津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■顎が諤々しています・・

2021-01-20 15:49:53 | 展覧会

 去年の11月中旬から歯医者のお世話になっているが、過日ようやく右下奥歯に冠がかぶさった。
これで終わりかと思ったら、右上奥歯が虫歯になっているという。レントゲン写真を見せられ否応なしである。
年を取って大口を開けさせられるのは難儀なことで、顎ががくがくしている。
こんな状態はもう願い下げにしたいから、この際一気に終わらせたいと思っている。
行きつけのデンタルクリニックは、評判が良いらしく、治療ブースが8っ程あり、大いににぎわっている。
予約が大変らしくて実際次の治療の予約などは、予約表の間隙を縫う形で15分きざみで「〇日の〇時は如何ですか?」とくる。
私のような年中日曜日状態の老人は一向構わないから、朝一番だとか、診療最終時間とか都合のよい患者だが、お勤めの方などはそうは行かず予約が大変であろう。
次回は28日、13回目の治療となるがそろそろ終わりに近づいて来ているようだ。
熊本は歯医者さんが多い街だといわれる。腕前も色々なのだろうが、良いクリニックに出会えたと満足している。

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■細川小倉藩(462)寛永六年・日帳(十二月十ニ日~十三日)

2021-01-18 14:52:59 | 展覧会

                      日帳(寛永六年十二月)十ニ日~十三日

         |
         |        (ママ)                        
         |    十二日  
         |
忠利放鷹     |一、今朝夜明ニ、御鷹野ニ被成御座候事、
本丸前奉行所ノ掃 |一、御掃除坊主玄知ニ申渡候は、御本丸前かとの御奉行所掃除已下無油断可仕候、可仕候被成御覧、
除整備等ヲ命ズ  |                                     〃〃〃
         |  掃除あしく候ハヽ、其方共越度ニ成可申候、御鷹野なとに被成御座候而、日暮なとに御掃除之刻
広間番へ監督ノ申 |  ハ、火をとほし、御広間能見へ候様ニ可仕由、申渡候、御広間御番衆ニ茂、今橋三右衛門尉ニ
送リ
         |                                  〃
         |  茂申渡候、惣時已下無由断被申付候へ之由、次々の番衆ニ被申渡候へ之由、申渡候也、
兵法ノ時ノ唐人笠 |一、御兵法之時、入候唐人かさなりのかさ、可仕之由候而、小頭三郎四郎ニ申渡、則御本の唐人か
形ノ笠ノ調整   |  さも渡候也、
         |
床几持笠持ノ補充 |一、御しゃうぎ持壱人・御かさ持壱人不足仕候間、被仰付被下候へと、御さうり取一人参申候、心得
         |  候由申候事、
死鳥       |一、規矩郡之内高月村ニ、真鴨ノ男鳥壱つ、死候而有之を、百性見付候由ニて、平井五郎兵衛持参被
台所人へ渡ス   |                 な  (足立與兵衛)
         |  仕候、則 御前へ上申候事、でハのふてあだちニ渡ス、
         |                 〃
         |  (規矩郡)
高罠差      |一、篠崎村ノ高わなさし 清右衛門・新四郎
大手門番死ス   |一、大手之御門番三輪藤右衛門尉、夜前病死仕候由、北村平右衛門尉被申来候事、
誅伐       |一、下毛郡井原村之新介、今日被成御誅伐候而、首をハ筑前へ被遣候、彼新介女房ハ筑前之ものにて
首幷ニ女房ハ筑前 |  候ニ付、彼方へ被遣候、御使者ニは横田権佐被参候、男ノ首ハ御長柄衆四人申付、持せ遣候、女
へ遣ス 胴ハ様切 |                         (友好)
         |  ハ御昇衆三人申付、つれさせ遣候事、男ノ胴ハ、松井宇右衛門ニ被仰付、御こし物にて御ためさ
         |                 〃
         |  せ被成候事、
         |                              (重門)
筑紫重門ヘノ荷物 |一、長岡式ア少輔殿ゟ、安東九兵衛を被召寄候而、被仰聞候は、筑紫左近殿御母へ筑前ゟ参候荷物之、
請渡シ一件    |  只今得 御意候ヘハ、不苦儀にて候間、早々請取せ可申旨、被仰出候、左近殿御母明春へ参候荷物之
重門母明春ヘノ遺 |  儀にて候と申上候ヘハ、則明春之御内就、又左近殿御内衆一人両人遣候而請取せ可申候宗、被


品        |  出候ニ付、則右之 御諚之通、明春へ茂申進之候間、此方ゟ茂一人宛人留之所へ被遣候而、請取候様
         |  ニ申遣可然之由、被仰下候ニ付、則両人ゟ人を遣候、御家老衆御三人ゟも人を被遣候由、被仰越也、
         |     (米田是季)
忠利米田是季邸ニ |一、今日、監物殿へ御申御座候也、
臨ム
         |     (清)
上台所奉行数寄ノ |一、浦上勢兵衛所ゟ被申越は、明日之御数寄之用にて候間、三田辛螺五合程入申候間、可申付之由、
用ニ三田辛螺ヲ求 |  被申越候ニ付而、則平井五郎兵衛所へ申遣候也、
ム        |
         |                       (有吉英貴)
親ヲ打擲セシ百姓 |一、規矩郡志井村之百生、親をたゝき申候者の書物、頼母殿ゟ持せ被下、請取置申候也、
ノ書物      |
雑賀源左病死届  |一、雑加源左衛門尉、今日病死被仕候通、内ノ者申来候事、

