今年(慶長七年)於江戸初而御屋敷御拝領被成候
考ニ、四月十日忠利君二被進たる御書、并忠利君より(有吉)立行ニ被下たる五月七日の
御書等の趣に候へハ、当春之砌御拝領被成候哉、いつれの御屋敷なるへきか、或説ニ、
忠興君初而於江戸御拝領の御屋敷ハ、愛宕下藪小路之由、又一書に、慶長八年とあるハ
いふかし、又御上屋敷忠興様拝領之節迄ハ空地にて候ゆへ、地形悪く候、加藤主計頭様
御拝領地ハ岡山ニて候故、彼地より土を運ひ埋上候而御屋敷ニ成候由、此時ハ只今の表
御門之方三千坪はかりも有之、其後段々御添地有之由と云々、是今の竜の口御やしきと聞
へ申候、此余御屋敷之事、忠興君二も忠利君二も上中下なと所々御屋敷有之たる御模様
ニて、御作事ニ付而も思召の事等、数通の御書にも見へ候得共、いつれの所と申儀、其屋
敷の成行もわかり不申候、将監橋際の御やしきハ坪数も広く有之たる由、乍然増上寺の隣
ニて火災の憂無覚束を以、光尚君二至被差上、其替りニ今の白銀の御屋敷御拝領被成候
この文章から芝御屋敷が将監橋近くにあったことが判る。後の切絵図をみると、増上寺前は町屋が並んでいるが、将監橋に近い
一画に御屋敷が在ったのだろう。その場所を特定する資料は見受けられない。
又、造成の為に土をもらったとされる加藤主計(清正)の屋敷とは、後の井伊家屋敷(桜田門前)の事である。
追記:3/4
(元和三年) 綿考輯録巻二十(忠興公・下)p75
同年、江戸御上屋敷ニ五間ニ長サ十五間之御門楼御立被成候、奉行ハ松山権兵衛・朝山修理安末なり
考ニ、四月十日忠利君二被進たる御書、并忠利君より(有吉)立行ニ被下たる五月七日の
御書等の趣に候へハ、当春之砌御拝領被成候哉、いつれの御屋敷なるへきか、或説ニ、
忠興君初而於江戸御拝領の御屋敷ハ、愛宕下藪小路之由、又一書に、慶長八年とあるハ
いふかし、又御上屋敷忠興様拝領之節迄ハ空地にて候ゆへ、地形悪く候、加藤主計頭様
御拝領地ハ岡山ニて候故、彼地より土を運ひ埋上候而御屋敷ニ成候由、此時ハ只今の表
御門之方三千坪はかりも有之、其後段々御添地有之由と云々、是今の竜の口御やしきと聞
へ申候、此余御屋敷之事、忠興君二も忠利君二も上中下なと所々御屋敷有之たる御模様
ニて、御作事ニ付而も思召の事等、数通の御書にも見へ候得共、いつれの所と申儀、其屋
敷の成行もわかり不申候、将監橋際の御やしきハ坪数も広く有之たる由、乍然増上寺の隣
ニて火災の憂無覚束を以、光尚君二至被差上、其替りニ今の白銀の御屋敷御拝領被成候
この文章から芝御屋敷が将監橋近くにあったことが判る。後の切絵図をみると、増上寺前は町屋が並んでいるが、将監橋に近い
一画に御屋敷が在ったのだろう。その場所を特定する資料は見受けられない。
又、造成の為に土をもらったとされる加藤主計(清正)の屋敷とは、後の井伊家屋敷(桜田門前)の事である。
追記:3/4
(元和三年) 綿考輯録巻二十(忠興公・下)p75
同年、江戸御上屋敷ニ五間ニ長サ十五間之御門楼御立被成候、奉行ハ松山権兵衛・朝山修理安末なり