前回、福音の表義(ひょうぎ)は「イエスの救いをアクセプトすると、それは実現する」であり、
奥義はそのことへの確信を「しるし」によって深める方法だと申しました。
今回は、その奥義を追ってみます。
<パワーも物質も波動で出来ている>
「しるし」を実現するには力、パワーが要ります。
量子物理学はパワーの実体が波動であることを明かしました。
その波動が凝集すると、力(パワー)となり、また物質にもなるという。
驚くべき発見です。
+++
物理学の歴史を振り返ると~、
ニュートン力学では、この力がエネルギーとよばれてきた。
彼は、その力の法則を明かしました。
その後、アインシュタインは、その「エネルギーは物質と相互転化する」ことを明かしました。
この理論によって、原子爆弾が出来、広島と長崎に落とされました。
ところが量子力学は、そのエネルギーと物質は、実は、「波動で出来てる」んだよ、と実験で明かしてしまったのです。
+++
この知識を聖書の論理に援用すると~
その波動の源は創造神で、すべての力はここから放射されている、という理解になります。
そしてその波動は「天の御国(みくに)」に満ちていることになります。
<聖書の空間理念>
では「天の御国(天国)」とはなにかというと、
ここは聖書の空間理念の中の「一被造空間」です。
そのイメージを得るには、これまで何度も提示してきた「聖書の空間理念はの図」をもういちど眺める必要があります。
この図でイメージできるように、天国は被造空間だから、大きさは有限です。
これをイエスの教えと組み合わせるとは次のようになります~。
+++
我々の地球を含む宇宙は「世」であって、悪魔に一時的に支配権を与えている世界だ。
(イエスは悪魔を「世の君(君主)」といっています)
そこは、偽りも、病も、貧しさも罪も呪いもある闇の世界だ。
だがその上位に「創造神が王として完全統治する王国」がある。
それが「天国(御国)」で、その空間にはパワーの源である波動がみちている。
その空間が来れば、「世」の空間の性質は退かざるを得ないのだ~と。
・・・・・・・・・・・・・
=聖書の空間理念=
・・・・・・・・・・・・
<天国は創造神が王として統治する国>
「天の御国」をもう少し考えておきましょう。
これは英語では「キングダム・オブ・ヘブン」です。
キングは「王」で、ダムは一つの世界、ワールドです。
だから「御国」は正確には、「創造神が王として完全統治する王国空間」です。
+++
いま日本は一応主権在民制の民主制社会です。
人民が最終的な統治権を持っている。
人間の能力には限りがありますから、一人に統治権を与えるより、人民に配分した方がいい。
だから、この世はそれでいいわけです。
だが、御国は王に統治権が集中している王国です。
一人が統治すると聞くと、我々は、「独裁制だ、これは悪い」
と連想します。
だが聖書が示す創造神は全知にして完全な全能者です。
加えて、被造物に対する「あわれみの心」を持っておられます。
だから、この方の独裁統治は民主主義を超えた、ベストな体制なのです。
+++
日本ではあまり意味がわからいままに「天国」という言葉が日常的に使われています。
そして人々は「極楽」の代用語程度に漠然としかイメージしていません。
そこでここではあまり「天国」とはいわないようにします。
なるべく「御国」または「創造神の王国」ないしは「天の王国」ということにします。
<御国は完全幸福社会>
創造神が王として統治する「御国」は理想の幸福社会です。
偽り、病、貧しさ、悲しみ、憂鬱や、許されない罪などがなく、悪霊もいない光(栄光)に満ちた空間です。
また王の下には、この世(宇宙)を支配する悪魔を命令に服従させる権威を持った政府があります。
裁判所もあります。
それは「地上の世界」に対して完全優位な性質を持っています。
この空間が地上に降りてくれば、そこでは地上の法則を押しのけて天の法則が貫徹してしまいます。
+++
イエスが伝えた「福音(よきしらせ)」とは、実はこの「御国についての知らせ」なのです。
上記に福音の表義を示しましたね。
それは「イエスの十字架死による罪の代償をアクセプトする者にはそれが実現する」という法則の「知らせ」でした。
だがそれはこの御国という空間の持つ属性(力)の一つに過ぎません。
他にも多くの「よきもの」を「創造神の王国」はもっているのです。
<御国が近づいた!~福音の第一声~>
イエスは、その御国の説明は後にして、まず、それが「地上の近いところまで降りてきている」と知らせます。
それが福音の奥義の第一声です。
「悔い改めよ、天の御国が近づいた」(マタイによる福音書、3章2節)
~というイエスの宣言はそれを言っているのです。
+++
これは「新しい」知らせです。
旧約時代には、御国の空間は「地上」より遙か上方にある、人間が接することの出来ない空間だったからです。
それが、イエスは自分が「人の子」としてこの地上にやってきたのに伴って、「地上に近いところに降りてきている」というのです。
+++
なお「悔い改めよ」という日本語は「道徳的な罪を反省せよ」と受け止められがちですが、聖書ではそうではありません。
もっと広く「今までの考え方を180度転換せよ」という意味です。
いい日本語がなかったのでしょうか、日本語聖書の作成者ヘボン先生は、英語のrepent を「悔い改める」と訳していかれました。
<御国が地上に降りてくる>
イエスの「いい知らせ」の奥義ははさらにあります。
近くにきているその御国の空間は、今や「地上」に降りてくることもある」、というのです。
イエスの~
・・・・・・・・・・・・
「わたしが創造神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう御国は諸君のところに来ている」(マタイによる福音書、12章28節)
・・・・・・・・・・・・
~という言葉はそれを示しています。
つまり「近づいていた御国の性質を持った空間は、さらに地上に降りてきて、一定の領域に侵入することがある」という。
すると「悪霊はそこにとどまれなくなくなって出ていく」ことになる。
ぐずぐずしたいたら「出ていけ!」の命じれば、出ていくことになるのです。
この空間からはまた、病も貧しさも、憂鬱も出て行かざるを得ません。
代わりに、健康と豊かさと、喜びと爽快さが、オートマチックに満ちあふれるようになる。、
~これが「近くに降りてきている御国が、さらに地上に臨在した状況」です。
イエスの「よき知らせ」の奥義はそれも含めています。
<全地がユートピアになるのではない>
なお、イエスが地上に臨在しているという「天の王国」は「その王国の性質を持った限定的な空間」を意味しています。
「御国が降りてきて全宇宙空間に取って代わる」というのではない。
そうなったら、「この世」がユートピアになり、めでたしめでたしとなるでしょうが、そうではない。
聖書はそういう地上ユートピア観とは対立する世界観を持っています。
この世(宇宙)は最終的には「最後の審判」火で焼かれることになっています。
<人間側が満たすべき条件>
話を戻します。
そうしておいて、イエスは弟子たちにインストラクションをします。
御国が一定の空間に臨在するには、
そこにいる人間の側にも、それを迎え入れるべき条件がある、と教えます。
それを、自分が十字架にかけられる直前の「最後の晩餐」の場で遺言していくのです。
~知りたいですね。
しかし、今回もまた、話が長くなりました。
気を持たせるつもりはありませんが、話は一定の短さとまとまりを持っていませんと、
人の心に入りません。
次回にしますね。