         |
         |        (ママ)                        
         |    十三日  
         |                               (コゝニ錯簡一丁アレドモ、十七日ノ旧ニ苻復ス)
間部松浦家来ヘノ |一、岡部庄之介・松浦左源太、両人下々ニ被下候御切米・御ふちかたの 御印ちと違 申所有之ニ
切米扶持方御印ノ |  付、我等右ノ御書付、慥ニ請取申候、               皆川治ア丞〇(黒印)
書付請取     |    〃〃
鉄炮小頭中風ニ付 |一、山川惣右衛門尉登城にて被申候ハ、主預り之小頭和田三太夫中風煩、御用ニ立不申候間、与之
交替挨拶     |  内大島久太夫と申もの替ノ小頭ニ申付候、懸御目申候由ニ而召連、登城被仕候事、
奥ノ柿ノ包装   |一、おくゟ、柿四拾三被成御出、包せ可申之由にて候故、栗田與兵衛ニ包せ候也、
         |                                    (浄勝院、吉田兼治室、細川藤孝女)
京ヨリノ書状   |一、熊谷平左忠右衛門今日下着被仕候、京都ゟ、渡辺山城殿ゟの御返書ノ御文箱壱つ・しようせうゐん
         |    〃〃
         |  殿ゟの御ふミ壱つ・佐藤少三郎ゟの言上之状壱通ことつり候て、被持下候を、隠岐を以、 御前
         |  ニ上ル也、
江戸供ヨリ下着ノ |一、江戸御供之衆今日被罷下候衆、不破角之丞・瀬崎猪右衛門・窪田與助・大塚四郎兵衛・杉新右衛門
家中名付     |  ・津田左内・村上吉丞・湯浅角兵衛・山崎吉左衛門・熊谷忠右衛門・矢野少右衛門・田屋治ア右衛門
         |  ・田中八兵衛・安井太右衛門

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■半藤一利氏逝く

2021-01-14 07:34:00 | 展覧会

 半藤一利氏逝去の報を聞く。
私は氏の名著「日本のいちばん長い日」を繰り返し随分読んだ。
2015-08-15 のブログでも少々触れているが、この本が大矢壮一の名を借りて出版されていたころからである。
つまりこの時期私は半藤氏の事は良く知らなかった。
氏が夏目漱石の女婿だと知り、漱石に関するエッセーや俳句に関する本を随分購入して読んだ。
末利子夫人の「漱石の長襦袢」も読んだ。
ご先祖様は長岡藩士だそうだが、江戸っ子ではないかと思わせる洒脱な文章に好感を持った。
歴史関係は図書館から借りて読んだものが多いが、幕末史だけは二冊も購入している。
購入したばかりでまだ目を通していないエッセー「橋をつくる人」を読んでみようと本棚から取り出してみた。
90歳であったとお聞きするが、ご冥福をお祈り申し上げる。

かって熊本県立大学の学長を勤められた半藤英明という人がおられたが、親族ではないかと思うが良くわからない。
この方も漱石研究者と聞くが・・

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■細川小倉藩(427)寛永六年・日帳(七月十三日~十六日)

2020-12-11 14:11:07 | 展覧会

                      日帳(寛永六年七月)十三日~十六日

         |       
         |     十三日  加来二郎兵衛
         |
葉茶ヲ泰勝院へ進 |一、玄徳ニ葉茶弐升ほと持せ、玄徳を泰勝院へ遣候、但、玄徳を遣候へと、隠岐さしつにて遣被申
ム        |  候也
         |                      (痛)
牧興相法事ニ欠席 |一、左馬允殿ゟ、使者を以被仰聞候ハ、此中頭通気ニ御座候而致迷惑候、左候ヘハ、明日泰勝院へ罷
届        |  出候事成間敷と存候間、其心得仕候へと被仰候間、随分可有御養生之由、御返事申候也、
         |            井上                                                                                                          (米田是季)
松井興長忌中ニ付 |一、長岡式ア少輔殿ゟ、山中弥次右衛門を以被仰聞候は、今日泰勝院殿へ見廻可申と存候而、監物殿
泰勝院之見分ヲ止 |           〃〃
ム        |  へ談合仕候ヘハ、御忌中ニ而明日茂御寺へ御出無之内、今日御見廻候儀は無用之由、被仰候ニ
         |  付、参不申候間、弥二右衛門を遣候而、様子を見せ申候ヘハ、はや大形仕廻申候間、気遣申まし
         |  きのよし、桑原主殿被申越候間、左様ニ御心得あるへく候由、被仰聞候、得其意申通、御返事候
         |  也、拙者なとも追付御寺見廻申候通申候也、
江戸ヨリ忠利書状 |一、江戸ヨリ御鉄炮衆弐人、寺本八左衛門与有永少九郎・同与川上加右衛門罷下候、持下候、御書之
ノ覚       |  覚
         |             式ア少輔内、慥ニ請取申候  
         |  一、御こほ殿へ御書壱通、         松原二郎兵衛(花押)
         |     (ママ)
         |  一、三斎へ御文箱壱つ、
         |           (昭光)
         |  一、御書壱つ 槇嶋云庵・一色木工へ被成遣、
         |            (有吉英貴)
         |  一、同壱つ 
監物殿・頼母殿へ被■成遣、御書受取人菅沼三左衛門(花押)
         |        (浅山)(田中氏次)
         |  一、同壱つ 修理・兵庫ニ被成下、

         |
         |          (ママ)       
         |     十四日  
         |
奉行役人等泰勝院 |一、御奉行衆幷松御丸中、泰勝院へ被相詰、それゟハ登城不仕候事、
法事ニ詰ム    |
         |                    (可政)
加々山可政盆ノ祝 |一、盆之御祝 三斎様へ被進之ニ付、加々山主馬持参被仕候処、御ゆわひ被成候、則 御書被進之
儀ニ三斎ニ使ス  |               又我等ゟも心得候て可申上
         |  間、便儀次第江戸へ上可申候〇旨被成 御意候通、 主馬被申候事、

         |       
         |     十五日  奥村少兵衛
         |
         |
         |一、三渕藤十郎殿被仰候ハ、中川佐左衛門尉内儀煩、又差発候、土々呂木以真又被参候様ニと存候
         |  処ニ、一昨日ゟ在郷ヘ被参居候、明日ゟ御番にて候、在郷ゟ彼地へ直ニ被参候様ニ可申遣候間、
         |                             
         |  其心得仕候へと被仰聞候間、得其意申候、御番之儀ハ余人を申付候間、直ニ被参候様ニ、可被仰
         |  遣候通申候事、
筑紫重門姉死ス  |一、弓削與次右衛門尉登城にて被申候ハ、筑紫左近姉筑前ニ居申候、今月五日ニ病死仕候、就其、爰
         |                                   (赤司、御井郡)
         |  元ニ被居候母ノ方迄、帆足少左衛門尉と申者ゟ書状差越候、但、筑前ノ内赤地と申所へ遣候を、
         |  赤地ゟ弓削太郎右衛門知行所迄昨夜持来候由にて、夜通ニ持せ、差越候間、懸御目候由被申候、
         |  是ハ御年寄衆へ可被懸御目由、申渡候事、但、今月五日ニ相果候由とハ使ノ口上ノ由也、
         |                               〃

