来週土曜日(20日)の熊本史談会で、森鴎外著「興津弥五右衛門の遺書」引用史料の虚構と真実を担当しお話するために、その著の「初稿」「二稿」を精読を始めた。
「二稿」は本を持っているが、「初稿」は「青空文庫」のお世話になっている。
又初稿の典拠となった「翁草」と照らし合わせてみると、翁草自身が細川三斎忠興の三回忌の年月を間違えたりしているが、ほぼほぼ全体の話のつじつまは合っている。
一字一句とはいかないが、精読していると、長編小説ではないのだが時間もくうし、草臥れてしまう。
ただ寛永元年に横田清兵衛を殺害したという「初稿」「二稿」の時代設定が間違っているため、この小説全体の形が虚構となってしまっている。
殺害の原因となった、細川家と伊逹家の入札で争ったという事実は、細川家・伊達家資料で否定されている。
虚構だと思いながら読むと、何とも虚しさを感じてしまうのが正直な感想である。
「真実は小説より奇なり」といえるこの内容を、どう皆さんに判りやすくご説明しようかと考えていると、残り一週間は胃痛ものだが、三四日で声を出しながら精読したいと思う。
本棚のどこにどの本があるというのがまだよくわからず、色々探し物をする中で、平尾道雄氏の「海援隊始末記」(文庫)があらわれた。
久しぶりに小一時間ページをめくってみた。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が世に出たのは、昭和38年から42年にかけてのことだというが、発刊されるのを待ちわびて次々に購入して
読んだものだ。
今になると青春歴史小説だなと思う。2,500万部売れたというから空前絶後、文藝春秋社も大いに潤ったことは間違いない。
紀尾井町にある同社社屋(現本館)の建築年は昭和41年だから、当たらずとも遠からずだろう。
後に上京した折、わざわざ見学に出かけたことを憶えている。
司馬氏は多くを語ってはおられないと思うが、竜馬研究の第一人者は土佐藩・山内家の史料編纂所におられた平尾道雄氏に他ならない。
「海援隊始末記」が有名だが、司馬氏も当然これを読んでおられることだろう。竜馬のことを知るためには、この本は必読書である。
その後「竜馬がゆく」を再読していないし、のちには全巻処分した。処がこの「海援隊始末記」はいまだ大事に所蔵している。
私はこの本を、「竜馬がゆく」のブームの後の、昭和54年に購入した。
それは何と平尾道雄氏が亡くなられたその日に購入しており、本の末尾に次のように書き込んでいる。忘れようにも忘れられない本である。
江戸史料叢書「落穂草」を読んでいたら、「肥後国守護職」という記事があった。
この落穂草の著者は、大道寺重祐友山なる人物で、「徳川家康の誕生から大坂夏の陣が終る迄の家康及びその周辺諸家の動静を記述したもの。」と
ある。当時の関係者に聞き取りをするなど、信ぴょう性は高いものと思われる。少々、長い文章だが労を惜しまず、御紹介してみたい。
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肥後国守護職
一、問て云、いつの頃の義にて候哉。公方様の御機嫌大きに損し、其日にかきり御城にて御用多く候て、頓て七ッ前迄御詰候て退出あられたる御
老中方を、急に被為召何れも早乗物にて俄に登城在之候を以、末々とては大きに肝をつふし候義の在之たると申候をは、いかゝ被聞及候哉。
答て云、其義を我等の承り及び候は、大猷院様(秀忠)御代の義に在之候由、子細は其節加藤肥後守(忠廣)殿身上果候以後、肥後之国主の被
仰付も無御座候を以、誰人か拝領か被致と在之、江戸人の諸人聞耳をたて是のみを取沙汰仕候折節、御城に於て御用之義在之、其御席に而右肥
後の国主の御撰ひの御沙汰なと御座候由、左様の後陽ゆへの義にも在之候哉。いつとても御老中方には八ッの時をさへ打候へと其まゝ御下りの
