散歩の途中にある花畑の一角に、強烈な燃えるような赤い鶏頭の花が「赤々しく」今が盛りと咲いていた。
鶏頭と言えば私はすぐ、加藤楸邨や正岡子規の次の句を思い出す。
一本の鶏頭燃えて戦終る 加藤楸邨
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
二人の句が鶏頭の数の違いもさることながら、楸邨の心象の中にある風景と、子規の淡々とした目の前にある風景の対比も面白い。
前者は、戦いに敗れた虚無感と、もう戦う事はないという安心感のなかで、呆然と立ちすくむ姿が浮かぶ。そんな場面に戦いの事など知らぬ気に、強烈な赤い色の鶏頭がいつもと変わらず咲いていて、自然の営みも穏やかな世界になる様に、人々の生活も苦しいながら平穏な世の中の到来を待つ思いがあふれているように思える。
後者は、場所であったり、時間であったり、作者の想いであったり、情景を考えさせられる。
二人の巨人の作風の違いを越えたこの句が、それぞれに大好きである。
いつも鶏頭を眺めると、何故にこんなに赤々敷く、トサカに似ているのかと思い句を作ってみたいと思うが、これは難題中の難題で私の手には負えない。