         |       
         |     十六日  安東九兵衛
         |
         |                          (咳)
沢村吉重法事ニ欠 |一、大学殿ゟ、七左衛門を以被仰越候ハ、昨日之御法事ニかい気ををさへ、罷出候ヘハ、いよ/\
席届       |  風を引、さん/\にて罷居申候、かやうニ候ハヽ、明日ノ御法事ニも出申間敷由也、次ニ、上林
上り人      |  甚介与ニ目をかけ申もの御座候、御門番なとも入申様ニ承候、左候ハヽ、彼者を上り人ニ申付候
         |  様ニと候て、具ニ被仰越候、就其、上林甚介ゟ大学殿への書状も相添、御越候返事ニ、様子具ニ
         |  承届候、兵庫儀ハめしたべニ被罷下候、登城被仕次第、可申談候由申候而、甚介状ハ七左衛門ニ
         |  渡返候事、
囮雀ノ餌稲ノ札ヲ |一、しゞめきおとりノ餌いねノ札拾枚書調、河井権丞ニ相渡候事、
鷹匠ニ渡ス    |

 

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■細川小倉藩(426)寛永六年・日帳(七月十一日~十ニ日)

2020-12-10 08:39:26 | 展覧会

                      日帳(寛永六年七月)十一日~十二日

         |       
         |     十一日  奥村少兵衛
         |
         |                  加来久二郎
船頭等徒歩ニテ帰 |一、御船頭河村弥右衛門・河野惣右衛門〇江戸ゟかちを罷戻候ニ、被成 御書、今朝着仕由ニ而、持
着セルニ忠利書状 |  来候、江戸御奉行衆ゟ之書状ともゝ持而来候事、
等ヲ持参ス    |
         |                              (長沢顕長室、沼田清延女)
京都諸方ヘノ音信 |一、江戸御飛脚ニ参候御鉄炮衆乗せ上候御小早御船頭徳嶋八兵衛ニ、伊与殿ゟそうしゆゐん殿へ参
         |  候しふかミ包壱つ、我々ゟ京都へ之状、其外京衆へ之状とも、右御船頭ニ渡遣候也、
         |一、伊与殿ゟそうしゆいん殿へ被遣候しふかミ包、慥ニうけ取申候、大坂ニて、寺嶋主水方へ相渡可
         |       御船頭
船頭請取     |  申所如件、  徳嶋八兵衛〇(黒印、抹消)
         |(後筆)
         |「右之伊与殿ことつて物、寺嶋へ届、請取とり下候ニ付、けし」
有明黒ヲ江戸へ牽 |一、上田忠左衛門尉登城ニ而日申候は、有明黒江戸江被成御下候儀、来ル廿日日柄能御座候間、差上
ク用意      |  せ可申候、左様ニ御心得候而、付参候御鉄炮衆なとも内々可被仰付之由、被申候也、
鍛冶方細工物手間 |一、大学殿ゟ、七左衛門尉を以承候ハ、鍛冶方の細工物手間料、殊外高直ニ取申由、立 御耳申候、
料殊外高価    |  御まけ仕、上ヶ可申と申もの共ニ判をさせ、大帳壱冊差上申候間、得其意、重而可申付由也、但
値引ヲ承引スル者 |  又、今迄御仕事仕候かち共も只今御まけ可仕と申候ハヽ、仕せ可申由候、右之通 御意ニ而候
ノ大帳ヲ上グ   |  間、可江其意由也、則右之帳直段、源次・源介両人ニ相渡候也、
畳ノ中糸用荒苧ノ |一、歩之御小性香山清兵衛・続亀介与御鉄炮衆川口加右衛門、此両人■■広嶋へ御畳ノ糸ニ成申あら
購入代銀ノ持参ノ |  苧買ニ遣申奉行、今日出船仕候処、右清兵衛登城にて申候ハ、御鉄炮衆加右衛門申候ハ、今度荒
仕方の相談    |  苧買ニ参候御銀、爰元ニ而わけ候て、銘々ニ持加参候由申候、いかゝ加有御座候哉と申候、

         |       
         |     十二日  安東九兵衛
         |
         |   (吉重)
早舟川舟ノ修繕ノ |一、沢村大学殿ゟ被仰越は、式ア殿被成御借候御早舟、又大坂ニ在之川舟之繕作事之事、昨日被仰越
有様   三齋ノ |  候、川舟之儀は繕御作事仕候様可被仰付候、海之儀茂同前ニ存候、併 三斎様御代ニは、船頭如
仕方ト変ラズ   |  在二而損シたる御舟は船頭存候、大風大浪ニ相、船頭不及力候て損たる儀は 殿様ゟ繕被仰様
         |  ニ御座候間、可然様ニ、御作事奉行衆と御相談被成候而可被仰付之由、被仰越候、此方返事ニ、
松井興長ヘハ舟ノ |  一々承届候、例之儀は今以少茂不相替候、今度之御舟は、式ア少殿ゟ船頭・加子御乗せ候而候ニ
ミヲ貸ス     |                                         〃〃
         |  月、御舟斗被成御借候而損シ申たるニ付、御尋申入候、何茂御船頭・御作事奉行相談ノ上にて候
         |  間、則御作事可申付候、川舟ノ繕御作事もやかて可申上由、返事候也、
         |  (築城郡)
寒田牧ノ馬煩   |一、寒田牧之御馬煩候由、申来之由にて、上田忠左衛門登城ニ而被申候ニ付、沢少兵衛・荒木五郎助所
郡奉行へ治療方ヲ |                (伯  楽)
命ズ 上手ノ伯楽 |  へ書状遣候ハヽ、先にて上手のはくらく御聞合候而、養生仕候様ニ被仰付可然之由、申遣候也、
御印帳      |一、大学殿へ御印帳持遣候処、留守にて候付、帳を置、罷帰候事、
江戸ヨリ参物ノ覚 |一、江戸ゟ、御加子三人被成御戻候ニ、参物覚
         |   三斎様へ被進之 御書壱箱ニ、長サ一尺ほと・廻五寸廻ほとの雨かミ包ゆいそへ在之、
         |   三斎様御屋敷衆ゟ 中津御奉行衆ヘノ状壱箱、但、あなたノ御飛脚大坂迄持参候へ共、
         |                        舟無之ニ付、言伝、此方ノものニ持せ、先ゲ候由也、
         |  (長沢顕長室、沼田清延女)  (黒瀬)
         |   いよ殿へ 御書壱つ、九郎右衛門ニ渡ス
         |  一、我々両人ニも 御書壱つ被下、
         | 明ル朝参、
請取       |一、御書壱通、沢村大学へ被下を慥請取申候、 大学内若林長兵衛(花押)

