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=聖句=
「・・・イエスは大声でこう言われた『ラザロよ出てきなさい』 すると死人は出てきた。手足は布でまかれ顔も顔覆いで包まれたままだった。イエスは人々に言われた。『ほどいてやって帰らせなさい』」(11章43~4節)
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イエスはラザロの墓のところにやってきました。そしてひとこと~~
「石を取りのけなさい」(39節)
~~と命じました。墓は洞穴になっていて、入り口に大きな石が置かれ、入れないようになっていたのです(38節)。



マルタは言います。「先生、やめて下さい! もう死んで四日たっています。悪臭が漂います」(39節)。
~~イエスはもう「死に打ち勝つ力を知らない」という彼女の心理状況を認識するに至っていました。だから、再び憤ることはありませんでした。イエスは言います。
「マルタよ。信じるならば、創り主の栄光(力)を見ることが出来ると言ったではないか・・・」(40節)。
石を取り除けと言って譲らないイエス。その場にいた人々は仕方なく取り除きます。するとイエスは天を仰いでこう言いました。
「父よ。私に耳を向けて下さいまして、有り難うございます」(41節)。
「あなたが私の祈りにいつも耳を傾けて下さっていることを、わたくしは存じております。しかし、敢えてここでそれを口に出して申し上げます。ここにいる人々が、あなたが私をこの世に送ってくださっていることを信じるためにそういたします」(42節)。
こう祈った後、イエスは命令の言葉を発しました。
「ラザロよ、出てきなさい!」(43節)。
~~するとなんと、ラザロは墓の入り口の方に自ら歩いて出てきたのです。。。。。



「その手足は死装束でくるまれたままだった。顔の周りにも布が巻かれていた」とヨハネは記しています(44節)。
呆気(あっけ)にとられている人々に向かって、イエスはぽつんと一言だけ命じました。
「装束をほどいて、(家に)帰らせなさい・・・」
~~イエスは死に打ち勝つ力が世界には存在するのだということを、自ら技でもって示したのでした。
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これは画期的なことであります。
それまで人間は「死だけはもうどうしょうもない、必ず襲ってくるものだ、これには従うしかない」と思っていたのですから。(イエスは後に、イエスへの信頼が真実な人々にもその力を与える、という約束までします。これがイエスの福音です)。
だがその場にいた人々の多くは、「死に打ち勝つ」などという哲学的・神学的なことにまで思いをはせることはなかったでしょう。
ヨハネはどうだったでしょうか。この福音書を書いている時点は図~と後ですからもちろん神学的な理解をしています。その上で、この福音書を書いているのです。
しかし、イエスに付き従っていた若き日の時点ではどうでしょうか?
彼は少しずつながらも、理解していただろうと春平太は感じています。後の老年期時点に比べれば「少し」なのですが、他の弟子に比べたら、この時点でも群を抜いていたのではないでしょうか。だから「イエスが最も愛していた弟子」だったのだと思います。