津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

サイトの存亡

2006-11-12 13:46:12 | 徒然
 サイトを運営していると、止めようと思うことが度々ある。心無い中傷などはグサリとくる。一方励ましのメールや、喜んでいただいている様が実感できると、意欲が湧くという次第である。当然の事ながら日々勉強に勤めなければ成らない。
歴史系サイトで、素晴らしいものが閉鎖されてしまって寂しく思うことが度々あった。お若い管理者にとっては、時間の問題も有ろうし仕方ない事かとも思うが、再度アップされる事を期待したい。今日サイトを閉鎖する旨のメールが飛び込んできた。ご厚誼いただいているMS氏からのものである。ある事件を主題にしたすばらしいサイトで、この事件を知る上では貴重なサイトである。細川藩に関する情報も沢山有り、突然のことで吃驚してしまったところだが、なんとか思いとどまって欲しい旨のご返事を差し上げた。サイトの管理人として、MS氏の心の葛藤が理解できる。サイトを運営し多くの皆さんに活用していただくと、サイトは半ば公のものとなりより、真実を伝えようと考えると書かずもがなのことを書かざるを得なくなり、非難をいただく事がある。今日の時点で、まだサイトは生きている。どうか継続されるよう願ってやまない。只々祈るしかないのが辛いことである。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中着座・比着座

2006-11-12 10:20:25 | 歴史
 先の座班「上着座」に続き、「御国中御侍以呂波寄」から「中着座・比着座」を取り出してみた。(イロハ順)
   中着座
    ・片山多門  (2000石)
    ・柏原九八郎 (4400石)
    ・蒲池喜左衛門 (100石・足800石)
    ・谷権右衛門 (1500石)
    ・益田弥一右衛門 (1500石)御用人
    ・佐藤仙右衛門(3000石)
    ・木村男史  (3000石)
    ・三宅藤助  (2000石)
    ・平野新兵衛 (2000石)御用人
   比着座
    ・飯田長助  (450石)
    ・西山大衛  (1279石余)
    ・堀寿三郎  (1000石)
    ・竹原勘十郎 (215石・足450石)
    ・竹原清大夫 (500石)
    ・中瀬助之進 (1200石)
    ・藪弥次右衛門(3000石)
    ・槙嶋半之丞 (1000石)
    ・松野左膳  (2000石)
    ・松崎宇平太 (500石)
    ・藤崎作右衛門 (1300石)
    ・郡織衛   (1800石)
    ・沢村八之進 (2000石)
    ・尾藤助次郎 (3000石)

  時は細川重賢の時代である。蒲池喜左衛門は24年間奉行職を勤めた。竹原勘十郎は、大奉行堀平太左衛門を重賢に推挙した人である。重賢と堀平太左衛門により肥後の「宝暦の改革」は実行された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「押込」

2006-11-12 09:08:49 | 歴史
 笠谷和比古著「主君『押込』の構造」が面白い。大方その原因は主君側にあるようで、TVに登場する悪家老の仕業とはならないようだ。この「押込」は一般の家でも行われる。藩庁に対する慮りと共に、その家の存続が大きな要因となる。

 ●●三郎右衛門(1500石)の二男一角は、御番頭○○清左衛門(1300石)に請われて養嗣子となる。兄から二百石を分知され、若干18歳で奉行副役を勤めたという一角は、才気にあふれ出世欲に満ちた人であったようだ。一方○○清左衛門は、この一角を養嗣子として家勢大なるものにしたいと考えた。実子があるにもかかわらずである。藩庁は、この縁組の真意を承知の上で容認したものの、奉行職は解任された。大組付・・八代御番頭・・御留守居御番頭・・鶴崎御番代などを勤めたが、政治を動かす立場の役方からは遠のき不満が嵩じたらしい。清左衛門(一角)は、「不本心體に付、被下置候御知行家屋敷差上申度由、一類より奉願、願之通御知行家屋敷被召上旨被仰出候事」となり七百石の身となった。この一類(親族・家族)の意志こそが「押込」である。その後清左衛門は、家老長岡主水・長岡監物に「讒言」(と判断された)の書を送り、ついには「病乱」とされてしまう。○○の家は先代清左衛門の実子平八が継ぐ事となる。父子共に功名利達に心を駆られて起きた出来事である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする