ヨハネ伝、5章、すこし前に進んでみましょう。
今回は、次の聖句です。
=聖句=
「善を行った人々が復活していのちを受け、悪を行った人が復活して有罪の宣告を受けるときがきます」
(ヨハネ伝、5章29節)
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これは何を言っているのでしょうか?
世上言われるところの「人は生前の行いのよしあしに応じて裁かれる」という意味でしょうか。そう受け取られやすいところですが、そうではありません。
<意識状態が問題>
聖書での善悪は、創造主に意識がつながっているかどうか、で一義的に決まります。意識がつながっていれば、創主の善悪基準で行為することになります。すべての善の源は創造主であり、すべての悪の源は、悪魔である~~これが聖書の善悪の枠組み。単純明快です。
新約聖書時代の人間について言えば、イエスを通して創主に意識がつながったかどうか、と言うことですね。換言すれば、イエスの言葉を受け入れたかどうか、です。
意識がつながり、意識波動が協和していれば、霊のいのち充電度は高まっています。完全充電ではないにせよ。そうすれば、霊は意識の源ですから、その意識も聖なる様相を高めるでしょう。さらば、その人の行いも、創主のみ旨にかなうものが比較的多くなるでしょう。
そういう意味で、行いではありますが、行いは意識から生じます。その意味で、論理の焦点は、意識の方にあります。それが聖書の論理です。
<道徳的に独り相撲してしまう>
ここは、われわれ日本人が特に注意すべきところでしょう。われわれは、宗教というのは道徳的に良い行いを教えるものという信念のような先入観を固く強く持っているからです。
だから、聖書の中でも、それらしきところがあるとすぐにそちらに解釈していってしまう。そして、道徳的に清くなろうと独り相撲してしまうのです。
実際、明治維新以降、日本に入ってきたプロテスタントキリスト教は、そういう受け取り方がなされた傾向が強いです。それが、そのまま今日まで来ています。最近、少しづつそうでない動きも始まってきていますが、大勢は道徳教のままです。
世界史の教科書に出てくる欧州中世の免罪符は、この行い基準を持ち込んで作り出されたものです。これを買うこと、すなわち、寄付することでもって救われるという。だがこれは文字通りの行いですよね。当時のカトリック教団は、聖書をそういうふうに解釈して教理をつくったわけです。
そして、“それは間違いだ、「救いは信仰(信頼)によって」得られるのだ”、といって批判したのがマルティン・ルターでした。有名な宗教改革は、これへの賛同者が多かったことによって軌道に乗っていったのでした。
以前にも、ウイクリフやフスなどがカトリック批判をしてきましたが、社会運動としてメジャーな流れをつくったのは、ルターでした。そして宗教改革のもう一人の立て役者カルヴァンは、この思想をベースにして新しい制度を作り定着させたのでした。
<裁きの場に出るため復活する>
なお、前の25節の聖句の意味も、これでよりシャープに解読できるようになりそうです。ここで、イエスは
「死んだ人たちが創主の子の声を聞く時が来る。・・・そして、聞く人は生きるであろう」
と言っていましたね。
この「生きる」は、24節の「(霊が)永遠のいのちを受ける」という意味ではどうもないようです。
この「生きる」は、死んだ人の霊が新しい身体を着て復活する、ことを言っているようです。裁きを受けるための前段階。復活して、みんな最後の裁きの場の前に立たされる。
そして、イエスの言葉を受け入れて、創主と意識がつながった人は、この裁きをバイパスする、と聖書ではされています。そして、永遠のいのちを受ける(いわゆる「救い」を受ける)。
後の29節で裁きの話が出てきますので、順番からすると、そういうことになりそうです。