督』(北九州市立自然史 二〇〇四年)に右田興実(天文十三、十七年)とあり、右田家は宇佐郡の土豪だったと考えられる。

 田中意徳(六十三歳 六月十九日)

 意徳は忠利と愛宕山にての学友だった。算術に長けた意徳を忠利は側近とした。幼い頃からの付き合いで気心が通っていたことであろう。(『綿考輯録』)
さて、意徳は男子がいなくて、実弟の絵師永野一閑の嫡子甚左衛門を養子に迎えていた。ところが、意徳殉死後の六年後、正保四年(一六四七)四月、田中甚左衛門がキリシタン疑惑で穿鑿された。
実父一閑が堺でかつてキリシタンであり、甚左衛門自身もキリシタンだったのである。(一閑は熊本城下浪人として転切支丹の記録あり『肥後切支丹史』)
しかし、元和六年(一六二〇)に南禅寺にて転宗し、十一年前(一六三六)に大阪で浄土宗専念寺の旦那になったと申し開き、堺へ送られて証明することができた。(『新熊本市史』)
堺はフランシスコ・ザビエルも訪ねた地であり、小さな福音の種を蒔いていた。
『イエズス会一五八一年の日本年報』によると「堺の市は日本全国で最も富み、また土地広くして多数の富裕なる商人が住み、かつ自由市で大いなる特権と自由を有している。」「百人のキリシタンがおり、その中に身分の甚だ高く名誉のある者が数人ある。」とある。
日比谷了珪や小西隆佐(行長の父)など敬虔なキリシタンを生んだ。
また、慶長五年(一六〇〇)七月に生害した細川ガラシャの遺骨を葬ったキリシタン墓地も堺であった。
一閑が堺でキリシタンということは実兄意徳もキリシタンであった可能性がある。
意徳は十九人目の最後の殉死者となった。

                   (続く)

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■「阿部一族」の一考察(1)

2020-03-15 10:43:52 | 論考

 タモリ氏と林田アナのコンビによる「ブラタモリ」最終回の放送は「島原・天草~なぜキリシタンは250年も潜伏できた?~」が放送された。
天草崎津と原城跡を紹介していたが、潜伏切支丹の信仰を守ろうとするために、踏み絵を踏み、仏教寺院の檀徒となるなどの多様性を知り、驚き入ったことであった。
切支丹禁教により細川家中では棄教を拒んだ、加々山一族が誅伐された。
その他の多くの切支丹信者は「転んだ」とされるが、当事者たちの心の中には密かな信仰が継続されていたのではないかと私は思ってきた。
為政者としての忠興や忠利は、心ならずも(・・)加々山一族を誅伐したが、妻であり母であるガラシャの深い信仰は否定しがたいものである。
「何故切支丹であったのか」という想いは深いものがあったように想像する。
崎津の潜伏切支丹の250年に及ぶしたたかな生き方や、多くの犠牲者をだした天草島原の乱に於ける切支丹信者の生きざま、死にように忠利は驚きの声をあげている。
母・ガラシャの信仰が頭をかすめたかもしれない。

 今回、ご厚誼を頂いている小倉在住の名誉ソムリエの小川研次氏(小倉藩葡萄酒研究会)が、そんな切支丹棄教者たちのその後の生きざまを取り上げた36頁に及ぶ論考をお送りいただいた。偶然のタイミングに驚いたことであった。
大きく『阿部一族』の一考察 と 秘史『阿部一族』の二部仕立てとなっている。

お許しをいただいて、数回にわたりご紹介したいと思う。ご期待戴きたい。


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          『阿部一族』の一考察  

                           小倉藩葡萄酒研究会 小川研次

プロローグ

 森鷗外の『阿部一族』は肥後藩主細川忠利が逝去の折、十九人の殉死者の一人阿部弥一右衛門の生き様を描いている歴史小説である。しかし、弥一右衛門の隣人だった栖本又七郎の『阿部茶事談』を種本としており、史実とは若干異なっていることは、今では周知の事実である。鷗外の書によれば、弥一右衛門は忠利から追腹(殉死)を禁止されており、苦悩のうちに生きながらえようとするが、周囲との軋轢から死を選んだ。それは殉死ではなく、「犬死」であるとした。
しかし、寛永十八年(一六四一)四月二十六日の細川家『日帳』には、その日の殉死者の中に弥一右衛門の名がある。
また、忠利菩提寺妙解寺跡には弥一右衛門の名を刻む墓碑を含む十九基の墓碑が並んでいる。つまり「犬死」ではないのである。
確かに新藩主光尚(みつひさ)は殉死を禁止した。それは知行や屋敷などの身内への相続を認めない「跡式断絶」を意味する。亡き主君の恩よりも現主君への奉公に励めということだ。しかし、十九人は犬死に覚悟で光尚の命に反して自死する。ところが、光尚は全員に「殉死」と認めたのだ。(『歴史上の「阿部一族」事件』藤本千鶴子著)

