津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■漱石先生の「なかなおり」

2023-12-08 09:30:10 | 書籍・読書

 今年は沢山の喪中はがきを頂戴した。10通にも及んで驚いているが、それぞれの御身内のご遠行に対し心からお悔やみを申し上げる。

 明日大正5年12月9日は文豪・夏目漱石が亡くなられた日である。
そう気づいて数日前から御夫人・夏目鏡子氏の著(松岡譲筆録)「漱石の思い出」を読んでいる。

明治41年9月14日「吾輩は猫である」の猫が死んだとき、漱石は有名な「猫の死亡通知」を出している。
    辱知猫義久々病氣の處療養不相叶昨夜いつの間にかうらの物置のヘツツイの上にて逝去致候
    埋葬の義は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但主人「三四郎」執筆中につき御
    會葬には及び不申候 以上

              九月十四日

 そんなユーモアにあふれた漱石先生は自らは胃痛もちで、明治末年にはわざわざ病気療養のためにと出かけた修善寺で、胃潰瘍による大出血で危篤状態に陥っている。
奇跡的に生還した漱石先生は、大正5年11月ころら吐血を繰り返すようになり、鏡子夫人に大いに手を焼かせながら、また大文豪の命の灯を何とか消さないように周囲の人々が尽力している。
鏡子夫人の回想の中に「中なおり」という言葉が出てきて一瞬何のことだろうかと思ったが、危篤状態の中に一時気が戻ることをそういうらしいが、「中治り」が本当らしい。
祈祷師を呼んで気合を入れると良いといったのは見舞客の和辻哲郎氏、長男は写真を撮ると生き延びると言い出し鏡子夫人は写真屋を読んでいる。
漱石先生は面変わりした父の顔を見て泣き出す娘をなだめ、長男には笑顔を返し、お見舞いの方々の名前を聞いてはもう目はとじたままで「ありがとう」の言葉を残して旅立たれた。

 漱石先生の遺骸は解剖に賦されている。胃の出口(噴門部)に50×15mmという潰瘍と小腸に出血痕が認められたという。
大文豪・夏目漱石はロンドン留学中には孤独な生活の中で神経衰弱をおこし文部省は「夏目は精神に異状あり」として帰国させている。
ユーモリストとは思えない繊細なお人柄であったことが胃弱の体質となったと思われる。
娘婿・松岡譲氏の筆録ながら、鏡子夫人の漱石先生の臨終前後の立ち居振る舞いは、強い意志に支えられた強い幕末明治を生きた女性像を見る思いがする。
漱石先生没後107年を明日むかえる。

 

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■ご恵贈御礼-歴史玉名研究会「歴史玉名 第105号」

2023-12-07 17:51:06 | 書籍・読書

         

  歴史玉名研究会会員・平田稔氏から会誌「歴史玉名 第105号」をご恵贈給わった。厚く御礼申し上げる。
氏は今般研究ノートに「一八六〇年米国製銅メダルと高瀬の侍・木村鉄太」を発表された。
この銅メダルとは、熊本市の釈迦堂にある清田家が所蔵されているものだが、民放の番組で金庫を開けたら出てきたといういわくつきの品物である。
これが、遣米使節団の団員に米大統領から献じられた品物だということが判り、その団員の一人である熊本藩士・木村鉄太の研究者である平田氏が、清田家を訪ねられるにあたり、私も同行した次第である。
清田家のご当主にいろいろお尋ねになり今般の論考が成果となった。10ページにも上る論考であり、氏の研究課程を垣間見たものとしては興味深いものがある。

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■ご恵贈御礼-家系研究協議会「家系研究 第76号」

2023-12-07 12:44:09 | 書籍・読書

  

 家系研究協議会の会誌「家系研究 第76号」をお送りいただいた。深く感謝申し上げる。
内容は誠に多岐にわたり、会員の方々が真摯に研究された成果であり、ご興味ある方にはぜひともごらんいただきたいとご推奨申し上げる。
最近HPも新しくなり、運用の幅も大いに広がったように見受けられる。更なるご発展をお祈り申し上げる。

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■拓本紀行・熊本の文学碑

2023-11-23 18:22:11 | 書籍・読書

                  

