=聖句=
「これはまことのことです。死んだ人たちが創主のこの声を聞くときがきます。
そのときは、今すでにきています。そしてそれを聞く人たちはいのちを得るでしょう」
(ヨハネ伝、5章25節)
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ヨハネ伝、5章が続きます。
25節から29節までは、「最後の裁き」の内容を語ったところです。
「死んだ人たちが、創主の子(イエス)の声を聞く時が来る」(25節)、
とイエスは語っています。
最後の審判の時には、これまでに死んだ全ての人間の霊が、ある種の身体を着て復活し、イエスの声を聞くことになる、というのです。
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そして、次が難しいです。
イエスは同時に、
「そのときがいますでに来ている」(25節)
と言った、とヨハネは記しています。
これはどういうことでしょう。将来そういう時が来る、と言っておいて、すぐ続いて、「そのときはすでに来ている」というのは矛盾しているではないか。将来と今をごっちゃにして言っているのではないか、と。
そのとおりです。我々が生きる現世の常識からしたら、それは矛盾です。将来のことと、今のことは別なのであります。これは同一には決してならない。
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ところが、よく見ると、それは人間の側に立った論理なのですね。
人間にとっては、将来のことは不確実性の世界にあります。
あることが成るといっても、それは確率100パーセント未満の話になります。将来のことは、100%成るとは人間には言うことが出来ない。
これから展開する世界に関して、人間が認識出来る範囲は有限です。認知可能範囲の外から起きてくることは、予測できない。だから、すべては不確実性の中にあるのです。
そういう状況では、今成っていることと、将来成ることとは、これはもう全く別になりますよね。今のものは100%成っていますが、将来のことはそれより確率は低いですからね。ということは、成らない可能性もある、と言うことだ。
<創主の論理は別>
ところが、イエスは創主の論理に立って語っているのです。そして創主においては、将来百パーセント成ることはあるのです。それは、創主の口から言葉となって出たことです。これはもう、100%成る。多くの人は気付いていませんが、これは、聖書の鉄則です。
別の面から言いますと、創主から出た言葉には、現実、ないしは物質は、百パーセント従うのです。従ってその通りになるのです。
読者は、是非、あらためて聖書で確認してください。たとえば創世記で、創造主が何かを出現させる時には、例外なく言葉を発しています。そして、そのあとで、天も地も動物も人も出現しています。
イエスがいわゆる奇跡を起こす時も同じです。「立て」「歩け」「(目よ)開け」「(熱よ)引け」「(嵐よ)静まれ」・・・こうした言葉が発せられてから、奇跡は起きています。
創主から出た言葉は、人間の言葉にはない、力を伴っていると理解すべきでしょう。エネルギーを伴っていると言ってもいいかも知れません。聖書では、そういう論理になっています。
創主の子イエスの口から出た約束も、将来百パーセント成るのです。
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するとこういうことになるのではありませんか。「将来百パーセント成るのなら、今成っているのと同じこと、あるいは、今成ったのと同じ」なのだ、と。
だから、イエスは「将来そうなる」といって、かつ、「それはもうすでに来ている(なっている)」といえるのですね。
この論理はわれわれにはなかなかぴんときません。人間は、不確実性の世界に慣れきっているからでしょう。それ以外の世界があるなどとは、考えたことも無いからでしょう。