・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「『彼をどこに置いたのか』 彼らはイエスに言った『主よ、来てご覧下さい』 イエスは涙を流された」(11章34~5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イエスが心を動かされた第二回目の状況についてはどうでしょうか?
イエスが「ラザロをどこにおいているのか?」とたずねます。それに対してマリアを慰めに来ていた人々が「主よ、来て見てやって下さい」と応えたときです。
この時「イエスは涙を流された」とヨハネは記しています。彼らの言葉を聞いてイエスはなぜ涙を流さねばならないのでしょうか。春平太の今の解読はこうです。

イエスは、マリアならば自分がいのちそのものの源であって、死んだ人間にもそれを再供給して生き返らすことが出来ることを、わかると期待したのではないでしょうか。あれだけ、教えたのですから。。。。
ところが、その彼女もわかっていなかった。
ましてや、マリアに付いてきた人々は「闇の力、死の力に打ち勝つ存在がいてくれる」ということを、知りようがありません。「主よ、(ラザロの死に顔を)来て見てやって下さい」という彼らの言葉、彼らの表情には、「せめて、最後のお別れを、ラザロにしてやって下さい」という思いが満ちあふれていたのではないでしょうか。
「哀れだなあ・・・」 イエスの胸にこの思いがわき上がったのではないでしょうか? 死に打ち勝つ力があることを知らない、ということは、死には打ち勝つすべがない、と意識していることです。それは、「死」には完全に征服・支配されて、死の奴隷となっているということでもあります。
<今も大半は奴隷のまま>
これはその時だけのことではありませんよ。今も大半の人間はそうなのです。特に日本などでは99.99パーセントがそうではないでしょうか。霊魂とかを多少は漠然と思うことはあっても、意識の重心は「死んだらオシマイ」にあります。そこで、生きている間の人生の充実だけに集中して生きようとしているのです。
それで相応に人生を紛らわせ楽しませてくれるものを日本は造ってきました。春平太はそれを無常文化と呼ぶのですが、日本では結構それが豊富にできあがっておりまして、百年位の間はなんとか空しさに圧倒されずにやり過ごしていかれます。食べ物、着るもの、芸能、娯楽、芸術、社会や隣人の縛り、等々色々ありますから。
特に食の文化は豊かでして、いまや、世界の中産階級以上の人々は日本食に魅了されつつある。欧米だけでなく、中国でもそうらしいです。日本のテレビのグルメ番組の多いこと。それと健康番組・・・。
だけど、それらでは満たされない人も日本には少なくありません。「どうせ死んでオシマイ」の意識が喉元まで上って来てしまっている人もいます。そういう人の中からあることを契機に自殺したり(年間3万4千人)、引き籠もって出てこなくなったり(120万人)、薬物中毒になったり(2百万人)パチンコ依存症になったり(1200万人)するひとが出るのです。
ほとんどみんな根底は死の奴隷なのです。科学者も文化人も有名な経営者も政治家も元気そうなこと言ってますけれど、実は意識の板っ子一枚下は「死」であり「無」の地獄なのです。死と無に脅えながら生きている。この人たちも百年間ぐらいはなんとかやり過ごしますけれど、2百年は無理でしょう。
人間は、永続確信が死の意識を圧倒しない限り、脅えから自由にならないのです。根底的な奴隷状態から解放され得ない。「人間死んでオシマイでないよ」とイエスが繰り返し教えたことが、人類にとって如何に救いであるか。私たちはこの遺産を受けた方がいいのです。日本人がこれを受け始めたら、国は根底から変わりはじめ、現在の社会問題の多くが急減し始めるでしょう。

