依然、前回と同じ聖句です。
=聖句=
「父なる創主が自らいのちの源であるのと同じように、それと全く同じように父はその子をもいのちの源となるようになさいました。
そして、創主はその子に裁きをする権威を与えられました。彼が人の子(the Son of Man)だからです」
(ヨハネ伝、5章26~7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(被造物に対して)いのちの源となる権威、および、最後の裁きをする権威が、父なる創主から自分に与え(委譲)られている~~~イエスはここでこういっています。
権威とは、力を発動させられる資格、だったですね。では、この場合の「力」って具体的には何でしょうか。
まず、「いのち」。繰り返し申しますように、いのちとは一種のエネルギーのような概念、と春平太は考えています。そして、エネルギーとは力であります。イエスは、そういうエネルギーを発動させる資格を与えられている、というわけです。
では、「(最後の)裁き」での力とは? 結論的に言いますと、これは天使です。最後の裁きはイエス自らが直接行うものではありません。力ある天使が、イエスの命令でもって行うものです。黙示録にそのことが示されています。
天地を動かす資格、というのはそのままで理解しやすいでしょう。だが、「命の源となる権威」は必ずしも自明ではないですね。それがイエスに与えられているという、その構造を考えてみましょう。
<創主に意識を向けて祈る>
いのちというエネルギーは、そもそもは父なる創主が源となって放射されているものです。それが人の霊にも天使の霊にも吸収される。そしてイエスにもまた吸収されるものです。
吸収されるためには条件があります。それは霊の意識波動が創主のそれに合っているということです。
そのためには、創主に意識を向けます。そうしておいて、自己の意識波動を創主のそれに合わせるようにします。これはすなわち、「祈り」です。聖書での祈りとはそういう作業を言っています。
これがうまくいく度合いに応じて、創主からのいのちエネルギーは当人の霊に吸収され蓄積されていく。物理学的に言えば、そういうことだと思われます。
イエスも祈っています。自らが、いのちの源そのものではないのですから、祈る必要があったのです。彼は弟子たちより、よく祈ったと聖書に記されています。夜通し祈ってもいます。
<人間の意識には創主意識との協和に上限がある>
もちろん、イエスの弟子たちも祈っています。パウロも祈っています。
いのちエネルギーは、彼らの霊にも流入します。しかし、その流入の度合いが、イエスの場合、別格と言うことになるのです。
聖書ではイエスは、創主の言葉が聖霊によってマリアに身ごもった存在、という道理になっています。対して一般の人間は、アダムの子孫です。だから人類は、罪を犯して、いのちエネルギーが不完全充電になったアダムの霊の資質を受け継いでいる~~そういうことになっています。
聖書では霊は、意識体でもあります。人の霊のうちのいのちの欠けた部分、すなわち死の部分から出てくるのは、創主の意識と協和する聖なる意識はでない。
だから、人間も祈るのだけれど、やはりその分、創主から来るいのちエネルギーの吸収には、絶対的な上限があるということになるのです。これがアダム以降の人間の「資格」です。
<イエスの意識は創主と完全協和しうる>
ところがイエスは聖霊によって乙女マリアにやどった子ということになっています。アダムとはつながっていない。だからイエスの霊には、そういう死(罪)の部分がないことになります。
だから、創主の意識と完全協和することが出来るようになっているのです。これがイエスの資格です。
その資格を行使して、実際に意識を完全協和させる。これがイエスの祈りという作業です。
イエスが祈ると、父なる創主から放射されるいのちエネルギーは、完全協和で、百パーセントイエスの霊に流れ込んできます。それが、イエスの身体から、手から、時には衣からもあふれ出る。(彼の癒しなどはその結果と解せられます)
この状態は、常時的です。するとそれはあたかもイエスが命の源になっているがごとしとなる。結果的にイエスは父なる創主と同じに、いのちエネルギーを発射し、その源となることが出来ている。
これは、その権威を与えられているみて少しも差し支えない状態である~~これが、イエスが「いのちの源になる権威を与えられている」、の中身だと思われます。
