津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「おきく物語」と登場人物 ・3 織田左門・津川左近親近・郡主馬首良列

2014-01-12 06:36:27 | イベント

■織田左門 
     おきくが京へ逃れようとしていた時、秀頼公の召使・山城宮内むすめに一緒にと頼まれて同道している。
     ひと時大坂の商人を訊ねるが落人の故をもって泊めてもらえず、その後織田左門を訪ねた。門番が中に入れてくれず、きくが宮内むすめは「左門殿      
     姪」であることを告げると、左門は「姪を一人拾いたり」と喜び歓待してくれる。去るにあたって銀子五枚を賜っている。

     この織田左門は、織田信長の弟・有楽齋(長益)の二男(嫡子)である。兄弟三人は小禄ながら大名となったが、左門は西方に在ったためかなわず、
     父・有楽齋の跡を継ぎ茶人として余生を送った。

■津川左近親近
     秀頼公の御馬印、冬夏両陣ともに津川左近親近がつかさどる所なり。この際に婦女の手をかりて、わずかにその辱をかくせにしや・・・・
     時運とはいひながら、うたてかりし事なり と筆者は嘆いている。

     この人物は元斯波氏左兵衛督従四位下・義近の男である。室は織田有楽齋の娘である。大坂城落城の際切腹したとされる。
     長兄・近利(右近・左兵衛)は家康・秀忠に仕え寛永十九年没。
     次兄・辰珍は細川忠利代豊前にて召寄られ知行千石(客分)、肥後入国時加増により千二百五十石となる。
     寛永十九年津田三十郎(妹・織田信重室の三男)に七百石を分知する。

■ 郡主馬首良列
     良列は御旗奉行であったとされる。あずかっていた黄幌を返して切腹したとされる。

     十兵衛宗保とも呼ばれ、その娘・藤は細川忠興の側室(松の丸)である。その娘・古保は細川家家老・松井興長室である。
     この藤(松の丸)については、ガラシャ夫人が生涯の時の事として次のような話が残されている。

     子供之事ハ我為に子なれは忠興君の為にも子也、改め言におよハす、三宅藤兵衛事を頼候也、此上にいはれさる事なから藤(松の丸)を御上へ
     御直し不被成様ニとの事なり、

     ガラシャ夫人の藤を名指しにしてのこの遺言は大変興味深い。ガラシャ夫人の味土野隠棲の時に子(古保)を為したことに対する怒りだという説が
     あるが、私はそのような嫉妬めいた話ではなかろうと考えているが、これを裏付ける資料にお目にかからない。

     幽齋公についても側室説がある。黒田官兵衛を有岡城から救い出したとされる加藤重徳の妹がそうであると加藤家系図は記している。
     重徳兄妹の父親は、伊丹播磨守康勝であり、先の郡主馬首の祖父・伊丹兵庫守親永とは兄弟だとする。

     幽齋・忠興と二代にわたり、伊丹氏の女性との関わりは何の故を以てであろうか。ガラシャ夫人の遺言に秘められた思いは、この辺りに在るのでは
     ないかと推測しているのだが・・・如何。 明智氏と伊丹氏との間に何らかの確執は存在しなかったか、大変興味深い。 

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「おきく物語」と登場人物 ・2 要光院殿、松の丸殿

2014-01-11 10:40:08 | イベント

 要光院殿とは注記(京極若狭守殿母儀。淀殿の御兄弟なり)があり、浅井長政の二女・お初=常高院である。おきくの後から逃げてこられ、おきくは森口の在家へ御供をしたとある。
常高院が徳川家康に召されて出かけたことなども記されている。
その後おきくは秀吉の側室・松の丸の所へ落ち延びている。

大坂城の主ともいえる淀殿(お茶々)は浅井長政の長女、秀頼室・千姫は末妹・江(徳川秀忠室)の娘であり、三姉妹それぞれが時代に翻弄される姿は胸を打つ。
松の丸は武田元明室であったが、元明の死後秀吉の側室となった。
京極家は浅井家の主筋であるため、醍醐の花見の際秀吉の盃を受けるにあたって松の丸が淀君とその順番を争ったといわれる。
常高院にとって松の丸は従姉妹であるとともに義姉である。京極高次の出世はこの二人の女性の力に依るとも言われる。 

