津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

苦労の始まり

2007-05-16 13:13:10 | 歴史
 三斎公御機嫌能時之御咄として、「幽齊は我より骨折れたれ共小身也、越中は骨折れたる事なけれとも我より大名なり」という話が伝えられている。「綿考輯録」によると肥後入国前の頃の様に思われる。肥後入国後、天草島原の乱が勃発し、越中(忠利)も大いに骨を折ることになるのだが、予想だにしなかったことであろう。愛してやまなかった孫娘(烏丸中納言光賢娘)彌々を、忠利の嫡子光尚に娶わせた頃が、忠興の幸福の絶頂期であった。忠利-忠興-光尚と亡くなり、幼くして襲封した綱利は重石がすっかりとれて自由奔放に振舞って、生母清高院とともに度々重臣松井興長から諫言されている。その内容は大変辛らつである。そんな興長も亡くなり、細川家の大きな借財生活が始まっていく。
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