当時のユダヤ人たちも旧訳聖書を持ちながらも意識の根底では死の奴隷でした。それがラザロの死に際しての彼らの言動に表れました。イエスは、そういう人間の姿を改めて認識して、涙を流されたのではないか。第二の場面を春平太は当面そう解しています。
=聖句=
「『彼をどこに置いたのか』 彼らはイエスに言った『主よ、来てご覧下さい』 イエスは涙を流された」(11章34~5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イエスが心を動かされた第二回目の状況についてはどうでしょうか?
イエスが「ラザロをどこにおいているのか?」とたずねます。それに対してマリアを慰めに来ていた人々が「主よ、来て見てやって下さい」と応えたときです。
この時「イエスは涙を流された」とヨハネは記しています。彼らの言葉を聞いてイエスはなぜ涙を流さねばならないのでしょうか。春平太の今の解読はこうです。




イエスは、マリアならば自分がいのちそのものの源であって、死んだ人間にもそれを再供給して生き返らすことが出来ることを、わかると期待したのではないでしょうか。あれだけ、教えたのですから。。。。
ところが、その彼女もわかっていなかった。
ましてや、マリアに付いてきた人々は「闇の力、死の力に打ち勝つ存在がいてくれる」ということを、知りようがありません。「主よ、(ラザロの死に顔を)来て見てやって下さい」という彼らの言葉、彼らの表情には、「せめて、最後のお別れを、ラザロにしてやって下さい」という思いが満ちあふれていたのではないでしょうか。
「哀れだなあ・・・」 イエスの胸にこの思いがわき上がったのではないでしょうか? 死に打ち勝つ力があることを知らない、ということは、死には打ち勝つすべがない、と意識していることです。それは、「死」には完全に征服・支配されて、死の奴隷となっているということでもあります。
<今も大半は奴隷のまま>
これはその時だけのことではありませんよ。今も大半の人間はそうなのです。特に日本などでは99.99パーセントがそうではないでしょうか。霊魂とかを多少は漠然と思うことはあっても、意識の重心は「死んだらオシマイ」にあります。そこで、生きている間の人生の充実だけに集中して生きようとしているのです。
それで相応に人生を紛らわせ楽しませてくれるものを日本は造ってきました。春平太はそれを無常文化と呼ぶのですが、日本では結構それが豊富にできあがっておりまして、百年位の間はなんとか空しさに圧倒されずにやり過ごしていかれます。食べ物、着るもの、芸能、娯楽、芸術、社会や隣人の縛り、等々色々ありますから。
特に食の文化は豊かでして、いまや、世界の中産階級以上の人々は日本食に魅了されつつある。欧米だけでなく、中国でもそうらしいです。日本のテレビのグルメ番組の多いこと。それと健康番組・・・。
だけど、それらでは満たされない人も日本には少なくありません。「どうせ死んでオシマイ」の意識が喉元まで上って来てしまっている人もいます。そういう人の中からあることを契機に自殺したり(年間3万4千人)、引き籠もって出てこなくなったり(120万人)、薬物中毒になったり(2百万人)パチンコ依存症になったり(1200万人)するひとが出るのです。
ほとんどみんな根底は死の奴隷なのです。科学者も文化人も有名な経営者も政治家も元気そうなこと言ってますけれど、実は意識の板っ子一枚下は「死」であり「無」の地獄なのです。死と無に脅えながら生きている。この人たちも百年間ぐらいはなんとかやり過ごしますけれど、2百年は無理でしょう。
人間は、永続確信が死の意識を圧倒しない限り、脅えから自由にならないのです。根底的な奴隷状態から解放され得ない。「人間死んでオシマイでないよ」とイエスが繰り返し教えたことが、人類にとって如何に救いであるか。私たちはこの遺産を受けた方がいいのです。日本人がこれを受け始めたら、国は根底から変わりはじめ、現在の社会問題の多くが急減し始めるでしょう。



当時のユダヤ人たちも旧訳聖書を持ちながらも意識の根底では死の奴隷でした。それがラザロの死に際しての彼らの言動に表れました。イエスは、そういう人間の姿を改めて認識して、涙を流されたのではないか。第二の場面を春平太は当面そう解しています。