                       武田元明
         京極高吉          ∥
            ∥------+-----竜子(松の丸・京極殿・西の丸殿)
浅井久政--+--マリア     |     ∥
        |         |   豊臣秀吉
        +---長政    |     ∥----------------秀頼
            ∥---------+--茶々(淀君)
            市         | 
                    +----京極高次-------------忠高
                   |    ∥                      室は千姫の妹・初、その死の日に忠高は相撲見物をしていたことで有名
                   | +--初(常高院
                  | 
                   |  徳川秀忠
                   |    ∥---------------千姫 秀頼室
                   | +----江 
                  |
                  +----高知-----------------高豊 http://www.yomiuri.co.jp/otona/news/20140111-OYT8T00336.htm
                  |                       高豊の母・養性院に仕えた井上通女の「江戸日記」を丸亀市が購入したというニュースが飛び込んできた。
                  |
                  +-----● 氏家行広室    氏家行広は細川家家臣氏家元政の弟(兄とも)
                  |
                  +-----● 朽木宣綱室    朽木宣綱は細川家家臣朽木昭貞の父・稙綱の長兄
                           マグレナダ 

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土芥寇讎記

2014-01-10 09:26:49 | イベント

 いわゆる大名評判記ともいえる磯田道史氏の「殿様の通信簿」(朝日新聞社)や、中嶋繁雄氏の「名君・暗君 江戸のお殿様」(平凡社新書)など読んでいると、中々面白い。
出所はいろいろだろうが、「土芥寇讎記」(どかいこうしゅうき)などが考えられる。全42巻に及ぶ膨大なものだが、我が肥後細川家は第6巻に綱利公が登場している。

編者も判然としないこの著作は、巡見使や隠密の知る処としてオリジナルな記事もありうるのであろうが、一方では先行して発刊された『武家諫忍記』『武家勧懲記』などの記述を引用しているところもあるといわれ、その為「個別の大名を論じたり、近世大名支配のありようを見ようとする研究は、もはや立ちゆかなくなってしまった。」とする研究者も有る。http://www.soc.hit-u.ac.jp/~wakao/daimyo2.htm
 
刊本として金井圓校注の 「土芥寇讎記」(『江戸史料叢書』 人物往来社 昭和42年刊、新人物往来社 昭和60年改定版)がある。
熊本県立図書館には昭和60年版を一冊だけ所蔵しているが貸し出しが出来ない。地方図書館の現実の悲しさである。

「日本の古本屋」を眺めていたら一冊だけあった。5,000円というからお手頃なのかもしれない。さてどうしようかと思案しているところだが、このブログを読まれた方が求められて後の祭りに成るかも知れない。
 

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殿御出陣・・?

2014-01-06 14:40:44 | イベント

 今日のTBS系のお昼の報道番組「ひるおび」を見ていたら、東京都知事選に細川元首相の名前が出て来て驚いてしまった。これを小泉純一郎元首相が応援しているという、実しやかな話である。発言元は時事通信の田崎史郎氏である。細川元首相と小泉元首相の共通項は「原発廃止」という事らしい。
さて御出陣されるかどうか・・・・・田崎氏曰く年齢の事も有って、噂話で立ち消えに成るのではないかとのこと・・・??

日本新党の立ち上げ等の時だったかと思うが、地元熊本では「殿御乱心」などと騒いだものだが、これは首相まで上り詰められた。
東京都知事も大都市東京の主としては大変華やかで適任とも思えるが、殿のご判断やいかに・・・・
スケジュールから言っても、そろそろメディアでも賑わいを見せてくるのだろうが、行方が興味深い。 

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始動

2014-01-06 09:28:22 | イベント

 現役でお仕事をなさっていらっしゃる皆様には、いよいよ始動の日に成りましたね。寒の入りと成りますます寒さが厳しくなってまいりますが、お風邪など召しませぬようご自愛のうえ、飛び跳ねる馬の如く健康にこの一年をお過ごしください。祈念申し上げます。

私はと言えば昨晩は、「軍師官兵衛」を観、「のぼうの城」を観るというTV三昧で過ごしました。正月気分もこれにて打ちとめといった処です。

                                             細川藩史料による 天草・島原の乱  キリシタン 天草四郎

私の仕事始め(??)は、古文書を読むことから始まりました・・・・・・・・・・・。
M先生を講師に御迎えしての「古文書を読む会」に参加して新たな活動を始めるつもりですが、昨年末送られてきた史料は「天草島原の乱」に関するもので、これがなかなか読めずに困り果てています。何とかヒントを得ようと思い、戸田敏夫氏著の「細川藩史料による 天草島原の乱」の再読を始めました。三度も四度も読んだ本ですが、新たな発見も有りまた先の資料のヒントと成る書き込みにも出会いました。また改めてこの戦いの被参さを思い知らされます。

