鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

汎神論に向かう21世紀日本人の霊界意識

2005年07月18日 | 春平太チャペル

 21世紀に入って、日本では相変わらず宗教化の志向が続いていますね。
ビジネスマンや奥様族に、この傾向のものを学び始めている人が増えているみたい。

<体験的霊界論セミナー大盛況>

本屋の店頭から推察しますと、これにはオピニオンリーダーがいるようです。
まず最近売り出し中は、天外伺朗(てんげしろう)さん。
この方はソニーの研究所でCDプレーヤーやロボット・アイボなどの新技術開発をリードされた技術者(本名は土井さん)です。
その本業と論調とが科学的であることが相まって、ビジネスマンに信頼されやすいようですね。
科学的アプローチでもって、霊的な現象に論究する。
最近では、インディアンの世界に入っていって、そこで観察したことを科学的な論調で解説しておられます。
これを、ビジネスマン向けセミナーでやっておられる。
そこでは瞑想法も教えています。
参加者が多く、静かなブームなようです。

もう少し古いところでは船井幸雄さんもその一人です。
経営コンサルタント会社・船井総研の創業者です。
彼は以前から、霊的な世界のことをビジネスマンに紹介していました。
米国・カナダでの輪廻の研究を紹介した、福島大学の先生の論文を、ビジネスマンに紹介したりしていました。

この傾向はすすみ、最近「人は生まれ変わる」とかいう本を出しました。
自らも、輪廻の理論を研究し、その成果を発表したものです。

ビジネスマン世界では、相変わらずセミナーブームです。
最近は、心理学セミナーというのが流行している。
そこでの講師も、霊感的な話を多くする人が受けているようです。
衛藤とか言う先生は、その代表なようです。

<科学は経験をベースにする認識手法>

こういう現象を、ある日本のキリスト教指導者に話したことがあります。
「いよいよ日本にも福音伝道の土壌が満ちてきた」と喜んでおられました。

しかし、鹿嶋にはそう話は簡単でもなさそうだ、と思えてなりません。

霊界への「科学的」アプローチというのは、瞑想体験や霊視(霊が見えること)などの感覚的な体験を手がかりになされます。
常に、体験をベースに霊的世界を論じていくわけです。
科学というのは、そういう経験主義をベースにする認識の手法ですから。

それ故にまた、ビジネスマン・奥様族に信頼されるわけです。
上記のようなセミナー講師は、瞑想法も体験させ、受講者個々人にも霊的体験を味わわせています。
その体験につなげて、霊界論を述べますので、受講者は安心感をうるのみならず理解もしやすいわけです。
自らの体験につなげて、なるほどなるほど、と話を納得できますからね。

<聖書メソッドは「言葉から霊感へ」>

だが、こうして得られていく霊界理論と、聖書の教える霊界理論とは大きな隔たりのある点を持っています。
聖書では、霊界のすべてを統率する全能者として、創造主(英語ではゴッド)の存在を教えます。
そこでは、ものには“いのち”があることについて、否定はしませんが、それは創主を源とし、そこから放射されているもの、という認識をします。
そこで、霊界理論を学ぶ究極の目的は、この創造主を知ること、となってきます。
聖書で「知る」というのは、「体験する」という意味です。
だから、結局は体験手認識を求めるのですが、その出発点は体験ではありません。
特殊なケースをのぞいて・・。

創造主は、出発点では、言葉によってその理屈を知ることから始まります。
言葉とは、聖書の言葉です。
これを聖句といいます。

まず、聖句でもって、論理として学習する。
それによって、ゴッドのコンセプト(イメージと考えていい)を、論理的に詳細に知ります。
体験は、その後で求めます。
創造主の体験をゴッズ・プレゼンス(God's presence)といいます。
(日本では「神の臨在」などと言われていますが、これを神と言っていてはだめだ、と鹿嶋は繰り返し伝え続けています)
が、ともあれ、聖書では、まず言葉による学習、それから、体験という方向に進みます。

<人の霊感は全方位>

どうしてそんな迂回的なことをするか。
創造主は、簡単には霊感的に体験することができないからです。

人間の霊感というのは、全方位なものです。
そして、聖書では、この世には様々な霊がいる、と教えています。
そして、創主以外の霊は、みな究極的には、危険な霊だという論理です。