物語はこれでは終わらない。忠利一周忌(実際は三回忌)に起きた事件が中核を担い、最大の「ミステリー」となる。
弥一右衛門の長男権兵衛が仏前にて髻(もとどり)を切り、位牌の前に供えたのだ。
それは武士としての生き方を捨てると同時に忠利への忠義を立てること(喪に服す)と捉えられるのだが、現藩主光尚への侮辱行為とされ、権兵衛は捕縛される。
やがて権兵衛の「狼藉」は光尚体制への反逆行為とされ、その嫌疑は阿部一族に及ぶことになる。上意討ちにより山崎の一所(権兵衛屋敷)にいた一族は、全員誅伐され、権兵衛も縛首となった。これが「阿部一族」事件である。

この不可解な事件については先達により諸説あるが、六人の殉死者(野田喜兵衛、阿部弥一右衛門、宗像加永衛、宗像吉太夫、右田因幡、田中意徳)に焦点を当て、そのミステリーに迫ってみよう。(名前には年齢と殉死日)

 

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■地方史ふくおか

2019-04-16 14:51:37 | 論考

 過日O氏所蔵の刀三振りを拝見、夫々刀身のみである。刀というより太刀が正しいと思われる、細身の反りがあるものである。
大刀と脇差は無銘だが、小刀には「大道」の銘があり由緒あるものらしい。

随分依然一度この「大道」という刀について書き込みをしたことを思い出して読み返してみた。
    大道とか宜貞とか・・刀工のこと 2010-10-26 

その中で、「地方史ふくおか」に「豊前小倉の刀工大道一家の系譜・・細川藩時代前後に於ける豊前系大道と美濃系大道」という、論考の存在を紹介していた。
しかし入手については果たしておらず、この書籍を入手したいと思い日本の古本屋其の外いろいろ探したが見つからない。
「地方史ふくおか」は、福岡県地方史研究連絡協議会が発刊しているが、その名が示すように福岡におけるいろいろな郷土史の団体が参加している福岡の郷土史の総元締めのような処である。この協議会の事務局は福岡県立図書館にあった。
今朝ほど電話をして、残部があれば入手したい旨を申し上げると、残念ながら売り切れであるとの事、さてどうしようかと電話先で思案していると、該当記事をコピーで提供できますとのありがたい話、早速入手の手続きをとった。

いろいろ機会をとらえては雑多な資料を集めているが、刀は門外漢であり大事な資料としてファイルに収まることになる。

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■貴重な資料を無料で・・・

2019-04-14 07:26:54 | 論考

 熊本大学永青文庫研究センターが、紀要「永青文庫研究第二号」を発行したことをHPであきらかにしている。
これはありがたいことに無料で頂戴できる。また「年報(7号)」を併せていただけるらしい。
貴重な資料として是非とも手元に置きたいと思い申し込みを済ませた。数に制限があるため申し込み順ではある。
以下のサイトをご覧いただいてお早めにどうぞお申込みください。

                紀要『永青文庫研究』第二号発行のお知らせ

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■入れ墨談義

2019-02-22 12:48:45 | 論考

 熊本大学副学長(医学部・皮膚科教授)を勤められた小野友通は、熊本大学学術リボリトリーに「いれずみ物語」を30編に渡り紹介されている。内容は多岐にわたりこれがそれぞれ大変面白い。
昨今は若者の入れ墨指向や、外人観光客の入れ墨問題などで関係者は頭を悩ませておられる様だが、この様な状況を先生はどうお考えだろうか。
ご意見をお聞きしたい気がする。

     (いれずみ物語 ; 1) ・谷崎の「刺青」 : 皮膚から肌への一瞬 

     (いれずみ物語 ; 2)病理学者ウィルヒョウといれずみ : センチネルリンパ節概念の元祖 

     (いれずみ物語 ; 3)桃のいれずみ : 霊力,性そして龍 

     (いれずみ物語 ; 4) ・イ草作業のつらさと"そらうでいれずみ" 