 図書館に出かけた折、目に飛び込んできたこの本を借りてきた。
熊本日日新聞社が平成20年に発行したものだが、今まで全く気付かなかった。
678頁に及ぶこの本は、編著者の尚絅大学文学部教授の能 陽石(本名・彰)教授が、奥様の協力を得て県下の538基の拓本を5年がかりで採られ、各人の歌や俳句また文学碑などの拓本・原文・状況写真や人物紹介などと至れり尽くせりで紹介されている。
能先生はこの本の出版を待たずにお亡くなりになっているが、心残りでおありだったろう。
一頁ずつページをめくりながら、大変な作業であったろうとただただ関心するのみである。
「あそこにこんな句碑がたっているのか」と、無知を恥じ入るのみである。
図書館の帰り道、江津湖の遊歩道から少し入ったところにある中村汀女の句碑「とどまれば あたりにふゆる蜻蛉かな」を、自転車を止めて眺めていたらまさしく蜻蛉が数匹舞っていた。
帰って確認するとp91にこの句が紹介してあり、その他数点の句碑が紹介されていた。
今度出かけた際に確認してみようと、いくつかの句碑の所在地をメモしたところである。

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■師匠・高田泰史先生・・すごい

2023-11-21 12:48:02 | 書籍・読書

 「平成肥後国誌」の編者・高田Drのすごさに遭遇した。
先に「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」をご紹介し、この資料を残した沢田延音についても■沢田延音という人物等でふれたが、なかなか人物像が詳らかにできないできた。
今日日、その「平成肥後国誌」で色々調べ物をする中、西阿弥陀寺町の西流寺清泰山の項を読み進めているうちに、沢田延音の書き込みが目に飛び込んできた。
「清正公史・肥後相撲司家・西南の役など郷土史研究家の竹輪屋出身の沢田延音が居た。」とある。
このお寺がある場所は、「明治八年まで五福小学校の前身西阿学校があった処である。」とあり、このあたりに沢田延音の実家である竹輪屋さんがあったのだろうか?。
いやはやお詳しい。さすが師匠恐れ入りまして御座います。感謝申し上げます。

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■御恵贈御礼「八代切支丹史」

2023-11-14 15:14:00 | 書籍・読書

                  

 過日の熊本史談会の例会の会場で、今は副会長を務めている若き友人中村君から拝受した。
中村君は熊本の歴史関係の大変な読書家で蔵書数はゆうに万を越しているらしい。
地震の時に下敷きになって死なないようにと、冗談で話をしているが、蔵書はふえるばかりで置く場所がないとこぼしている。
時々整理をしながら、処分するこのような貴重な本を頂戴している。
この本は、八代の十条製紙(株)八代工場の「夕葉文庫」という社内誌で、発行は1962年という古書である。
「夕葉文庫」の名の由来は、いにしえ球磨川は「木綿葉(ゆうば)川」と呼ばれていたことによるものだろう。
本の所在は当然承知していたが、このたび拝受して読んでみると114頁に及び八代一円における「相良時代」「小西時代」「加藤時代」「細川時代」の夫々の詳しい切支丹史である。
すでに所蔵する「日本切支丹宗門史」その他の刊行物や資料などと肩を並べて本棚に収めた。
遅ればせながら、有難くお礼申し上げる。

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■チャレンジするか「忘れられた天才 井上毅」

2023-10-30 09:53:13 | 書籍・読書

                 

 昨日シンポジウムに参加した帰りに本屋に立ち寄り郷土コーナーの棚を見てみると、「忘れられた天才 井上毅」が並んでいる。
この著書は出版されてからそろそろ3年になる。なにしろ大部の本だからちょっと読むのにも腰が引けてしまう。
図書館から借りて2週間の期間に読了できる自信がない。買おうかと一旦棚から取り出したが、重くもありまた棚に戻した。
熊本の人間として、明治維新後の新政府にあって、明治憲法の創案作成や教育勅語の作成などに力を盡した偉人として知っておくべき人物である。
私は、徳富蘇峰や元田永孚・佐々友房らよりも評価されるべき人物だと考えているが、横井小楠同様評価が低いように感じられる。
これはなにが作用しての事なのか、大いに議論あって郷土の偉人として顕彰されるべきだと思っている。

著者の井上俊輔氏は熊本市内で開業されておられる眼科医である。井上毅の御一族ではないかと思う。
「新平成国体論」等の既刊もあるが、この本も熊本人ならずとも明治維新史などに興味ある方にはぜひご一読をお勧めしたい。
「読んでから言え・・」とお叱りを受けそうだから、急ぎ読んでみようと思う。

