鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

=歴史展開は予想外に多く決められている?=

2017年07月05日 | 随想

 

 
 
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「創造神は私たちを世界の基の置かれる間からキリストのうちに選び、
御前で聖く傷のないものにしようとされました」(エペソ人への手紙:1章4節)
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この聖句の話を続けます。
 
この文章は「イエスを主とする統治権に入って救われる人は、創世前からあらかじめ選ばれている」という第一の解釈を生みます。
 
けれどもそれでは、イエスが「地の果てまでのベ伝えよ」と命じた福音伝道が意味をなさなくなってしまう。
パウロがそんなことを言うはずがない。
 
そこで、この「私たち」は人類全体であると解する。
すると、筋の通った第二の解釈がなる。
 
~そういう解読を前回までにしてきました。
 
 
 
<カルバンの予定説>
 
ところが、宗教改革の立役者カルバン(John Calvin:1509-64) が、第一の解釈をとったことから、事態はややこしくなりました。
 
カルバン はスイスのジュネーブ教会に本拠を置いて改革運動を強烈に指導した人物です。
その働きが知れ渡った有名人であり、信用もありました。
 
その彼の解釈となれば、世間もそれは無視できなくなるのですね。
神学者をはじめ多くの人々が、その論拠を勉強した。
 
その結果、彼の解釈は「予定説」という名までついて後世まで尊重されることになりました。
 
「イエスを信じて救われるものは、あらかじめ予定されている」との彼の説には,
Calvinismという英語の名ができているくらいです。
 
 
 
<アルミニウスの全救済説>
 
カルバンの死後何十年か後に、オランダ改革派の神学者、アルミニウス(Jacob Arminius,1560-1609)というのがカルビニズムに異を唱えました。
 
「キリストの死はすべての人のためのもので、あらけじめ選ばれた人たちだけのものではない」と彼は主張した。
鹿嶋が前述したところの第二の解釈です。
 
大スター・カルバンを向こうに回すなんて、度胸がいったでしょうね。
当時は、「異端!」と烙印されると、人が簡単に処刑される時代でしたしね。
 
だが言ってしまえば、相応の栄冠が世では与えられます。
彼の説にはArminianismとの名がつけられました。
 
カルバンの予定説に対して日本語で名付けると、「全人救済可能説」略して「全救済説」ということになりますかね。
 
ともあれ、予定説と全救済説は相並んで併存する、という事態が出来上がりました。
 
その状態で今日まで来ています。
 
 
 
<パウロの広大な視野>
 
だけどこの事態には、鹿嶋は不満があります。
それは人々の目を論争に釘付けしてしまいがちだ。
そしてパウロの上記聖句が含む重要な視野を看過させてしまうのです。
 
パウロの重要な視野とは、「聖書の歴史物語の大半は、被造物が造られる前から、(創造神の意志で)定められている」という視野です。
 
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それはたとえばこう考えたらわかってきます。
 
つまり~「人間がイエスの主権統治下に入れば救済されることがあらかじめ決められているならば、そのことに繋がっている事柄もすべてあらかじめ決まっているのが道理」ではないか、と。
 
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いま鹿嶋が思いつくままを述べてみますね。
 
たとえば人間がイエスによって「救い」を受けるには、その前段階として罪を犯して罪人になっていなければならないでしょう。
 
そして、そのためには人に罪を犯させる悪魔も存在せねばならないでしょう。
 
その悪魔が存在するためには、創造神に対抗して悪魔に変身する天使もいなければならないでしょう。
 
天使がいるためには、それが創られる場である天の御国(天国)もなければならないでしょう。
 
結構沢山のことが、被造物が全く創られていない段階で、もう決まっていたのが道理となりませんか?
 
 
 
 
 
<自由意志との関係は?>
 
鹿嶋は間違っているのかなぁ・・・。
 
でも、間違ってないとすると、鹿嶋が前述した「人間や天使には自由意志を与えている」という鉄則はどうなるのかという疑問も生じますね。
 
これは~自由意志による選択の、その「結果のルールは定められている」と解したらいいでしょう。
 
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たとえば「御子イエスの言葉をアクセプトすると救いが得られ」「しなければ滅びにいたる」というルールは、創世前からあらかじめ定められていた、と。
 
律法の例でいえば「理法を守れば福(祝福の福)が与えられ、守らなければ呪いが与えられる」というのもルールとして決まっていた、と。
 
イエスの言葉をアクセプトするかどうか、律法を守るかどうか、は人間の自由意志に委ねられている。
 
だけどその自由選択の結果は、ルール通りに処理されますよ~というわけです。
 
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こんなこと、クリスチャンのほとんどは具体的に考えたことないのでは、と思います。
 
このあたりは、漠然としてやってきている。
 
でも言われてみると、なんか意外な感じがするなあ~というところでしょう。
 
だけど、これはとても大事な問題を含めているように、鹿嶋には思えてなりません。
 
次回にも、もう少し考えましょう。
 
 
(=エペソ書の全体世界像=  続きます)
 
 
=歴史展開は予想外に多く決められている?= ・・・完)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

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