現役なのかどうかはっきりしない我が本業も、いまだお声をかけていただくこともあり、お役にたつことが出来れば幸いなことだでこちらも頑張ろうと思っています。(始動とは参りませんが・・・)

 


 



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年末の一大事・二

2013-12-28 18:21:35 | イベント

 まだ出していない奥方の年賀状の為に、私のものとは分けて奥方専用の住所録にしようと思い作業をしていたら、自分の住所録が消えていることにびっくり・・・・
完全に消去されてしまったようで、復旧不可能。あわてて封書やハガキ、会員名簿などをひっくり返しながら新たに作る、完全ではないが一応のめどはついた。

作業中疲れて椅子の背にもたれかかったら、バキッというすごい音がして背もたれが壊れてしまった。もんどりうってひっくり返ってしまった。背板をささえているお尻の下にある固定ボルトの具合が悪いようで、どうやらこちらも修復不能、随分使ってきたのでお役御免といったところ。

いずれも年末に至って「新しくしなさい・・・」とのご託宣か。 

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年末年始の過ごし方

2013-12-27 14:11:42 | イベント

                                                                

                                                              冬籠り 黄表紙あるは 赤表紙  漱石

          漱石先生ならずとも、寒い冬はあまり外出する気にもならない。故に私は歳末の喧騒も知らないままに、静かに大晦日を迎えそうな気配である。
          今日が仕事納めの方は九日ばかりの長い休暇で、羨ましいと思いきや、「まずは先立つものが必要ですから・・・」とあまりうれしそうでもない。
          毎日が休暇みたいな某も、のんべんだらりと過ごしていると体重が増えそうだ。この時期の黄表紙・赤表紙ならぬTVの下らぬ番組は願い下
          げだし、まずは買ったままで読まずに山となっている本をなんとか攻略せねばなるまい。
 

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熊本の歳末

2013-12-26 14:37:18 | イベント

「歳序雑話」にある熊本の歳末風景である。天和三年(1683)霜月に書かれたものであるが、現代とは異なる当時の風俗・歳時が垣間見えて面白い。

              十二月朔日未爽、云節季候者、卒于千門万戸、述種々嘉事、祝家々、求米銭、其形頭挟杜葉 裏白等、以紅布擁其面、
              作異形叩弁舌、有加或三味線或小鼓等

              廿日已後、市鄽売買之体夥矣、果菜魚鳥、百穀布絹、陶器木器、飲食貨財、一物而莫不交易、皆成待春来之備、市店
              之利潤於是矣

              廿八日有歳末之拝礼、士長以上、咸献魚鳥美物

              晦日、早朝門戸建松竹、成種々餝飾、祝歳時、追儺以節分夕、吾邦都之俗也、熬黄大豆、毎座打蒔、祝曰鬼者外、福
              者内、爆竹以上元旦暁天、而不以晦日也、家々遑々、作春之設、実稀惜歳月往人也、只整正厳粛、而千秋万歳而已 

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お安く読む・新潮新書「明治めちゃくちゃ物語 維新の後始末」

2013-12-23 14:19:25 | イベント
    明治めちゃくちゃ物語 維新の後始末 (新潮新書)
              野口武彦
              新潮社

 

内容説明

倒幕果たせど、維新の道険し―「一人前の国家」を目指す日本の前には、未知なる難題が山積み。失業した侍をどう処するか?国の借金をどう返すか?国防を誰に任せるのか?首都の都市計画をどうするか?人道的な裁判や刑罰とは?表現の自由は認めるのか?西郷隆盛ら反対派をどう収めるか?明治初期、無我夢中で国作りに励んだ男達の悪戦苦闘を描きながら、近代国家「日本」の原点を探る。

目次

第1部 明治夢幻録(明治維新は革命か―革命の三条件と三つの謎;桑と茶―失業と貧窮の首都;大村益次郎暗殺―破格な登用は命取り;奇兵隊反乱―民間兵の失業と解体 ほか)
第2部 明治反乱録(ざんぎり頭―頭髪は時代を映す;秩禄処分―職業としての武士を潰すまで;明治六年政変―外征派と内治派の争い;東京新繁昌記―活字が描いた新風俗 ほか)