処に、其日は七ッ頃に至り何れも御下り候処に、御側衆より御用の義在之候間、只今登城可有之旨申来候付、土井大炊頭殿(利勝)には帰宅あ
られ上下を御取、留守中の用事なと聞之御入候所へ被為召候との義に付、早々支度を調へ屋敷(大手町)の門外迄出給ふ所へ御小人衆走り来り、
急き御上り候様にとの事ゆへ、夫より早乗物にて登城在之、外の御老中さま御上り候へ共、井伊掃部頭殿(直孝)少し恙く候を、何れも御待合
せ候内にもいまた揃ひ不申候哉の旨御尋なと在之、其後御老中方各御前へ御出候所に公方様(家光)にも殊の外なる御不興らしき御様躰に御見
へ被遊、何れもへ御向ひ被遊其方共を呼寄候義、別事に非らず、もはや我等天下の仕置はならす候、此段を何れもへ可申聞為なりと迄の上意に
付、各驚き入とかくの御請も無御座所に、夫はいか成思召を以の上意にて御座候哉と大炊頭殿被申上候へは、其時上意被遊候は、今日各中へ申
談したる肥後の国主の義は、近き内に可申渡義成を先達て其者の方へ告知するには不及義也。左様に内談の事か、もれ安く候ては我等天下の仕
置は成へき事かと上意有けれは、大炊頭殿被承、其儀に於ては恐悦の至り目出度御事に御座候と被申上候へは、弥々御機嫌悪敷被成大炊頭殿へ
御向ひ被遊、其方は内談の外へもれ安きと有を目出度と申候か 夫は聞所也、其子細を申せと有上意にて大炊頭殿被居所へ御座を御詰寄被遊候
を以、掃部頭殿を初め御老中方何れも胸を被冷候処に、大炊殿被申上候は、是に罷在候同役共いつれも存候通、何そ是は急に相触不申しては叶
ひ不申と有之如くなる御用むきなと有之節、諸番頭諸役人共へ申渡し、随分急に相触させ候ても、其日の中なとには末々迄触届け候如くには成
兼申義に御座候。肥後国守護の義は、誰にか可被仰付と有之義を、下々に於ては、諸人聞耳をたて罷在候処に、私共はいつとても八ッの太鼓さ
へ鳴候へば罷下り候を、今日の義は彼是御用も多く、頓て七ッ比迄御城に罷在候に付、扨は肥後の国主相極り候かと推量仕り、然るに於ては、
細川越中守より外には無御座と江戸中の取沙汰には及び候と存候。然は上御一人の思召と下方人の存寄と一同仕り候と有之義は、恐悦至極の御
事に候を以目出度御義とは申上候。惣而私儀は毎日両人宛内々似て江戸中へ物聞を指出し申候処に、私義いまた御城に罷在帰宅不仕内に右両人
の者共罷帰り、壱人は芝札の辻辺、一人は牛込辺 におゐて細川越中守へ肥後の国拝領被仰付哉と有之義を承り候由書付仕り、用人共方迄差出
し置候と在之、右両通の書付を指上候へは、則御上覧被遊御機嫌も御やわらぎ被遊候刻、掃部頭殿にも大炊申上候通に私躰も奉存候と御挨拶被
申上候へは、御笑ひ被遊なから何れも呼寄る事にてはなかりつるぞ、早々罷帰休息仕候様にとの上意につき、右帰宅あられ事済候となり。
(つづく)
数十年ぶりに鴎外の「高瀬舟」を青空文庫で読んだ。この小説は史伝小説であり、参考とされたのは「興津弥五右衛門の遺書」同様、神沢杜口の「翁草」である。
病の床にあった弟が、剃刀で喉笛をつき自殺を図る。苦しみ死にきれずにいる弟は兄の喜助に手助けを乞い死んでいく。その場を見た者がおり捕まえられる。
そして遠島処分を受け「高瀬舟」にのり川を下っていく中で、同心の庄兵衛はそのいきさつを知り、死に苦しむ弟に手を差し伸べたことが殺人となるのかと自らに問いかける。
そして、お上が決めたことは間違いないのだろうと納得する。
ずいぶん昔、森茉莉さんのエッセイ「父の帽子」を読んだが、その中に「注射」という項があり、幼いころ百日咳にかかり、父鴎外が医師のすすめにより「安楽死」を考えたという。
兄と揃ってり患しているが、兄は死んでしまいそれを受けてのことであろう。岳父から叱られ思いとどまると、数日後には快気したという話である。
鴎外は軍医総監迄上り詰めた医者であり、最先端の医学の知識を有していた。当時は「安楽死」が許容されていたらしい。「高瀬舟」も主人公・庄兵衛に託して、その「安楽死」について問を投げかけているのだろう。切ない内容だが、鴎外は良い題材を「翁草」から求めたものだ。