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■秋の夜長は・・準備の三冊

2023-10-24 16:10:26 | 書籍・読書

秋の夜長の為に本棚から二作品三冊の文庫本を取り出した。

             

(1)勝田龍夫著「重臣たちの昭和史(上)(下)」
  こちらは1984年(昭和59年)7月の第一刷、こんな時期私は昭和史に興味を持っていたようだ。
  著者の妻・美智子は西園寺公望の秘書を務めたクォターの原田熊雄(勲三等・男爵)であり、私はその名前を、細川護貞著の
  「情報天皇に達せず」(細川日記)で知ったからこの本を購入したように記憶している。この本の解説に「この書物は今後な
  がく現代史を理解するための基本資料となるだろう」と書かれているが、昭和の人間としてはどうしても読んでおくべき著書
  だと思って居て、冥途の土産に最後の読書にしたいと思っている。

(2)大宅壮一編「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日」
  初版は昭和48年、私が所持しているのは16版で昭和55年発行のものである。
  以前書いた記憶があるが、この本を持ったまま仕事の関係で夜の巷に出て倶楽部かどこかで飲んだときここに忘れて帰った。
  そこで改めて買い直したのが現在私が所蔵するこの本である。今ではこの本は著者は半藤一利氏だとして発刊されている。
  半藤氏が大宅氏の名を借りて「編」という形で発刊したものを、遺族に版権を返してもらい今では半藤氏の著書となっている。
  終戦の日の一日に焦点を当て約300頁にわたり、逐一詳しく書かれているが、編集の手法は半藤一利氏の著作だといわれると
  なるほどと思わせる。

 

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■秋の夜長は「どうする家康」よりも・・

2023-10-23 10:24:02 | 書籍・読書

 今年の大河ドラマはほとんど見なかった。ジャーニーズ問題で揺れた一年だったが、「どうする家康」もNHKの忖度がおおいにあったのではないか。
見て居られるのはジャニーズ不安ばかりではない。先年の「麒麟が来る」は大いに楽しんだが、歴史ドラマの本来あるべき姿を取り戻してもらいたいものだ。

                                                   

 ということで、ニュースを見たら部屋にこもり「読書でもすべえ」とばかり、昨晩は内田百閒の「贋作吾輩は猫である」を開いた。文庫本282頁を少々斜め読みもしながら読了した。
頭から「贋作」と断わりながらの作品だが、百閒先生は漱石の弟子とは言いながらその間は五年ほどだというが、師匠愛に満ち溢れているように思われる。
1906年に水瓶に落ちて這い上がってきたら1943年だったというのだか、登場人物は相変わらず面白い登場人物が珍妙な世界を繰り広げている。
読み進めていると、これがまるで漱石先生の続編ではないかという錯覚さえ起こしてしまう。
百閒先生の作品はそう多くは読んでいないが、ブックオフでも覗いて文庫本を仕入れてみようかと思っている。
それでも来年の大河ドラマには少々期待している私である。

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■秋の夜長はフォーサイス

2023-10-12 07:44:13 | 書籍・読書

                                                           

 私の本棚に外国人作家の本が二冊ある。フレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」と「オデッサ・ファイル」の文庫本である。
もう何遍読んだことか、随分の年季ものである。
つい先日ユーチュブで「ジャッカルの日」を見たりしたが、昨晩は「オデッサファイル」を読もうと夕食後の3時間ばかりで一気読みをしてしまった。
何度も読んでいるから、詠み始めると斜め読み状態になり、それでも先の状況が見えてくる。
詠み始める前に脇に置いた冷えたコーヒーで納戸かのどを潤しながら、完読すると改めてフォーサイスという作家の凄さを感じる。
最近PCのせいだと思うが、右目が何だかかすんで、あまり酷使しないでいようと思うのだが、少々目も疲れてしまった。
「ジャッカルの日」の方も読もうと思うが、これは少々間をおいての事にしよう。
さて寝ようかと空を見上げたら、月齢26日の細い月が雲間に見え隠れしていた。

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■前・八代未来の森ミュージアム 副館長・福原 透氏著書 御紹介

