前回の続きです。
<昇天しても言葉は残す>
地上で教えた後、イエスは十字架死して、復活し、昇天しました。
復活して現れても、弟子たちに追加インストラクションして、昇天しました。
でも、地上に「言葉」は残しておきました。
<送られる聖霊が御言葉を保存し啓示する>
そしてイエスは昇天して創造神の右の座に着くと、地上に聖霊を送りました。
父(創造神)に願って聖霊を送ってもらった。
今度はその聖霊が、地上に残された言葉を保存し、その真意を人間の霊感に啓示するのです。
だから、イエスは昇天するまえに弟子たちに、「聖霊を受けよ・・・」と息を吹きかけていきました。
<聖霊のバプテスマ>
そして、あるとき轟音と共に、弟子たちのうちに聖霊が入ります。
有名な「聖霊のバプテスマ」です。(「使徒行伝」2章)
その聖霊が、御言葉の真意を説き続けるのです。
イエスの~
「 もしわたしが(天の御国に)いけば、わたしは助け主(聖霊)をあなたがたのところにつかわします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にそのあやまりを認めさせます。
罪についてというのは、彼らが私を信じない(アクセプトしない)からです。
また、義についてというのは、わたしが父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです。
さばきについてとは、この世の支配者が裁かれたからです」
(ヨハネ16:7-11)
~はその真骨頂をいった言葉です。
しかし、そのままではわかりにくい聖句ですね。
鹿嶋の自由吟味を示しておきます。
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まず「罪についてというのは、彼らが私を信じない(アクセプトしない)からです」~から。
人々は肉体による罪を恐れますが、それは、本当の罪の比喩です。
本当の罪とは、「イエスを信じないこと」にあるのですが、人々はそれを知らないでいます。
だが聖霊が来ると、そのことを意識波動を送ってでもって人の霊に実感させ、悟らせるる~というのです。
次に「義についてというのは、わたしが父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです」~はどうか。
これなんか、難しいですね。 やってみましょう。
・・・まず、この世におられるとき、イエスは義を自ら体現しておられました。
だが、それを人々は気付かなかった。
だから、「イエスが天に行かれてこの世には義は無い」ことも人々は気付かない。
だが聖霊が来ると、そのことを意識波動でもって実感させる。
そしてまた、聖霊は、もはや「イエスの功労によるグレースを受けて」義になるしかない、ことを悟らせるだろう。
~というのが鹿嶋の解読です。
最後の「さばきについてとは、この世の支配者が裁かれたからです」~はどうか。
・・・それはこうでしょう。
~さばきの本質はこの世の君(悪魔)がさばかれることだ。
悪魔は最初から偽り者であり殺人者である。神の敵である。
さばきを受ける存在は、あなたではなく、別にいる。
だからあなたは恐れている必要はないのだ。
~以上のことを聖霊は、やはり意識波動を送って実感させる、というのです。
聖霊が来ると、悟らせてもらえることの、鹿嶋自由解釈は以上です。
<霊感を広げながら>
ただし、人間は、その聖霊の啓示を受信するための新しい課題を与えられます。
霊感を広げ、育成し続けることがそれです。
その点が、イエスが自ら地上にいて人の姿で、直接語ってくれた状況とは違います。
上記の事柄は、みな、霊感が広がることによって受信可能となるのです。
我々が肉眼で認識する光の波長は、すべての波長の内のごく一部です。
それは七色のスペクトルをもっているといいます。
それらが一つに集まると白く明るい光になるといいます。
だがその波長のレンジは、全体の光波長からしたらごくわずかです。
その全体の光を受信するには、肉眼を超えた認識機能が必要です。
光という物理的存在についてもそうです。
聖書で明かされているのは、物理的世界を超えた、霊ワールドです。
これは霊感を広げて、霊感によって認識する以外にありません。
聖霊が送ってくれる意識波動についても同じです。
「霊感」の拡大と向上が、鍵になる。
それが、イエス昇天後の御言葉の受信と自由吟味との鍵となるのです。
そのために、祈りと聖句を抱いての瞑想は一層重要になります。
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そうした構造変化はありますが、「神は言葉である」という核心は、一貫して変わりません。
昇天後もイエスはキリスト教の核心が守られるようにしていったのです。