漱石が新婚早々寝坊癖で起きられない鏡子夫人に言い放った言葉で有名である。
つまりこの漱石先生の造語は熊本に於いて明治29年に誕生したことによる。
鏡子夫人の著「漱石の思い出」によると、「オタンチン」は判るが「パレオロガス」が判らないので漱石に聞くが笑って教えてくれないからと、
訪ねてくる人に片っ端から尋ねている。
この言葉は、「吾輩は猫である」に登場しているのは皆さまご存じのことであろう。多々良さんとのやり取りの中で出てきている。
漱石が熊本時代鏡子夫人をからかい続けたこの言葉は、漱石にとっては新婚時代の楽しい思い出として残っていたのだろう。
「吾輩は猫である」は鏡子夫人の記述によると、「この年(明治37年)の暮れごろからどう気が向いたものか、突然物を書き初めました。」と
あり、その「吾輩は猫である」がホトトギスの正月号に連載が始まるや大評判を得たという。
全てを書き上げたのは、39年の八月に11回を発表しているが「オタンチン・パレゴロノス」が登場しているのは、七月の第5回分に掲載されている。
熊本時代に鏡子夫人をからかい気味に発した言葉は、10年の歳月を経過して名著「吾輩は猫である」で復活を遂げた。
「パレゴロノス」とは賢明な皆様はすでにご存じの通りの、ローマ帝国の最後の皇帝コンスタンチン・パレオロガスのことである。
江戸っ子で洒落ッ気がある漱石先生は「コンスタンチン」を「オタンチン」にしたことは容易に想像がつく。
なんで私がこんな皆さんが良くご承知の話を取り上げているかというと、「鏡子夫人は何時このことをお知りになったのだろうか」という素朴な
疑問からである。
鏡子夫人の孫娘(半藤真利子氏)聟・半藤一利氏の「漱石先生ぞな、もし」にもこの話は取り上げられているが、実は半藤氏もこの言葉がどこから
きているのかはご存じなかったとされる。そうすると、鏡子夫人もご存じないままだったのかもしれない。
何方かご承知であればご教示いただきたいものである。
森鴎外の小説で細川藩に関わる歴史小説が三つある。「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」「都甲太兵衛」だが、先の二件は良く知られているのではないかと思うが、「都甲太兵衛」については、それほどメジャーではないように思える。
先の二件は「青空文庫」でも随分以前から紹介されているが、「都甲太兵衛」については紹介されずにいたから、私がしびれを切らして我がサイト・津々堂電子図書館でご紹介している。
「興津弥五右衛門の遺書」は「翁草」、阿部一族は栖本又七郎の「阿部茶事談」をベースにして書かれているが、都甲太兵衛についてはそのようなベースとなる資料は見受けられずにいる。
もっとも、坂口安吾の「青春論」の中の「三・宮本武蔵」に都甲太兵衛についての逸話が紹介されている。安吾はこれをどこから引いてきたのだろうか。大方のところは森作品からかもしれないが、最後尾にある、ある御屋敷のお庭を一晩で作り上げたという話は史料に出くわさないでいる。
この小説の史料の典拠一覧を拝見したいものだ。
晩年宮本武蔵が細川家にいたとき、殿様が武蔵に向って、うちの家来の中でお前のメガネにかなうような剣術の極意に達した者がいるだろうか、と訊ねた。すると武蔵が一人だけござりますと言って、都甲太兵衛という人物を推奨した。ところが都甲太兵衛という人物は剣術がカラ下手なので名高い男で、又外に取柄というものも見当らぬ平凡な人物である。殿様も甚だ呆れてしまって、どこにあの男の偉さがあるのかと訊いてみると、本人に日頃の心構えをお訊ねになれば分りましょう、という武蔵の答え。そこで都甲太兵衛をよびよせて、日頃の心構えというものを訊ねてみた。