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馬上の美少年

2013-12-21 11:01:48 | イベント

 西南戦争における田原坂の激戦では、敵味方が打ち合う鉄砲の弾が空中でぶつかるほどであったという。多くの人達が亡くなっているが、俗謡「田原坂」にうたわれる「馬上ゆたかな美少年」については幾人の人がその候補とされているが、多くの若者が戦っており特段特定することも無意味の事に思われる。
そんな中に「薩軍、庄内人・東(束)野孝之丞、15歳」のお墓が荻迫柿の木薩軍墓地(台場跡)にある。
墓碑には「君ハ日州庄内ノ人 西南の役僅十五才ニシテ薩軍ニ投シ奮戦、此ノ地ニ殉ス、時ニ明治十年二月二八日」とある。

                                         「美少年」の墓

                                                 八女市のHPから


庄内藩は江戸三田薩摩藩邸の焼き打ちを行った藩であり、鳥羽伏見の戦いに導く切っ掛けを作り、明治政府軍による徳川家武力討伐の発端となった。
薩摩にとっては仇敵ともいえる庄内の若干15歳の少年が、なぜ薩軍の中にいたのかという疑問を禁じ得ない。
佐高信の「西郷隆盛伝説」がその答えを教えてくれる。その後の庄内藩に対する西郷の寛容な処置は、庄内の人達をしてすっかり西郷フアンにさせてしまった。西南の役の勃発を知るや数名の若者が西郷郡にはせ参じたという。
鹿児島の南洲墓地には庄内藩士「伴兼之」(20歳)のお墓と、「榊原政治」(18歳)の招魂碑があるという。前者は束野孝之丞と同じく植木で亡くなっている。榊原は負傷して延岡病院で亡くなった。お骨がないから招魂碑となっているという。

束野孝之丞については「塚野」とも呼ばれているが定かではない。墓碑の東野については遺骸につけられていた紙片にそうあったと伝えられるが、激戦の混乱の中での間違いであろう。弱冠15歳異郷の地での死は無念如何ばかりであろうかと察するに余りあるが、尊敬してやまなかった西郷の為に死するという満足に満ちたものであったのだろう。この束野(塚野)孝之丞についての庄内に於いての資料が見えないのが残念である。

唯一つ、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1459287789 の回答欄にある記事が全てであろう。
 

 

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史談会忘年会

2013-12-19 23:17:35 | イベント

  ふらふらになりながら何とか我が家に帰り付きました。史談会の忘年会は大盛会のうちに終わりました。有難うございます。
私は久しぶりに相当いただきまして、なんとか自宅に帰り付きましたものの、かなり酩酊状態です。

盛りあがりました。この雰囲気を来年につなげたいと思います。 

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細川家家臣・狩野家

2013-12-09 19:03:42 | イベント

 私の祖母の実家は「狩野源内家」である。これとは別に、侍帳には狩野氏として「俊太家」「庄馬家」の二家があり、これはルーツを一にしている。
「肥後先哲偉蹟」を読むと、狩野崇山なる人物が紹介されている。俊太家の俊太その人である。詳しく読んでいる内に、狩野家記録なるものがあり、この中にに元祖・狩野上総介とありその長男が是齋野源太郎祖二男平左衛門は同時に細川家に召し出されたとあり、三家が同根であることが判り驚いてしまった。

  毛利輝元・元就仕五十貫     日向城主・高橋右近臣
    狩野上総介---+--- 太郎右衛門(是齋)===太郎右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→源内家
             |                                     是齋外孫                
             |  田中筑後守臣       
             +---平左衛門---+---仁右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→俊太家
                         |
                         +---四兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→庄馬家 

仁右衛門はどういう訳か平左衛門の跡式を相続されず当人の別禄十人扶持が家禄となって相続されたらしい。崇山(俊太)が時習館居寮生となり、阿蘇郡高森や下益城郡砥用に於いて子弟の教育に当たりその功により御中小姓となった。
平左衛門の跡式は四兵衛が相続したのではないか(未確認) 

別流だと思っていた三家が一族であることが判り、史料の読み込みがたらなかったことを多いに感じている。
そして狩野氏の事をもう少し深く調べてみたいと、思いが深まっている。 

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お安く読む・集英社新書「司馬遼太郎が描かなかった幕末」

2013-12-06 15:06:58 | イベント
司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰、龍馬、晋作の実像 (集英社新書)
 
                   集英社

本の内容

国民的作家として読み継がれている司馬遼太郎。そのあまりの偉大さゆえに、司馬が書いた小説を史実であるかのように受け取る人も少なくない。しかし、ある程度の史実を踏まえているとはいえ、小説には当然ながら大胆な虚構も含まれている。司馬の作品は、どこまでが史実であり、何が創作なのか?吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作が活躍する司馬遼太郎の名作をひもときながら、幕末・維新史の真相に迫る。

