歴史展開に関する思想は、大別すると二つになるように見えます。
まず、通常のタイプです。
それはたとえば牧師さんのこんな礼拝メッセージに現れています。
日本のクリスチャンの方々には、教会でこんな説教を聞いた人は多いんじゃないかな~。
<人間が罪を犯してしまったので御子を送った>
エデンの園で、エバとアダムが悪魔(へび)に誘惑され、罪を犯してしまった。
ふたりはそのままでは地獄に行かざるを得ない。
創造神はそれを哀れに思い、御子イエスを地上に送った。
「それでは自分の子を地球に行かせて、代わりに死なせて罪の代償手段を創ろう」と。
だが、御子はその時ひどい拷問を受けました。
罵倒され、むち打たれ、肉は裂け、槍で脇腹を突き刺され、大量の血が流れました。
父なる神様はどんなに悲しかったことでしょう・・・。
(ここで「ううっ」とむせび泣きの声が入ることもあり)
そこに人間への神の深い愛があります・・・と。
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ある意味、これは感動的ですが、ここでは神様は、地上で人間がやらかす行為をみて、考えて対応しています。
これですと、次の状況では創造神はまた考えて対応されることになるでしょう。
これが通常の歴史展開思想で、「その都度論」と名付けることも出来そうなものです。
<パウロ神学は「事前決定論」>
他方「エペソ書」に現れているパウロ神学は、大筋・大枠はすべて創世の前から決まっていた、という、いわば「事前決定論」の歴史思想です。
~アダムとイブが罪を犯すのも、御子イエスがその罪の代償を創るべく十字架上で殺されるのも、創世前から決まっていた。
復活して、弟子たちに宣教命令を与え、天の御国に昇るのも、昇って父なる創造神の右の座につくのも、あらかじめ決まっていた。
被造物を出現させる前から、決まっていた。
そういう歴史思想です。
<「その都度論」の神は在物神に似てくる>
そんなことどうでもいいじゃない? という声も聞かれそうですが、そうではないですよ。
どちらも創造神は全能者と認識していますが、前者の全体世界観では、神様は事態をその都度評価し、行動しています。
すると、次にどう行動されるかは人間には基本的にわかりません。
御子を犠牲にしてくださるほどの愛のある方であるとは思いますが、その次の状況ではどう出てこられるかわからない。
こうなると、神様は怖い方ともなるわけです。
人間の心は平安にはなりません。
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またそういう神様には、何かを求めるときにも、人はただ天上を見上げて乞い願うのみです。
どう対応してくださるかわからないという気持ちで願い求めているからです。
よくみると、これは在物神に対する場合と似ていることがわかります。
(在物神:物の中に染み込んでいるとイメージされる神。日本にはこの神イメージが多い)
<「事前決定論」は平安をもたらす>
他方、後者では歴史展開の大筋はみな決まっています。
そして人は、聖書を通して創造神の行動原理を知ることができます。
その状況ではどう生きるべきかもわかってきます。
創造神は被造物より絶対的に上位な方です。
被造物はその上位者の御旨と原理に沿って生きればいいことになるわけです。
すると心も平安になります。
また何かを求めるにしても、その法則に沿って願えばなるはず、となります。
当初ならなくても、聖書にその原因を探究する。
そして、障害要因を取り除きつつ繰り返し求めていけばいい。
さすれば徐々に応えられていくだろう、ということになります。
かくして祈りにも信頼と忍耐が加えられるでしょう。
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この思考の先には、何か大きな鉱脈が埋まっている予感もします。
この話題はもう少し続けましょう。
(=エペソ書の全体世界像= 続きます)
(=歴史展開の「その都度論」と「事前決定論」=・・・完)