=聖句=
「私(イエス)は、自分自身の権威でによってはなにもできません。私は創主の告げられるままに裁きます。そして、その裁きは正しいのです。・・・」
(ヨハネ伝、5章30節)
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これはなにをいっているでしょう。
前回、聖書では、すべて善というのは創主の内にあると申しました。人が善をなすとは、創主に意識をつなげて行為することだけによって可能になります。
もちろんそれは、御子イエスの場合も同じです。イエスはここで
「自分は自分をつかわされた方、すなわち創造主から聞くままに裁く。」との旨をいっています。ならば「その裁きは正しい」となる道理です。
<イエスの正しさに人間の証人はいらない>
この聖句に続いてイエスは、「自分の正しさを証する証人(人間の)は要らない」という旨のことをいっています。
証人とは、ある人の主張が正しいと証言する人です。聖書の世界ではこれは重要な存在です。旧約聖書では、証人は裁判で最終的な正否を決める最終的手段になっています。
「すべて人が犯した罪は、一人の証人によっては立証されない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない」(申命記、19章15節)
~~~などはそれを示しています。
ところがイエスは、自分の裁きが正しいことを証するのに人の証言は不要なのだ、と言うのです。どうしてでしょうか?
理由はこうなるでしょう。
そもそも「旧約聖書のなかで証人によって立証せよと書いてあるのは、人間同士で立証する際の話」です。人間同志で人間が証明するには、それが最善の方法なのでしょう。
だが、新約聖書には創主の御子が登場します。彼は「善悪基準の究極の源である創造主の言われるままに言動している」存在です。彼には、そのことが人間の証言よりもはるかに正確な証拠なのです。
<私(イエス)のわざが正しさを立証する>
だけど、イエスが創主の言われるままにしているかどうかなど、人間には認知できませんよね。人間に、それを知る手段は与えられていないでしょうか。
目で認知できる証拠は与えられている、とイエスは言います。イエスの行う「わざ(いやしなどの奇跡)」がそれだとイエスは言います。
=聖句=
「しかし、わたしには・・・もっと力あるあかしがあります。父が私に成就させようとして与えてくださったわざが、父が私を(この世に)つかわされたことを証明するのです」(5章36節)
イエスを父なる創主がこの世につかわした、ということであれば、その裁きは正しい、ということになります。もう、創主からつかわされたものの裁きは、創主の裁きと同じですから、正しいのです。
問題はむしろ、イエスのわざが、イエスが創主からつかわされたものであることを、どうして証明することになるのか、というところにあります。
<創主でなければできないわざ>
その理由は割合簡単です。旧約聖書民族である当時のユダヤ人の意識の中には「万物の創造主でなければできない」ものが明確にあったからです。
そもそも旧約聖書には「この世には万物を創造した創造主がいる」という存在観が確固としてあります。その方は、言葉によってこの宇宙の中のすべてを創造された方です。
そういう、すさまじい力を持った存在は「ただお一人おられるのみ」である。他にはいない。そういう存在観です。それがあるから、イエスの「私のわざが私の裁きが創主からのものであることを立証するのだ」という論理がわかることになるのです。
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逆に言うと、そういう創主観がなかったら、イエスがここでいう論理はわかりません。
もちろん、イエスのなしているわざは、それまでだれもしなかった類のことでありました。悪霊を追い出し、脚萎えを立たせ、盲人の目を開き、死人を生き返らせる・・・これらのわざは、霊媒師や占い師などのすることを遙かに超えた桁外れなものでした。
けれども、唯一の創造主というイメージが明確なかったら、「だからこの方は、創造主から送られた方」という風にはつながっていきません。
だから、たとえば日本人にはここはわかりにくいところです。日本では、クリスチャンであっても聖書のゴッドを「神」と呼んでいます。ところが日本の神という概念には、霊媒師や死者の霊などとは桁違いなレベルの不思議をなす方、というニュアンスはないのです。
聖書の真の理解には、その状態では不可能です。だから春平太は、ゴッドを創造主(つくりぬし)ないしは創主(そうしゅ)と呼ぶことが必要、と言い続けているのです。