~~絵画は「使徒ヨハネ」(1866)by Peter Nicolai Arbo~~
(アンディ中嶋さんのブログ「バイブル的人生」
http://blog.goo.ne.jp/andygoo/
より引用させていただきました)



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=聖句=


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11章の最後に、著者ヨハネについて少し考えておきましょう。
彼は、ユダヤ教指導者たちの会議の中身を、どうして知り得たのでしょうね。
ヨハネ伝は、基本的に彼が直接観察し、体験したことを踏まえて書かれています。でも「これってホントに観察できたの?」と思うようなところもあります。この会議の件もまたそうなんですね。



常識的に考えられるのは、これは後にヨハネの耳に入ってきただろう、というものです。あるいは、ヨハネが誰かに取材した、とか。
彼がこの福音書を書くのは、キリスト教団の大御所になってからのことです。それなりにいろんな情報が耳に入る立場だったでしょう。会議に出ていたパリサイ人僧侶のあるものが、後に回心して、キリスト教団に入ってきていた、こともあり得るでしょう。それで、ヨハネにその時の状況を報告した、ということも。



でも彼の場合は、もう一つの可能性があるんですね。前にも書きましたが、ヨハネには人畜無害なオーラを持った人だった可能性を春平太は感じます。旧体制側の人間もなぜか、安心して交われる人柄。そういう人格を彼は持っていたのではないか。中国現代史における周恩来のような人ですね。
ヨハネはこうも記しています~~
「多くの人はイエスの奇跡を見て信じたが、何人かのものはパリサイ派ユダヤ人たちのところに行ってイエスのしたことを告げた」(46節)
~~ヨハネはこれを見ていたのではないでしょうか。パリサイ人たちについていってですね。
ヨハネのそういう人柄、旧体制側からの受け入れられ方を、イエスもよく知っているので黙認した。そして、僧侶たちの会議も、一定のオープンなところでなされた。だから、ヨハネはそれを観察することも出来た。ユダヤ教僧侶たちも、ヨハネについてはそこにいることを問題には思わなかった~~のではないでしょうか。



あるいは、こうも想像できます。
~~会議終了後すぐにパリサイ派の一人に状況を聞いた。すでに当時から、イエスの隠れ信仰者のような僧侶もいまあいたからね。第三章に登場したニコデモはその一例ですし、他にもいたことが、次の12章に記されています。
ヨハネは、ペテロと並んで、弟子の中でも、そういう情報が集まりやすい位置にいました。なにせ、二人は、イエスの両脇を固める助さん格さんだったのですから。それをイエスにいち早く報告するのも彼らの役割だったかも知れませんね。
考えてみると、この可能性が一番大きいのではないかな。「イエスを殺害すべし」という結論になったことを、イエスはすぐに知るに至っています。
「イエスはもはや公然とユダヤ人の間を歩かないようになられた。そこを出て荒野に近いエフライムという町に行き、弟子たちと共に滞在した」(54節)。
~~と、ヨハネは記していますから。



「過越の祭り」が近づいておりました。多くの人々が、地方からエルサレム参りに上って来つつありました。彼らはイエスがこの祭りに来るだろうか、と話題にしていました(55節)。
一方、祭司長やパリサイ人は、イエスを捕らえようと決意しています。彼らは、「イエスの居所を知るものは、それを知らせるように」という指令を出していました(57節)。緊迫のクライマックスを控えた、前夜の光景でした。11章を終わります。