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■吉川英治著・日本名婦傳より「細川ガラシャ夫人」(四)

2020-12-07 10:03:47 | 展覧会

     細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より)   吉川英治

            (四)

「誰も来てはならない」
 と、忠興は、侍女や家臣にかたく云つて、灯もない室に、妻と、ながいあひだ對坐していた。
諄々と、彼は妻にい被聞かせた。
 父の藤孝は、もう剃髪して、信長の死を弔ひ、光秀討伐の陣頭に立つ悲壮な覺悟を極めて
おいでになる・・・・
 自分としては、猶更、さうなくてはならない。たとへいかなる理があらうとも、この國の地
上に於ては、臣下が君を弑逆した罪を、寛大にはすまして措かないのである。
「・・・・伽羅奢。そなたは、卑怯であらうぞ。この苦しい忠興の意も汲まず、後に遺る子も思は
ず、この場合、何よりやさしい死を選ぶ所存か。たとへ忠興の側を別れ去らうとも、妻ならば
妻の道を、母ならば母の道を、もつと強く生きぬいて、しかも後に、大逆人の娘といふ汚名を
も雪いでみようとする氣もないのか」
 ふと良人のことばが、一滴の甘露のやうに、心の底へぽとと落ちた。
 伽羅奢は、常の聰明な自分に回つた。ふだんは、良人は氣短かで氣のあらい人と考えてゐた
のが、今はあべこべにある事に氣づいた。
 うつゝの底から浮かび上つたやうに・・・・
「参りまする。どんな山の奥にでも」
 いつもの素直な聲で答へた。
 鏡に向ひ直した。そして静に身づくろひすると、やがて、日頃の老女・侍女・乳母までを呼
んで、別れを告げた。・・・・わが子の與一郎へも、最後の乳ぶさを與へ、たくさんな召使の涙の
中に、その日の深夜、城の搦手門から山駕にかくれて、三つの松明に護られながら山へ落ちて
行つた。

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■細川小倉藩(424)寛永六年・日帳(七月六日~七日)

2020-12-07 06:48:21 | 展覧会

                      日帳(寛永六年七月)六日~七日

          〇 四日・五日分記載ナシ、落丁か

         |       
         |     六日  奥村少兵衛
         |                                       (天)
求菩提山上宮神殿 |一、求菩提山ゟ上宮御神殿上葺成就仕二付、為御祈祷、目録・御洗米被差上候、則御主主二納置候
上葺成就ノ祈祷目 |  也、
録洗米ヲ上グ   |
村上七左海上絵図 |一、村上七左衛門尉ニ海上之絵図被仰付、三月之末ニ爰元出船仕、絵図を相調候而、昨日罷下候ニ由ニ
ヲ調製ス     |  而、登城被仕候也、
忠利書状ノ覚   |一、歩の御小性松岡角太夫・唯今被罷下候ニ、持参被仕候御書之覚
         |           (長元)   御書請取人備前内
         |  一、御書壱通 小笠原備前守殿      飯田次兵衛(花押)
         |                同請取人金左衛門内
         |  一、同 壱通 伊藤金左衛門尉      荒瀬左平次(花押)
         |                同請取人藤左衛門内
         |  一、同 壱通 横  山 藤左衛門      宮木 又蔵(花押)
         |                同請取人作左衛門内
         |  一、同 壱通 佐分利作左衛門      藤村安兵衛(花押)
         |                同請取人亀右衛門内
         |  一、同 壱通 井  門  亀右衛門     久佐吉左衛門(花押)
         |  一、同 壱通 修理・兵庫
         |  一、同 壱通 御金山参人衆へ被成遣候、

         |       
         |     七日  安東九兵衛
         |
幕府豊後横目等へ |一、苻内御横目衆へ 殿様ゟ被進之 御状ニ、式ア少輔殿ゟ御そへ状被成候て、御飛脚両人ニもた
之忠利書状ニ松井 |  せ、苻内へ遣候也、
興長状ヲ添ユ   |
三斎七夕ノ帷子ヲ |一、谷忠兵衛、夜前更申候而、中津ゟ罷帰候由にて、登城被仕候、七夕之御帷子上申候処ニ、意外
念入ニ吟味シ上々 |  三斎様被為御念入、こなたゟ被進候御帷子を御自身被成御覧候而、上々と札を被遊候而、御帷子
ト札ニ記ス    |  ニ御付させ被成、御納戸衆へ御渡させ被成候由にて候、左候而、忠兵衛ニ炎天苦労仕候由ニ而、
         |  殊外御念入申たる御振舞被下候由、忠兵衛被申候也、
忠利小笠原長元へ |一、小笠原備前殿御登城被成候、小的之儀具ニ書付、江戸へ差上候様ニと被仰下候、又矢筒ノ緒ハくれ
小的ノ書ノ上呈ヲ |  なゐなとにて四打ニ申付可然由、被仰渡候事、
命ズ       |
         |                     (梨子地) (蒔絵)
矢筒ノ仕様    |一、矢筒ハ常ノゟハちと長クさせ、一やうニ銀なしぢか、まきへかニさせ可然由、又矢筒ノ緒ハくれ
         |  なゐなとにて四打ニ申付可然由、被仰渡候事、
         | (米田是季)
         |一、監物殿ゟ備前殿御同道にて被成御登城候事、
         |                                    (藍  革)
弓ハ白木     |一、備前殿被仰候ハ、弓ハ白木、但、とうハつかい不申由、被仰候也、にぎりハあいかわの由也、
         |                              〃
         | (藍島、規矩郡) 黒キ          (規矩郡)         (沼田延之)
藍嶋ノ野牛ノ死体 |一、あいの嶋ノ〇野牛壱疋死候て、長浜之方へ流参候を、長岡勘解由殿もの門司ゟ参候とて、見付参
         |         
漂着ス  犬打へ |  候由にて、勘解殿ゟ持せ、御上候を、犬打ノ久左衛門尉所へ遣候、皮をはぎ、身ハ其方取候へと
渡シ処理方ヲ命ズ |  申付候、皮も毛ぬけ候ハヽ、なめし候へと申渡候事、但、つのも上ヶ候へと申付候事、
         |一、奥村少兵衛事、娘以外相煩候ニ付、登城不仕候事、

