津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

永代口止料

2009-03-16 22:53:20 | 徒然
 「おい、口止料をよこせ」
 「・・・・うん?」
 「口止料だよ」
 「・・・・・・・」
 「それも、永代口止料だ」
 「・・・・・・・」

 山口瞳の小説「居酒屋兆治」に登場する、兆治と岩下なる友人との会話である。但し店ではなく、岩魚釣りに出かけた山小屋での話なのだが・・・岩下の浮気についての兆治の戯言である。

 政治の世界ではN建設の献金問題で、首筋がヒヤヒヤしている人が多かろう。「よこせ」ではなく「口止料です」などという話はなかったのかと、このフレーズを思い出してふと考えた。
(ただしこの言葉は、ぐぐっても絶対出てこない。山口瞳の造語である。)

 
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清正井戸

2009-03-16 19:10:46 | 歴史
 池波正太郎の「江戸切絵図散歩」を読んで、明治神宮が加藤清正の屋敷跡であったことを知った。そして加藤家没落後、井伊家屋敷になったというから、江戸城桜田門前の井伊家屋敷と同じ事に驚いた。明治神宮は一度だけ尋ねた事がある。まったく歴史には興味がない時代で、早々に退散すると原宿あたりをウロウロしたものだ。明治神宮のサイトを見ると、清正井戸なるものが残されているという。
           www.meijijingu.or.jp/midokoro/3.html
もっと早く歴史に目覚めていれば、見学できたのに・・・。それにしても桜田門前にしろ、明治神宮にしろ、加藤家の屋敷跡に井伊家が入ったというのが、何か因縁めいて面白い。細川家の龍口屋敷の造成に当たっては、桜田門前の加藤家から土をもらった事が判っている。池波正太郎氏の一文によると、ここには池や沼もあったらしく、萱や枯れススキを投げ込んで、子供達や百姓を集めて大賑わいの内に踏み固めさせたという。いかにも秀吉子飼いの人らしい振舞で、クスリとさせられる。
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陽明学徒・朝山次郎左衛門

2009-03-16 17:08:52 | 歴史
 肥後の陽明学は、朝山次郎左衛門が京都より師石川吉左衛門を伴ってきた事に始まる。(高野和人著・北嶋雪山の生涯より) 陽明学は幕府にとっては「異学」とみなされ、寛文七年の巡見使の九州巡国に際し、肥後における陽明学の状況が幕府に報告されたものと考えられる。藩主綱利の側近であった朝山次郎左衛門も、容赦ない処分を受けた。幕府の強い意思が考えられる。

        【武家家伝_朝山氏  www2.harimaya.com/sengoku/html/asayama.html 】

       +---妹--------石川吉左衛門
       |
       +---永田亮智
               |---次郎左衛門
   +--朝山幸綱----●
   |
   +--朝山意休庵--------------------伊織
   |                          
   +--朝山景吉=========次郎左衛門----(主膳)----斎之助
   |
   +------●
         |
     平野九郎右衛門(如元)

 次郎左衛門は師・石川吉左衛門と共に離国、京都に至った。伊織は願い出てお暇をいただき行動をともにした。石川吉左衛門は母と妻、四人の子を肥後に残した。嫡子・理兵衛が寛文十年召し出されて藩士となった。朝山家は次郎左衛門の孫の代に至り召し出された。この事件は、藩主綱利の叔父に当たる長岡元知がその処分に異議を唱えて諫言し、永蟄居の処分を受けるなど、細川家一族にとっても少なからぬ余波を蒙った。


1、斉助・景吉 
    原城にて武功之面々御褒美被下候 寛永十五年九月朔日 千石加増
      (1)側小姓・御扈従役歟 五百石 (於豊前小倉御侍帳)・・斉 
      (2)御児小姓并御伽衆共 五百石 (肥後御入国宿割帳)
      (3)御詰衆 弐千八百弐拾石一斗三升 (真源院様御代御侍名附)
      (4)二千八百二拾二石        (真源院様御代御侍免撫帳)
      (5)御小姓頭    同上
2、次郎左衛門(養子・斉助長兄幸綱の孫) 
      (1)有吉頼母允組 御小姓頭 弐千八百拾石余 (寛文四年六月・御侍帳)
      (2)寛文九年十一月御暇遺候 陽明学徒追放による
           寛文九年十月七日 御暇  (※)
           寛文元年八月~寛文九年(御暇) 小姓頭  讀史総覧より   
    名は幸和、自全と号す。年三十六にして致仕し、洛西嵯峨に隠棲す。
    篤く聖学を信じ、就中王陽明良知の学を尚べり。
    天和二年四月十二日歿す。年四十九。
3、斎之助(次郎左衛門子主膳の子・景隆) 細川斉茲公御書出(天明八年)百五拾石
    朝山静全 名は景隆、斉之助と称す。藩に仕へ京都留守居役を勤む。
    文化三年九月歿す年九十三。
コメント (3)
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