目次

第1章 吉田松陰と開国(『竜馬がゆく』と龍馬「愚童」説 象山塾入門を無視した司馬の意図 ほか)
第2章 晋作と龍馬の出会い(晋作、佐久間象山に会う 『世に棲む日日』に登場しないもう一人の師 ほか)
第3章 高杉晋作と奇兵隊(松陰改葬に秘められた政治目的 「三枚橋の中の橋を渡った」のは本当か ほか)
第4章 坂本龍馬と亀山社中(龍馬と横井小楠の会談、亀山社中創立時に龍馬はどこにいた? ほか)
第5章 描かれなかった終末(長州藩の戦意高揚作戦 英雄に甘かった司馬遼太郎 ほか)

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徒歩3時間

2013-11-24 14:18:51 | イベント

 熊本地名研究会主催の「砂取・出水地区現地の町歩き」に参加、午前9~12時まで3時間を徒歩で回った。
そのほとんどが私の幼少期の遊び場所であったところだ。
集合場所は旧・水前寺体育館の在った場所、ここから熊本洋学校教師館・ジェーンズ邸夏目漱石第三番目の旧居、砂取小学校(熊本第二師範学校跡)、熊本県立図書館裏の芭蕉林、希首座の祠から国分寺熊野坐神社等を廻った。さすがに3時間の徒歩はこたえて、左足のふくらはぎがつってしまい何とも情けない次第となった。しかしながら良い天気に恵まれるなか、かって知ったるそれぞれの場所を、地名研究会の錚々たる先生方の詳しい説明を聞きながらへめぐり、よい時間を過ごさせていただいた。感謝・・・
 

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細川家家臣--高本氏

2013-11-22 10:14:59 | イベント

                         文禄元年壬辰是ヨリ先キ秀吉関白職ヲ義子秀次ニ譲リ自ラ太閤ト穪ス 太閤朝鮮征伐ヲ諸将ニ
                       命シ戦艦ヲ造リ兵粮ヲ蓄へ軍勢ヲ募リ三月朔日ヨリ先鋒ノ諸将出馬アリ 忠興モ發向ス 太閤ハ
                       廿六日京ヲ發セラレ是時朝鮮渡海及ヒ名護屋守護ノ人數共凡三十餘萬ナリ 四月十ニ三日ノ頃
                       先鋒小西行長・加藤清正ヲ初メ名護屋ヲ出舩ス 太閤モ廿四日筑前深江ニ着舩忠興ハ名護屋ノ
                       旅館水走ニ居ケルカ宰相秀信ト倶ニ壹岐國風本ノ湊ニ旅館造営ノ事ヲ勤ム 其後對馬へ渡海ス
                       ヘキトノ命アリ先驅ノ諸将ハ小西行長ヲ初メ軍功ヲ勵ミ所々ノ城ヲ屠リ都へ攻入リ清正ハ朝鮮ノ王
                       子ヲ生捕リ各威ヲ振フ 六月太閤又六萬ノ人數ヲ朝鮮へ遣ハス 是先キ二渡海ノ軍勢ノミニテハ
                       若シ明ノ援兵来ル事アラハ合戦難儀ニ及ヒ彼地王城ノ制法モ行レ難カルへシ 因テ三奉行 石田・
                               増田・大谷 
ヲモ渡海セシメントテ参列ノ人數を遣ハサル 忠興一列諸将ノ勢合テ二萬五千四百七十
                       人三組合テ六萬三千餘ナリ 忠興カ従軍ニハ興元・孝之・長岡好重・松井康之・同興之・有吉立
                       行・米田是政ヲ先トシテ都合三千五百ナリ 十七日釜山浦ニ看ス 先達テ渡海ノ諸将ハ都城ニ在
                       ル由鳴れハ今度ノ人數互ニ待合セ廿六日釜山浦ヲ發シ七月廿三日都城ニ至リ諸将ト會ス 八月
                       七日忠興王城ヨリ打出慶尚道ノ内岩山城ヲ攻ム 敵ハ李光源ト云者大将ニ數千人楯籠ル 先鋒
                       松井康之其外興元ヲ初メ各進テ砲丸ヲ飛ス 敵城門ヲ開キ出戦フ 興之衆ヲ抽テ進ミ向フ者ヲ突
                       伏セ首級ヲ獲タリ 敵叢リ進テ興之ヲ圍ムヒルマス戦テ三ケ所創ヲ被ル 松井家士松井仁平次等
                       能ク働テ興之ヲ助ク 是ヲ見テ興元・好重継テ攻寄セ自ラ敵ヲ討チ首ヲ取リ有吉立行・澤村才八
                       等モ各功アリ城兵散亂シテ城ニ入ルヲ忠興下知ヲ加へ攻入リシカハ城兵後ノ山ヨリ逃去ル 此時
                       味方ニ打取ル首千餘級城ハ火ヲ縦チ焼棄ツ 此由名護屋ニ聞へ太閤ノ感賞ニ與ル 同時慶尚道
                       仁道縣ノ領主李連宗朝鮮王ヲ奉シテ義州ニアリ其子李宗閑一城ヲ構ヘテ守リケルヲ忠興聞テ同
                       十日彼城ニ向ヒ攻ム 南條元信援兵トシテ千五百人ヲ卒シ馳加ハリ両国合テ五千人ニテ攻寄タリ
                       城中寡兵ニシテ防難ク逃出ルヲ尾撃シテ過半討取ル 李宗閑ハ元信ノ手ニ生捕ケリ 忠興所々
                       巡見シテ不堅固ナル所ヲ修補して暫ク是城ニ據ル