太兵衛は暫く沈黙していたが、さて答えるには、自分は宮本先生のおメガネにかなうような偉さがあるとは思わないが、日頃の心構えということに就てのお訊ねならば、なるほど、笑止な心構えだけれども、そういうものが一つだけあります。元来自分は非常に剣術がヘタで、又、生来臆病者で、いつ白刃の下をくぐるようなことが起って命を落すかと思うと夜も心配で眠れなかった。とはいえ、剣の才能がなくて、剣の力で安心立命をはかるというわけにも行かないので、結局、いつ殺されてもいいという覚悟が出来れば救われるのだということを確信するに至った。そこで夜ねむるとき顔の上へ白刃をぶらさげたりして白刃を怖れなくなるような様々な工夫を凝らしたりした。そのおかげで、近頃はどうやら、いつ殺されてもいい、という覚悟だけは出来て、夜も安眠できるようになったが、これが自分のたった一つの心構えとでも申すものでありましょうか、と言ったのだ。すると傍にひかえていた武蔵が言葉を添えて、これが武道の極意でございます、と言ったという話である。
都甲太兵衛はその後重く用いられて江戸詰の家老になったが(津々堂注:そういう事実はない)、このとき不思議な手柄をあらわした。丁度藩邸が普請中で、建物は出来たがまだ庭が出来ていなかった。ところが殿様が登城して外の殿様と話のうちに、庭ぐらい一晩で出来る、とウッカリ口をすべらして威張ってしまった。苦労を知らない殿様同志だから、人の揚足をとったとなるともう放さぬ。それでは今晩一晩で庭を作って見せて下さい。ああ宜しいとも。キッとですね。ということになって、殿様は蒼白になって藩邸へ帰ってきた。すぐさま都甲太兵衛を召寄せて、今晩一晩でぜひとも庭を造ってくれ。宜しゅうございます。太兵衛はハッキリとうけあったものである。一晩数千の人夫が出入した。そして翌朝になると、一夜にして鬱蒼たる森が出来上っていたのであった。尤も、この森は三日ぐらいしか持たない森で、どの木にも根がついていなかったのだ。宮本武蔵の高弟はこういう才能をもっていた。
図説 日本の城と城下町⑨熊本城
稲葉 継陽 監修
刊行年月日:2024/01/17
ISBN:978-4-422-20179-5
定価:1,650円(税込)
判型:A5判 210mm × 148mm
造本:並製
頁数:160頁
万延元年三月三日は、水戸の浪士たちが大老・井伊直弼を襲ったいわゆる桜田門外の変が起きた日である。
そこで昨日は、吉村昭の渾身の小説「桜田門外ノ変」を読んだ。「あとがき」を含め517頁ほどあるが、依然読んだ記憶をたどり
ながら、飛ばし/\にしながらなんとか読了した。吉村昭氏は、自ら綿密な取材で知られる作家である。
吉村氏はその著「史実を歩く」の中、「桜田門外ノ変・余話」で、特に主人公の関鉄之助の逃亡の足跡をたどられたことを書かれている。
多くの関係者に会われ、また新たな資料なども発掘されながら小説に反映させられた。
氏のほかの作品も同様だが地道な自らの調査によって、それぞれの作品に重みをつけていることを実感する。
昨日、当該地で旧暦ながらその日に事件が起きたことを、行きかう人たちは御存知で在ったろうか。
鉄之助は2年5ヶ月の逃亡を経て捕らえられた。首を討たれ遺骸は小塚原に打ち捨てられたという。
そして、桜田門の事件からわずか8年後には明治維新に至る、怒涛の変革が行われるのである。
鉄之助らの行動が明治維新をもたらしたと考えると、その苦しい逃亡の末の無残な死も報われたと報告せずばならないのだろう。
水戸侍たちは、維新の時代をどういう感慨で迎えたのだろうか。そして幾人の人たちが水戸の浪士たちに手を合わせたのだろうか。
吉村氏の渾身の小説は、彼らの逃亡の末に迎える維新という新しい世界には触れていない。
それは言わずもがなのことである。沈鬱な気持ちの中に読了したため、コップ一杯の焼酎をあおった。
夏目漱石の「吾輩は猫である」は11章に分かれている。これは、1章づつホトトギスに掲載されたことによる。