それもあるから、まず、霊感の方向を正しくコンセプトでもって定めることが必要だ。
それには、言葉(概念、コンセプト)の助けを得ることが必要なのだ。
それによって、明確な“人格”をもったゴッドを知るのが第一歩だ。
それを学んでいる間は、体験的な霊感は得られない。
だけど、このステップは必要。
(ニッポンキリスト教は、これがすべてだと思って、この段階でとどまっていますけどね。だから、正常な神経の持ち主は、あきれて、離れてしまっていますけどね。ニッポンキリスト教は特殊ケースです)
これが聖書の論理です。

<結局汎神論に至る>

現代日本の科学的、体験的アプローチによる霊界理論には創造主に関する明確なコンセプトがありません。
面白いことに、万物の創造者が存在することは、否定していないのです。
だけど、それはバクゼ~ンです。
だから、意識の中ではとおくにかすんでいます。
存在してもしてなくても、どうでもいいような存在。

それでいて、世の中を霊的に見ることに目覚めていますので、霊的なものは感じます。
それを自然や道具など物質に感じていきます。
すべてのモノに”いのち”(という霊的ななにかなにか)があることを感知しています。
その結果、汎神論(pantheistic view)に至っています。

汎神論とは、「すべてのものは神であり、かつ、神の中にある」という思想です。
それは「宇宙が神」という思想につながっています。

これはアメリカインディアンにとてもポピュラーな思潮です。
彼らの場合、この思想は生活・伝統行事の中での霊感体験とも融合しています。
天外さんが、インディアンの風習に傾倒して行かれるのも、納得ですね。
こういう方向は、前述したように、手応えはありますけれど、宗教思想の類型においては、汎神論という原始的なタイプです。

<多神論もあるよ>

類型にはいろいろあって、多種類の神がいるという思想もあります。
これは多神論(plytheietic view)といって、古代のギリシャに代表的に見られます。
東洋にも伝統的にこれが多いです。

<有創主論>

 聖書の教える見解は、有創造主論(theism: atheism無創主論の反対語)に含まれます。
(これを有神論と日本人は訳していますが、間違いです。繰り返し鹿嶋が述べてきているように)
有創主論とは、人格を持った創造主がいる、という見解です。
聖書では、その中でも、創主は「人間を、自ら代価を払って罪ある状態から買い戻そうとする」、そういう人格を持っている存在と考える。
そしてまた、「人間が個人的な関わりを持つことのできる存在」という思想です。
こういう創造主が存在すると前提するので、聖書のような豊富な内容を持った論理体系ができるのです。
ただ、漠然と創造主がいるようだ、という前提からは、単純な論理体系の思想しかできません。
(だからまた、懸命になって霊的体験を得ようとするのでしょうけど)


<ウイリアム・ジェームズの心理洞察>

天外さん的霊界理論に傾倒しているあるビジネスマンと、鹿嶋は話したことがあります。
彼は「これからは科学ではない。宗教でもない。宗教は、理屈だけだ。理屈で人を縛る。これからは霊的世界の科学的な探求なのだ。我々はもう一歩先を行っている。科学・宗教はもう古い!」と張り切っていました。

理屈だけの段階にとどまっているのは、宗教ではなく、現代日本の仏教やキリスト教など「官僚化し形骸化した伝統宗教」だけに対して当てはまることです。

なのに、この人にかかると、シャカもキリストも、霊界を理論でもって探求した人になってしまうんですからね。
で、瞑想による霊的体験をベースに波動理論などの科学を用いることのできる我々は、シャカやキリストより先に行っている~~となるんですから。

まあ、そんなことで幸せでいられるならば、それもいいことにするか。

「人間は、これまで気づかなかった世界に気づくと、その瞬間心地よい統一感を心に得る。そうするとしばらく、自分は世界のすべてを悟ったのだという陶酔感に浸る」

~~哲学者にして心理学者のウイリアム・ジェームズはこういう主旨のことを言い残しています(W.ジェームズ『「プラグマティズム』)

こういう段階にある人には、何を言ってもムダであります。
もちろん「時がよくても悪くても(福音を)のべ伝えなさい」というイエスの命令はあります。
福音伝道者は従うべきでしょうが、その土壌の性質をよく悟った上で行動すべきでしょう。

