
暮れから新年にかけて、キリスト教に関するテレビ番組が放映されていました。
「天正少年使節」「支倉常長のローマ使節」
「戦国徳川期でのキリシタン迫害」「天草四郎をかかげた島原の乱」
~といったようなテーマでの番組です。

でも、そのすべてに「何か、いまひとつよくわからない」という気分がつきまとう人がいるのではないでしょうか。
それは正常な感情です。
わからない真因は、キリスト教活動に関する基礎的知識の欠如にあります。
だが、日本の視聴者の多くは、「まあ、キリスト教とはそういうよくわからないもの」との悟りと諦めが、ミックスした気分でやりすごしているでしょうね。
ゲストコメンテーター先生もみな同じです。
ぜ~んぜん、わかってない。

たとえば、これらの番組にはみな、「イエズス会」というなが出てきていました。
どうもこの会派の宣教師が活動主体となっているようは気もしないではない。
だけど、そのイエズス会というのはなにか?
キリスト教の代名詞のような気もする。
だが、結局よくわからない。
~そういう人がほとんどでしょう。

<「バプテスト自由吟味者」の解説への解説を>
鹿嶋は、この問題に正面から対処してみようと思うようになりました。
それは、このほど出した『バプテスト自由吟味者』の訳者解説に、さらに、解説をくわえることによってのみ、可能になります。

この本の解説への追加説明を、一つ一つ、根気よくする以外に方法はないのです。
それによって、この日本、いや、世界の懸案の問題を解決しようと思います。

報われることの少ない、労力のいる仕事です。
だけど、鹿嶋はそれを試みようと思うのです。
これまでに社会は、鹿嶋の人生に、それを研究する時間と資金を与えてくれました。
その社会への恩返しとして、お礼として、試みようと思うのです。

<キリスト教の核心、から>
話はキリスト教の核心とはなにか? ~から始めねばなりません。
いまや、キリスト教といっても、色んな教え、色んな活動があるのです。
それらが層をなしているよかのようにみえます。
あるいは、たとえは悪いかも知れません、キリスト教の教えは十二単を着た人間(あえて女性といわない)の姿にもたとえられます。
核心とはそれらの衣装のなかにある身体そのものです。
それは何か?
わかれば、それではどういう衣装を歴史に中で着せられてきたいるか、も見えてくるでしょう。
とにかくまず、核心を結論的に述べねばなりません。


<愛弟子ヨハネが核心を書いている>
キリスト教の核心は、「ヨハネによる福音書」(ヨハネ伝)に現れています。
ヨハネはイエスが最も愛した弟子です。
彼にはイエスは後に、幻で延々とメッセージを託してもいます(その記録が「黙示録})

<神は言葉である>
核心は、万物の創造神は「言葉(ロゴス)」である~という教えです
父なる創造神自身は、人間に自らを現しはしません。
創造神の御子が言葉になって、被造界に現れるのです。
「言葉は人となって私達の間に住まわれた」(ヨハネ伝1:14)という聖句を軽く読み飛ばしてはなりません。
御子イエスの身体は、「言葉(神の言葉)が身体になったもの」、という思想なのです。
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他方、人間の身体は、土の塵によって創られている、と旧約聖書にあります。(「創世記」2:7)
だから、たとえば御子イエスが十字架死して三日目に復活するまでの間に、その身体は腐ることがなかった、ということになっています。
御子の復活もそうです。
後に実現される「人間の復活」は、その霊が復活の身体に転化します。
だが御子の場合は、身体に入っている霊が身体になるのではない。
御子の身体(言葉)がそのまま復活の身体になる、という論理になっているのです。

<神の言葉は波動を持って働く>
ビックリする人も多いでしょうね。
もう、ついて行けない、と思う人も・・・。
だが、まだありますよ。
御子から出る言葉そのものは、霊というサブスタンス(実体)なのです。
これは、波動をもって働きます。
「私の言葉は霊であり、またいのちである」(「ヨハネ伝」6:63)
~はそれを言っています。

<御子の言葉の中に住まえば弟子になる>
そしてその言葉を人間が心にアクセプトして(受け入れて)その言葉の中に、自らの意識が住まうようになると、新局面が開けます。
その人は、その御子の弟子となるのです。
すると真理がわかり、その真理がこの人を自由にします。(「ヨハネ伝」8:32)

<御言葉が内住すれば願いは実現!>
次に、御子のその言葉が人の意識の中に常住するようになると、さらに凄いことが起きる。
その人間の願うことは、みな実現されるのです。
後に、その人が御子の言葉を「地の果てまで」伝えに出ます。
そのときには、その言葉が癒しなどの偉跡を現すようになる。
そうやって聞く人々に、伝えた言葉が真理だと、御子の言葉(の波動)が証明する、というのです。
<私の身体を食べよ・・・>
だから、御子はいうのです。
「私の血を飲み、肉を食べよ」と。
御子の血は「いのちエネルギー」でできています。 肉は創造神の言葉で出来ています。
だからこれは「私の言葉を、肉体が食べ物を食べるように、諸君の心にアクセプトしなさい」という意味になります。
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だがこのことは、さすがに、イエスを追ってきた大衆にはわからりませんでした。
「この人の血を飲み、肉を食べるなんて、そんな残酷なことなどとても出来ない」と彼らは去って行きました。
(「ヨハネ伝」6:51-6)
だが、イエスは、核心を一貫して示していきます。
十字架にかかる直前の「最後の晩餐」でも、葡萄酒とパンを取り出します。
そして「これでもって私が、私の血(いのちエネルギー)を飲み、肉(言葉)を食べなさい、といったことを、集まる毎に思い出すようにしなさい」、~と遺言していきました。
・・・むずかしいねぇ。
お気持ちわかりますよ。 難しいよねえ・・。
だけど、このように「御子(創造神)は創造神の言葉であり、これをアクセプトせよということが教えの核心になる」ことは、まず、暗記しておかねばなりません。
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でないと、たとえば、「初代教会の人々が、なぜ聖句(聖書の言葉)を直接吟味し味わい続けたか」が納得できなくなる。
100年ものあいだ、この活動だけを何故一貫して続けたかが、追体験できなくなるのです。
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彼らにとって、「創造神とは御子の言葉」だったのです。
「その創造神を味わい知るには、その言葉を自由に吟味することが必要」だったのです。
誰にも制約されずに、自分の人生体験とも照らし合わせながら、聖霊に導かれながら味わうことが不可欠だった。
すると、その言葉は、個々人の中で波動を発して、驚くべき喜びと、神の力とを体験させてくれたのです。
~「創造神は言葉」・・・これがキリスト教の核心なのです。