そして刊本としてはホトトギス掲載の途中から、上中下三巻が発行されている。ホトトギス掲載中から評判であったことがうかがえる。
(お手元に所蔵していない方は吾輩 猫 - 達人出版会や青空文庫でご覧いただきたい)
第1章は明治38年1月のことだが、漱石が執筆を始めたのがいつのころかは定かではないが、鏡子夫人の「漱石の思い出」によると37年の12月ころかららしい。
さてこの主人公の「猫」のことだが、第1章ではその登場ぶりが紹介されているが、身元不明の野良猫である。
どうやらお手本になった猫がいる。鏡子夫人の述によると「(37年の)六・七月の夏の始めころ(中略)どこからともなく生まれていくらもたたない子猫が家の中に入ってきました」とある。
熊本でも猫と同居していた鏡子夫人だが「猫嫌いのわたくし」なのだそうで、何度つまみ出しても入り込んでくる猫に並口している。
泥足でやって来て御櫃の上にうずくまっていたり、おはちの中に納まっているのを見て根負けしている様子を見た漱石に、「そんなに入ってくるのならおいてやったらいいじゃないか」という一言で夏目家に居つくことになる。
黒猫だったらしいが、出入りの按摩さんが、「爪の先まで真っ黒で福猫だから御家が繁盛する」といわれ定住権を得たようだが、相変わらず御櫃の上に上がり、蚊帳をひっかき、子供を襲って怖がられたりしているが、漱石の肩に乗ったりやり放題である。駒込千駄木57番地の家でのことである。
第2章の中ほどに出てくる「吾輩」は正月三日、雑煮を食べてのどに詰まらせ踊り狂うシーンがあるが、是はまさしく実話で、鏡子夫人の述によると、子供の食べ残しの雑煮の餅を食べ、前足でもがきながら踊っている、女中たちは「いやしんぼう」をするからだ笑ったりしたというが、漱石がこれを見て第2章で取り上げたという。
この猫が「死亡通知」され「顕彰碑」たてられた、初代の猫である。熊本の猫はどうやら忘れ去られている。
私は二日ほど前まったくの偶然に、室生犀星の詩「母と子」の朗読をYoutubeで見かけた。
朗読が余りうまくないなと思って途中で見るのをやめて、いろいろググるうちに「青空文庫」の「室生犀星・忘春詩集」というものの中に収められていた。(少々長い詩なので引用は控える)
なぜこのような切ない歌が並んでいるのか、これは犀星の生い立ちが影響しているのであろうと思いいたった。
室生犀星には 夏の日の匹婦の腹に生まれけり という強烈な句がある。
私は犀星の小説と言えば、20代のころ姉が読んでいた「杏つ子」を読んだくらいで詳しくないが、俳句に関する本に親しむようになってからこの句の存在を知った。
そのときこの「杏つ子」が自伝小説だと姉から教えられた。その衝撃と共にこの句が自らの生母をうたっているというのだから、ことさらに衝撃的である。
犀星は加賀藩の下級武士の子と承知していたが、私生児であるという。父親のちょっとした出来心は使用人をはらませ、生まれるとすぐ養子に出された。
犀星はその生母を「匹婦」というのである。「匹婦」とは「教養がなく、道理をわきまえない者たちのこと。封建的な身分制度下で使われた言葉。」であるが、父親こそが「匹夫(父)」と呼ばれるべきではないのか・・・
犀星をしてそう叫ばなければならない、無念さや虚しさが胸を打つ。
預けられたのが僧侶の家でここが室生氏なのだが、実際預かったのはその僧侶の妾ともいうような人で、母の愛を受けることなく育ったと思われる。
上の句を踏まえて「室生犀星・忘春詩集」を改めて読むと、犀星の心情に胸が迫り涙もろい私は少々やばくなる。
匹婦とされた生母と相まみえることはなかったようだが、子を奪われ捨てられたその人のことを思うとその言葉は過ぎるように思うけれど、捨てられた子の心もまた深く傷つけられている。
