こんちにわ。
先回~、
日本の福音土壌はとても悪い。
戦後~
「天皇=現人神(あらひとかみ)」を信じて戦場に送られた、という一億総懺悔がなされた結果、
「聖書はキリスト教、⇒ キリスト挙は宗教 ⇒ 宗教はだます」という連想が習性化してしまっている。
この土壌に福音を伝えるのは難しい
~との旨を述べました。

<「神が二人いる」といったら即殺される>
だけど、広く歴史を鳥瞰しますと、もっともっと固い土壌もありますよね。
イエスの弟子たちが宣教するときなどには、特にそうだった。
当時、イスラエルには「創造神はお一人」という、日本でいわれるところの「一神教」が根付いていた。
これに反することを口に出したら、石打でもって殺されるのが当然でした。
これ「宗教アレルギー」程度のものじゃないよね。
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そこに「創造神には一人の御子がいる」という教えを、弟子たちは伝えはじめたのです。
そして土壌を突き破って、福音宣教は進んだ。
いったい、彼らはどうしたのか?
これをあらためて吟味すると、彼らは「正攻法で正面突破をしている」ことがわかります。
「人々の知的好奇心に働きかけてみる」なんて、脇の下をくすぐるようなものではなかった。
それを見るには、あらためて「福音(よきしらせ)」を吟味し直してみる必要がある。
~鹿嶋はそう思い至りました。
すると、福音は表の意味(表義といいましょう)と奥の意味(奥義)との二重構造になっているのでは、・・・という思いが、浮上してきました。

=福音の表義=
福音の表義は次のようなものです~

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「創造神の御子が「人の子」として世に来られ、
死ぬべきでないのに殺されて死んで
人類の罪(原罪)の代償をつくった」
「この言葉をアクセプト(受容)し
それを表明してバプテスマ(洗礼)を受けると、
言葉(波動)が有効化し
「罪の許し」が保証される」
「するとその人は『救い』の資格を得て、
死後『天の王国』に入ることが出来る」
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~これが「よき知らせ」の表義です。

<「信じる」は「アクセプト」すること>
なお、「アクセプト」は日本の教会で通常いわれる「信じる」とか「信仰する」とかに対応する英語です。
ルーク唐沢先生などは、かねがね「日本語には日本語のマトリックスがある」「邦訳語では聖書の正確な意味は伝わらない」というのが持論です。
実際、日本語には余計なニュアンスが含まれていることが多い。
鹿嶋もそう思いますので、キーワードはなるべく英語のままで行くようにしています。
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「信じる、信仰する」に比較的正確に対応する日本語は「受容する(心に)」でしょうけれど、英語で言った方がもっとはっきりします。
鹿嶋は「アクセプト」すること、ないしは、「アクセプタンス」ということにします。
なお、「救い」の資格とは、(死後に法廷に立つべき)いわゆる「最後の審判」の時に「さばきを免れる」資格を意味します。
そして日本の教会の99%は、福音を上記のように把握してやってきました。
福音を表義止まりにして、これをアクセプトして洗礼を受けたら、「めでたしめでたし」
~としてきました。

=福音の奥義=
それは間違いではありません。
アクセプトしてバプテスマ(洗礼)を受ければ「救い」の資格を得られる~というのは聖書の論理を外れてはおりません。
だが、「よき知らせ」には奥義もあります。
それは、超自然的な奇跡によって、表義の福音を含む御子イエスの言葉への実在感(リアリティ)を飛躍させる・・・その方法の「知らせ」です。
奇跡を得る方法は、次の聖句(イエスの言葉)に示されています~。

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「あなたがた(イエスを信頼する人々)が私(の言葉)にとどまり、わたしのことばが諸君にとどまるなら、何でも欲しいものを求めなさい。
そうすれば諸君のために、それがかなえられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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<「欲しいもの」の代表は「苦痛の超自然的解決」>
この聖句を、「個人の聖句解釈の自由」の原理のもとに、鹿嶋流に解読してみましょう。
後の方の「欲しいものは何でもかなえられる」から読み解いてみます。
ここで「欲しいもの」とは「自然の力では解決が絶望的な問題を、超自然の力で解決してもらうこと」です。
具体的にはどうか?
人間がかなえて欲しいと切望するものの代表は、医療など自然界の方法ではどうにもならない病の「癒し」でしょう。
ガン細胞やうつ病の消滅。
不全な目や耳や手脚などの器官の再創造(新しく創造し直されること)。
さらには膵臓や肝臓や手足などの再創造などがそれでしょう。
肉体や心の不全による苦痛は直接的で耐えがたいですからね。
加えて、金銭状態の困窮も辛いもので、これからの解放も人は強く求めます。
そしてより精神的には、罪の赦し~悔い改めることによっての~もあるでしょう。
これらの問題の超自然的な解決、・・・これが上記聖句での「諸君が願う『欲しいもの』」の具体的な内容です。

<超自然的解決がもたらす心理効果>
この苦痛が願い求めて超自然的に解決されると、人間の心には驚きと喜びが突発します。
これはもう、人はそう創られているのですね。
超自然的出来事でなくても、同様な心理は現れますからね。
たとえば科学の実験で理論に沿った結果が出た時にも人は狂喜します。
もう一度やったら別の実験結果になる可能性がゼロでないにもかかわらず、「これはノーベル賞かも!」と興奮したりします。
あり得なさそうなことが現れると、人間は激しくよろこぶように出来ているのですね。
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超自然的な奇跡を聖書では「しるし」といっています。
漢字では「物証」といったところでしょうか。
これは「しるしと不思議(sings and wonder)」と表現されることもあります。
が、とにかくこれが現実化されると、当人のイエスのことばへの実在感は100%近くに上昇します。
そして「この言葉はまことだ」との確信度が飛躍します。
この「しるしと不思議を得る方法」が福音の奥義です。
~長くなりましたので、次回にそれをのべますね。
( =福音は二重構造になっている= ・・・・・ 完)
