平野長治の嫡男・長時(五郎左衛門)は加藤主計頭(清正)に仕えたとされる。加藤清正公家中附にはその名前を見ることは出来ないが、「北条・平野角太夫」の名が見え「千七百三十三石三升」という記録が見受けられる。「北条」の書き込みはないが、「平野七郎右衛門・五百石」ともある。(五と七の違いか??)その他「平野衛門九郎・十四人扶持」などがある。「加藤氏時代熊本城之圖」では、「三百石・平野勘十郎」の名が見えるが、どうも長勝とは思えない。
長時の弟・長泰が、後年長時の子・源太左衛門の細川家仕官を頼み込んでいる。
元和七年八月廿八日書状案 (大日本近世史料・細川家史料 8-51)
平遠江(平野長泰)より、肥後に居申候おい(平野源太左衛門)、我等ニ抱候様にと被申
候間、肥後殿構無之候ハヽ、抱可申由約束仕候、此儀にて言上仕候キ、肥後殿構ふかく
御座候而、同心不参候故、おいの儀は成間敷と被存、其子両人御座候を、我等ニ抱させ
申度由被申越候へ共、宗立(三齋)様へ御かためを、申上候間、成不申由申候へハ、又
宗立様へ被申上之由承候、肥後殿事之外構ふかく被申候間、其子抱候ハヽ、肥州満足
ニハ御座有間敷かと存候間、何とそ御分別を以、遠州へ被仰遣候様ニと、可被申上候事
元和七年といえば加藤家は忠広の時代である。(改易は寛永九年) 長泰の申し入れは、源太左衛門の意によるものだろうか。上記文面からすると、忠広(肥後)の同意が得られず、源太左衛門の二人の子を召し出そうとしている。肥後御入国宿割帳には、「三百石・平野源太左衛門」の名前が見え、忠広改易後召し出されたことが判る。嫡子・弥五右衛門、(次男カ)茂兵衛共に別禄三百石を得ている。弥五右衛門は父の跡をついだらしく千石の大身に成っているが、家系はどうやら途絶えたらしい。茂兵衛の家系が残った。