前回までで、イエスは弟子たちに休む間もなく講義し続けたことを、我々は知りました。
旅の途中でも、宿泊所に着いても教え続けた。
<弟子たちはどうやって聖句を?>
でも、こんな疑問も生じます。
イエス無きあと、弟子たちは、イエスから学んだ教えを伝道しています。
その際、旧約聖書の聖句をふんだんに持ち出してその解読を語っているんですね。
そこで、彼らはどうやって旧約の聖句を暗記する程に身につけたのか、という疑問が生じるわけです。
<聖書を持ち歩くのは不可能だった>
彼らは聖句を書いた書物(聖書)を持ち運んで旅をしていたのでしょうか?
そんなこと出来ないでしょう。
当時は活版印刷術もありません。
だから今の我々が手にしているような、全巻を一冊にコンパクトにまとめた聖書はありません。
この時代には、羊皮紙(羊の皮をなめしてつないだもの)に聖句を書いて、それを巻物にしていた。
両端に木の棒をくっつけて、それに左右から羊皮紙をぐるぐる巻いて読んでいました。
創世記から最初の五冊を「モーセ五書」とか、トーラとか呼ばれることもありました。
その概念が拡大して、旧約の書物全体をトーラということもありました。
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がとにかく、この巻物は縦の長さが50センチくらいもある、大きなものでした。
これに、旧約聖書の全体を書きしるすとなれば、書物は膨大な量になりました。
弟子たちが引用しているのは、モーセ五書だけではありませんからね。
もしこの巻物全部をもって旅をするとなれば、弟子たち全員は巻物を抱えて旅をすることになる。
聖書の記述から、そういう光景は思い浮かびません。
<イエスの口から全聖句が出た!>
ではどうやって聖句に触れたか。
結論から言えば、聖句はすべてイエスの口から出たでしょう。
イエスの中に、すべての聖書が収納されていた。
イエスはそれを、必要に応じて次々に口に出して解説した。
弟子たちはそれを、スポンジに水が染み込むが如くに吸収したのではないでしょうか。
彼らの聖書を知りたいといい情熱は、半端じゃないですからね。
その心に個々の聖句は、イエスが解き明かす解読と共に、染み込んでいったと考えられます。
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だけど、そうすると、こういう疑問が湧いてくるでしょう。
イエスはどうやってそれらの聖句を身につけたか?
常識的な答えは、「幼少時より聖書を読みまくったことによる」・・・でしょう。
だが、それもありえないと思えます。
幼少時より聖書全巻を読めるような環境は彼にはなかった。
成長すれば、父親の大工の仕事を手伝っています。
聖書の全巻を読みまくることによって、すべての聖句を暗記することは出来なかったでしょう。
弟子たちにすらすらと口述できるようにはならなかったでしょう。
<言葉が人となった方>
ではどうして?
理由は「ヨハネ伝」1章の聖句以外にあり得ないと思われます。
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「ことばは人となって、わたしたちの間に住まわれた」
(「ヨハネ伝」1章14節)
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つまり、「イエスご自身が聖句で出来ていたから」という理由以外にありえなかった。
全身、これ御言葉ですから、弟子たちに向かって聖句がどんどん流れ出した、ということになりそうなのです。
<「信者」の説明だ!>
わ~ぁ、大変。
この理由を目にして、シュリンクする(顔が引きつる)読者は多いんではないでしょうか。
鹿嶋春平太って知的なジェスチャーをとっているが、こんな神秘的な理由を平気で持ち出すとは。
やっぱり彼は「信者」なのだ。これは「宗教なのだ!」・・・と。
注意しないと、戦前に天皇現人神宗教を信じさせられて自爆攻撃に誘導された特攻隊の若者のようになるぞ。
くわばらくわばら・・・もう、このブログからは離れよう~という人も。
<宗教思考(神学)に神秘はつきもの>
たしかにこの理由は「神秘的」ですね。
だけど、宗教の思考(神学)には神秘要素はつきものですよ。
神秘が全くなくなったら、それは「科学」の論述と同じになりますよ。
神秘は出来るだけ少なくすべきでしょうが、神学から排除すべきものではありません。
排除すべきは神秘ではなく、神秘主義です。
つまり、理屈抜きに神秘なものを上位の究極の実在としてもってくるのは、排除すべきだ。
次回には、「言葉が人となられた方」という神秘的な要素の、論理的根拠を考えましょう。