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■松の丸殿御逝去

2020-12-06 10:33:09 | 展覧会

 「小倉細川藩」でご紹介しているように、寛永六年(1629)六月十九日、忠興の側室「松の丸」が死去した。筆頭家老・松井興長の室「古保」の生母である。
松の丸は名を「お藤」といった。父親は郡宗保である。ガラシャは死に臨んでこの「お藤」を継室にしないようにと遺言したと伝えられる。
現在吉川英治の「細川ガラシャ夫人」をご紹介しているが、このことについては触れられていない。

ガラシャが山深い味戸野(三戸野)で子を想い、良人を案じているなかで、忠興はお藤に「古保」を生ませている。
お藤を継室にしないようにというガラシャの想いは、嫉妬ともとれるし、忠興への当てつけのようにも思える。
ガラシャの芯の強さをうかがわせる逸話である。

 以前ある方から、三斎忠興の書状のコピーをお送りいただいた。
三斎が「お藤」に宛てた書状であった。お藤への、祝儀に小袖を贈られたことに対する礼と健康を歓ぶ、三斎の返書である。
忠興が三齋と名乗ったのは元和六年(1620)だから、約9年間の間のものであることが判る。
三齋は「中津城」に在り、お藤は小倉城の中の娘・古保の近くで生活していたものと思われる。
死の前、病に伏した松の丸をおもい、松井興長は義母が好きな季節外れの「楊梅=やまもも」や「野苺」を調達するのに奔走している。
「小倉細川藩」の奉行所「日帳」では、松の丸の死に対する三斎の情報はまったく窺い知れない。
松井興長は松の丸の墓石にするため丸い大きな石を探すのに又奔走することになる。

細川家の肥後入国後、松の丸のお墓は松井家の墓地、熊本市子飼町・松雲院に移されている。
そのご、八代の松井家墓地・春光寺に移されたものと思われるが、確認に至っていない。

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■細川小倉藩(423)寛永六年・日帳(七月朔日~三日)

2020-12-06 06:54:39 | 展覧会

                      日帳(寛永六年七月)朔日~三日

         |       
         |     朔日  奥村少兵衛
         |
三斎ヘノ状    |一、江戸ゟ 三斎様へ被進之御文箱弐つ、大坂ゟ小早之御船頭中靏二左衛門尉持下候、大坂衆ゟ之状
         |  とも来候也、
大坂ヨリ十三端帆 |一、岐木與右衛門尉、大坂ゟ拾三端帆之帆柱つミ下申由ニ而、登城仕候事、
ノ帆柱下ル    |
         |                 (沢村吉重)
ねぶたの橋ノ修理 |一、ねぶたの橋繕ノ儀、御印帳ニ付、大学殿へ遣候ヘハ、留守之由にて置、戻候事、
江戸石積之船頭帰 |一、今度江戸へ、石積ニ被遣候御舟之御船頭吉田市左衛門・岐木九兵衛、只今江戸ゟ罷下候由にて、
着ス       |  登城被仕候事、
         |                                      (中山左次右衛門)
蔵子中津口ノ明屋 |一、田辺溝口手前之蔵子源蔵、中津口ニ、六間四方在之明屋敷を望候由にて、切帋を、さ二右衛門被
敷ヲ望ム     |  持上候、遣可被申由、申渡候事、
         |
松丸葬儀ニ彦山ノ |一、松丸様御葬礼ニ付而、彦山ノ山伏衆罷出候内、在隣坊霍乱仕出シ、様子ハ旨ニせきつめ、はき
山伏霍乱ス    |  もせす、くたりもせで難儀ニ及候処、まんきんたん拝領仕、給させ■候ヘハ、殊外得験申候而、
         |                                〃
         |  彦山へ罷帰候由、惣兵衛申候、御礼ニ登城可仕候へとも、病中之儀ニ而御座候間、惣兵衛相心得
         |  候てくれ候へ之由申ニ付、如此候、右ノ御薬取候而、被渡候陣は佐分利作左衛門・藤懸蔵人・田
         |  辺平助御番之時の儀にて候也、
三斎へ七夕ノ祝儀 |一、三斎様へ七夕之御帷子被進之御使者ニ、谷忠兵衛申渡候也、
ノ使者      |
忠利書状ノ覚書  |一、本庄太兵衛今晩下着、此便ニ 御書箱壱つ被下候、内ニ在之 御書数覚
         |         (浅山)(田中氏次)
         |  一、壱通ハ  修理・兵こニ被下、
         |               請取人
         |  一、同    佐藤将監内 今村二郎八(花押)
         |                 請取人  
         |  一、同    明石源左衛門内 三木甚左衛門(花押)
         |               請取人
         |  一、同    道家帯刀内 伊藤理介(花押)
         |   (延俊)
木下延俊書状   |一、木下右衛門尉様ゟ、御内恒川将監・山田蔵人へ被遣御状壱つ、同使ニ下ル、

         |
         |         (ママ)       
         |     二日  
         |
         |一、木下右衛門様ゟ同御内将監・蔵人方へ被遣御状、御飛脚二人申付遣、右両人ニ我々ゟもそへ状遣、
町細工師しやうか |一、町細工三谷半左衛門尉ゟ、神吉甚右衛門方へ上ヶ申御しゃうか入壱つ上置候、重而江戸へ上ヶ
入ヲ上グ     |  可申也、
忠利書状下ル   |一、岡田茂左衛門江戸ゟ罷下候便ニ 御書被下候、又貴田権内・高橋兵左衛門へ被遣 御■書箱壱つ、
         |  内ニ 三斎様へ被進之御状も在之由、口上にて申候事、

         |       
         |     三日  安東九兵衛
         |
江戸石積之船頭帰 |一、当春、江戸へ被遣候御石舟之御船頭中山太郎兵衛・鵜鷹久右衛門・三き清太夫、昨日爰元へ罷下
着ス       |  候由にて、登城被仕候也、
         |一、右同理、乃美十左衛門尉、
         |                     (ママ)
江戸へ回送中捨米 |一、江戸へ積廻申御米ノ内、大風ニ相、捨申候