「母と子」を読むと、「匹婦」だとする生母に対する思慕の情が見受けられてホッとするのだが、作家・俳人としての表現が「匹婦」という言葉に集約されたようにも思える。
身をさらして作品を作り上げるのが、作家の業というものであろうか。
漱石には何といっても「吾輩は猫である」があるから多分「猫派」なのだろうと思い込んでいた。
夫人・夏目鏡子氏の「漱石の思い出」をよむと、犬や猫に関する記述が初めて出てくるのは「大江の家」でのことである。
余りにもネズミが多いのに困っていると、女中のテルの姉さんという人が飼っている三毛猫をくれたそうだ。
ネズミもとるが、夕食の魚も食ってしまう。これにも困り果てて捨ててしまえということになり、捨てに行ったもののすぐ帰ってくる。
そこである時、同居人の土屋なる人(写真左端、のち裁判官)が捕まえて、自分の古靴下を頭から被せたりしているが、どうもこの猫夏目家ですっかり居住権を確保したようである。
それがこの写真の右端女中のテルさんの膝の上に座っている猫である。
そして、猫派か犬派かどちら?と思わせるようにワンちゃんも並んでいる。
熊本での犬の話は、5番目の内坪井の家で買い始めたという犬の話が面白い。
頂戴物の大きめの犬を飼っていたというが、是がやたらと吠えるし人にかみつく。
あるとき、ゴミを不法投棄する巡査の奥さんにかみついた。
巡査が怒鳴り込んできたが「犬は賢いもので、よい人には噛みつかないが悪い人間だと思うと噛みつくのだ」と漱石は意に介しない。
女中のテルさんは犬好き人間らしく漱石の言葉に大喜びである。
狂犬病の疑いがあるというので引っ張られたが、翌日には疑いも晴れて帰宅した。
ところがある日の夜遅く、謡から帰ってきた漱石の着物が食い破られている。どうやら漱石先生も所業が悪かったと見える。
番犬としては立派なものである。
こういう話になると、漱石先生猫派なのか犬派なのかさっぱりわからない。半藤一利先生の本を読んでも触れておられないように思う。
昨年暮れに亡くなった伊集院静氏、小説はあまり読んでいないが、エッセイを10冊ほどは読んだと思う。
小説では唯一といっていいものが夏目漱石を扱った「ミチクサ先生」だけだと思う。
かって図書館で見つけ上下巻をかりて、一気に読み上げたことを思い出す。
この中で伊集院氏は漱石夫人の身投げ事件を取り上げている。
当然のことながら、その当事者・漱石夫人夏目鏡子氏の「漱石の思い出」においては全く触れられていない。
二番目の借家は、家主の落合東郭が東京から帰って来たので仕方なく明け渡して、急遽白川に面した井川渕の三番目の家に引っ越した。
そこで鏡子夫人は「つわり」がひどくヒステリー状態となり、白川に身投げするという事件となった。
いまでは大方がご存じであろうが、新聞掲載などをさしとめるのに尽力したのが、「坊ちゃん」の登場人物「うらなり」のモデルとなった漱石の同僚・浅井栄凞氏である。
地元の新聞社の社長が教え子であったらしい。
この栄凞氏は細川家家臣・浅井家の9代目である。初代は五左衛門とあるが、祖は浅井万菊丸(直政)といって浅井長政の家系だとすることを、かってくにさき半島歴史研究会の会長久米忠臣氏が杵築史談会誌に「生きていた浅井長政・お市の次男 万菊丸・浅井直政」を発表されている。
入水の顛末は福岡女学院大学の原武 哲名誉教授の「夏目漱石と浅井栄凞ー鏡子入水に関わった禅の人」に詳しいからお読みいただきたい。
伊集院氏が資料にされたのではないかと思われる。
この栄凞氏はのちに細川家の家扶をされているが、その時期をみると私の祖父が家扶をしていた時期と重複するところがある。
祖父は栄凞氏が「うらなり」のモデルであったことを知っていただろうか。
小林信彦氏は「うらなり」氏の後日談として、小説「うらなり」を書いて2006年の菊池寛賞を取っているがまだ読んでいない。
