~前回の続きです。
字数が規定をオーバーしたようですので、後半をここに~
<実在感が高まると言葉は「心に入って留まる」>
さてこの解釈を踏まえた上で、残りのイエスのことば~
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「わたし(イエス)の言葉が諸君にとどまる」
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を考えましょう。
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これは次のように解読できるのではないでしょうか~。
すなわち、イエスの言葉が形成する「イエスワールド」へのリアリティが高まっていくと、あるとき、その言葉は活きた霊 「活霊」になる~と。
そしてその人の「心のうちに入り留まる」のだ~と。
そうなれば、生きものとなったイエスの言葉は、必要なときに当人の意識を導くようになるでしょう。
それはつまり、それだけ「分身」になったわけでもあります。
<日本の「言霊(ことだま)」>
ところで「言葉が霊になる」と聞くと「ああ、もうついていけない」という人が出るかも知れませんね。
だけど「言葉ワールド」のリアリティが高まると、その言葉が一人歩きするという認識は日本にも昔からありますよ。
「言霊(ことだま)」という日本語はそれを指しています。
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世俗世界にもそれに似た心理現象は起きていますよ。
たとえば小説作家は、登場人物の性格や生育環境などをことばで設定し、そのイメージを心の中に寝かせておきます。
するとあるとき、その人物像が自主的に動き出す、といいます。
このとき、作家はその人物イメージ(霊)の動きを追うことによって、活き活きした物語を書いていくようです。
<御国の侵入>
ともあれ、上記の聖句「わたし(イエス)の言葉が諸君にとどまる」は、以上のように解読できるわけです。
この条件を満たして、当人が御国を求めたら、その時、天の王国空間はその人の周囲空間に侵入し、臨在するのではないでしょうか。
御国の臨在感がそこに満ちる。
この臨在感は栄光と呼ばれることもあります。
が、ともあれこうなったらあとはオートマチックです。
「世」の悪しき諸要素である~病、身体不全、貧困、鬱などは、上位の統治権を持つ御国の権威によって自動的に追い出されます。
病は癒やされ、身体器官を構成する細胞は再創造され、経済は祝福され、鬱などの精神疾患も快適状態に転じてしまう。
こうして「超自然的な奇跡への願い」がすべてかなえられる。
「しるし」が現れるのです。
前掲した聖句~
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「あなたがた(イエスを信頼する人々)が私(の言葉)にとどまり、
わたしのことばが諸君にとどまるなら、何でも欲しいものを求めなさい。
そうすれば諸君のために、それがかなえられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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~は、このように解読されます。
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繰り返しますが、こういう超自然的事象をみると、人は最初は驚きます。
だが、これが繰り返されると、普通のことと思うようになります。
この体験によって「御国の知らせ(よき知らせ)」への確信は確かなものになっていく。
こうした「しるし」を現せば、日本の福音土壌の悪さも正面から突破されていくでしょう。
もう、脇の下に手を入れてくすぐる必要も無いわけです。
(=御国が臨在する条件2= ・・・・完)