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■吉川英治著・日本名婦傳より「細川ガラシャ夫人」(ニ)

2020-12-05 15:29:07 | 展覧会

     細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より)   吉川英治

            (二)

「忠興の心は、決してをりまする。わたくしの妻へなど、小さい御不愍はおかけ下さいますな。
私の妻の處置は、私へおまかせ置き願はしうぞんじます」
 若い忠興は、胸を正して云った。
 父の細川藤孝は、武人とはいへ、温順な人であつた。
 家は、室町幕府の名門であつたし、歌學の造形ふかく、故實典禮に詳しいことは、新興勢力
の武人の中では、この人を措いて他にはない。
 強ひて、武人の中で、智識人らしい人柄を求めれば、明智光秀であつたろうが、藤孝は、彼
のやうに、新しい時代の教養よりも、むしろ古の學問の中から、今日に役立つものを取上げて
堅實に世を渡つてゆくといつた行き方であつた。
 同じ智識人でも、文化に對する考へ方でも、光秀とはさういふふうに違つてゐたが、その明
智光秀と彼とは切つても切れない、深い縁に結ばれてゐた。
 光秀がまだ名もない一介の漂白人として、越前の朝倉家に寄寓してゐた頃、藤孝も、三好、
松永などゝいふ亂臣に都を趁はれて、國々をさまよつてゐた将軍義昭に扈従して、同じ土地に
漂白してゐた。
・・・・・・今、眞に頼みがひある武将といつては、尾張から出た織田信長殿よりほかに、頼みまゐ
らす御方はありますまい。
 光秀は、その時分から、信長の偉大なことを知つてゐたのであつた。
 彼のすゝめに依つて、藤孝は、信長に近づき、信長は将軍義昭を立てゝ、京都へ軍をすゝめ、
それがやがて信長の覇業の一礎石となつたのであつた。
 同時に、藤孝も、この勝龍寺の舊領を受け、わけて明智光秀は、破格な寵遇をうけて、龜山
城の主とまで立身した。・・・・今生では報じきれない君恩をうけて来たのである。
 いや信長には、主君としてばかりではなく、もつとくだけた世話にもなつている。
 光秀の二女の伽羅奢姫と、藤孝の嫡男の忠興との結婚を、取結んでくれた人も、信長であつ
た。
 今から四年前の天正五年・・・・に伽羅奢姫十六、忠興も十六歳で、主君信長の聲がゝりで華や
かに婚儀をあげた間であつた。
 さういう光秀との関係は、偶然にできたものでは決してなかつた。藤孝は、彼の自分も貧し
い一介の浪人であつた頃から、およそ光秀ほど、信頼していた人物はなかつた。その學問や智
識に関する態度のちがひはあつても、人間として沈着で、教養も深く、忍苦に強く、理性に富
んで、しかも戦場では人におくれをとらない一方の驍将として・・・・今朝の今朝まで、彼との縁
を、悔いたことなど、ただの一度もなかつたのである。
「その光秀が?」
 と、藤孝は今も、息子の忠興へ、半ば憤ろしく、半ば、信じられない事のやうに、
「信長公を弑逆し奉つたなどゝは・・・・。大逆の亂を起して洛内を合戦の巷にしてをるなどゝは
・・・・。夢か、天魔でも魅入つたか。・・・・信じられぬのだ。然し、刻々と、矢つぎ早やに諸方か
らのこの通状だ。又、光秀自身から、味方に参ぜよとの書状も今着いた。わしは、正直、途方
にくれた。忠興、そちはいづれに組すか」
 かう父の云つたのに對して、忠興は、さつきから二度までも、
「何の御斟酌だすか。主君を殺した逆臣に組する弓矢は忠興にはありません。・・・・妻の處置は、
良人たるわたくしの胸でします。そして、信長公の御無念をはらさんとする何人とも力を協せ
て、光秀を討たずにはおきません」
 さう明確に答へを繰返してゐたのであつた。
「よう云はれた。父とても、同じ考へである」
 藤孝は、佛間にはひつて、信長の霊に誓の佛燈を捧げ、その日に、黒髪を剃ろしてしまつた。
 忠興は、重臣をあつめて、父子の決意を告げ、それが終ると、初めて朝出たまゝの居間へ歸
つたが、時間はもう夕方に近いほどだつた。朝食も午餐も、忘れ果てゝゐたのである。

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■永源師壇紀年録と忠興公譜

2020-12-03 16:22:01 | 展覧会

                                                                               
 ある方から「忠興公譜」の資料七点をお送りいただいた。

この手の資料は私にとっては初見であるように思う。以前細川家家譜・忠興公譜をご紹介したことが有るが、これとは内容を異にする。写真を見た限りではそう新しいものではなさそうである。
ふと「永源師壇紀年録」との関係はどうかと思い、久しぶりに本棚から取り出してみたが、関連性は伺えない。
内容は特段真新しいものは見えないように思えるが、読み下しをしようと考えている。

 さて「永源師壇紀年録」の刊本は現在では貴重品となっている。
しばらく古本をさがしたが見当たらなかったが、現況に於いても状況は変わらないようだ。
そしてこれが熊本県立図書館の蔵書にないということに、私は大いなる失望感を抱いている。
古本が見つかれば、購入して寄贈しようかとも思っているが、金欠病の私に、金を遣わせないようにとの思し召しかもしれない。

 綿考輯録の記事に於いてもここから引用したものは多いらしい。
レファレンス共同データベースを見てみると「永青文庫資料の綿考輯録と永源師檀紀年録との関係」についての問い合わせがあり、熊本大学付属図書館がこれに回答している。
    https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000256521