=聖句=
「父なる創主が自らいのちの源であるのと同じように、それと全く同じように父はその子をもいのちの源となるようになさいました。
そして、創主はその子に裁きをする権威を与えられました。彼が人の子(the Son of Man)だからです」
(ヨハネ伝、5章26~7節)
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(被造物に対して)いのちの源となる権威、および、最後の裁きをする権威が、父なる創主から自分に与え(委譲)られている~~~イエスはここでこういっています。
権威とは、力を発動させられる資格、だったですね。では、この場合の「力」って具体的には何でしょうか。
まず、「いのち」。繰り返し申しますように、いのちとは一種のエネルギーのような概念、と春平太は考えています。そして、エネルギーとは力であります。イエスは、そういうエネルギーを発動させる資格を与えられている、というわけです。
では、「(最後の)裁き」での力とは? 結論的に言いますと、これは天使です。最後の裁きはイエス自らが直接行うものではありません。力ある天使が、イエスの命令でもって行うものです。黙示録にそのことが示されています。
天地を動かす資格、というのはそのままで理解しやすいでしょう。だが、「命の源となる権威」は必ずしも自明ではないですね。それがイエスに与えられているという、その構造を考えてみましょう。
<創主に意識を向けて祈る>
いのちというエネルギーは、そもそもは父なる創主が源となって放射されているものです。それが人の霊にも天使の霊にも吸収される。そしてイエスにもまた吸収されるものです。
吸収されるためには条件があります。それは霊の意識波動が創主のそれに合っているということです。
そのためには、創主に意識を向けます。そうしておいて、自己の意識波動を創主のそれに合わせるようにします。これはすなわち、「祈り」です。聖書での祈りとはそういう作業を言っています。
これがうまくいく度合いに応じて、創主からのいのちエネルギーは当人の霊に吸収され蓄積されていく。物理学的に言えば、そういうことだと思われます。
イエスも祈っています。自らが、いのちの源そのものではないのですから、祈る必要があったのです。彼は弟子たちより、よく祈ったと聖書に記されています。夜通し祈ってもいます。
<人間の意識には創主意識との協和に上限がある>
もちろん、イエスの弟子たちも祈っています。パウロも祈っています。
いのちエネルギーは、彼らの霊にも流入します。しかし、その流入の度合いが、イエスの場合、別格と言うことになるのです。
聖書ではイエスは、創主の言葉が聖霊によってマリアに身ごもった存在、という道理になっています。対して一般の人間は、アダムの子孫です。だから人類は、罪を犯して、いのちエネルギーが不完全充電になったアダムの霊の資質を受け継いでいる~~そういうことになっています。
聖書では霊は、意識体でもあります。人の霊のうちのいのちの欠けた部分、すなわち死の部分から出てくるのは、創主の意識と協和する聖なる意識はでない。
だから、人間も祈るのだけれど、やはりその分、創主から来るいのちエネルギーの吸収には、絶対的な上限があるということになるのです。これがアダム以降の人間の「資格」です。
<イエスの意識は創主と完全協和しうる>
ところがイエスは聖霊によって乙女マリアにやどった子ということになっています。アダムとはつながっていない。だからイエスの霊には、そういう死(罪)の部分がないことになります。
だから、創主の意識と完全協和することが出来るようになっているのです。これがイエスの資格です。
その資格を行使して、実際に意識を完全協和させる。これがイエスの祈りという作業です。
イエスが祈ると、父なる創主から放射されるいのちエネルギーは、完全協和で、百パーセントイエスの霊に流れ込んできます。それが、イエスの身体から、手から、時には衣からもあふれ出る。(彼の癒しなどはその結果と解せられます)
この状態は、常時的です。するとそれはあたかもイエスが命の源になっているがごとしとなる。結果的にイエスは父なる創主と同じに、いのちエネルギーを発射し、その源となることが出来ている。
これは、その権威を与えられているみて少しも差し支えない状態である~~これが、イエスが「いのちの源になる権威を与えられている」、の中身だと思われます。