     (いれずみ物語 ; 5) ・ヘナによるいれずみ 

     (いれずみ物語 ; 6) ・南嶋の女のいれずみ : 針突 

     (いれずみ物語 ; 7) ・入れぼくろ : 客と遊女の駆け引き : 心中立

     (いれずみ物語 ; 8)背中のいれずみ : 五社秀雄の決意

     (いれずみ物語 ; 9)細川藩の除墨帳 : 社会復帰のための施策を取り入れた『刑法草書』

     (いれずみ物語 ; 10)ニコラス皇太子の刺青 : 両腕に龍の彫り物

     (いれずみ物語 ; 11) ・三島由紀夫のいれずみ : 薔薇か錨か, 弁天小僧か

     (いれずみ物語 ; 12)いれずみ奉行 : 遠山桜か,生首か

     (いれずみ物語 ; 13) 龍の彫り物 : 北京は四合院で想う九紋龍史進 

     (いれずみ物語 ; 14) 風呂といれずみ : 寅彦も,芙美子も驚いた 

     (いれずみ物語 ; 15) 女のいれずみ : 刺青に通ふ女や花ぐもり 

     (いれずみ物語 ; 16) カポシといれずみ : 世界で最も有名ないれずみ男

     (いれずみ物語 ; 17)顔のいれずみ

     (いれずみ物語 ; 18)東大のいれずみ標本 : 背中の「桜姫と清玄」も彫り物絡み

     (いれずみ物語 ; 19)永井荷風のいれずみ : 「こう命」「壮吉命」

     (いれずみ物語 ; 20)いれずみ大臣 : 小泉又次郎逓信大臣 

     (いれずみ物語 ; 21)唐獅子牡丹 

     (いれずみ物語 ; 22)蜘蛛のいれずみ : 「さがり蜘蛛」と「のぼり蜘蛛」 

     (いれずみ物語 ; 23)絵身いれずみ : その極みはMimi-nashi Hōichi

     (いれずみ物語 ; 24)スポーツ選手のいれずみ : 吉葉山の覚悟 

     (いれずみ物語 ; 25)ベルツのいれずみ : いれずみは着物である

     (いれずみ物語 ; 26)戦国時代のいれずみ : 島津勢500余人,討死前夜その腕にいれずみ

     (いれずみ物語 ; 27)スティグマとしてのいれずみ : アウシュヴィッツの囚人番号

     (いれずみ物語 ; 28)梅のいれずみ : 篤志解剖第一号 遊女美幾

     (いれずみ物語 ; 29)いれずみは他人の手を借りた自傷行為 : THE ILLUSTRATED MUM の場合

     (いれずみ物語 ; 30)文身文化 : 白川 静の漢字の世界

 

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■熊本大学学術リポジトリーから「内山幹生氏」

2019-02-21 17:53:03 | 論考
71 普請夫役と対価 / 内山, 幹生 -- 熊本近世史の会2006-6年報 熊本近世史 Vol.18 p.26-30 雑誌掲載論文
72 八代城廃城一件 / 内山, 幹生 -- 熊本近世史の会2004-6熊本近世史論集 Vol.16 p.2-10 雑誌掲載論文
73 蝗害と鯨油仕法 / 内山, 幹生 -- 熊本近世史の会2009-4年報 熊本近世史 Vol.19-20 p.12-19 雑誌掲載論文
74 屯田兵関連記録にみる西南戦争 : 宇城市周辺の戦闘経過を中心に / 内山, 幹生 -- 宇城市教育委員会2015-3-31郷土誌燎火 Vol.22 p.20-41 雑誌掲載論文
75 不知火海考 : 豊穣の海奇譚 / 内山, 幹生 -- 宇城市教育委員会2018-3-31郷土誌燎火 Vol.25 p.1-10 雑誌掲載論文
76 宇城市松橋町御船「久原家文書」の概要と示唆する課題 : 八代海北部海辺干拓における位置づけ / 内山, 幹生 -- 宇城市教育委員会2017-3-31郷土誌燎火 Vol.24p.12-24 雑誌掲載論文
77 薩摩街道小川宿と娑婆神峠道 : 歴史の道と人馬賃銭 『河江旧記』巻之四より / 内山, 幹生 -- 宇城市教育委員会2012-3-31郷土誌燎火 Vol.19 p.10-19 雑誌掲載論文
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■東京大学史料編纂所研究紀要 第二十七号から 論考「寛永一六年細川忠興の証人交代」

2019-02-04 13:12:18 | 論考

東京大学史料編纂所研究紀要 第二十七号

   寛永一六年細川忠興の証人交代 ―新収史料 細川忠利書状・同光尚書状の紹介を兼ねて―  林 正啓

 

 

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