津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「大名証人制度」の細川家10家

2007-02-03 22:45:54 | 歴史
 大名証人制度は、慶長五年(1600)から寛文五年(1665)までの長きにわたっている。その廃止は「殉死の禁止」とともに決定された。「江戸へ証人差し上げ候衆之・・・」によると、細川家家臣で江戸へ証人を差し出すべき家は、以下の十家になっている。

       細川刑部       一門  25,000石
       長岡佐渡守(松井)  家老 30,000石
       有吉頼母佐       家老 18,500石
       長岡監物(米田)    家老 15,000石
       長岡勘解由(沼田)  家老 10,000石
       沢村宇右衛門     家老  6,000石
       小笠原備前守     家老  6,000石
       清田石見守       備頭  3,035石
       田中左兵衛       城代  2,150石
       平野弥次右衛門         5,000石 

 まさに錚々たる面々ではある。この一覧は慶安期のものらしいので、65年の歴史の中では若干の動きもあったのだろう。ここにも「刑部」の名前があるのが痛々しい。     
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原因は「大名証人制度」

2007-02-03 20:03:56 | 歴史
 河喜多家の先祖附を読んでいる。初代石見はガラシャ夫人の自栽に際し殉じた。その子石見は、飯岡肥後誅伐にあたり仕手を命じられて、不幸な死をとげた。飯岡肥後の子、長岡豊前は忠興の二男興秋に近く、興秋は江戸証人を忠興に命ぜられたが京都で出奔した。その後、飯岡肥後・長岡豊前親子は誅伐されるのだが、興秋出奔の責任を取らされたのだろうが、あまりにも惨い仕打ちではある。そもそも興秋の江戸証人の事は、弟忠利に替わってのことであったから、興秋が怒ったのも頷ける。大名証人制度が制度化されたのは、正式には慶長五年九月だとされている。それ以前、細川忠利はその年の一月、十五歳で証人として江戸へ下っている。前田利家夫人・芳春院が自ら証人となって江戸に赴いたのはその後のことだが、細川・前田両家が証人を出さざるを得なかった当時の緊迫した状況が伺える。興秋の出奔により代わりに、長岡(三渕)平左衛門重政(15歳)が江戸へ発った。その後、忠興の生母光壽院が務めたがその死により、天千代(細川刑部)がわずか三歳の身で小倉をたった。刑部はその後22ヵ年にわたり江戸で証人として生活する。島原の乱の勃発にあたり、忠興に出陣したい旨頼んでいるが「証人だから幕府の許しがいる」として断られている。刑部と忠興との仲がよろしくなかったことは周知の事実だが、こんなことが原因であろう事も又容易に窺い知れる。興秋の死や、刑部の父親との不仲を考えると、すべて「証人」に起因しているように思われる。河喜多石見の死も又同様である。「大名証人制度」は、細川家家臣10家に対しても要求されている。
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