元和四年忠興は散々である。「二月二十日時分より両眼共ニひしと見へ不申候」状態になり、一ヵ月後には「寝間を余所江出候事一切不成候」というありさまである。閏三月二日、内記(忠利)に対して書状を認めている。症状が落ち着いたのだろうか、母・光寿院(麝香)に対しても、「母にて候人ヘハ、はや目本復にて頓而下候由申入候間、可被得其意候事」と気遣っている。母への気遣いは、その住まいに対してもこまごまと申し送っている。
■(同年)四月朔日、忠利君江之御書之内
追而申候、光寿院殿御屋敷と路地との間之土居ニ、来つゆ之内ニこから竹をうらおもてニ
ひしと植、土居を藪ニしたて候まゝ、竹之儀才覚候てつゆの内ニうへさせらるへく候、ちいさ
き竹程能候、なかきハ悪候、いかにもやせたる小藪か能候、其才覚不成候はかハせらるへ
く候、竹沢山ニ候は、何方ニ而も路地へ裏之家ノ見ゆる方ニ家かくしに植度候、二畳敷・三
畳敷ほと路地ニハまろくうへさせらるへく候、又土居の下ノ方水つき二ハ柳木をさゝせらるへ
く候、以上
北野隆氏の日本建築学会論文報告書「細川家文書による近世江戸屋敷の研究」によると、龍口邸は三つの建物(本屋敷・光寿院の家・居間)にわかれていたらしい。その光寿院の建物を竹の囲いで囲おうという忠興の考えである。宇土細川家の宇土の屋敷町を歩くと、あちこちに低い竹の囲いが美しいお宅が数多く見られる。あんな具合であったのだろうとその風景を思い出している。
まさに茶人・忠興を髣髴とさせる美学が感じられる。そんな忠興の指示が間に合ったのかどうか、光寿院は六月に入り病となる。そして七月廿六日御卒去、御年七十五歳であった。忠興は「御死目二とても相候事成間敷候間・・」と覚悟をしながらも、七月十三日小倉を発している。「右之目は捨二仕、左之能方之ひとみ(略)上下へほそ長ク罷成、事之外かすみ申候」状態で、廿九日吉田に到着している。「我等心中御推量候而可被下候、取乱申候而一書ニ申入候」と、後事を忠利に託して忠興は京に十四五日滞在の後、小倉へ帰っている。そして十月初小倉を発ち、吉田に逗留して目の治療をし、十一月江戸着、廿七日将軍家に御目見している。
元和七年正月七日忠利が家督相続、大名妻子の江戸居住令により忠利室保寿院が江戸に下るのは八年十月である。
■(同年)四月朔日、忠利君江之御書之内
追而申候、光寿院殿御屋敷と路地との間之土居ニ、来つゆ之内ニこから竹をうらおもてニ
ひしと植、土居を藪ニしたて候まゝ、竹之儀才覚候てつゆの内ニうへさせらるへく候、ちいさ
き竹程能候、なかきハ悪候、いかにもやせたる小藪か能候、其才覚不成候はかハせらるへ
く候、竹沢山ニ候は、何方ニ而も路地へ裏之家ノ見ゆる方ニ家かくしに植度候、二畳敷・三
畳敷ほと路地ニハまろくうへさせらるへく候、又土居の下ノ方水つき二ハ柳木をさゝせらるへ
く候、以上
北野隆氏の日本建築学会論文報告書「細川家文書による近世江戸屋敷の研究」によると、龍口邸は三つの建物(本屋敷・光寿院の家・居間)にわかれていたらしい。その光寿院の建物を竹の囲いで囲おうという忠興の考えである。宇土細川家の宇土の屋敷町を歩くと、あちこちに低い竹の囲いが美しいお宅が数多く見られる。あんな具合であったのだろうとその風景を思い出している。
まさに茶人・忠興を髣髴とさせる美学が感じられる。そんな忠興の指示が間に合ったのかどうか、光寿院は六月に入り病となる。そして七月廿六日御卒去、御年七十五歳であった。忠興は「御死目二とても相候事成間敷候間・・」と覚悟をしながらも、七月十三日小倉を発している。「右之目は捨二仕、左之能方之ひとみ(略)上下へほそ長ク罷成、事之外かすみ申候」状態で、廿九日吉田に到着している。「我等心中御推量候而可被下候、取乱申候而一書ニ申入候」と、後事を忠利に託して忠興は京に十四五日滞在の後、小倉へ帰っている。そして十月初小倉を発ち、吉田に逗留して目の治療をし、十一月江戸着、廿七日将軍家に御目見している。
元和七年正月七日忠利が家督相続、大名妻子の江戸居住令により忠利室保寿院が江戸に下るのは八年十月である。