この刊本だけにしか窺えない記述もあって大変貴重な資料なのだが・・・

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■細川小倉藩(420)寛永六年・日帳(六月廿一日~廿三日)

2020-12-03 07:05:43 | 展覧会

                      日帳(寛永六年六月)廿一日~廿三日

         |       
         |     廿一日  安東九兵衛
         |
おばノ服忌伺   |一、瀧口伝丞登城にて被申候は、拙者おば相果申候、穢可有御座候か、如何可仕候哉、日々御天主な
         |  とにあかり申様二御座候へハ、拙者冥加のためにても御座候間、候得御意候由、被申候、談合
         |  申候而、重而従是可申候由、申候也、
大槻某ノ当番勤方 |一、右同人申候は、大槻仁右衛門をくの御番被仰付候処ニ、時ニより、御番を明申様なる儀共御座
不良ノ申告    |  候、御番被仰付候上は、たとひ、ひるハ其所ニ居相不申候共、夜ルの御番をかゞし申候儀は、不
         |  可然儀候と、内々仁右衛門二申候へとも、左様ニは不成由申候、か様ノ儀、私ゟ申上候事如何ニ
         |  御座候へ共、自然夜ル御番を明候刻、拙者一人として、御番を仕候而能事にて御座候共、又はあ
         |  しき儀にて御座候とも難弁御座候ニ付、兼而ゟ、各様立御耳由申候也、
土佐某借米ヲ返納 |一、土佐新太郎登城にて被申候は、私手前御借米不残才覚以、御蔵入仕候由被申候、御借方奉行ニ
ス        |  其通被申候へノ由、申渡候也、
牢人妻子ノ門出切 |一、村山安兵衛妻子御門出切手の儀、才津惣兵衛監物殿へ参、仕申候処ニ、いつもかやうの出入り在
手又ハ与頭ノナキ |  之、又ハ与頭無之様成仁ノ出切手ハ、御奉行衆ゟ切帋参候間、切帋を取可給由、被仰せ候ニ付、則
者ハ奉行ヨリ切紙 |  仕調、進之申候事、
ヲ得ベシ     |
誅伐人改ニ新牢ノ |一、御誅伐人相改候付、しちへや・新籠之諸切手取寄候を相改、籠之切手ハ高津甚左衛門ニ相渡、し
切手ハ高津某へ質 |  ちへやの切手ハ安野藤左衛門ニ相渡也、
部屋ノ切手ハ安野 |
某へ渡スニ改ム  |
         |                                          (加藤)
小々性知行ハ万事 |一、御小々性衆知行之儀、万事御蔵納並と被 仰出候、口米・庄屋給之儀、いかゝ可有之哉と新兵衛
御蔵納並ト令セラ |   (金子)  
ル     口米 |  ・喜左衛門被申聞候間、御蔵納並と被 仰付上ハ、御蔵納同然ニ可被仕通、申渡候也、
庄屋給も御蔵納並 |

         |       
         |     廿二日  奥村少兵衛
         |
         |           (田川郡)
惣積奉行香春ノ銭 |一、栗野伝介被申候ハ、香春ニ有之御銭、急度可被也御取寄候、今程爰元ニ而売申才覚も可有御座候間、
ヲ売ラントス   |  買手於有之は、うり可申由、被申候ニ付而、田川御郡奉行衆へ急度津出可被申付通、切紙遣候也、
         |                  (久間)           (内藤)
船頭ノ重病ニ当番 |一、鏡善右衛門登城にて被申候ハ、御船頭平兵衛煩、御医師宗印御薬ニ而、少検御座候様ニ相見え申
中ノ医師宗印ノ往 |  候、しかれとも大事之煩にて御座候、宗印も昨朝御見廻被成候迄にて御座候、今日も被成御見廻
診ヲ乞ウ     |  被下候様ニと申候へ共、今日ハ御番にて御座候間、御見廻被成儀成間敷候、御奉行衆へ其段申理
         |  候へ、左候は可有御見廻由、被仰候間、御番にて候へ共、御見廻候様ニ、被仰渡候而被下候へかし
         |  と申ニ付、御見廻候へと申遣候也、
松丸葬儀ニツキ町 |一、吉田縫殿・米田平右衛門」登城ニ而申候は、松之丸様御葬灵礼ノ日、共之者幷見物之女切手にて出
奉行等紋出入ノ切 |                            〃
手ノ捌方ヲ問ウ  |                                 (細川藤孝室、沼田光兼女)
光寿院ノ例三日間 |  シ候儀、切手之取さばき、何共難成可有御座候、如何可仕候や、前廉 光寿院殿御葬礼之時は、
切手ナシ     |  三日ハ切手なしニ御門出入仕候、此度茂、一日は切手なしニ御通日成可然御座候哉と被申候、一
家老ノ指示次第  |  段可然候、併、我々分別まてニ而、切手なしニ可被通との儀難申候間、頼母殿・監物殿へ両人と
         |  もニ被参、右ノ趣被得御意、御両人御差図次第ニ可被仕通、申渡候也、
         |                 佐分利作左衛門与森作右衛門
光尚台所ノ番人  |一、御六様御台所ニ被召置候御鉄炮衆桑原主殿与福嶋五兵衛也、追付差上せ申へく候間、早々用意仕
         |                 〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
         |  候へと、被申渡候へ之由、小頭岡権丞ニ申渡也、           (元明)
少峯送リ来ル人馬 |一、今日少峯幷送り候て被参候仁、少峯乗候而参候御馬とも賄可被仕之由、住江甚兵衛所へ申遣候也、
ノ賄       |

         |       
         |     廿三日  加来二郎兵衛
         |
         |          (猪膝、田川郡)
唐人少峯帰ル   |一、少峯経罷帰候ニ付、いのひさまて御馬にて送申候、又小荷駄弐疋申付候、いのひさにて、朝夕
ソノ賄銀駄賃   |  する廻候へと申付、河村加右衛門と申御鉄炮衆も一人付遣申候、いのひさゟ長崎迄之賄銀・たち
         |  ん銀ノため銀壱枚渡遣申候、人ハ付不申也、但、鉄斎煩為養生、態こくらの年寄共、少峯をよひ
         |  寄候由候間、長崎へ送可遣旨 三斎様 御諚旨、中津御奉行衆ゟ奉書参に付、如此候也、
         |                            (飢)
鉄炮小頭多数登城 |一、御鉄炮衆ノ小頭数多登城にて申候ハ、何も手前不罷成、礑及飽、のか/\敷躰弐御座候間、何と
シテ困窮故ニ借米 |  そ御談合を以、少宛御米を被借下候様ニと申候、兵庫殿、其外ノ衆ニも談合可申候由、申候而返
ヲ願ウ      |  し候事、