「細川忠興譜」にある文禄の役緒戦の記述である。加藤清正は朝鮮の王子を捕虜とし、南條元信が王族・李宗閑を捕虜とした。(父・小鴨元清においては
同人の働きによるとしている。元信は細川忠興より召し出され、細川興秋女・鍋を室としている)
細川家家臣高本家の家譜は李宗連を家祖として記載されている。宗閑の子が細川家に召し出され、「高本姓」及「家紋」を与えられた。初代慶宅である。
医を家業として仕えた。五代慶順(紫溟)は藩校時習館の三代目教授として知られる。 

   高本孝太郎  (南東22-20)     
     李連宗
     李宗閑  
朝鮮王族、文禄の役の折捕虜として日本にいたる。
    1、慶宅   医師并伽之者 百石 (於豊前小倉御侍帳)
           御児小姓并御伽衆共 百石 (肥後御入国宿割帳)
           御医師衆御伽衆御茶道衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
           三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
           御医師衆・御茶道衆 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
    2、慶宅
    3、玄常・友成(養子 水無瀬中納言内・加藤司権兵衛忰・玄常))
    4、玄碩  (1)二百石 御備医師外様医 屋敷・山崎
    5、慶順(養子 実・原田宗昆六男 慶蔵・敬蔵)  
             御備頭組御留守居大頭組 御儒者・助教 二百石
         
高本紫溟 名は順字は子友、慶蔵と称し後敬蔵と改む。紫溟は其号。細川侯に仕へ
                食禄二百石。世々医を業とす。其先は
朝鮮王の庶族李姓なり、幼にして
                才名あり、詩を善くす。夙に世を厭ふ心ありて、阿蘇山中に茅屋を結びて
                住し、萬松廬と云う。書を読む数年、学大に進む、明和年中藩公召して時
                習館訓導となす。是に於て決然心を翻し、出でて治教を稗補せんと思ひ、
                薮孤山を助けて教育に従事し、遂に教授職に進み、学政を管する事数十
                年、子弟を育すること甚だ多し。博学多識既に伊洛の学に深く、兼て国歌
                国文を善くす。嘗て長瀬真幸の江戸に抵役するや国文一編を贈る。
                真幸京都に留る数旬、其文図らずも、上皇の叡覧に入る。玉音あり、「図ら
                ざりき田舎此珍あらんとは」と、紫溟感拝して自ら田舎珍夫と号し印章に刻
                せり。嘗て芳野に遊び転じて松坂の本居宣長を訪ぬ。(一部略)
                氏真幸を勧めて、宣長に従ひて国典を講究せしむ。業成りて時習館一局に
                於て教授せしむ。是より始めて肥後に国典の学興り、歌道に深き人々出で
                たるは全く紫溟の功績なり。(一部略)
                文化十年十二月廿六日没す。享年七十八、本妙寺山中に葬る。
                大正五年十二月正五位を追贈せらる。

    6、安次(養子 荒木善兵衛弟)
              御鉄炮十挺頭・御中老支配 大阪御留守居 三百石内百石御足
               
 文化十年十月~   玉名郡代
    7、慶太郎(敬太郎)  旧知二百石
                
嘉永六年六月~安政元年九月(病死)奉行副役
    8、孝太郎   下津求馬組御番方二番組 二百石

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