鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

飛鳥石舞台から:鹿嶋は何している?

2007年01月15日 | “エホバ”の奥義
                    


~~すこし反省してみたくなりました。

 受け皿の民族がどうとか、十戒の中核がどうとか、こんな考察を鹿嶋は何のためにしているのでしたっけね。
そうでした。この世界に創造主がいるという世界観について考えていたのでした。
そういう世界観をさす言葉は、日本語の辞書にはないでしょう。
で、鹿嶋は敢えて有創造主世界観などという言葉を創ってやってきたのでした。
でもこれは長ったらしいですね。

                    

<ゴッドリー、アンゴッドリー>

 英語にはそれを指す単語があります。ゴッドリー(Godly)というのがそれです。
この一言で、創造主がいて被造物がいるという世界イメージを示しています。
では、創造主のいない世界観はどうかといいますと、アンゴッドリー(ungodly)といいます。
これはゴッドレス(Godless)ということもありますが、アンゴッドリーの方が対照的でいいでしょう。

 たとえば、米国でもテレビ番組で、現世的な欲望一点張りでギンギラギンな人々の展開するドラマがあります。
ビバリーヒルズとかいった豪華住宅地を舞台にしたメロドラマなどにそういうのがあります。
これらを見てクリスチャンがこうつぶやくことがあります。
「ハウ・アンゴッドリー(なんとアンゴッドリーなことか・・・)」と。
このアンゴッドリーはセキュラー(世的)という語になることもあります。

                    


<文化は多数派に従う>

 ゴッドリーな世界イメージというのは人間の意識に自然発生的に生じるものではない
~~このことを飛鳥の地で鹿嶋は自らの心で実験して確認したのでした。
とはいえ、ゴッドリーな意識を持つ人間は、社会の中に一人や二人や数人はいるでしょう。
ノアもアブラハムもそういう人でした。
けれどもそれは例外的なほんの一握りでして、
社会の多数派(マジョリティ)がそうなることは自然な状態ではありえない、ということです。

 社会の文化、風俗というのは多数派が造っていくものです。
ですから人類社会には通常では、ゴッドリーな文化、風俗、社会通念が出来上がることはほとんどあり得ないでしょう。

 日本に住んでいる我々日本人には体験的によ~くわかること。日本の文化はアンゴッドリー一色です。
有識者と称される人の語る評論からバラエティー、ニュースの論調、テレビドラマにいたるまで、
アンゴッドリーな世界観を前提のものばかりです。
ここにゴッドリーな文化を形成しようというのは至難の業であります。


                    


<ゴッドリーな思考の「型枠」>

 日本だけではありません。人類社会が全面的にそういう状態だったのです。
そこにゴッドリーな世界観の「型枠」をもった民族を、力ずくで一つ造ろうとした。
エホバがイスラエルの民に対して試みたことがこれだったのです。
 
  どうしてそんなことを? 
イエスが説く「いのち」のメッセージ、霊界の真理のメッセージを一定の数の人々が受け入れる土壌を形成するためです。
それには、その社会にゴッドリーな世界意識の型枠が出来ていることが必要だったからでしょう。


                    

 新約聖書を読んで、改めて不思議に思うことがあります。

 イエスの説く教えについて、ユダヤ人たちは大いに反論しています。
でもそこにこういうのは出ていないんだよね。
「そもそも父なる創造主なんてのがどうしているって言えるんだよ!」といった反論は・・・。
なんと彼らの意識にはゴッドリーな世界観の「型枠」は当然なこととして出来上がっていたのです。


                      


<イエスの仕事はコンテンツの入れ替え>

 そういう土壌が出来ていたからイエスは、そこから今ひとつ踏み込んだメッセージを送ることが出来たのですね。
その型枠の中身、今流でいうコンテンツですね。
旧約のコンテンツは健康と富という福でした。
だが、新約でのイエスによる種明かしからするとこれはホンモノの影絵でした。
ホンモノは霊に与えられる「いのち」という福でした。


 イエスはイスラエルの民の心にあるこの影絵を、ホンモノに入れ替えていけばよかった。
もちろんそれ自体がすごい難事業ですけどね。

 イスラエルの民においても、その影絵そのものが心に定着してしまってそれこそが真理だと信じている人が多数派でした。
イエスを殺そうとしていったユダヤ教僧侶たちはその代表でした。

  けれどもイエスの説くコンテンツの方がホンモノだと感知して、それに入れ替えをする人もいました。
イエスの弟子になった人々(イスカリオテのユダは別だったのですが)がそれでした。

 そういう人も一定数出たということは、イスラエル人にゴッドリーな世界観が当然という土壌が出来ていたからである。
このことは注目すべきことに鹿嶋は思います。



                    

 繰り返しになりますが、
もしイエスの説教がアンゴッドリーな世界観の人々に対してなされたらどうなっていたでしょうか。
イエスの話ははなっからてんで通じなかったのではないでしょうか。

 イエスによる真理の伝達がなされるに到るには、やはり、踏まれるべきステップがあった。
そして、それは人類に出来上がっていた本性からして、簡単なことではなかった。

~~ああ、自分でこのように書いてきて初めて明確になりました。
鹿嶋は、ゴッドリーな思考の型枠が一民族の中に形成されていく歴史を旧約の中に確かめようとして、
これを書いてきているようです。


(続きます)


                    



コメント (2)
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