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内容
肥後細川家初代の細川幽斎と明智光秀を祖父とする細川忠隆(忠興長男)。一門首座として生きた右京家(通称内膳家)にまつわる史料を1冊にまとめた。
一門、連枝、熊本藩各家の妻の出自にもスポットを当て調査。そこから上級武士たちの人間関係もうかがい知ることができる。
著者紹介
菅芳生氏は細川忠隆(忠興長男)の子孫である隆春氏(第5代出水神社宮司)の外孫。熊本市島崎にある同家墓所の継承者。
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内容
肥後細川家初代の細川幽斎と明智光秀を祖父とする細川忠隆(忠興長男)。一門首座として生きた右京家(通称内膳家)にまつわる史料を1冊にまとめた。
一門、連枝、熊本藩各家の妻の出自にもスポットを当て調査。そこから上級武士たちの人間関係もうかがい知ることができる。
著者紹介
菅芳生氏は細川忠隆(忠興長男)の子孫である隆春氏(第5代出水神社宮司)の外孫。熊本市島崎にある同家墓所の継承者。
(慶長五年)五月黒田御上り候故、岡村半右衛門・西郡大炊を御使として、先納返弁可有旨ニて米高拾壱万石余の目録を為持被遣候、長政の返事ニ、此目録の内ニ毛利壱岐守・垣見和泉守・熊谷内蔵允所領有之、不存掛先納迄を被仰越、其上筑前の先納を金吾中納言取被申候、かの方より返辨あらは此方よりも返し可申と也、忠興君又被仰候ハ、秀秋の事ハ貴方との御挨拶次第ニて我等之預ル処ニあらす、毛利・垣見・熊谷は薩摩陳の節如水引具して支配有之候上ハ、其元より償ひ給ふへき事也と有、長政之答に、仰尤ニ候、急度算用可遂候へ共、御存之通去年父子東西之軍役を勤、殊之外手前つまり候間追々に返弁可致候と申申(ママ)来候、忠興君御腹立被成、とかく事ニ託て責をのかれんとなるへし、其儘に差置かたしとて篠山与四郎を被召、中津之大阿武 船の名 を門司に可廻旨飛脚可差越、又長岡勘解由 門司ニ在城 方ニハ大阿だけを門司ニ廻す間、筑前より登ル船、財宝積たるハ不構、穀物積たる船ならば可押留旨申遣候へと被仰付、篠山其趣下知いたし候、折節津田小平次来り合候而此事を聞、与四郎待れ候へ、某埒可仕とて吉田より伏見ニ至り、山内対馬守ニ被語候ヘハ、一豊聞て、是ハ大事ニ可及候、何とそあつかひ申へし、片桐市正ハ細川・黒田の両家共ニ間能候、相談之上扱可申とて大坂ニ至り、且つ元と共ニ黒田ニ告て、六月初比大坂ニ於て六万石を金・銀・米ニ而相渡、楮膝(漆)にて三万石を相払、残る不足の弐万石ハ我々両人江給り候へとの扱にて事済候也
其後慶長八年、家康公将軍宣下ニ付而諸大名御上洛之砌、黒田氏を山内氏御同道にて御玄関迄御出候、此方よりも山内氏御同道にて黒田氏の
玄関迄御出候而、先納之出入一通りハ相済候得共、是よりして御中違ニ成候と也
忠興君黒田家と御義絶ニ而御座候ニ、或時江戸ニて黒田氏の亭へ忠興君不図御入候間、広間ニ詰居候面々いふかしなから出むかへ候ヘ
ハ、雪隠ニ案内いたし候へと被仰候、不得止事御案内仕候ヘハ、御上下をも御ぬき候而緩々と被遊、御口上をも不被仰置、直ニ御帰被成候、
詰居候者共安からす存候へ共、すへき様も無之、黒田氏も御聞御腹立候へ共無詮、後ニハ人ニ対し、何にても越中方より仕かけ被申候ハゝひ
けハ取ましと存候へ共、此返報ハ存つかず候、とて度々雑談有之候と也
忠興君初ハ如水と御入魂也、既ニ山中落城之時ハ如水の馬ニて御かけ付被成候事も有之、長政も七人衆とて別而御入魂、木付一件の儀ハ
不申及、又或時如水の亭にて御物語の折節生鯛を贈たる人有、如水即座に料理申付、越中殿ヘハ骨を煮て出し候へ、外ニ珍客も可有にと被
申候由、忠興君御帰之上、人数を持者ハ如此勘弁肝要なりと被仰候、右之通無等閑御交りなりしか共、今度出入以後御代々御義絶の御家柄
なり、然るに降徳院様御代元文元年七月御中直り有之、霊感院様御代ニ至り候而ハ殊ニ御使者御音物等も有之候、今にてハ御親しき御縁に
被為成候也
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