津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綱利の生母清高院

2007-05-25 13:36:31 | 歴史
 ある人から、「綿考輯録にみる綱利誕生の経緯」とか、綱利や生母清高院についてのあんたのブログ内の発言は、いささか険があると指摘された。そうかなーと思いつつ、又こんなことを書くと「やっぱりそうだ」と再度ご指摘を受けるような気がする。

 承応二年生母清高院は「美麗を好み、不時の遊楽日夜物入多かれば・・・」、松井興長は沢村右衛門と相談して「十三か条之諫言」を認めている。清高院の返書はふてくされ気味で、「六殿(綱利)の御為とあるから、意見をうけ給らぬわけにはいけないだろうから、万事合点する」とし「大方のことはもともとの1/10程にもうしつける。台所向きもそうする。この上はぜひもないことだ」と返事している。今後とも悪しきことがあれば申し付けられたいとある。十八行ほどの短い文章だが、「この上はぜひもない」の一行に、清高院の無念さが窺がわれる。

 後年、興長は綱利に対して痛烈な批判を含め諫言している。
「八代の城地や自分の知行を差しあげ、永々のお暇を頂戴する」と言い切っているのである。しかし綱利の道楽は止まらない。

 
コメント
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