2023-10-04 10:49:01 | 書籍・読書

              細川三斎 「天下一みぢかき人」の実像 福原 透 著

                

                     四六判・上製 ・386頁(カラー口絵8頁) 4,730円

信長、秀吉と戦国時代の覇者に仕え、豊臣恩顧でありながら関ヶ原合戦では家康を勝利に導き、八十三歳で大往生するまで、大大名として徳川三代に仕えた細川忠興(三斎)。正室ガラシャは明智光秀の娘で、関ヶ原合戦前に死を選んだ気丈な戦国女性としても知られる。戦国一の短気者として、波乱万丈の世を冷酷無慈悲な行動で一家を護り、晩年もおのれのやりたいことを貫いた。

その一方、父細川幽斎の教養を受け継ぎ、蹴鞠や茶を学び、若い頃より千利休に師事、後世「利休七哲」のひとりにも数えられた。茶風は古田織部のような創意や華麗さは求めず、利休流の古い形を守り伝えた。その人生と茶の湯との関わりを、地元・熊本出身の筆者が詳細に分析、新たな茶人・三斎像を提示する一冊。付録に幽斎・三斎の「茶会一覧」など資料も充実。

[目次]
〈第一章 細川の家 ― 三斎(忠興)の一族〉
     父幽斎(藤孝)の家族/三斎(忠興)の家族
〈第二章 三斎(忠興)の生涯〉
     山城勝龍寺時代/丹後宮津時代/前小倉時代(藩主時代)/豊前中津時代(隠居時代)/肥後八代時代(最晩年の日々)/三斎の人間像
〈第三章 三斎と茶〉
     父幽斎と茶/三斎と茶の湯との出会い/三斎と茶会1/三斎と茶会2/三斎をめぐる茶書/「三斎」号の意味するもの/三斎余光
〈付録〉略年譜/関係地図/茶会一覧/参考文献/人名索引ほか

著者略歴
福原 透(ふくはら・とおる) ― 1959 年、熊本県生まれ。立命館大学大学院歴史学専攻博士課程前期修了。八代市教育文化センター建設準備室、八代市立博物館未来の森ミュージアムの学芸員などを経て、平成25 年、同館副館長。令和元年、退職。専門は肥後の近世文化史(陶磁史・茶道史・絵画史)。東洋陶磁学会、九州芸術学会等共著に『茶道学大系』10 茶の古典(淡交社 1991)、『細川幽斎・忠興のすべて』(新人物往来社 2000)、『新熊本市史』通史編近世Ⅱ(熊本市 2003)などがある。


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■徳富健次郎「竹崎順子」を読む(3)

2023-08-28 06:00:00 | 書籍・読書

 まずは蘆花先生の間違いと指摘しているのではないことを申し上げておく。

竹崎律次郎が徳富一敬と共に、肥後の維新の為に生業の方は養子の熊太に任せっきりで、熊太は「ぞびき出せ」と怒鳴りつけたという。
「ぞびき出す」とは方言で「引きずり出す」の意だが、強い叱責の感情が入った言葉である。
この熊太が居てこその肥後の維新が到来したのかもしれない。
熊太は、竹崎家が横島新地に入ったころ出入りしており、お眼鏡にかなった人物らしい。
「新野尾(にいのを)」という珍しい名字で玉名郡中土村(現玉名市岱明町中土)の庄屋の嫡男であった。
ひとり娘節子(19歳)に良い婿をと探していた律次郎・順子夫妻にとって「降って來たような此眞面目に働く若者」を逃がしてはならじと頼み込み24歳のこの熊太を迎え入れた。
その「新野尾家」について蘆花は次のように記している。

  「新野尾家は清正以来玉名郡中土村の庄屋でした。清正が新地築きに朝朝(ママ)熊本から四里もや
   って来ます。「庄屋は未だ起きぬか?」と寝込みを襲ふたものです。「はい、もうとっくに仕事場
   に参りました」と家人に答へさせて、そつと裏口から大急ぎで庄屋は出かけたりしました