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Vol.76『イエス「癒し」の構造』(5章)

2005年07月18日 | ヨハネ伝解読
=聖句=

 「父なる創主が自らいのちの源であるのと同じように、それと全く同じように父はその子をもいのちの源となるようになさいました。」
         (ヨハネ伝、5章26節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ヨハネ伝、同じ聖句への考察を続けます。

 今回は、癒しについてです。
イエスがなした癒しも、「いのち」というエネルギーによると考えると、物理的なイメージがしやすくなります。

<長血の女のケース>

 ルカによる福音書(マタイ、マルコにも)に、12年間も生理が止まらなくて苦しんだ女の話が記されています。彼女はイエスに近づき衣の端に触れます。すると、たちどころに癒されてしまうのです。

 この時、イエスはこういったと記されています。「誰かが私に触った。私から力が出ていったのを感じた」と。この力が、すなわち、いのちエネルギーなのでしょう。イエスからあふれるいのちエネルギーは、彼の衣の端にも蓄積されていたという論理です。

 彼女には、触れれば癒されるという確信がありました。固い信頼のもとに手を伸ばして触れたのです。

 そうしたら、いのちエネルギーは彼女の身体に流れていった。これが癒しの構造です。イエスは彼女にこういっています。

 「あなたの信仰があなたを救ったのです」(ルカによる福音書、8章48節)

 ここでの「信仰」は、信頼です。信頼とは、相手が必ず希望したとおりにしてくれるという、確信です。この女は、イエスの衣に触れる際に、必ず願いが応じられる、という確信を持っていた。それが癒しを可能にした、とイエスは教えているわけです。

 それ故、このイエスの言葉はキリスト信頼において、とても重要ですね。本当に祈りが聞かれるかどうか、という気持ちは、クリスチャンでも多くの人が抱いています。その答えは、ここにありますね。すなわち、

 「祈りが聞かれるという確信をもって祈るかどうか」が分かれ道になっている。これが聖書の教える原則だったのですね。

<パウロの手ぬぐいからエネルギーが>

 話を戻します。 
 衣に触れていやされた、というのと似たような癒しの記述は、同じくルカの書いた「使徒行伝」にも記されています。

「使徒パウロが身につけている手ぬぐいや前掛けをとって病人に当てると、病気が取り除かれ、悪霊が出ていった」(「使徒行伝」19章12節)。

 これもパウロの霊に吸収蓄積されたいのちエネルギーが、彼の身につけていたものにも蓄積されるに至っていた、と理解できます。そして、それが流れ出して癒しがなされたというわけです。

 もちろん、パウロは人間です。そのいのちエネルギー吸収率には上限があります。イエスのそれとは、資格において及ぶべくもない。

 けれども、彼は聖霊を受けていましたし(詳しくは後述します)、そして耐えざる祈りの人でもありました。加えてイエスの教えに関する神学的理解は、群を抜いていた。そのあたりから、理解が可能かと思われます。

<激しくイエスのエネルギーを奪い取る>

 ただし、イエスが行った癒しの大半は、言葉を発することによってのものです。これも、こうイメージしたらどうでしょうか。その言葉に従って、彼のうちに蓄積されているいのちエネルギーが患者に向けて流れ込んだ、と。

 すると、上記の女性の場合はどうなるでしょうか? 

 イエスのもつ力に関する信頼がきわめて高いと、別の状況も起きる、ということでしょうか。すなわちイエスが意図しなくてもイエスに触れると、その力が流出してしまって、それを受けることが出来る、と。

 イエスから、いのちエネルギーを、激しい信頼と確信で奪い取ってしまうわけですね。そういう力の原理も聖書には秘められているかも知れません。

<癒しの契機は一つではない>

 そうすると、癒しには二つの契機がある、という道理になりそうですね。
 第一は、イエスの方から言葉を発するという事態です。
 第二は、癒しを受けようとするものが、激しく強い、イエスの力への信頼・確信をもって、創主(イエス)の方にタッチするという事態です。
  (もちろん、このタッチは、物理的なものだけではない。祈りによる、意識波動的なタッチも含めているでしょう)


 このように、癒しにも複数の契機があるというのは、とても面白いですね。
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