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■安国寺開山・明巌梵徹

2020-11-29 16:29:44 | 展覧会

                          

 豊前細川藩の安國寺の開山明巌梵徹は、明智光秀の末子(ガラシャ夫人末弟)とされる。
明智研究家の方々からはあまり信用されていないようだが、このように立派な像が熊本の安国寺に遺されている。
いろいろお説を伺うが、いずれも「帯に短したすきに長し」で、明智一族については正解を知ることは永遠にないように思える。
その間、先生方が談論風発いろいろお書きになるのを拝見することにしよう。

                     「麒麟がくる」によせて・・・熊本から・

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■熊本大学付属図書館の「オンライン貴重資料展」

2020-11-26 18:24:49 | 展覧会

 令和2年度の熊本大学付属図書館の貴重資料展は、コロナ禍のなか取りやめとなった。
そこで「オンライン貴重資料展」と銘打ち、「甦った絵図と古文書」としてWEB上で公開されている。
古い資料が、当代一流の職人たちの手により現代に甦った貴重資料が紹介されている。

            

肥前国有馬城之絵図ひぜんのくに ありま しろ の えず」、「細川忠興駿河御普請中掟ほそかわただおき するが ごふしん ちゅう おきて」、「細川家老衆廻状(千代姫様へ御礼申上次第)ほそかわ かろうしゅう かいじょう ちよひめさま へ おんれい もうしあぐる しだい

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■細川小倉藩(411)寛永六年・日帳(六月朔日~二日)

2020-11-23 07:20:59 | 展覧会

                      日帳(寛永六年六月)朔日~二日

         |       
         |     朔日  安東九兵衛
         |
         |      (山本松井家家司            (松井興長室、三斎女)
こほ母松丸之病状 |一、式ア殿内源太夫登城仕候而申候は、 御こほ殿被仰候は、式ア殿御物語にて被聞召付候、松丸様
ヲ忠利へ報スルヲ |  御儀煩二付、又江戸へ御飛脚を被進之候由、被聞召付候、御煩もさしてかわる儀茂無御座候、其
制止ス      |   〃
         |  上被仰上候而も、達而御差図も不被成儀共にて候間、此度之御飛脚は御無用二思召候間、先々此  
         |  度は被遣間敷由、被仰聞候事、
         |                                         (験)げんき
松松病少峯調薬二 |一、重而源太夫を以、被仰聞候ハ、一昨晩ゟ少峯薬を被成御用候処、薬相等仕、検気ニも検気御座候
験アリ      |                                    〃〃〃〃
         |  様ニ相見え申候、左様候ヘハ、今一両日も、今度之御飛脚御待候而、いよ/\検も御座候ハヽ、
         |  其段御吉左右被仰上尤ニ存候、又検も無御座様ニ候ハヽ、其上を以、御飛脚被遣候而も可然由、
         |          (浅山)(田中氏次)
         |  被仰せ候、とかく修理・兵庫、それへ致参上、其上ニて之儀ニ可仕と、御返事申候事、
         |       (細川光尚)
求菩提山ヨリ光尚 |一、求菩提山ゟ 御六様御祈祷の御札之由にて、持参被仕候也、
ノ祈祷札     |
         |
木下延俊領内ニ金 |一、修理・兵庫両人ともニ式ア少殿へ参候処、四季ア殿被仰候は、木下右衛門尉殿御領内ニ、金山
出来
山出来ノ報    |  候而、則右衛門殿侍衆江戸へ注進参候由、御物語候也、

         |       
         |     二日  奥村少兵衛
         |
江戸ヨリ飛脚ノ小 |一、江戸ゟ、御小人與介与源四郎・源三郎与吉蔵参候、江戸を五月九日に立、大坂へ廿三日に着、大
人帰着 ソノ旅程 |    
三斎へ音信物   |  坂を廿四日に出船、今日着申候御小早にて罷下候、御小早船頭ハ桑田左兵衛也、 三斎様へ為
塩引鮭      |  御印信、鮭塩引十尺・かな川ふくの皮百枚、右ノ御小人幷式ア殿・左馬殿・備前殿・勘解由殿ゟ
神奈川鰒ノ皮   |  ノ御飛脚、此六人に被仰付、持来候也、
忠利書状諸方へ  |  一、佐藤将監方へ  御書壱通、
         |    (元五)
         |  一、志水伯耆殿へ  御書壱通、
         |  一、加々殿へ    御書壱通、
         |    右は、歩之御小性長屋才三郎ニ持せ、進之候也、
         |  一、御家老衆へ之 御書ハ、兵庫ものニ持せ、進之候也、
         |  一、我等両人ニも 御書成被下、則致頂戴候也、
         |     (光尚)  
         |  一、楯岡鉄斎へも 御書成被遣候、右両人之御飛脚之内も、壱人ハ鉄斎御見廻ニ被遣通被 仰下 
         |      鉄斎相果候ニ付而    (定直)     
         |    候、〇 御書ハ子息孫市郎方へ、村井内蔵助を以、相渡候由、
         |  (恵重)            (志水元五)    (志水清久)
志水元五父宗加拝 |一、志水新丞登城にて被申候は、伯耆守申候は、宗加拝領仕候知行の水帳にて候間、差上申候、御代
領ノ知行ノ水帳ヲ |  官を茂被仰付にて可有御座候間、御代官ニ御渡候ためニ上申候由にて、新丞持参被仕候へとも、
差上グ      |  今迄左様並多候へ共、水帳上りたる例ム御座候間、先御手前ニ被召置候へ、若御用ニ候ハヽ、従
先例ナキ故返ス  |  是可申入由申候而、則差返候事、

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