 この清正に関わる逸話が臭い。中土村にほど近い高道(旧・岱明町)に荒木家という惣庄屋を勤めた御宅がある。そのご子孫の荒木氏は熊本史談会の会員であられたが、同じ会員で「平成肥後国誌」の編者で大変ご懇意にしていただいた高田泰史(廉一)先生の従兄弟にあたる方で、10年ほど前、一度ご一緒させていただき、高道の広大なお屋敷をお尋ねしたことがある。
この荒木家に伝わる話が全く一緒である。当時のご当主からお聞きした話だから間違いはない。
昔ながらの古い屋敷に住んでおられたが、不便で冬は寒くてとは奥様のお話しであった。
敷地内の南北の角地に何故か、三宅藤兵衛の二男家の4代・権兵衛一族のお墓が有り10基ほどの墓石が残されている。
    三宅権兵衛のお墓 ■三宅家の事

  ■ 三宅新十郎(南東50-2) 三宅藤兵衛二男家(700石)
     出雲
     弥平次(明智左馬之助)
     藤兵衛
    1、新兵衛
    2、新兵衛
    3、九郎兵衛(養子 三宅加右衛門子)  
    4、権兵衛・重房(初・平八郎)700石
                 正徳元年 ~ 享保元年 中小姓頭
                 享保元年 ~ 享保九年 留守居番頭
                 享保九年 ~ 享保十四年 番頭

ご当主も高田Drもなぜ三宅家のお墓が、荒木家の屋敷内に在るのかその由来については詳しくは御存知なく、謎はそのままである。
ご当主は既に亡く、ご夫人は娘さんの許に引っ越されたと聞いているから、このお墓を拝見するのはもう出来ないかもしれない。

ひょっとしたら、蘆花先生の思い過ごしではないのかと思ったりしているが、真偽のほどは判らない。

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■徳富健次郎「竹崎順子」を読む(2)

2023-08-27 06:02:51 | 書籍・読書

 著者・徳富健次郎(蘆花)は順子の夫・竹崎律次郎を紹介するに当たり、大間違いをしでかしている。
母方の伯父の出自を間違うとは・・・
竹崎律次郎は伊倉(玉名市)坂上の素封家・木下家の当主・初太郎の弟である。望まれて竹崎家の養子となった。
竹崎家も伊倉・阪下の素封家で、遠祖は蒙古襲来絵詞で有名な竹崎季長の兄の子孫だと蘆花は述べている。
さてその蘆花が仕出かした間違いとは・・・本文を引いてみよう。

  「伊倉の木下家は槌音久しく絶えて唯豊かな地主の生活をして居ましたが、それでも伊倉では木下家
   を今以て鍛冶屋と云ひ、木下家の所在を鍛冶屋町と云ふて居ります。(中略)
   長男は眞太郎、次男は律次郎です。(中略)兄の眞太郎は廿二歳の年藩學時習館の試驗に抜群の成
   績で士分に取り立てられ、また藩侯の伴讀、世子の侍讀、府學訓導など勤め(中略)即ち木下犀潭
   先生(韡村)で・・・
  「阪下の竹崎家から律次郎に養子の口がかかつて來た時、木下家はもう兄眞太郎の時代になつて居ま
   した。兄は名家竹崎の名跡を弟に嗣がす事を喜びました。

木下韡村は菊池木下家と呼ばれるが、律次郎の実家は伊倉木下家であり律次郎の兄は初太郎である。
鍛冶屋と呼ばれたというのは、木下家が肥後同田貫の刀鍛冶にかかわっていたことに由来する。

インターネットサイトに「木下家系図」が紹介されている。これをご覧頂くと一目瞭然である。
初太郎の娘が韡村の弟の徳太郎(助之)を養子に迎え、両家の縁がつながった。後に玉名郡長や衆議院議員をつとめた。娘・常が韡村の二男・木下広次(京都帝大初代総長)に嫁ぎ、その二男・道雄に孫娘・静が嫁いでいる。その異腹の姉弟(?)が作家・木下順二である。
このように菊池・伊倉両木下家は婚姻関係で強い絆を結んでいる。

 

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■徳富健次郎「竹崎順子」を読む(1)

2023-08-26 08:20:10 | 書籍・読書

                

