・天正五年(1577)十月十日、和州志(信)貴城攻、松永久秀自殺
・ 同月 父・藤孝と共に丹波(亀山・笹山・久下過部・籾井・菅城等)攻め
・天正六年(1578) 信長公御身近く御勤仕、御小姓に出させらる
この時期信長公の御腰物を拝領、小刀の柄に九曜の置物あり、これを見事也として絺の紋に御付、信長公に御目に懸けたところ
「珍敷紋を付候」「一段見事也」とあって御定紋になさるべく仰出。
・ 同年六月~七月 神吉・志方城攻め
・ 同年八月 「藤孝君安土へ御出仕有り、忠興君縁辺の事を被達」
光秀甚悦之、藤孝君・忠興君も家門の面目と御喜悦不斜、同月青竜寺にて御婚礼有、十六歳ニ而御夫婦御同年也
・ 同年九月 丹波国小山・大槻・高山(一ニ高城)・馬堀等の城攻め
・ 同年十一月 有岡城攻・細川勢付城に留まり越年
・天正七年(1579)七月 嶺山城(吉原山城)攻め
織田信長の天下統一と共に、城主は細川氏に代わり細川興元は、天正10年(1582)、本丸に御陣屋を建て、二ノ丸・三ノ丸を置き、
寺谷の東(今の上町)市街地を開いて、嶺山(みねやま)と名付けた。