野上弥栄子氏のご主人で能楽研究家の野上豊一郎著の『吾輩も猫である』や、内田百閒の『贋作吾輩は猫である』、高田宏の『吾輩は猫でもある・覚書き』等は、本棚に夏目作品と肩を並べている。
「ミチクサ先生」も「うらなり」も新たに購入してそろえようと思っている。
昨年のNHK大河はほとんど見ていないが、今年の紫式部を主人公にした「光る君へ」は欠かさず見ようと思っている。
元旦に思いついたと言うわけではなく、今年は良い機会だから「源氏物語」を完読しようと思っている。
「対訳本」とか、著名作家の訳本とかどれにしようか、どれを購入しようかといろいろ考え、図書館に出かけて現物を見てからにしようと考えた。
しかしこれ以上本棚に並べるには余裕がない。奥方から苦情を言われるのも切ない。
ふと「青空文庫」を思い出した。ググってみると与謝野晶子の「角川文庫ー全訳源氏物語」が紹介されていた。
- 源氏物語 01 桐壺(きりつぼ)
- 源氏物語 02 帚木(ははきぎ)
- 源氏物語 03 空蝉(うつせみ)
- 源氏物語 04 夕顔(ゆうがお)
- 源氏物語 05 若紫(わかむらさき)
- 源氏物語 06 末摘花(すえつむはな)
- 源氏物語 07 紅葉賀(もみじのが)
- 源氏物語 08 花宴(はなのえん)
- 源氏物語 09 葵 (あおい)
- 源氏物語 10 榊 (さかき)
- 源氏物語 11 花散里(はなちるさと)
- 源氏物語 12 須磨(すま)
- 源氏物語 13 明石(あかし)
- 源氏物語 14 澪標(みおつくし)
- 源氏物語 15 蓬生(よもぎう)
- 源氏物語 16 関屋(せきや)
- 源氏物語 17 絵合(えあわせ)
- 源氏物語 18 松風(まつかぜ)
- 源氏物語 19 薄雲(うすぐも)
- 源氏物語 20 朝顔(あさがお)
- 源氏物語 21 乙女(おとめ)
- 源氏物語 22 玉鬘(たまかずら)
- 源氏物語 23 初音(はつね)
- 源氏物語 24 胡蝶(こちょう)
- 源氏物語 25 蛍 (ほたる)
- 源氏物語 26 常夏(とこなつ)
- 源氏物語 27 篝火(かがりび)
- 源氏物語 28 野分(のわき)
- 源氏物語 29 行幸(みゆき)
- 源氏物語 30 藤袴(ふじばかま)
- 源氏物語 31 真木柱(まきばしら)
- 源氏物語 32 梅が枝(うめがえ)
- 源氏物語 33 藤のうら葉(ふじのうらは)
- 源氏物語 34 若菜(上)(わかな・上)
- 源氏物語 35 若菜(下)(わかな・下)
- 源氏物語 36 柏木(かしわぎ)
- 源氏物語 37 横笛(よこぶえ)
- 源氏物語 38 鈴虫(すづむし)
- 源氏物語 39 夕霧一(ゆうぎり・一)
- 源氏物語 40 夕霧二(ゆうぎり・ニ)
- 源氏物語 41 御法(みのり)
- 源氏物語 42 まぼろし
- 源氏物語 43 雲隠れ(くもがくれ)
- 源氏物語 44 匂宮(におうみや)
- 源氏物語 45 紅梅(こうばい)
- 源氏物語 46 竹河(たけかわ)
- 源氏物語 47 橋姫(はしひめ)
- 源氏物語 48 椎が本(しいがもと)
- 源氏物語 49 総角(あげまき)
- 源氏物語 50 早蕨(さわらび)
- 源氏物語 51 宿り木(やどりぎ)
- 源氏物語 52 東屋(あずまや)
- 源氏物語 53 浮舟(うきふね)
- 源氏物語 54 蜻蛉(かげろう)
- 源氏物語 55 手習(てならい)
- 源氏物語 56 夢の浮橋(ゆめのうきはし)
これを「一年の計」として6~7日に一巻づつ読破すると、大河が終了する今年の年末頃には読破ができそうである。
冥途の土産にチャレンジしようと、PCの画面を眺めながら精読を始めた。
漱石夫人鏡子氏の「漱石の思い出」をよんでいると、結婚式を挙げしばらく住まいした「光琳寺の家」が出てくる。
裏がまさしくお墓であったため、是を嫌がって三ヶ月ほどで転居している。