 現在、896頁の大部、徳富健次郎(蘆花)の小説「竹崎順子」を読んでいる。
あの有名な「肥後の維新は、明治三年に来ました。」というフレーズが登場する。
主人公・竹崎順子(矢嶋家3女)は、「肥後の維新」到来にあたり尽力した竹崎律次郎(茶堂)に嫁いだ。
次妹・久子(4女)は徳富一敬に嫁ぎ、徳富蘇峰・蘆花兄弟の母である。
5女・つせ子は横井小楠に嫁いだ。
その下の妹が矢嶋楫子(かつこ・6女)で、三浦綾子によって「我よわければ」という小説で紹介され、先年映画化された。二人の子を残し、婚家を出て東京に出て名を成した。
順子は夫・茶堂亡くなって10年後には62歳で洗礼を受け、64歳で熊本女学校の舎監となり8年後には校長となり7年間務めた。

          

 「肥後の維新は、明治三年に来ました。」という有名なフレーズは、この大部の小説の冒頭に在る言葉ではない。
この小説は二十八章からなって居り、時系列で話は進んでいく。その第八章が「横島」であり、これが更に三部で構成されておりその終りに近い処でこのフレーズが登場する。
つせ子の夫・横井小楠が新政府に参政として迎えられると、一族の喜びは沸騰したという。
しかしながら、暗殺によって非業の死を迎えると、小楠の一番弟子と言われる徳富兄弟の父・一敬(太多助)と律次郎は新しい時代の肥後国の将来について議論を重ねた。 

 「丁度明治二年の秋の収穫で、横嶋は猫の手でも借りたいやうな忙しい中を、徳富太多助は主人の
  律次郎
と奥の間に籠って、毎日算盤を彈いたり、讀み合はせをしたり、和談をしたりする日がつ
  づきました。
婿の熊太などは義父と義叔父の悠悠ぶりが大不平で「ぞびき出せ」と怒鳴つたもの
  です。奥の両人は藩
政改革の曉、解放さるべき租税の事など精細に調べて居るのでした。

   肥後の維新は、明治三年に来ました。(後略)」

そして、第九章「肥後の維新」へと続いていく。

蘆花は順子の夫・律次郎を紹介する中で、大きな間違いを犯している。校正の手が入らなかったのだろうか。
文学の研究者からの指摘も見えない様に思うが、次回に取り上げたい。

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■羨ましい交友の記録

2023-08-17 06:45:18 | 書籍・読書

 作家・菊池寛が大正十二年(1923)に創刊した「文藝春秋」社は、今年100周年を迎えるという。
終戦後池島信平という名物編集長と呼ばれた人物によってさらなる成長を遂げたとされる。
そんな時代であろう、後に専務まで務めることになる「車谷弘」という編集者がいた。
その車谷の著に「わが俳句交友記」があるが、これも死ぬまで離せない本の一冊である。
戦前戦後を通じて活躍された作家や俳人、画家・建築家・財界人などとの交流が時には1対1、時には大勢の集まりの中で誠にうらやましい交流が為されている。
  久保田万太郎・水原秋櫻子・中村汀女・横道利一・川端康成・高田保・内田百閒・井伏鱒二・永井龍男・飯田龍太・
  高浜虚子・小絲源太郎・渋沢秀雄・中里恒子・清水甚吉・尾崎士郎・尾崎一雄・谷口吉郎・徳川夢声・渡辺水巴
錚々たるお名前が並ぶ。このほかにも文中に多くの方々との交流があったことが見て取れる。

 その中の一つの話として、久米正雄に触れる一文がある。久米が新潮社(文芸春秋ではない)を尋ねると佐々木茂索と言う人がいて「なんだ君はこんなところにいたのか」と言うと、上司が驚いて佐々木は大いに信用が高まったのだそうだ。
佐々木は上司から翻訳本の誤訳を見つける仕事を仰せつかり、その話を聞いた久米が驚いて尋ねると、「通読して日本語としておかしい処を見つければいいのさ」と答え、なるほどと納得したという。
私も納得した。古文書を読む時もまさにその通りで、「文章として成立するか」成立していなければ、どこかに読み間違いがある。

 文壇と言う言葉があるが、文士と言う言葉はまだ生きているのだろうか。かっては「文士劇」なども盛会だったと聞くがこれとて最近では噂を聞かない。
この著はまさに文士の世界の話であり、本当に豊かな交流が有り、お互いが刺激し合い尊重し合い、自らを高めていたことが判る。
久米正雄の葬儀に出席した佐々木茂索の憔悴ぶりは甚だしく、奥様にささえられ嗚咽していたと車谷は記している。
そんな話が満載の、この著の中身を時折ご紹介してみたいと思っている。

  

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