「エペソ書」でもパウロの全体世界観が、いきなり冒頭から出てきます。
「創造神は私たちを世界の基の置かれる間からキリストのうちに選び、御前で聖く傷のないものにしようとされました」
(1章4節)~がそれです。
このパウロの言葉は複雑です。 彼はここでは複雑な言葉遣いをしています。
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<「御前で聖く傷のないものに」は「罪許される」>
まず細かいところを処理しましょう。
結論を示しておきます。
「御前で聖く傷のないものに」する、というのは「イエスの言葉をアクセプト」ことによって実現されることです。
通常の言葉で言えば「イエスを信じることによって」です。
信じて「罪を許され」て「救い」を受ける、と同義とみていいです。
この「救いを受ける」のを、凝った表現でパウロはいっている。
が、その表現について考えるのは後にしましょう。
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<あらかじめ決まっている?!>
ここで重要なのは、「私たちを世界の基の置かれる間からキリストのうちに選びchose)」です。
「世界のもとい(foundation)の置かれる前」は要するに「被造物を造る前」です。
この聖句ではパウロは何故か、凝った表現をしてるんですね。
ともあれ、上記の聖句をストレートにとりましょう。
すると~「あなたがイエスを信じて救いを受けるのは、もう被造物が造られはじめる前から決まってたんだよ」
~となる可能性がとても高い。
控えめに言っても、8割方そうなるでしょう。
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だけど、そうなると「信じて救われない人」だと「あらかじめ決められた人間も造られている」ことにもなりますよね。
そこで「これはおかしいのではないか」という考えも出ます。
例えば「あらかじめ決めて造られているのなら」福音伝道なんて無意味になるんじゃないの?
~という意見も当然出るでしょう。
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<生まれる前から結ばれていた・・・>
この問題はとにかくややこしいので、鹿嶋の結論をまず言います。
「生まれる前から二人は赤い糸で結ばれていた」なんて愛し合う男女がよくいいますよね。
そんなこと客観的にはわからないのに、どうしていうか。
そういう風に結果的状況を、「前から決まっていた」と思うと、気持ちが落ち着くからです。
結婚式の最中に「たまたまこうなった」なんて思うと落ち着かないでしょう。
「この先どうなるかわからない」とも思えてくるでしょう。
それでは落ち着かないから「生まれる前から・・・」と自分に言い聞かせるのです。
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<パウロは教養人で現場コーチ>
事実かどうかにはかかわらず、「・・・というくらいだ」とか、「・・・といっても過言でない」という風にも言葉は使いうる。
これも言葉に装備された機能です。
パウロはここで、そういう言葉の機能を使っているのです。
信徒を「落ち着いた気持ちにする」のに、そういうレトリック(修辞法)を使っているのです。
パウロはギリシャで生まれ育った教養豊かなユダヤ人です。
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またパウロはイエスの側近だったヨハネのような人とは置かれている状況が違います。
野球球団で言ったらヨハネは監督兼ゼネラルマネジャー人です。
本部で静かに教会全体を眺めています。
一方パウロはあちこちの練習グラウンドに出かけていって、ノックバットを持って選手を叱咤激励して鍛える回るコーチです。
ノックを受けて疲れた選手を奮い立たせるために、その時々に最も有効な言葉を使います。
それが冒頭の聖句で、パウロは全体世界像をそういう修辞法でいったのです。
「君たちはもう創世以前から救われるように造られていたんだ。がんばれよ」と。
(=エペソ書の全体世界像= 続きます)
(=赤い糸で結ばれていた?=・・・完)