■織田左門
おきくが京へ逃れようとしていた時、秀頼公の召使・山城宮内むすめに一緒にと頼まれて同道している。
ひと時大坂の商人を訊ねるが落人の故をもって泊めてもらえず、その後織田左門を訪ねた。門番が中に入れてくれず、きくが宮内むすめは「左門殿
姪」であることを告げると、左門は「姪を一人拾いたり」と喜び歓待してくれる。去るにあたって銀子五枚を賜っている。
この織田左門は、織田信長の弟・有楽齋(長益)の二男(嫡子)である。兄弟三人は小禄ながら大名となったが、左門は西方に在ったためかなわず、
父・有楽齋の跡を継ぎ茶人として余生を送った。
■津川左近親近
秀頼公の御馬印、冬夏両陣ともに津川左近親近がつかさどる所なり。この際に婦女の手をかりて、わずかにその辱をかくせにしや・・・・
時運とはいひながら、うたてかりし事なり と筆者は嘆いている。
この人物は元斯波氏左兵衛督従四位下・義近の男である。室は織田有楽齋の娘である。大坂城落城の際切腹したとされる。
長兄・近利(右近・左兵衛)は家康・秀忠に仕え寛永十九年没。
次兄・辰珍は細川忠利代豊前にて召寄られ知行千石(客分)、肥後入国時加増により千二百五十石となる。
寛永十九年津田三十郎(妹・織田信重室の三男)に七百石を分知する。
■ 郡主馬首良列
良列は御旗奉行であったとされる。あずかっていた黄幌を返して切腹したとされる。
十兵衛宗保とも呼ばれ、その娘・藤は細川忠興の側室(松の丸)である。その娘・古保は細川家家老・松井興長室である。
この藤(松の丸)については、ガラシャ夫人が生涯の時の事として次のような話が残されている。
子供之事ハ我為に子なれは忠興君の為にも子也、改め言におよハす、三宅藤兵衛事を頼候也、此上にいはれさる事なから藤(松の丸)を御上へ
御直し不被成様ニとの事なり、
ガラシャ夫人の藤を名指しにしてのこの遺言は大変興味深い。ガラシャ夫人の味土野隠棲の時に子(古保)を為したことに対する怒りだという説が
あるが、私はそのような嫉妬めいた話ではなかろうと考えているが、これを裏付ける資料にお目にかからない。
幽齋公についても側室説がある。黒田官兵衛を有岡城から救い出したとされる加藤重徳の妹がそうであると加藤家系図は記している。
重徳兄妹の父親は、伊丹播磨守康勝であり、先の郡主馬首の祖父・伊丹兵庫守親永とは兄弟だとする。
幽齋・忠興と二代にわたり、伊丹氏の女性との関わりは何の故を以てであろうか。ガラシャ夫人の遺言に秘められた思いは、この辺りに在るのでは
ないかと推測しているのだが・・・如何。 明智氏と伊丹氏との間に何らかの確執は存在しなかったか、大変興味深い。