鏡子夫人の語るところによると「なんでも藩の家老か誰かのお妾さんのいた家とかで、ちょっと風変わりな家でした」とある。
ご厚誼いただいているサイト「徒然なか話」には「光琳寺の家」に写真が紹介されている。
鏡子夫人はさらに「玄関のとっつきが十畳、次の間が六畳、茶の間が長四畳、湯殿、板蔵があってそれから離れが六畳と二畳とこういう間取りです」と説明している。
その「離れ」で式は催されたらしい。
板塀で囲まれた庭付きの結構広い家のようだが、日差しを遮るためか深い軒をめぐらした「ちょっと風変わりな」家という感じは大いにする。
読み進めていくと、先住人の「お妾さん」は不義をしてお手打ちになったそうで、「なんとなく不気味な家」ということらしい。
こんな話を聞くと、手打ちをした御家老とはどなただろうと思うのだが、これは何とも闇の中である。
そこで転居したのが「合羽町の家」だが、こちらは建って間もない家なのに「がさつな家」だったそうだ。
そう書き残されると、少々鏡子夫人にも家主さんにも「申し訳ない」と思ったりする。
2011年度の「小林秀雄賞」受賞作品、高橋秀美氏の「ご先祖様はどちら様」を読んでいる。
小林秀雄賞とは、「財団法人新潮文芸振興会が主催する文芸評論家・批評家の小林秀雄氏の生誕100年を記念として新たに創設された学術賞で、日本語表現豊かな著書(評論・エッセイ)に毎年贈られる。」なのだそうだ。
私は細川家家臣諸氏のご先祖様を色々調べ始めて20年ほどになるが、そのお宅を徹底的に調べるというのではなく、「我が家の先祖は細川家に仕えていたと伝えられている」けれども、詳しいことが判らないお宅のご先祖様を探すのが主流となっている。
史料を失われてしまったお宅のご先祖様を、随分探し出してご報告をして喜んでいただいた。
それ以降は「ご自分でお調べください」と、あまり踏み込まないようにしている。
それは、そのご家族がご先祖様に対する興味を促するとともに、敬う気持ちを育んでいただこうと思うが故である。
時折、いろいろご報告をいただいたり、意見を求められたりすることに喜びを感じている。
さてこの著書を読んでいると、タイトルのように「清和天皇」に行きついたり、ある人物は「やくざ」であったりしているそうで、「父と母、それぞれの父と母」を10代もさかのぼれば、2,046人になるというが、そうなればいろんな人がいるわけで、「やくざ」さんも出てくるかもしれない。
先にも書いたことがあるが、私〇藤は一応藤原系だと考えると、臣籍降下はないとされているから天皇家に行きつく心配はない。
しかし、もともとは「磯部氏」であり、これが何ともわからない。
母方はT氏、先祖は猪俣党だというがこれとてよくわからない。母方の祖母の実方は細川家臣のS氏、これも熊本の土豪らしい。
曾祖母の実方はK氏、これも絵師のK家の別れだと言われるが探りようがない。
高祖母の実方はU氏、これも良くわからない。U氏の奥方は細川家重臣・M氏、こちらは俵の藤太秀郷の子孫だそうな。
我が家の4代目に嫁いでこられたS氏は、これは長曾我部一族で遠祖は秦氏である。
奥方の方は母親の家系が筑前のA氏、ここは遡ると「後漢霊帝の後裔を称する渡来系古代氏族の大蔵氏を遠祖としている。」とある。
奥方に遺伝子検査Hapro2.0の話をすると、「何か出てくるかもしれない」と言っている?。
つまるところ、8代ほどのことが記された先祖附が残されていたことで、先ずは良しとしなければならない。
私が1歳のころ死んだ父や祖父・祖母のことさえも良くわからないので、色々な断片を拾い集めている。
時習館最後の居寮生だったという曽祖父は、細川家の推挙をことわりなぜ熊本を離れなかったのか?
身近な先祖のことさえ判らないことだらけである。
それぞれの個人に10代2,046人のご先祖様が居られるわけで、ご先祖は「さかのぼれば天皇家、もしくはヤクザ」の話は起こりうることではある。
寝た子は起こさない方がよろしかろう。